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  • より良い時代を目ざす世界的努力
    目ざめよ! 1974 | 10月8日
    • にして到来するのでしょうか。神は現在のこの体制に対して裁きを執行される方である以上,その方こそ全く新しい秩序をもたらす源ではありませんか。聖書は,然りと答えています。

      正直な心を持つ人々の必要なものや欲するものを正しく充足させるような全く新しい時代を招来し得るのは,人間の唯一の造り主だけです。そのような新しい体制を造り出すことは,今日の人類の能力の全く及ばない事柄です。聖書の一筆者エレミヤが次のように述べたとおりです。『エホバよわれ知る 人の途は自己によらず かつ歩行む人は自らその歩履を定むることあたはざるなり エホバよ我を懲らしめたまへ』。(エレミヤ 10:23,24)人間ではなく,神こそより良い時代をもたらす方であることをエレミヤは承知していました。

      それこそ神が約束し,実際のところ保証しておられる事柄なのです。神のみ言葉は,『もろもろの生けるものの願望をあかしめる』ことを神が約束なさった,義の新秩序についてわたしたちに告げています。(詩 145:16)それにしても,神はいったいそれをどのようにして行なわれるのでしょうか。神は実際に何を約束しておられますか。それをもたらすのに,どうしてこれほど長く待っておられるのでしょうか。その益にあずかるには,わたしたちは何を行なわねばならないのでしょうか。

  • 神が約束なさった事がら
    目ざめよ! 1974 | 10月8日
    • 神が約束なさった事がら

      日々直面する新たな問題や新たな危機についてその大要を伝える新聞を読むとき,『ああ,もう少し休めさえしたならいいのだがなあ』という気持ちを感ずることがありませんか。わたしたちのためのより良い時代は確かに,わたしたちが今日直面する緊張や焦燥や失意からの解放をももたらすものであるべきでしょう。

      しかも,それこそまさに神がご自分のみ言葉,聖書の中で約束しておられる事がらなのです。神は人間の造りをご存じですし,人間には休みが必要なこともご存じです。事実,人間は自分たちの周囲の事情の関係で文字どおり自らを疲れ果てさせています。詩篇作者は,『エホバは我らのつくられし状をしり われらの塵なることを念ひ給へばなり』と述べました。(詩 103:14)神は一つの義の政府によって人類に救済をもたらすことを約束しておられます。そして,その政府は欠陥のある今日の種々の体制すべてに取って替わり,健全で平和な人類社会を地上に造り出すのです。その政府こそ,キリスト・イエスがご自分の追随者たちに祈り求めるよう教えられた王国政府です。―マタイ 6:9,10。

      その政府のかしらは,より良い時代を切望した当時の人びとに次のように言われた方なのです。「すべて労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなたがたをさわやかにしてあげましょう。わたしのくびきを負ってわたしの弟子になりなさい。わたしは柔和で,心のへりくだった者だからであり,あなたがたは自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう」― マタイ 11:28,29。

      しかし,その王国政府によって救済がもたらされるというそうした希望を,どうすれば確信できるでしょうか。どうすれば,それが今日の世界の指導者たちの単なる約束とは違うということがわかるでしょうか。

      人が何かを約束する場合,その人が以前同様の事がらを実際に成し遂げたことをわたしたちが知っているなら,今度もその約束を果たすに違いないと信ずることができるでしょう。それに神は,ちょうどそのような事がらに関する記録を私たちに与えておられるのです。何世紀も前のことですが,神はより良い時代をもたらし得るご自分の力量や,人びとに平和と休みを与えると言う場合それが何を意味しているかを私たちによく理解させるような仕方で,イスラエル国民を扱われました。―イザヤ 32:17,18。

      その上,神はそうした事がらを,将来世界的な規模で,全地に対して恒久的な仕方で行なおうとしておられる事を示す実例,つまり例として提供するために書き記させたということをはっきり示しておられます。では,それらの例の幾つかを調べてみましょう。―コリント第一 10:11。ローマ 15:4。

      一国民が休息を得た時代

      人間が種々の圧力や心配事から解放されて休息を得る必要のあることを理解しておられる神は,昔のイスラエル国民に7年ごとに安息の年を持てるよう取り計らわれました。このような休息の取決めを享受した国民はほかにはありません。そのような取決めはどんな益をもたらしましたか。それは今日わたしたちが見ている事がらとどのように比べられるでしょうか。

      イスラエル人が定められた安息の年を守ったとき,周囲の敵は彼らを悩ましませんでした。また,土地も恩恵に浴しました。なぜなら,安息の年には耕作が行なわれなかったので,土地は地力を回復することができました。安息の年の時期に人に雇われていない貧しい人びとがいても,そのような人々はだれも苦しみませんでした。というのは,自然に畑になる穀物や野菜や果物をすべて自由に,存分に取って食べることが許されていたからです。

      普通6年間ずっと働き続けた土地所有者は,今や家族のために用い得る余分の時間を持つことになりました。というのは,当時の農業社会ではそのような土地所有者は自分の仕事から相当解放されたからです。そして,霊的な事がらや子供を教えたり訓練したりする仕事また家庭生活の改善を図ることなどにいっそうの注意を払うことができ,そうすることによって,愛のきずなを強め,今日多くの家庭をむしばんでいる分裂や非行を防止することができました。また,そうした土地所有者は経済上の心配事からの圧力を受けて苦しむということもありませんでした。安息の年には債権者は貸金の返済を迫ることはできなかったからです。―レビ 25:2-7。申命 15:1-3。

      加えて,50年目は「ヨベル」の年でした。それはなおいっそう徹底した休息の年,つまり『自由の年』でした。ヨベルに関する規定は,7年目の安息のそれと同様でしたが,さらに広範囲に及ぶものでした。今日の諸国家もその気になればヨベルに関する律法から多くを学べるでしょう。

      ヨベルの年の始めには負債はすべて取り消されました。相続財産としての所有地を売った人はすべて,その土地に戻りました。その土地は無償で当人に返還されたのです。負債を償うために雇用労働者として身売りをした人は,この『自由の年』の初日にはそうした苦役から永久に解放されました。―レビ 25:8-22。

      こうした取決めは人びとに何という休息,何という安全をもたらしたのでしょう。そのために国の経済は完全な均衡を保ちました。その結果,今日のある国々に見られるような貧富の極端な相違が生ずる事態は阻止されました。インフレも防止されました。賃金が安定していたように,地価も相変わらず安定していました。―レビ 27:16-19; 25:50。

      今日の世界の状態とは何と対照的でしょう。生産費の高騰は,消費者に対する物価の高騰を招き,次いで賃金の引き上げを行なわざるを得なくなります。これは一時は良いように見えるかもしれませんが,やがて報いを受ける日が来ます。負債額は高水準に達し,それとともにインフレが進行します。その結果ですか? 個人,次いで国家の財政が破産します。また,国の資源は乱用され,枯渇します。その上,流れ作業式の単調な仕事は,高給で雇われている従業員をさえ不幸にします。

      しかし,神の取決めのもとでは人間の尊さが認められていました。人間はあるきまりきった不快な仕事に終身携わる奴隷ではありませんでした。人はおのおの自分の思考力を自由に働かせて自己の才能や能力を発揮し,国益に寄与することができました。家族は一緒に暮らしましたし,人びとはすべて教育を受け,多くの人は特定の職業に関する教育をも受けました。すべての人は読み書きの能力を身に着けており,また霊的な事がらに関する教育のおかげで国民は高い道徳水準を保っていました。人びとは神の律法を固守したので神からの祝福を得,そうした幸福な状態を招来しました。

      全地のための休息

      『そのことと,より良い時代に対するわたしたちの希望との間に今日どんな関係があるのだろうか』と問う人がいるかもしれませんが,地を治める王として神により任命された方であるイエス・キリストは,確かに関係があると,言われました。ところで,そうした救済にあずかるには昔のイスラエル人の生活様式に戻らねばならない,つまり現代の発明品あるいは現代文明の所産などのない“軽装馬車時代”の社会にぜひとも帰らねばならないということをイエスは示唆したのではありません。むしろ,当時の安息日はより大きな,より恒久的な事がらを絵画的に表現したものでした。

      安息日に関する律法は重荷として人間に課せられた単なる儀礼的な事がらではないことをイエスは人びとに指摘してこう言われました。「安息日は人のために存在するようになったのであり,人が安息日のために存在するようになったのではありません」。次いで,非常に重要な発言をして,こう言われました。「ゆえに,人の子は安息日の主でもあるのです」― マルコ 2:27,28。

      より良い時代を多少でも本当に享受するには,健康面でもより改善された状態が確かに必要だったでしょう。では,イエスがユダヤ人の安息日にたいへん驚くべき癒しのわざを数多く行なって,ご自分が「安息日の主」であることを証明された点に注目してください。ユダヤ人の間の指導者たちは安息日の真の目的を理解していなかったため,その休息の日に行なわれた,そうした憐みのわざに激しく反対しました。とはいえ,イエスはご自分の王国が千年間地を支配する,より大いなる休息つまり安息の「日」に起こる事がらをあらかじめ示すために,安息日に数多くの癒しを行なわれました。

      さて,イエスは人類のためにご自分を犠牲としてささげることによって,文字どおりの毎週の安息日や安息の年が廃止されるようになることをご存じでした。そうした安息は,将来のより良い事がらの預言的な「影」でした。(エフェソス 2:15。コロサイ 2:13,14)したがって,イエスが行なわれた癒しや復活は一時的なもので,今日のわたしたちに励みを与えるものとなりました。したがって,わたしたちは,王国による安息期間中に起きる完全な永久の成就を待ち望めます。このことについて使徒パウロはクリスチャンに向かってこう言いました。「祭りや……安息日に関して,だれからも裁かれるべきではありません。そうした事はきたるべきものの影であり,その実体はキリストに属しているのです」― コロサイ 2:16,17。

      永続する健康と命

      このことから,神の王国政府のもたらすより良い時代には,心臓不全やガンなどの“殺人”病が一掃されると考えるべきでしょうか。そうです,その王国の支配する時代にも今日の医師を困惑させるような病気で人びとが苦しめられるのではなかろうかなどと心配する必要はありません。

      また,人間は完全な健康を永遠に享受できるものではないなどと考えるべきでもありません。というのは,イエスは治癒の非常に困難な疾患をすべて無償で癒されたからです。彼は盲人やおしを癒しました。(マタイ 9:27-34)また,手足の不自由な人や麻ひ患者をも癒しました。(ルカ 5:18-26; 13:11-17)悪霊にたいへんひどく取りつかれた人たちを完全に正気に立ち返らせました。(マタイ 8:28-34。ルカ 8:26-39)また,当時最も恐れられた病気だったらい病をも癒しました。(マルコ 1:40-45)イエスはその王国が地を支配する期間中,そうした力を行使して,従順な人びとすべてを身心ともに完全な状態に向上させることができます。

      しかし,既に死んでしまった人たちについてはどうですか。イエスはその点を見過ごすどころか,人びとを死人の中からよみがえらせて,つまり人を墓そのものからよみがえらせることによって,親切にも復活とはどういう事なのかを前もって示してくださいました。―マタイ 9:18-26。ルカ 7:11-17。ヨハネ 11:38-44。

      生活の必需品は豊かに備えられる

      また,キリストが王国による神の大いなる安息の主として支配する時代に食糧不足が起こりはしまいかと心配する理由は一つもありません。その王はご自分の臣民が何を必要とするかをご存じです。(ヨハネ 2:25。マタイ 6:7,8と比べてください。)イエスはガリラヤの海の近くで5,000人(別の時には4,000人)の男のほかに多数の婦人や子供たちで成る群衆に「哀れみを感じ」,それらの人びとすべてに食物を与えて,ご自分の能力や同情心を示されました。そのいずれの場合にも,ほんの幾つかのパンのかたまりと幾匹かの魚を奇跡的にふやしてそうなさったのです。―マタイ 14:14-21。マルコ 8:19,20。

      その何世紀も前に,神ご自身,王国による安息期間中に食物を豊かに供給されるさまをちょっとのぞいて見ることができるようにされました。どのようにしてでしたか。それは安息の年やヨベルの年の直前の一年間に,2年あるいは3年間さえも食べるに足りるほどのおびただしい量の作物を収穫させることによってです!―レビ 25:20-22。

      平和と安全

      無論,優れた健康を含め,物質上のものはただそれだけでは幸福をもたらすものではありません。平和もなければなりません。それも諸国家間の単なる政治的平和ではなくて,人種あるいは背景のいかんを問わず,地上の住民すべての間の平和です。

      戸に鍵をかけなくても何の不安も感ぜずに家をるすにして出歩くことができるなら,どんなに気持ちが安らぐことでしょう。あなたの平安と福祉にほんとうに関心を抱く隣人を持つことになれば,どんなにか楽しいことでしょう。自分自身あるいはわが子の命が戦争や犯罪あるいは病気によって奪い去られることがなくなるということを知るのは何と快いことでしょう。

      神は遠い昔に,正真正銘の平和と安全の宿るそうした状態をも予告し,予示されました。それは「新しい天と新しい地」(すなわちイエス・キリストの天の政府と,千年にわたる王国支配の期間中における地上の物事の新しい取決め)に関する預言の中に示されています。

      その預言は神の預言者イザヤによってイスラエル人に話されたものですが,彼がその預言を語ったのは,イスラエル人が神の律法を守らなかったために西暦前607年バビロンに流刑囚として連れ去られる前のことでした。神は彼らをその土地に帰還させるということを示して彼らを慰めました。神は次のように言われました。

      『日数わづかにして死ぬる嬰児といのちの日をみたさゞる老人とはその中にまたあることなかるべし 百歳にて死ぬるものも尚わかしとせられ 百歳にて死ぬるものをのろはれたる罪人とすべし』― イザヤ 65:17,20。

      流刑の身として過ごした70年の間,イスラエル人は偶像崇拝の道から離れ去って,再び神に本当に仕えました。(エレミヤ 29:10)帰還した彼らは,自分たちの敵を絶えず恐れるどころか,身の安全を感ずることができました。70年前にネブカデネザルがやって来て人びとを老若の別なく滅ぼした当時彼らが経験した恐れの気持ちは少しもありませんでした。(哀 2:21)彼らの回復された状態のもとでは,子供は生き長らえて成熟したことでしょうし,成人は剣や飢饉あるいは疫病などの苦しみで倒れたりはしなかったので,普通の寿命を全うしたことでしょう。

      イザヤの預言はさらにこう続いています。

      『かれら家をたてゝこれにすみ葡萄園をつくりてその果をくらふべし かれらが建つるところにほかの人すまず かれらが造るところの果はほかの人くらはず……かれらの勤労はむなしからず その生むところの者はわざはひにかゝらず 彼らはエホバの福祉をたまひしものの裔にしてその子らもあひともにをるべければなり かれらが呼ばざるさきにわれこたへ 彼らが語りをへざるに我きかん』― イザヤ 65:21-24。

      バビロン捕囚から戻ったイスラエル人は,霊的な関心事を第一にするようエホバの預言者から勧告された後,彼らの資産は侵入者によって奪い去られたり,経済上の困難のために失ったりすることなく,建てたり植えたりするわざで繁栄しました。彼らの育てた子供たちが,戦争や非行の犠牲になって倒れたり,早死にしたりすることもありませんでした。こうして,イスラエル人は長年にわたってエホバから祝福されました。しかし,後代になって彼らは再び不従順になり,一国民としては堕落してしまいました。神はどうしてそうなるのを許されたのでしょうか。

      それはまだ神のメシアの王国の支配する時ではなかったからです。使徒ペテロが書いた,『義の宿る,新しい天と新しい地』を設ける時ではなかったからです。当時,その預言は単に縮図的に,つまり模型的に成就したに過ぎませんでした。―ペテロ第二 3:13。

      神が過去に行なわれた事がらは,地上の状態がパラダイスのそれに変わることを保証する

      しかし,神のメシアの政府のもとでの現実の事態についてはどうですか。神はその民がご自分に聞き従った当時,彼らのためにそうした良い事がらを行なわれました。今日,神の約束について聞き,それを信ずる人たちのために,神ははるかに大規模な,また永続性のある仕方でそうした良い事がらを行なわれます。というのは,神は地球をパラダイスにする,つまり永遠に続く新しい,現実の,さまざまの状態の整った所にすることを意図しておられるからです。

      イエスはその傍らで死に面した一人の悪人に向かって,その悪人が復活させられて入るであろうこのパラダイスについて話されました。その男はある悪事を犯したために当然の処刑を受けようとしていましたが,きたるべきキリストの王国に対する信仰を表明したので,そのことに動かされたイエス・キリストは,その悪人がパラダイスで命

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