-
神を呼ぶのにどんな名前を用いますかものみの塔 1984 | 3月1日
-
-
神を呼ぶのにどんな名前を用いますか
聖書の中でほかのどんな名前よりもひんぱんに用いられている名前が何であるかご存じですか。ダビデ,アブラハム,あるいはイエスとお答えになりますか。
もしそれらの名前のどれかが頭に浮かぶなら,この一連の記事は非常に興味深いものになるはずです。聖書中で最も重要な名前は,それらの名前全部を合わせたよりもひんぱんに用いられているからです。
ある宗教的な出版物は,だれかがだれかを愛しているという場合,相手を名前で呼ぶことを指摘しています。「愛しているわ,男の人」とか「愛しているよ,女の人」とは言わないでしょう。むしろ,「愛しているわ,ジョン」とか「愛しているよ,マーガレット」と言うでしょう。次いでその出版物は,「神をよりいっそう個人的で親しい存在とするために,神にどんな名前を付与することができるだろうか」と問いかけています。
この出版物は丸1ページを使ってこの問題について論じていますが,神がご自身を指して用いておられる名前には一度も言及していません。結論として,「神に親しく呼びかけるに当たってどんな名前を選ぶかは,各人にかかっているはずである」と述べています。しかし,聖書の中で幾千回も用いられ,神がご自分で選ばれた名前を用いるほうが優れているのではないでしょうか。
神には本当に名前があるか
確かにあります。聖書の原語であるヘブライ語とギリシャ語の場合,「神」という語は必ずしもまことの神を指していたわけではありません。日本語の場合と同様,その語は偽りの神々や偶像を指して用いられることがありました。では,まことの神また創造者と人間の造り出した神々をどのようにして区別できるでしょうか。固有のみ名を用いることによってです。しかし,多くの人は神のみ名を知らず,今日それを用いている人はさらにずっと少数です。
事実,読者はご自分の聖書で神のみ名を一度も見たことがないかもしれません。なぜでしょうか。お手持ちの聖書を日本語に訳した人々がそれを変えてしまったからかもしれません。そうした人々は,神の霊感を受けてこのみ名をヘブライ語聖書の中で幾千回も用いた聖書筆者たちと意見を異にしていたのかもしれません。
神のみ名は,ヘブライ語では7,000回近く出てくるのに対し,英語を話す読者に長年用いられてきた欽定訳には,そのままの形では4回しか出てきません。それは,出エジプト記 6章3節,詩編 83編18節,イザヤ 12章2節と26章4節です。神のみ名を全く用いていない翻訳もあります。そうした翻訳は,神ご自身の本から神のみ名を省いてしまったのです。
明らかにこのみ名は翻訳者たちがその代わりに用いた語よりも重要であったので,代わりに用いた語を大文字で印刷し,原文の中で神のみ名が現われる箇所を事情に通じた読者に知らせている翻訳者もいます。著名な一百科事典はこう説明しています。「ヘブライ語の名称エホバが英語の翻訳では概してLORD[主](時にはGOD[神])という語で訳出され,小さい活字の部分が大文字で印刷されているということを覚えておかなければならない」。ですから,「LORD」という語がこのような仕方で印刷されていれば,原語ではそこに神ご自身のみ名,エホバが用いられていると翻訳者は告げていることになります。―マクリントクとストロングの「百科事典」,1981年版,第4巻,811ページ。
お手持ちの聖書の中でこのみ名をご覧になったことがあるかどうかにかかわりなく,そのみ名はヘブライ語の原文の中にはあったのです。ドイツの学者カイルとデリッチは,創世記 2章と3章の50節足らずの間に「エホバ エローヒーム」(エホバ神)という表現が20回現われることを指摘しています。この学者たちは,「それはエホバがまことのエローヒーム[つまり神]であるという事実を目立たせるために独得の強調をもって用いられている」と述べています。―カイルとデリッチ著,「旧約聖書の注解」,1973年版,第1巻,72,73ページ。
事実,イエスご自身の名は,「ヤハ[エホバ]は救い」を意味します。また,「ハレルヤ」と言う時には,エホバのみ名の詩的短縮形を使っていることになります。ご自分で辞書を開いてハレルヤの項を見れば,それが『ヤハを賛美せよ』,つまり『エホバを賛美せよ』を意味していることが分かるでしょう。
エホバが神ご自身のみ名であることを覚えておいてください。それは,他の者とご自分を区別するのに神がお選びになったみ名です。このみ名を用いることにより,どのように神とそのお目的に対する自分の認識と感謝の念を深めることができるかを知りたいと思われますか。続く一連の記事の主題となっているのはまさにそのことです。
-
-
み名を用いるべきですかものみの塔 1984 | 3月1日
-
-
み名を用いるべきですか
神の聖なるみ名を用いることに不安を覚える人は少なくありません。信心深いユダヤ人はこのみ名を自分たちの聖書の中で見はしますが,それを発音すべきではないと考えています。他の宗教心の厚い人々の中にも,それを用いることにためらいを感じる人は少なくありません。
しかし,イスラエルの国民全体はかつて神がご自分のみ名を語られるのを聞きました。イスラエル国民はそれが正確に発音されたのを聞きました。イスラエル人は,シナイ山で天から語られた十の言葉つまり十戒の中でそのみ名を8回聞きました。―出エジプト記 20:2-17。
お手持ちの聖書の翻訳者が神のみ名を,原語のヘブライ語に出てくる箇所で用いているなら,その十戒の冒頭には次のような言葉があるはずです。「わたしはあなたの神エホバ,あなたをエジプトの地から,奴隷の家から携え出した者である。あなたはわたしの顔に逆らって他のいかなるものをも神としてはならない」。リビングバイブル(英文)はこの箇所を,「わたしはあなたの神,エホバである。……わたしのほかは,どんな神も崇拝してはならない」と訳出しています。(出エジプト記 20:2,3)お手持ちの聖書の翻訳者が神のみ名を用いなかったとしたら,「LORD[主]」という言葉を大文字で入れ,原語の聖句ではみ名が現われていることを示しているかもしれません。
聖書の中で,このみ名を使うべきではないと述べているところはありません。神は,ご自分のみ名を「むなしい仕方で」,つまり「いたずらに」取り上げてはならないと言われました。しかし,それはみ名を使うべきではないという意味ではありません。むしろ,エホバの僕はみ名の評判を落とすようなことをすべきではないという意味です。―出エジプト記 20:7。
この命令を聖書の中に書き記すのに用いられたモーセは,神のみ名を用いるべきではないという意味にそれを理解してはいませんでした。モーセは,聖書の最初の5冊の書であるモーセ五書の中でそのみ名を何百回も書いているからです。み名を用いないどころか,モーセはこう言いました。「イスラエルよ,聴きなさい。わたしたちの神エホバはただひとりのエホバである。ゆえにあなたは,心をつくし,魂をつくし,活力をつくしてあなたの神エホバを愛さねばならない」― 申命記 6:4,5。
聖書は,このみ名が隠しおかれたとか発音されなかったということを示してはいません。それどころか,幾世紀にも及ぶ長い期間にわたって,それが一般に使われてきたことを示しています。聖書は,エバがそのみ名を用いたことを引き合いに出しています。(創世記 4:1)モーセは,義なるアブラハムがそれを用い,アブラハムは「定めなく存在される神エホバの名を」呼び求めた,と述べています。もっとも,この事実は現代の多くの聖書翻訳の中で隠されています。―創世記 21:33。
アブラハムはソドムの王と話した際にエホバのみ名を用いました。サラはアブラハムとの会話の中でそのみ名を用いました。アブラハムの僕はそれを度々用いています。ヤコブ,その妻ラケル,そしてラケルの父ラバンも,神のみ名を用いました。―創世記 14:22; 16:2; 24:35,42,44; 28:16; 30:24,27,30。
モーセは神のみ名を用いるよう命じられました。モーセとアロンは信じようとしないファラオに話す際にそのみ名を用い,ファラオはそれに答えるに当たってそのみ名を用いました。ファラオは,「エホバが何者だというので,わたしはその声に従ってイスラエルを去らせなければいけないのか」と言いました。―出エジプト記 5:1-3; 3:15。
幾世紀も後に,民はまだエホバのみ名を口にしてはならないものとはみなしていませんでした。民はサムエルに話した際にみ名を用い,サムエルもそれに答えるに当たってみ名を用いました。(サムエル第一 12:19,20)義なる王ダビデはみ名を歌の中で公に用い,こう言いました。「わたしはあなたのみ名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ,会衆の中であなたを賛美します。エホバを恐れる者たちよ,神に賛美をささげよ」― 詩編 22:22,23。
偉大な預言者イザヤはこのみ名が無視されてもよいとは考えませんでした。イザヤは自分の名の付された聖書の書の中で400回以上もみ名を用いました。
イザヤはユダヤ人の読者たちに神のみ名を用いないようにと告げたりはしませんでした。むしろ次のように述べています。「あなた方はエホバに感謝せよ! そのみ名を呼び求めよ。もろもろの民の中にその行ないを知らせよ。そのみ名の高く上げられることを語り告げよ。エホバに調べを奏でよ。見事にことを行なわれたからだ。これは全地に知らされている」― イザヤ 12:4,5。
こうした記述のいずれかから,この強大なみ名が隠されることになっていたとか,用いられなくなるとか,ほかの何らかの言葉で置き換えられるとかいうような印象を受けるでしょうか。神ご自身の本から神のみ名を省く翻訳者たちが,神を恐れるアブラハム,サラ,ヤコブ,モーセ,アロン,サムエル,ダビデそしてイザヤの抱いていた,このみ名に対する認識と感謝の念を抱いていないことは明らかです。
後代の預言者たちも,このみ名は神聖すぎて使えないとみなしたり,初期の聖書筆者たちは間違っていると感じてこのみ名を他の何らかの言葉で置き換えたほうがよいと考えたりしてこのみ名を隠すようなことはしませんでした。それら預言者たちの音信は次のような表現で満たされていました。「エホバの言葉を聞け」。「イスラエルの神,万軍のエホバはこのように言われた」。「主権者なる主エホバは……このように言われた」。―エレミヤ 2:4; 19:15。エゼキエル 21:28。
もっぱら宗教的な事柄だけにこのみ名が用いられたわけでもありません。教師たちが用いただけではなく,普通の人たちも平素の会話の中で神のみ名を用いました。聖書は,ボアズが自分の畑で働く人々に,「エホバが共におられるように」と言ったと述べています。働き人たちは,「エホバがあなたを祝福されますように」と答えました。―ルツ 2:4。
考古学者たちは,民がこのみ名を用いたという聖書の陳述を裏付ける証拠を見いだしています。1930年代に考古学者たちはラキシュ書簡を発見しました。これは西暦前7世紀のバビロニア人による征服の時にまでさかのぼるものと考えられる陶片です。それらの書簡は,「YHWH[ヤハウェ,つまりエホバ]が今この時においてもわたしの主に良いたよりを聞かせてくださいますように!」というような表現が繰り返し用いられています。
イスラエル人でない人々でさえ神のみ名を知っていてそれを用いていました。ギベオン人はヨシュアに,「僕どもは,非常に遠い土地から,あなたの神エホバのみ名に関することでやってまいりました。その名声について,エジプトでなさったすべての事柄について聞いたからです」と告げました。(ヨシュア 9:9)西暦前10世紀にイスラエルの敵,モアブの王メシャは,モアブ碑石にそのみ名を書き記しました。その碑石は1868年に再発見され,現在ではパリのルーブル博物館に陳列されています。
こうした事実は驚くべきものとはならないはずです。モーセはこの名が,用いてはならない私的で秘密のものであることを示唆するどころか,「そして,地のすべての民は,あなたの上にエホバの名がとなえられているのを必ず見(る)……であろう」と民に告げました。(申命記 28:10)崇拝者たちでさえそのみ名を使わなかったとすれば,どうしてこうしたことが可能になるのでしょうか。
み名は,口にしてはならないものとされたのではなく,ほめたたえられ,愛され,尊敬されました。場所や人の名前を付けるのにもみ名が用いられました。アブラハムは,自分がイサクを犠牲にするために行った場所を,「エホバ・イルエ」と呼びました。(創世記 22:14)また,エホバ,あるいはエホバのみ名の詩的短縮形であるヤハと関係のある意味を持つ著名な聖書中の人名の中には,ヒゼキヤ,イザヤ,ヨシヤ,ネヘミヤ,オバデヤ,ゼカリヤ,ゼパニヤなどがあります。今日でも人々は子供に名を付けるに当たって神のみ名を用います。事実,神の驚嘆すべきみ名は読者ご自身の名前に含まれているかもしれないのです。Joel[ヨエル]という名の人をご存じですか。その名には,「エホバは神である」という意味があります。Jonathan[ヨナタン]はどうでしょうか。それには,「エホバは与えられた」という意味があります。Joshua[ヨシュア]には,「エホバは救い」という意味があります。そして,John[ヨハネ]というよくある名前の人は,「エホバは慈しみ深くあられた」という意味の名前を持っていることになります。
ですから,神のみ名は余りにも神聖なので口にすべきではないという考えや,そのみ名を無視すべきだという考えがあるとしても,そのみ名を聖書の中から除くことは決してできません。そのみ名はこれらすべての聖書中の人名に含まれているのです。それらの名前は,人々がエホバという神の聖なるみ名を知っていただけでなく,そのみ名を祈りや崇拝や日常の会話で用いていた幾世紀にもわたる長い間,ずっと使われていました。
では,しばしば新約聖書と呼ばれるクリスチャン聖書のほうはどうでしょうか。エホバという名はイエスおよびヨハネという名,また「ハレルヤ」という言葉の中に含まれてはいますが,どうしてもっとひんぱんに現われないのでしょうか。その重要な質問に対する答えが次の記事の中で取り上げられています。
[5ページの囲み記事]
み名はどのように発音されますか
宗教的に使われなくなったために,ヘブライ語יהוהの本来の発音は分からなくなりました。学者たちの中には“ヤハウェ”と言うほうを好む人もいますが,どんな発音が正しいかを知る手だてはありません。
しかし,名前は言語が異なれば大抵異なった発音になります。日本語では信仰のゆえに死んだ最初のクリスチャンをステファノと呼びますが,フランス人はその人をエティエンヌと呼びます。イエスはヘブライ語でエーシューアあるいはエホーシューア,ギリシャ語でイエースースと呼ばれました。
イエスの名前であれ,他のどんな人の名前であれ,わたしたちがそれを原語で発音されたのと全く同じように発音しないからといって,その名前を省いてしまうことはありません。自国語の発音に従ってその名を口にするにすぎません。
ですから,「聖書理解の助け」(英文)という本は次のように述べています。「現在では確かな発音を知ることはできないので,英語でよく知られた“Jehovah[エホバ]”の形を捨てて,提案されている他のいずれかの発音に変える理由はないように思われます。……英語では“Jehovah”という名が真の神を指しており,代わりに提案されている他のいかなる発音よりも十分に今日この考えを伝えています」― 885ページ。
[6ページの図版]
これらの人たちはみ名を用いて神を呼んだ
アブラハム
サラ
ラケル
ダビデ
サムエル
-
-
クリスチャン聖書における神のみ名ものみの塔 1984 | 3月1日
-
-
クリスチャン聖書における神のみ名
イエスが神を自分の父と呼んだ時,それを聞いたユダヤ人たちは,イエスがだれについて話しておられるのかを知っていました。自分たちの会堂にあったヘブライ語聖書の巻き物の中で神のみ名を見ていたのです。そのような巻き物が郷里の町ナザレの会堂でイエスに手渡されました。イエスはエホバのみ名が2度出て来るイザヤの一節を読みました。―ルカ 4:16-21。
イエスの初期の弟子たちも神のみ名をセプトゥアギンタ訳の中で見ました。これはギリシャ語に翻訳された聖書で,初期クリスチャンたちが教えたり本を書いたりするのに用いたものでした。確かに,神のみ名はセプトゥアギンタ訳には出ていないと考えられた時もありましたが,このみ名に非常な敬意が払われていたために四文字語<テトラグラマトン>(ヘブライ語で神のみ名が書き表わされる際の四つの文字を指して学者たちが用いる用語)がギリシャ語の本文の中にヘブライ語の文字で転写されたことが今でははっきりと分かっています。
2世紀になってからもアキュラは自分の訳したギリシャ語本文の中に神のみ名をヘブライ文字で書きました。3世紀にオリゲネスは,「最も忠実な写本の中でみ名はヘブライ文字で書き記されている」と書きました。4世紀になって,聖書翻訳者のヒエロニムスは,「我々は,今日に至るまである種のギリシャ語の書物の中に,四文字で書き表わされた神の名(つまりיהוה)が古代の文字で表記されているのを見いだす」と書きました。
パウル・E・カーレ博士は次のように書いています。「ギリシャ語の聖書本文[セプトゥアギンタ訳]は,ユダヤ人のためにユダヤ人によって書かれたものに限り,神のみ名をキュリオス[主]と翻訳せず,ヘブライ語かギリシャ語の文字で書かれた四文字語<テトラグラマトン>がそのような写本では保持されていた」―「カイロ・ゲニザ」,222,224ページ。
これはどんなことを意味していますか。ヘブライ語を話したか,ギリシャ語を話したかにかかわらず,イエスの言葉を聞いた人々が聖書を読んだ時,そこに神のみ名を見たということを意味しています。ですから,その人たちがこれらの本文を引用する場合に,自分たちが目にしてきた習わしに従うというのはごく道理にかなったことです。すなわち,自分たちの記したクリスチャン・ギリシャ語聖書の書物の本文にエホバのみ名を表わすヘブライ語の四文字を入れるという習わしです。
聖書文献ジャーナル誌の中で,ジョージア大学の宗教学の準教授ジョージ・ハワードは次のように書きました。「初期教会の聖書はギリシャ語の聖書の写本であるが,その中になお四文字語<テトラグラマトン>が書かれていた以上,新約聖書の筆者が聖書から引用する時,聖書本文中に四文字語<テトラグラマトン>を保存したことは当然に考えられる」― 1977年第96巻,第1号,77ページ。
神のみ名に取って代わる
後代になって,非ユダヤ人のクリスチャンたちがもはやヘブライ文字を理解しなくなると,セプトゥアギンタ訳と“新約聖書”の双方から神のみ名が省かれたと思われます。ですからカーレ博士は,「ヘブライ文字で書かれた神のみ名がもはや理解されなくなった時に,キュリオス[主]を四文字語<テトラグラマトン>の代わりにしたのはクリスチャンたちであった」と書いています。―「カイロ・ゲニザ」,224ページ。
神のみ名が除かれたことはどれほど重大なことだったのでしょうか。ハワード博士はこう述べています。「我々の見解からすると,四文字語<テトラグラマトン>がこうして除かれたことにより,初期の異邦人のクリスチャンの思いの中に『主なる神』と『主なるキリスト』の関係について混乱が生まれた」― 先に引用した記事の63ページ。
例えば,詩編 110編1節は,「わたしの主に対するエホバのお告げはこうです」と述べています。これはマタイ 22章44節に引用されていますが,エホバという名が省かれてから,ほとんどの現代語訳は,「主はわたしの主に言われた」となっています。ですから,キリスト教世界の教会員にとって,エホバ(「主」)とイエス(「わたしの主」)との間のはっきりした区別は失われてしまいました。
神のみ名を用いる聖書的な模範に従うことには次のような大きな利点があります。(1)神を単なる力としてではなく,ひとりの存在者として見られるようになります。(2)神に一層引き寄せられるようになります。(3)混乱が除かれ,神についてのわたしたちの考え方が鋭くなり,聖書が本当に教えている事柄にわたしたちの考えを一層近づけることができます。
-