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  • 国を挙げての“感謝祭”― その夢と現実
    目ざめよ! 1977 | 3月8日
    • に対して批判的な意見を述べたある論説は,「飢えた羊たちに,一番手っ取り早い即席の政治的食物を与えた」教会指導者たちをも非難しました。

      米国の大部分の教会に対する幻滅感に加えて,農業人口の減少という実情もあります。現在,農業に携わっている人々は全人口の6%足らずです。食物がスーパー・マーケットで栽培されたり,プラスチック製の容器から飛び出してきたりするわけでないことは明らかです。それゆえ,収穫祭を祝う根拠はほとんどないと考える北米人は,かつてないほど多くなっています。

      もちろん,多くの人々にとってこの祝日は今でも親族懇親の時となっています。また,この日を神への感謝をささげる日と誠実に考えている人々もまだ残っています。しかし,スポーツの興隆や,たびたび見られる暴飲暴食などのために,そうした見方も確かにゆがめられがちです。大多数の人々にとって,感謝祭を“祝う”とは,特別な料理を食べる程度のことしか意味していません。

      感謝祭に関する過去の含蓄と実情とを考えると,神の是認を求める人々は,その祭日が近付いたなら,明らかに多くの事柄を考慮すべきです。暴飲暴食に関する聖書の見解は良く知られています。(ペテロ第一 4:3。箴 23:20,21)しかし,そうした全国的な感謝祭についての聖書の見方はどのようなものですか。

      聖書的な祝日?

      サラ・ヘールは全国的な祝祭を制定するための運動を行なっていた際,次のように書きました。「それでは,『七週の祭り』つまり収穫祭に関するエホバの取り決めに従って,年ごとの感謝祭を制定できないだろうか」。このとき,サラは何について述べていたのですか。ある人々が依然として抱き続けているその信仰とは,ユダヤ人に与えられたモーセの律法の中でエホバ神が収穫祭を制定されたのだから,“感謝祭”を祝うことは聖書の命令であるという考えに基づいています。(レビ 23:15-17)事実,イスラエルの主要な三つの祝祭すべては,収穫と直接に関係がありました。―出エジプト 23:14-17。

      しかし,イエス・キリストの教えにより,それまで定められていたユダヤ人の祝祭に関して,新しい見方が明らかにされました。イエスは死の直前に,ただ一つの祝祭だけを守るよう命じられました。イエスは弟子たちに,ご自分の死を記念するようにと言われたのです。このほかには祝祭と呼ばれるものがないだけに,この祝祭は一層際立ったものとなりました。―ルカ 22:19,20。

      事実,使徒パウロは,依然として「日や月や時節や年を細心に守って」いたユダヤ人のことを気にかけていました。パウロは次のように述べました。「わたしは,自分があなたがたについて労苦したことがむだになったのではないだろうかと,あなたがたのことが心配です」。(ガラテア 4:10,11)パウロはなぜそれほど心配していたのですか。それらのユダヤ人たちは,パウロの労苦にもかかわらず,神がもはや望んではおられない宗教的な祝いに固執していたからです。それらのユダヤ人たちは,キリスト教の“精神”を見失っていました。

      初期クリスチャンは,エフェソス 5章20節に見られる原則を適用するよう諭されました。彼らは,イエス・キリストの名により「常にすべての事に対してわたしたちの神また父に感謝をささげ(る)」べきでした。そうです,神の備えと保護に対して常に感謝するという態度が繰り返し強調されました。「感謝」という語は,クリスチャン・ギリシャ語聖書中で40回以上用いられています。

      それとは逆に,一日だけ感謝を表わすという考えを初期クリスチャンが聞けば,12月に年ごとの感謝祭を行なっていた異教のローマ人を思い起こしたに違いありません。二世紀の一著述家はこう記しています。「我々[クリスチャン]は,下等冒涜罪で告発されている。それは,我々が,慎み深さや礼儀正しさ,また純粋さの点から許されないような仕方でカエサルの祝日をあなたがたと共に祝うことをよしとしないからである」。

      では,現代のクリスチャンがこの国民の祝日について考慮する場合,どのような結論に達するでしょうか。現在行なわれている習慣の多くを見るなら,コリント人への第二の手紙 6章14節を思い起こすことでしょう。そこにはこう書かれています。「不つりあいにも不信者とくびきを共にしてはなりません。義と不法に何の交友があるでしょうか」。

      もちろん,献身したクリスチャンの多くはその日に世俗の仕事を行なわないでしょう。また,この機会を利用して,家族や友人との交わりを楽しみたいと思う人もいるかもしれません。しかし,クリスチャンはどんな“精神”を示しますか。確かに,神は七面鳥やその他の食物を創造されましたから,それらの物自体に問題があるわけではありません。それでも,真のクリスチャンは,他の人々をつまずかせないよう注意深くありたいと思うでしょう。

      コリント人への第一の手紙 10章の中に記されている,使徒パウロの言葉を考慮してみてください。パウロの論議によれば,全くふさわしいものであってもそれを食べることが他の人をつまずかせるなら,クリスチャンは思慮深くあり,他の人々の前でそれを食べることを避けるべきです。“あなたの兄弟の良心を尊重しなさい”ということがその教訓です。

      それで,1976年の宣言された“感謝祭”にあたる11月25日には,個人的に決定を下すことが必要でした。当然のことながら,献身したクリスチャンは,自分たちが一年に一日だけの感謝という精神に同意しているとの印象を他の人々に与えたくはないでしょう。実際,キリスト教を信ずると唱える人々はすべて,心から自然にわき起こる感謝の精神を一年中推奨すべきではありませんか。

  • ハビタット会議 ― 人類の希望の担い手?
    目ざめよ! 1977 | 3月8日
    • ハビタット会議 ― 人類の希望の担い手?

      カナダの「目ざめよ!」通信員

      “ハビタット”という英語の言葉には,居住の場所,つまりわたしたちの住む所という意味があります。人類の居住の場所つまり“住まい”は,広義には地球のことで,狭義には都市や村あるいは個々の家屋のことです。

      今日,人類の住まいは実に惨めな環境下にあり,事態は悪化の一途をたどっています。全人類は危機にひんしていると言う人もいます。国連主催の“ハビタット会議”が,1976年の中期にカナダのバンクーバーで開かれた背景にはこうした理由がありました。

      環境問題の専門家バーバラ・ウォードは,会議の席上,「世界は一そうの船であり,我々は三等船室にいる」と語りました。同女史は,劣った生活環境を“三等船室”に例え,人類の住まいである地球の環境に対する危ぐの念をここで表明していたのです。外洋航行船の三等船客は,いちばん安い料金で設備の最も劣った船室に乗り込みます。

      同会議は国連に転機をもたらすことになろう,と多くの人が語りました。なぜですか。なぜなら,同会議の成否が,世界の諸問題の解決に国連が幾らかでも関与しうるかどうかを左右するように思えたからです。

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