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彼の生命のみなもとものみの塔 1962 | 11月1日
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ときです。それから,彼は全能の神の力により生命によみがえされて,永遠不滅に生きました。イエス・キリストは復活を受けたとき,神の創造すなわち神による創造でした。しかし,万物の創造のいちばん最初のとき,イエスは神の創造,すなわち神によってつくられた者です。「はじめ」天で言葉として存在していたとき,彼は神の創造の最初,「神の創造の長」(ヤング訳)でした。神は彼を代理者に用いて,ヨハネ伝 1章3節に述べられているごとく,他のすべてのものをつくりました。彼は神の創造の起源あるいは起源者でありません。むしろ,彼は神のつくったもののいちばん最初のものでした。
48 (イ)「新世訳」は黙示録 3章14節を正しく訳していると言えるのはなぜですか。(ロ)ヨハネの書いたものは,すべての創造をだれに帰していますか。
48 新世訳は,黙示録 3章14節を「神による創造のはじめ」と正確に訳しています。使徒ヨハネは,その書いたものの中で創造主(クティステス)という称号をイエス・キリストに適用せず,むしろヨハネはすべての創造が「全能者にして主なる神,昔いまし,今いまし〔ホ・オン〕,やがてきたるべき者」,すなわち天の御座にすわっている方」によると述べています。その方については,次のように言われています,「われらの主なる神よ,あなたこそは,栄光とはまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって,万物は存在し,また造られたのであります」。(黙示 4:8-11,新口; 10:5,6)その言葉は,神の最初の天的な創造でした。
「わが主よ,わが神よ」
49 使徒トマスがイエスに「わが主よ,わが神よ」と言ったいきさつを述べなさい。
49 三位一体の教理を教える者たちは,イエス・キリストが神であることは,ヨハネ伝 20章28節にある使徒トマスの言葉から証明されると論じます。イエスがトマスの前で化身して,杙にかけられたときの釘あとにトマスが指を入れ,ローマの兵士がイエスの死をたしかにするため槍でさした脇腹に手を入れないかぎり,イエスの復活を信じないと,トマスは他の使徒たちに言っていましたそれで,次の週にイエスは使徒たちにふたたび現れ,トマスに彼の言ったとおりのことをして,なっとくしなさいと告げました。「トマスはイエスに答えて言った,『わが主よ,わが神よ』」。(新口)ギリシャ語の原文ではこの言葉は文字通りには「私のその主そして私のその神」となっています。
50 ギリシャ語の教授モウレによると,「神」の前に定冠詞「その」が使われていることは,イエスが真の神と呼ばれたことを必ず意味しますか。
50 それでトマスがイエスに「神」と語ったことは,イエスがたしかに神である。つまり三位一体の神であることを証明する,と三位一体論者は論じます。しかし,シー・エフ・ディー・モウレ教授は,神という名詞の前のそのという定冠詞は,そのようなことを意味するものでないと言っています。f その事実を抜きにしても,昔の状態を考えて見て,使徒トマスの語った言葉が何であるかをたしかめて見ましょう。
51 イエスが復活された日に,トマスはイエスからどんな音信を受けましたか。それで,トマスは,イエスと彼の崇拝について何を知りましたか。
51 それより2週間前に,トマスはイエスが天の父に次のような祈りをささげるのを聞きました,「永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。(ヨハネ 17:3,新口)その祈りをささげてから4日目,すなわち復活の日に,イエスはマグダラのマリヤにより,トマスと他の弟子たちに特別な音信を伝えました。「イエスは彼女に言われた,『わたしにさわってはいけない。わたしは,まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ,わたしの兄弟たちの所に行って,「わたしは,わたしの父またあなたがたの父であつて,わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く」と彼らに伝えなさい』,マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って,自分が主に会ったこと,またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを,報告した」。(ヨハネ 20:17,18,新口)それで,トマスはイエスの祈りの言葉から,またマグダラのマリヤを通して伝えられたこの音信から,彼自身の神がだれであるかを知っていました。彼の神はイエス・キリストでなく,彼の神はイエス・キリストの神でした。また,彼の父はイエス・キリストの父でした。それで,イエスには彼の崇拝した神,すなわち彼の天的な父がいると,トマスは知っていました。
52 「わが主よ,わが神よ」というトマスの言葉を私たちはなぜ間違った意味に解釈してはなりませんか。
52 復活を受けたイエスを始めて見て恍惚のよろこびに浸ったトマスが,よろこびの声を発して,イエスこそ唯一の生ける真の神,エホバという御名前を持つ神であると,どうして言うことができましたか。トマスの言葉から,イエス御自身が「唯一の真の神」であるとか,イエスが三位一体の第2位の神であるなどと,トマスはどうして意味しましたか。トマスはイエスの言葉を聞いていました。またイエスの命令を知っていました。そのことから判断するとき,「私の主,私の神」というトマスの言葉の中に,どうしてそのような意味を考えることができますか。
53 イエスはなぜ,トマスの言ったことで彼を叱責しませんでしたか。
53 イエスこそ彼の呼んだ「私の神」および「私の父」で「唯一の真の神」であるとトマスが考えていたとイエスは知るなら,イエスはトマスを叱責したでしょう。イエスが父なる神から称号を取るとか,地位を取ることは決してありません。イエスは,トマスがあたかも,自分に対する呼びかけ方を間ちがえたかのように,彼を叱責しませんでした。イエスはトマスの言葉を聖書的に理解できました。同じく,使徒ヨハネも彼の言葉を聖書的に理解できたのです。
54 ヨハネの記録のこの箇所は,ヨハネ伝 1章1節について何をすべき絶好の箇所でしたか。
54 ヨハネはその場に居合わせて,「私の主,私の神」というトマスの言葉を聞きました。トマスのその言葉から得られる唯一の結論は,イエスが神である。すなわちエホバという名を持つ「唯一の真の神」であると,ヨハネは言いましたか。(詩 35:23,24)ヨハネがヨハネ伝 1章1節を説明して,肉体になられた言葉,イエス・キリストが神ご自身であり,イエスこそ「御子なる神,祝福された三位一体の第二位」であると言う絶好の箇所だったでしょう。しかし,ヨハネはその結論に達しましたか。ヨハネは読者にそのような結論を持たせようと思いましたか。ヨハネが私たちに持たせようと思った結論の言葉に耳を傾けて不さい。
55,56 (イ)イエス・キリストについて私たちに何を信じさせるために,ヨハネは彼の記録の中に種々の事柄を書きましたか。(ロ)それで,いままでのところ私たちは,ヨハネに従ってどんな結論に達しますか。
55 「イエスは彼に言われた,『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は,さいわいである』。イエスは,この書に書かれていないしるしを,ほかにも多く,弟子たちの前で行われた。しかし,これらのことを書いたのは」,何を信じるためですか。「あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり,また,そう信じて,イエスの名によって命を得るためである」。―ヨハネ 20:29-31,新口。
56 ヨハネはイエスについての伝記の中で,私たちに「イエスは神の子キリストである」ことを信じさせるためにいろいろのことを書きました。イエスが神であるとか,キリストが神であるとか,あるいはイエスが「御子なる神」であることを信じさせるためではありません。三位一体論者は,「御子なる神」と言って事態をことさらに歪曲します。しかし,私たちはヨハネの言葉通り,「神の子キリスト」というヨハネの説明を受入れます。私たちはヨハネの達した結論と同じ結論に達します。すなわちイエスがヨハネ伝の同じ20章の中で「私の父」および「私の神」と呼んでいる御方の子であるという結論です。したがって,トマスは「父なる神」と「子なる神」の両方を「三位一体の神」の平等者として同時に崇拝していたのではありません。
57 (イ)イエスに向かって言った「わが神」という言葉によってトマスは,イエスのみ父に関し何を認めていましたか。(ロ)黙示録 4章と5章は,ヨハネ伝 14章28節の意味をどのように説明しますか。
57 トマスは,イエス・キリストの崇拝した同じ神,すなわち父なるエホバ神を崇拝しました。それで,トマスがイエスを「私の神」と呼びかけたなら,彼はイエスの父を神の神として認めることが必要でした。すなわち,イエス・キリストよりも高い神,イエス自身も崇拝した神として認めるべきでした。黙示録 4章1-11節は,この神,天の御座にすわって,永遠に生きられる「全能の主なる神」を象徴的に描写しています。しかし,次の章である黙示録 5章1-8節は,イエス・キリストを,全能の主なる神の御座に来て,神の御手から巻物を受け取る神の小羊と述べています。これは,トマスと他の使徒たちに語ったイエスの言葉の意味を説明します,「わたしが父のもとに行く……父がわたしより大きいかたである」。(ヨハネ 14:28,新口)それで,イエスは彼の父を全能の主なる神,子よりも偉大で,匹敵者のいない御方と認めました。
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ヨハネ 1:1,2にもどるものみの塔 1962 | 11月1日
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その5
ヨハネ 1:1,2にもどる
58 クリスチャンたちにあてた最初の手紙の終りの方で,ヨハネは,イエス・キリストを私たちにどのように理解させてくれますか。
使徒ヨハネは,クリスチャンたちにあてて書いた最初の手紙の結びの部分でも,同じ理解をいだいています。すなわちイエス・キリストは神の子であり,神によって産み出された人間はイエスと共に神の子であるということです。聖書のアメリカ訳は,ヨハネの手紙の結論を次のように訳しています,「神の子が罪を犯さないことを,私たちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので,悪い者が彼に触れることはできない。また,私たちは神の子であり,全世界は悪い者の勢力下にあることを知っている。さらに,神の子が来て,真実なるかたを知る力を私たちに与えて下さったことも知っている。私たちは真実なかたと一致している」。どのように? 「御子イエス・キリストによる。彼は真の神であり,永遠の生命である。愛する子たちよ。偶像を避けなさい」。―ヨハネ第一 5:18-21,新口。
59 多くの翻訳で,ヨハネ伝 1章1節はどうなっていますか。しかしいま私たちは何を決定できる立場にいますか。
59 イエス・キリストを子とする御方は「真の神,永遠の生命」であり,イエス・キリストは「神から生れたかた」で,神の他の子たちを守る方であるゆえ,私たちはいろいろの翻訳の存在するヨハネ伝 1章1,2節をどのように理解すべきですか。たくさんの訳は次のようです,「そして言葉は神と共にあった。言葉は神であった」。他の訳によると,「そして,言葉(ロゴス)は神性を持つものであった」。別の訳,「そして言葉は神であった」。他の訳,「言葉はひとりの神であった」。私たちは肉体になられた言葉なるイエスについて,ヨハネの書いたものをくわしくしらべました。それで,今ではそれらの翻訳の中どれが正確であるかを決めることができます。それは私たちの救いを意味します。
60 普通の翻訳に従い,レオ・トルストイ伯爵は,ヨハネ伝 1章1節についてどんな注解をしていますか。
60 最初,欽定訳あるいはドウェー訳による次の通俗的な訳を考えてみましょう,「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。そして言葉は神であった。同じものは,はじめ神ととも
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奉仕に忍耐を示す事は報われるものみの塔 1962 | 11月1日
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奉仕に忍耐を示す事は報われる
フランスのA町は非常に宗教的な町ですが,そこに働くあるエホバの全時間奉仕者は,留守がちの家をそれぞれちがった日に5回も訪問して,ついにその家の人に会いました。ところがその人はエホバとその御国についての真理に非常に強い関心を示し,2ヵ月後にはその人自身も真理を宣べ伝えるようになりました。
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