ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 千年間仕える審判者たちに期待できる事がら
    神の千年王国は近づいた
    • にしたがいてこれに仕え これにひざまずきておのれの行為をやめず その頑固なる路を離れざりき』。

      天の不滅の審判者たち

      20 (イ)人類は一千年の期間中,かつてのイスラエルの士師の時代のように,再三取り残されることはありません。なぜですか。(ロ)患難を生き残る「大群衆」でさえ,さらに救い出される必要があるのはなぜですか。

      20 しかし,その同じエホバ神が審判者として起こしたイエス・キリストとその14万4,000人の仲間の司法官は,たとえ悪魔サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられて地の近辺から除かれても,次々に死んで地上の住民だけを残すということはありません。「滅びることのない命の力」を持っているので,彼らはすべて,司法官としての千年の任期いっぱい続けて奉仕します。彼らは単に王座に座して判決や裁定を下すだけでなく,昔エホバの是認を得た忠実な士師が行なったのと同様,救出者として行動します。神の保護を受けて「大患難」を生き残り,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられた後も生き続ける「生きている者」たちでさえ,さらに救い出されることをなお必要としているのです。それらの人びとは神のみ前における義の立場ゆえに,地上で守られて一千年の裁きの日に生きて入りますが,彼らの場合,自分たちが救い出される必要のある事がらがほかにもまだあります。それは何ですか。それはこの事物の体制が滅ぼされ,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に投げ込まれるさい,彼らがずっと守られながら,同時に,携えてきた罪深い状態,不完全さ,弱さ,また死に赴く状態などです。

      21,22 (イ)死んだ人間は復活させられるとき,さらに救い出される必要があります。なぜですか。(ロ)ヨブやダビデのように,ある人びとは復活させられるとき,どんな理由で「義」とみなされますか。

      21 同様に,記念の墓から生き返らされる必要のある「死んだ者」の場合も,死の眠りから覚めるとき,「義」あるいは「不義」の者とみなされるかどうかにはかかわりなく,彼らはすべて,罪深い状態,欠点,欠陥のある状態,人間的弱さ,死に向かう傾向などから解放されねばなりません。だれかが「義」とみなされるからといって,人間的また倫理的見地から見て当人が完全な肉身の人間だという意味ではありません。とはいえ,神の目に義とされるということは,そのような人はウヅの地の辛抱強いヨブがそうであったように,神に対して忠誠を保つ男女であるという意味です。(ヨブ 2:3,9; 27:5。ヤコブ 5:11。エゼキエル 14:14,20)または,神によって裁かれることを恐れなかったエルサレムのダビデ王にも似ています。詩篇 26篇1-3,11節(新)でダビデはこう述べているからです。

      22 「エホバよ,わたしを裁いてください。わたしは自分の忠誠のうちに歩み,またわたしはよろめかないように,エホバに信頼してきたからです。エホバよ,わたしを調べ,わたしを試してください。わたしの腎とわたしの心を精練してください。あなたの愛ある親切はわたしの目の前にあり,わたしはあなたの真理のうちを歩んできたからです。しかし,わたしは,忠誠のうちに歩みます。どうかわたしを買い戻し,わたしに恵みを示してください」。

      23,24 (イ)キリスト教時代以前に忠誠を保ったそれらの人びとはどんな復活のために,不敬虔な者たちとの取引きを拒みましたか。(ロ)それらの人たちについてヘブライ 11章35-40節は何と述べていますか。

      23 不敬虔な者たちとの何らかの取引き,もしくは妥協によってエホバ神に不忠節になることを拒み,忠誠をつくして死んだキリスト教時代以前の他の人びとは,キリスト教に帰依したヘブライ人に書き送られた書の11章にその名を挙げられたり,言及されたりしている男女です。彼らはより良い地上の状態のもとで,つまりより良い政府のもとで命に復活させられることを待ち望みました。その政府のもとで,彼らは完全な平和と幸福と,生ける神への忠誠のうちに永遠に生きられるのです。ヘブライ 11章35-40節にはそのことがこう述べられています。

      24 「女たちはその死者を復活によって再び受けました。またほかの人びとは,何かの贖いによる釈放を受け入れようとはしなかったので拷問にかけられました。彼らはさらに勝った復活を得ようとしたのです。そうです,ほかの人びとはあざけりやむち打ち,いえ,それだけでなく,なわめや獄によっても試練を受けました。彼らは石打ちにされ,試練に遭わされ,のこぎりで切り裂かれ,剣による殺りくに遭って死に,羊の皮ややぎの皮をまとって行きめぐり,また窮乏にあり,患難に遭い,虐待のもとにありました。世は彼らに値しなかったのです。彼らは砂ばくや山々,またほら穴や地のどうくつをさまよいました。しかしなお,これらの人びとはみな,その信仰によって証しされながらも,約束の成就にあずかりませんでした。神はわたしたちのためにさらに勝ったものを予見し,わたしたちを別にして彼らが完全にされることのないようにされたからです」。

      25,26 (イ)それらの「義者」は復活させられるとき,なぜ裁きの日を恐れませんか。(ロ)それらの「不義者」は復活させられるとき,「義者」と比べて,どうして不利な条件のもとにありますか。

      25 それらの「義者」は人間として完全で,行ないの点で欠点のない者としてよみがえらされはしないにしても,神への忠誠のうちに死んだので,神に忠誠な者としてよみがえらされるでしょう。彼らは復活によって招じ入れられた千年間の偉大な裁きの日を恐れはしません。彼らは死ぬ以前に忠誠を培い,またそれを備えてよみがえらされるのですから,罪深い状態から完全に解放されて人間としての現実の完全な状態に向かって進歩する点では「不義者」よりも有利な立場にあります。いわば,その方向では「不義者」を少し引き離していることになります。

      26 そういう趣旨のことがこう記されています。「資力に乏しくても,忠誠のうちに歩んでいる者は,くちびるのひねくれた者,また愚かな者よりも勝っている」。また,「義人は忠誠のうちに歩んでいる。彼ののちの子たちは幸いである」。(箴言 19:1; 20:7,新)一方,死に至るまで罪深い性向や悪い習慣また悪い欲望を培った「不義者」にとって事態はもっと難しいものとなります。そうした事がらは,楽園のような地上で罪のない人間としての完全性を備えた永遠の命を獲得する競走において,彼らの歩みを妨げる障害,不利な条件,煩わしいものとなります。また,それら「不義者」の多くはこの世で,手近にあった霊的な機会や備えを利用するどころか,それを無視し,蔑視し,軽べつし,あるいはそれに反対しました。そのようなわけで,彼らは主人に対して感謝の念に欠けた,がん固な性向をいだいています。したがって,それは彼らにとっては災いとなります。イエス・キリストは悔い改めようとしなかったコラジンやベツサイダまたカペルナウムなどの都市に向かって次のように告げて,その種の事例を挙げました。

      27 イエスはコラジンやベツサイダまたカペルナウムなどを引合いに出して,前述のことをどのように例証しましたか。

      27 「コラジンよ,あなたには災いが来ます! ベツサイダよ,あなたには災いが来ます! あなたがたの中でなされた強力な業がティルスやシドンでなされていたなら,彼らは粗布と灰の中でずっと以前に悔い改めていたからです。したがって,あなたがたに言いますが,裁きの日には,あなたがたよりティルスやシドンのほうが耐えやすいでしょう。そしてカペルナウムよ,あなたが天に高められるようなことがあるでしょうか。下ってハデスに至るのです。あなたの中でなされた強力な業がソドムでなされていたなら,ソドムはきょうこの日に至るまで残っていたからです。それであなたがたに言いますが,裁きの日には,あなたよりソドムの地のほうが耐えやすいでしょう」― マタイ 11:20-24。

      28,29 (イ)古代のニネベの人びとや南の女王はなぜイエスの当時のユダヤ人の世代を罪に定めるのでしょうか。(ロ)裁きの日には,いま有利な立場にある人びとと宗教的に不利な立場にある人びととの場合のように,物事はどのように釣合いが取られることになりますか。

      28 俗事にかかわり,目に見えるしるしを自分たちの信仰の基礎にしようとして神との関係を不純なものにしていたユダヤ人の世代に対して,イエスはこう言いました。「ニネベの人びとは裁きのさいにこの世代とともに立ち上がり,この世代を罪に定めるでしょう。彼らはヨナの宣べ伝えることを聞いて悔い改めたからですが,見よ,ヨナ以上のものがここにいるのです。南の女王は裁きのさいにこの世代とともによみがえらされ,この世代を罪に定めるでしょう。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからですが,見よ,ソロモン以上のものがここにいるのです」― マタイ 12:38-42。

      29 大勢の独善的宗教家,つまり自分たちは自らが異教徒と呼んだ者たちよりももっと義にかなっていると自負した,自己満足,自己陶酔に陥った因襲的な宗教家は,その時どんなにか驚かされるでしょう。彼らは自分たちこそ宗教的偽善者であって,自分たちの見下げていた異教徒のほうがより誠実で,もっとよく教えを聞き入れ,感謝の念がもっと厚く,無知ゆえに非難される所がもっと少ないことに気づくでしょう。宗教的にあまり恵まれていなかった人びとの誠実さや態度はその時,自分たちの機会を無関心な態度で,あるいは故意になおざりにした,特権に恵まれた人たちを罪に定めるものとなります。それで,現代の有利な立場にある人びとと不利な立場にある人との場合のように,物事は正しく釣合いを取ることになります。

      裁きの日の利点

      30,31 (イ)裁きの日には,すべての人の前に彼らの以前の状態を列挙して,彼らが有罪か,無罪かを確かめる必要がありますか。(ロ)律法下のユダヤ人を引合いに出すことによって,全人類に関して何が証明されましたか。

      30 「差別はない(の)です。というのは,すべての者は罪を犯しているので神の栄光に達しないからで(す)」と述べたローマ 3章22,23節のことばの真実性は,否定できるものではありません。したがって,裁きの日にはすべての人,つまり「生きている者と死んだ者」はみな,エホバ神が起こされる天の審判者たちの助けによって,裁きの日に招じ入れられるさいに身にまとっている罪や,道徳面の弱さ,また身体的不完全さなどの痕跡すべてから救い出されることを緊急に必要としています。ローマ 3章23節その他の聖句の中で包括的に述べられているとおり,証拠および証言はすべて人類にとって不利なものですから,裁きを受ける人類の前にそれを列挙して,彼らが有罪か,無罪かを確かめる必要はありません。神がモーセを通して与えた律法を生来のユダヤ人が守れなかったことによって,人類はだれも,恵みを受けたユダヤ人でさえも神の律法を完全に守れるものではないことが証明されました。こうして,律法のもとにあったユダヤ人のこの現実的実例により,自己弁護をする人の口はことごとく閉ざされ,人類の世は神の前にすべてが有罪とされました。それは使徒パウロが昔次のように記したとおりです。

      31 「さて,わたしたちは,律法の述べる事がらはみな,律法のもとにある者たちに対して語られていることを知っています。それは,すべての口がふさがれて,全世界が神の処罰に服するためです」― ローマ 3:19。

      32 (イ)人類は裁きの日に「二度目のチャンス」を持つかどうかについては,何というべきですか。(ロ)では,彼らが楽園の地で生き続けられるかどうかは,だれに依存していますか。なぜですか。

      32 人類は罪深いものとして生まれ,死に定められたので,一度も「チャンス」に恵まれませんでした。完全な義のわざを行ない,罪深い状態を自力で除き去って,絶対的完全の神の前で身のあかしを立てることは決してできませんでした。それで,裁きの日は,いわゆる「二度目のチャンス」を与えるものではありません。むしろ,それは,地上の楽園で人間的完全さと絶対的潔白さを伴う永遠の命を得る最初の現実の機会を人類に与えるものとなります。キリストの完全な人間の犠牲は,人類が罪から清められ,今はまだ受けられない神の全き「栄光」にまで高められる機会を備えるものですが,裁きの日はそのような機会を人類に供するものです。このことからすれば,楽園の地を永久に所有するかどうかは,裁きの日に「生きている者と死んだ者」とが何を行なうかにかかっていることがわかります。彼らの過去の記録はすでに作られたものなので,彼ら自身に善し悪しいずれの影響を及ぼすにせよ,取り消せるものではありません。裁きの日は,人類が罪との関係を今後永久に断ち,自分たちの誠実な心の願うところを行ない,成し遂げる者であることを人類に実証させる時となります。天の審判者たちはその職務につき,教えや指導を与えて彼らを助けます。

      33 裁きの日のそのような機会は,啓示 20章11-15節に象徴的なことばでどのように描写されていますか。

      33 裁きの日のそうした機会は,啓示 20章11-15節に次のような象徴的な言葉でわたしたちのために描写されています。「またわたしは,大きな白い座とそれに座しておられるかたとを見た。そのかたの前から地と天が逃げ去り,それらのための場所は見いだされなかった。そしてわたしは,死んだ者たちが,大いなる者も小なる者も,その座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事がらにより,その行ないにしたがって裁かれた。そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた。そして,死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」。

      34 (イ)その箇所で描かれている復活には,「第一の復活」にあずかる人たちが含まれていますか。(ロ)その時に開かれる「数々の巻き物」には,何に関する記録は収められてはいませんか。なぜですか。

      34 この象徴的な光景は,「第一の復活」にあずかる者たち,また啓示 20章4-6節で「第二の死」に陥る恐れのない者として既に言及されている者たちとは無関係です。この光景は,復活にあずかって地上で生存する人たち,また千年の終わりになって初めて永遠の命に値する者と判定される人たちのことを示しています。その時,彼らは人間としての完全さのうちに,十分に身につけた義を示すことができるでしょう。巻き物が開かれ,その中に記された事がらに従って彼らは有利な,あるいは不利な裁きのいずれかを受けますが,その巻き物には,この事物の体制下の現在のこの世における彼らの過去の不完全で,罪深い行為すべての記録が収められているのではありません。天の審判者たちは,復活させられる個々の人びとが有罪か,あるいは無罪かを決定するために千年間を費やして,過去の人間の生活の記録をつぶさに調べる必要はありません。彼らは人類の過去についてそれほど無知,あるいは疎くはありません。それら審判者たちが特に留意するのは,人類の過去ではなくて人類の将来のことです。人類は将来のための指導を必要としているのです!

      35,36 (イ)では,それら「数々の巻き物」は何を表わしていますか。だれがその内容を知りますか。(ロ)知らなかったとして言いわけできる人は地上にはなぜ一人もいなくなりますか。

      35 ですから,それら開かれる「数々の巻き物」とは,神の代理を勤める審判者たちによって人類に与えられる新しい一連の教示や指示また命令です。こうして,それら開かれた「数々の巻き物」の内容は全人類に知らされます。それは彼らが自分たちの裁かれる規準や,自分たちの将来の行動やわざに関して何が期待されているかを知るためです。人類は無知のままに放置されることはありません。人はみな,裁きの巻き物にしたがって律法の意味するところを知らざるを得なくなります。人びとを惑わしたり,発表された律法や教示を曲げたりする悪魔サタンやその悪霊たちは,地球の近辺の見えない領域のどこにも存在しなくなります。確かに存在しなくなります。というのは,それら古い「天」はこの裁きの日のための時を定めた神の面前から逃げ去ってしまっているからです。したがって,祈祷師,霊媒あるいは透視者,天宮図を携えた占星術者はどこにもいませんし,霊応盤その他同類の悪霊崇拝と関係のある用具の売買も行なわれることはありません。新しい天のみが存在し,義を滴らすでしょう。こう記されています。

      36 『天よ うえより滴らすべし 雲よ 義をふらすべし 地はひらけて救いを生じ 義をもともに萌えいだすべし われエホバこれを創造せり』― イザヤ 45:8。

      地上の「君」たち

      37 (イ)天の審判者たちは,それら「数々の巻き物」の内容をどのようにして人類に伝えますか。(ロ)神の律法や裁定が施行されているとき,人類はどのようにしてそのことを知りますか。

      37 目に見えない天的な審判者たちが,開かれる「数々の巻き物」の内容をどのようにして地上の住民に伝えるかは,聖書には明確に述べられてはいません。しかし,地上には神の天の王国を直接代表する人たちがいます。そのような人びとが人類の中にいることは,「新しい地」がその新しい人類社会を伴って存在していることの公式な証拠となります。悪魔サタンにより見えない仕方で支配されていた古い「地」は,神の面前から逃げ去って,滅亡以外にその占めるべき所は見いだされなくなります。法廷や弁護士や代理人そして司法制度は過去のものとなり,神の律法こそ,いまや人がそれに精通し,それによって裁かれ,また人が適用すべきものとなります。王国の地上の代表者たちが行動するとき,施行されているのは神の律法また裁定であることを人びとは知り,はっきりと理解します。

      38 天の王イエス・キリストは顕著さの点で,ご自分の地的な先祖を当てにする必要がありますか。それとも,独自の顕著さを有することになりますか。

      38 千年間の裁きの日のためのこの取決めに関する指示は,聖書の預言的な句の中に述べられています。たとえは,神の油そそがれた王,イエス・メシアまたはキリストに関する叙情詩である詩篇 45篇を取り上げてみましょう。イエス・キリストとその花嫁である会衆との天的な結婚と,その花嫁級に仕える人たちに関して預言的なことばを述べた後,その詩篇はこう語ります。「彼らは王の宮殿に入って行く。あなたの父祖たちに代わってあなたの子たちとなり,あなたは彼らを君として全地に任命するであろう」。(詩篇 45:15,16,新)もちろん,天の王イエス・キリストには顕著な先祖がいました。それらの人びとがエルサレムのダビデ王の王座に着いて仕えたかどうかは別として,聖書の記録の中にその名が列挙されています。しかし,その天の王は顕著さの点で先祖を当てにする必要はありません。完全な人間として地上におられたとき,エルサレムその他どこであれ,有形の王座に着くことを拒んだとはいえ,イエス・キリストは独自の顕著さを有することになります。

      39 領土に関して王イエス・キリストはダビデ王をさえ,顕著さの点でどのようにしのぎますか。

      39 天の王イエス・キリストは名声や誉れ,そして顕著さの点でダビデをさえ凌ぐことになります。イエスは,ダビデ王がアブラハムに対する神の約束にしたがって当時征服した領土全域の境界線のはるかかなたにまでご自分の王国を広げて行きます。(創世 15:17-21)そうです,東西,南北がそれぞれ相会する所まで,まさにこの惑星上の至る所に,つまり「全地」に広げるのです。それは,王イエス・キリストの預言的な型としての「ソロモン」に関して記されているとおりです。『神よねがわくは汝のもろもろの審判を王にあたえ なんじの義を王の子にあたえたまえ かれは義をもてなんじの民をさばき 公平をもて苦しむものをさばかん またその政治は海より海にいたり河より地のはてにおよぶべし』― 詩篇 72:表題,1,2,8。

      40 イエスは地上で子供を設けませんでしたし,彼はまた,ダビデ王の永久相続者であるため,君となる子たちに関して,ここでどんな問題が生ずるように思えますか。

      40 しかし,ここで問題が生ずるように思えるのではありませんか。ダビデ王の子ソロモンよりもいっそう偉大で,いっそう賢明なこの王は,完全な人類家族を生み出す生殖力をその腰に有する完全な人間としてこの地上におられましたが,結婚しませんでした。では,「あなたの父祖たちに代わって」,次の点に注目してください,「あなたの子たちとなり,あなたは彼らを全地に君として任命するであろう」という預言はどのようにして成就されるのでしょうか。そのうえ,天のイエス・キリストはダビデ王の永久相続者であって,「滅びることのない命の力」を持つゆえに後継者なしに,つまりあとを継ぐ子を必要とすることもなく統治してゆくのです。み使いガブリエルがマリアに向かって,その息子となるべきイエスに関して次のように語ったとおりです。「エホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」― ルカ 1:32,33。

      41,42 (イ)14万4,000人の共同相続者は,地上で任命されるべき「子たち」ではありません。なぜですか。(ロ)天のイエス・キリストはどのようにして,またどんな預言的称号を成就するものとして地的な「子たち」を持ちますか。

      41 イエス・キリストの14万4,000人の共同相続者はイエスの霊的な子たちではなくて,神の子たち,つまり「実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人で」あることを,わたしたちは知っています。(ローマ 8:17)では,「あなたの子たち……あなたは彼らを全地に君として任命するであろう」といわれている子たちとは,だれのことですか。王イエス・キリストの天的な子たちでないことは明らかです。地上にいるゆえに「全地に」君として任命され得る地的な子たちであるに違いありません。死んだ人びと,それも特に死んだ「義者」が復活させられて彼の子たちとなるのです。イザヤ書 9章6,7節の預言に基づく彼の約束の称号,すなわち,とこしえの父という称号は単なる空しい名誉称号となるのではありません。イエスは実際に,復活させられる人類家族の父となります。彼は,「命を与える霊」となった「最後のアダム」なのです。(コリント第一 15:45,47)最初の人,アダムはその子孫すべてを罪と死に売り渡しましたが,「天から出」た「第二の人」は,アダムから受け継いだそうしたものから,その子孫を買い戻すために,ご自分の完全な人間としての命を捨てました。それで,こう記されています。

      42 「神はただひとりであり,また神と人間との間の仲介者もただひとり,人間キリスト・イエスであり,このかたは,すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与えてくださったのです」。(テモテ第一 2:5,6)「わたしたちは,み使いたちより少し低くされたイエスが,死の苦しみを忍んだゆえに栄光と誉れの冠を与えられたのを見ています。これは,神の過分のご親切のもとに,彼がすべての人のために死を味わうためでした」― ヘブライ 2:9。

      43 (イ)その王はどのようにして,患難を生き残る,復活を必要としない「大群衆」の父になりますか。(ロ)また,どのようにして人類のとこしえの父になりますか。

      43 神の意志にしたがってご自身を犠牲にすることによってイエス・キリストは,死んでゆく人類に命を与える権利を得,そのようにして彼らの父となります。そして,「死んだ」人たち,つまり「義者」と「不義者」双方を記念の墓や水中の墓場から呼び出し,次いで喜んで応ずる人たちすべてを完全な人間にまで引き上げることによって,彼らに命を移します。「大患難」を生き残ってキリストの千年統治の時代に入る「生きている」人たちについては,イエスは同様に,それら生き残った「義者」を,「満ちあふれるほど豊かに」命を享受する,つまり輝かしい完全な人間としての命を享受するレベルにまで引き上げます。(ヨハネ 10:10。テモテ第二 4:1。使徒 24:15)そして,このすべてを千年の終わりまでに成し遂げさせます。しかし,イエスの地的子供たちの享受するその豊かな命は永久に存続できるものであって,完全な人間として誠実さを保つ人たちは,とこしえの命を受けるにふさわしい者であることを実証します。それらの人びとはイエスの永遠の子供たちとなり,イエスは文字どおり彼らのとこしえの父となります。

      44,45 (イ)王はどのようにして十分の数の君たちを地上に立てて,その統治を開始しますか。任命される人たちはすべて「君」としての地位を占めます。なぜですか。(ロ)しかし,他の人びとの長となる者が君(サー)と呼ばれるには,王の家系の人でなければなりませんか。

      44 千年統治の初めに,傑出した王イエス・キリストはご自分の地的な子供たちの中から相応しい人たちを選んで,「全地に君」として立て始めます。「大患難」や,悪魔サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられる際に生き残った「生きている」人たちは,多数のそうした「君」たちを供するでしょう。死の眠りから復活させられる「死んだ」人びとの中の「義」人たちは,任命された君たちが「全地に」立てられるようにするため,十分の数の他の君たちを供することでしょう。詩篇 45篇16節は,それらの「君」たちの中にはイエスの復活させられた「父祖たち」の中の「義」人が含まれていることを示しているようです。そうした人たちはかつてイエスの先祖でしたが,いまや復活によって彼の「子たち」となるのです。それら任命された人たちは天の王の子たちなので,「君」としての地位を占めます。

      45 しかし,詩篇 45篇16節で「君」と訳されているヘブライ語がサリム<sarim>であることは注目に値します。古代イスラエル民族の間では,「サー<sar>」と呼ばれた人がすべて王室とつながりを持っていたわけではありません。そうした人びとに含まれる者として,千人の司,百人の司,五十人の司そして十人の司さえ,「サー」と呼ばれました。王室の召使い頭の長,あるいは王室のパン焼き職人の長さえ,「サー」と呼ぶことができました。―出エジプト 18:21,25。申命 1:15; 20:9。サムエル前 8:12。創世 40:2。創世記 23章5,6節と比べてください。

      46,47 (イ)任命されるそれらの人びとはすべて,その王の先祖の王統もしくは族長の家系の者でなければなりませんか。彼らはどんな人であるべきですか。(ロ)イザヤ書 32章1,2節に述べられているように,彼らはだれの関心事に対して真の関心をいだかねばなりませんか。

      46 「全地に君」として任命されるそうした人たちはすべて,人間としてのイエス・キリストの先祖で,その王統もしくは族長の家系の者でなければならないというわけではありません。基本的に言って,彼らは忠誠の人,つまり預言者モーセによって裁き人として任命されたような「有能な人びと」「賢くて,経験のある人びと」でなければなりません。それらの裁き人についてはこう記されています。「モーセはイスラエル全体の中から有能な人びとを選び,千人の長[サリム],百人の長[サリム],五十人の長[サリム],十人の長[サリム]として,民の頭としての地位を彼らに与えた。そして,適当な場合,いつもは彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのところに持って来たが,小さい事件はみな,彼ら自身が裁き人として取り扱った」。(出エジプト 18:25,26; 申命 1:15,新)王イエス・キリストによって任命される地上の君たちは,人びとの福祉を図ることや争いを平和裏に,また穏やかに解決することに真の関心を抱きます。そして,イザヤ書 32章1,2節(口語)で次のように描写されている君たちのように,正しい事を勇敢に擁護します。

      47 「見よ,ひとりの王が正義をもって統べ治め,君たち[サリム]は公平をもってつかさどり,おのおの風をさける所,暴風雨をのがれる所のようになり,かわいた所にある水の流れのように,疲れた地にある大きな岩の陰のようになる」。

      48,49 (イ)現在の訴訟手続きのゆえに助長された,犯罪者の抱くどんな考え方のために,犯罪が増大しましたか。(ロ)伝道之書 8章11-13節によれば,悪事を繰り返す犯罪者にとって,あるいはだれにとって,物事はうまくゆきますか。

      48 天の平和の君[サー]の治める時代には,法を公正に適用して違反者の責任を問う訴訟手続きは,すべての違反者の審理を迅速に行なうに足る十分の数の審判者や役員がいないために手間どって,だらだらと長引くことはありません。これまで,悪行者を審理し,不正行為を正し,法に照らして処断するのに長い時間がかかり,多くの事件の場合,何年もの時間がかかるため,結局は処罰されずにすむかもしれないと考える悪行者たちの犯罪が助長されてきました。今世紀の後半に犯罪はすさまじい勢いで増大してきましたが,すでに西暦前11世紀の昔,鋭い観察力を持つ,霊感を受けた賢い一筆者は次のように書きました。

      49 「悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために,人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。罪びとで百度悪をなして」― 考えてもみてください! しかし,霊感を受けた筆者はさらにこう続けます。「なお長生きするものがあるけれども,神をかしこみ,み前に恐れをいだく者には幸福があることを,わたしは知っている。しかし悪人には幸福がない。またその命は影のようであって長くは続かない。彼は神の前に恐れをいだかないからである」― 伝道 8:11-13,口語。

      50 (イ)現在,法の施行が手間どるのは,人類の上にあるどんなもののためですか。(ロ)義に関して,「新しい地」は「新しい天」にどのように答え応じますか。

      50 悪行者を裁いて処罰する現在の訴訟手続が手間どったり,あるいは悪行者の責任を問うことが決してなされない場合があったりするのは,『古い天』のもとにある『古い地』でわたしたちが生活しており,悪魔サタンとその配下の「天の場所にある邪悪な霊の勢力」が人類社会を支配しているからです。腐敗した古い人類社会が滅ぼされ,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられると,平和の君[サー]とその仲間の14万4,000人の審判者たちが審判者の職につく一千年の期間中,法の施行を妨げるものはすべて除去されることになります。「新しい天」から義が滴り落ちる結果,「新しい地」の人間社会という土壌はそれに答え応じて実を結ぶようになります。エホバはそのことをこう予告されました。『地はひらけて救いを生じ義をもともに萌えいだすべし われエホバこれを創造せり』― イザヤ 45:8。

      51 それでわたしたちは,イザヤとともに,どんな新時代を魂をこめて待ち望みますか。

      51 わたしたちは義と公正の行なわれるそうした時代を切望しているのではありませんか。その時代には,義人の道は今日のように苦しいものではなく,平坦なものとなります。地的復活を待ち望んだ預言者イザヤは,その願わしい新時代を期待して,霊感のもとにこう書き記しました。『義きものの道は直からざるなし なんじ義きものの道を直く平らかにし給う エホバよ審判をおこないたもう道にてわれら汝をまちのぞめり われらの〔魂〕はなんじの名となんじの記念の名とをしたうなり わが〔魂〕夜なんじを慕いたり わがうちなる霊あしたに汝をもとめん そは汝のさばき地におこなわるるとき世にすめるもの正義をまなぶべし 悪しき者はめぐまるれども公義をまなばず 直き地にありてなお不義をおこないエホバの稜威を見ることをこのまず』― イザヤ 26:7-10〔新〕。

      52,53 (イ)神のめぐみのもとで,直き地に住んでいてさえ,義を学ぶのはだれにとって難しいことですか。(ロ)彼らの場合,使徒ペテロの述べたどんな原則が当てはまるように思えますか。

      52 一千年の期間にわたる「直き地」,つまり人びとを正直に扱い,また人びとの間で物事が正直に扱われる地は,生来人間としての不完全性を持つ全人類に大いなる恵みが示される所となります。人類家族の成員の中には,他の人びと以上に深く罪深い堕落のふちに沈んだ人もいれば,長い間責任を問われなかったために,不誠実な性格をいっそう硬化させた人もいます。そのような人びとには不正をする性癖があります。その種の邪悪な人びとは,たとえ彼らの周囲ですべて物事が正直に行なわれ,また王イエス・キリストを通して彼らに神からの恵みが示されていてさえ,義と廉潔さを学ぶのに困難を感ずるであろうことは容易にわかります。あらゆる援助を差し伸べられるにもかかわらず,彼らはともすれば不正を行なおうとします。正当な立法者としてのエホバも,エホバの定められた生活上の規準の正当さをも認めようとはしません。そのような人びとに関しては,使徒ペテロが次のように述べた原則が当てはまるように思えます。

      53 「今は,裁きが神の家から始まる定めの時だからです。さて,それがまずわたしたちから始まるのであれば,神の良いたよりに従順でない者たちの終わりはどうなるでしょうか。『そして義人がかろうじて救われていくのであれば,不敬虔な者や罪人はどこに出てくるだろうか』」― ペテロ第一 4:17,18。

      54 神のめぐみをいたずらに受け,その目的を逸する人たちは,裁きの日の終わりまで生き長らえさせる必要がありますか。何がその理由となりますか。

      54 「直き地」に住みながら,神の『めぐみ』をいたずらに受け,その愛ある目的を逸し,また矯正不能であることを示す人たちは,必ずしも千年の終わりまで生き長らえさせられて,地に回復される楽園でとこしえの命を受けるにはふさわしくない者として処刑されねばならないというわけではありません。矯正不能な者であることを示すそうした人びとは,人の住む地を義をもって裁くよう神の任命された者により,何ら不正がなされることなく処刑されるでしょう。それらの人びとの名は命の書には書き記されません。したがって,彼らにとってふさわしいのは,完全な滅びをもたらす「火の湖」で象徴される,ほかならぬ「第二の死」だけです。(啓示 20:14,15)では,「神の良いたより」にいま従順な態度を示し,きたるべき裁きの日のことを考えて,義を愛する態度を培うのは何と賢明で,何と分別のあることなのでしょう。

  • 一千年にわたる裁きの日の終わりに期待すべき事がら
    神の千年王国は近づいた
    • 8章

      一千年にわたる裁きの日の終わりに期待すべき事がら

      1 サタンが底知れぬ所に入れられる千年の間,地上の住民が義を学ぶといっても,決して途方もないことを期待しているわけではありません。なぜですか。

      悪魔サタンが底知れぬ所に閉じ込められる千年の間,地とその住民に対する神からの裁きが世界的に行なわれるでしょう。天の審判者たちは審判を下し,エホバ神の代理を勤めます。地上にいる君としての代表者たちも同様に行ないます。彼らは,エルサレムのヨシャパテ王が民を神に導き返すため国内の至る所に配属させた裁き人のように振る舞います。ヨシャパテはそれら裁き人にこう言いました。『汝らそのなすところを慎め 汝らは人のために裁判するにあらず エホバのために裁判するなり 裁判する時にはエホバ汝らとともにいます 然ば汝らエホバを畏れ 慎みてわざをなせ 我らの神エホバは悪しき事なく人をかたよりみることなく賄賂を取ることなければなり』。(歴代下 19:4-7)そのような天の審判者たちや,そのもとで地上で司法官として仕える君たちがいるのですから,豊かに産物を出す楽園の地の住民がいっしょに千年のあいだ義を学ぶといっても,決して途方もないことを期待しているわけではありません。―イザヤ 26:9。

      2,3 (イ)イエスはダビデを通して,どんなベツレヘム人の子孫となりましたか。それで,イザヤは,地上での活動の開始時のイエスをそのベツレヘム人の何になぞらえていますか。(ロ)霊はどんな特質とともに彼の上に留まりますか。彼はどのようにして裁きますか。

      2 十世紀にわたるその裁きの日の全期間中,全人類を治める「新しい天」の主要な審判者は,何という資格のある,信頼できる審判者なのでしょう。西暦前8世紀にイザヤが記した,その審判者に関する預言的描写は,暖かさのこもった生き生きとしたものです。その予告された審判者とは,ベツレヘムのエッサイの子であるダビデ王の子孫で,メシアとなった主イエス・キリストです。エホバ神は人間の諸問題を解決させ,また人びとが公正に取り扱われ,地上に義が永遠に確立されるよう取り計らわせるために,それ以上に優れた審判者を供し,任命することができたでしょうか。では,ダビデ王を通してベツレヘム人エッサイの子孫となる,その後代の審判者の特質について,預言者が霊感のもとに述べたことばに十分の注意を払ってください。地上での活動の開始時におけるその子孫のことを,切り倒された樹木の幹から生ずる小さな枝になぞらえて,イザヤは次のように預言しました。

      3 「エッサイの切り株から必ず小枝が出,その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に,エホバの霊が必ず留まる。それは知恵と理解との霊,はかりごとと大能の霊,知識とエホバに対する恐れとの霊である。その方は,エホバを恐れることを楽しみとする。彼は単に自分の目に見えるところによって裁かず,単に自分の耳に聞こえる事がらにしたがって叱責したりはしない。彼は義をもって,謙遜な者たちを裁かねばならず,彼は廉潔さをもって,地の柔和な者たちのために叱責を与えねばならない。彼はその口のむちをもって地を打たねばならない。彼はそのくちびるの霊をもって,邪悪な者を殺す。義はその腰の帯となり,忠実はその胴の帯となる」― イザヤ 11:1-5,新。

      4 (イ)彼はだれを恐れて人類を裁きますか。(ロ)彼はどのようにして,「エッサイの切り株」から生ずる単なる「小枝」あるいは「若枝」以上のものになりますか。しかし,失望や悩みをもたらすものとはなりません。どうしてですか。

      4 この主要な審判者はエホバを恐れることを実際に喜びとし,そうすることに真の楽しみを見いだす方ですから,間違いなく,人のためにではなく,エホバのために裁きを行ないます。ですから,彼は人を恐れずに,神のみを恐れて判決を下します。確かに彼は,生ける唯一真の神エホバに対するそうした健全な恐れゆえに賢明な方であるに違いありません。彼は固く根を降ろした「エッサイの切り株」から生ずる単なる「小枝」もしくは「若枝」のような状態に留まることなく,かえって生けるエホバのみ子,より偉大なダビデとして,天的な王威を呈する頑丈な「大木」のようになりました。(イザヤ 61:3,新。エゼキエル書 17章22-24節と比べてください。)エホバの強力な霊は,王としての偉大な立場に高められたこの方の上に留まって,その責任ある職務を遂行するのに大いに必要な知識や理解力や知恵を授けるのです。したがって,彼は神の右で即位した王として,エホバの誉れとなる方であって,神によって任命された審判者である彼は,地上の住民に失望や悩みをもたらすことはありません。

      5 法の厳正な施行を支持し,裁き人としてのソロモンよりなおいっそう勝った者として,彼はえこひいきをせず,物事を正しく弁別できることをどのように示しますか。

      5 地上では正義が確立されます。天のその審判者は彼の原型ともいうべきソロモン王よりもさらに優れた識別力を働かせるでしょう。そのソロモン王は,二人の遊女が起こした難しい訴訟の場合のように極めて優れた判決を下しました。問題の遊女はふたりとも,死んだ子供は自分の子ではないと唱え,生きている子供をわが子だと主張しました。その生きている子供のほんとうの母親がだれかを明らかにしたソロモンの特異な方法に関してはこう記されています。「イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって,さばきをするのを見たからである」。(列王上 3:16-28,口語)同様に,より偉大なソロモンは物事の外見や単なる伝聞にしたがって裁くのではなくて,正確な事実が明るみに出され,真実の弁明が行なわれ,その結果,正しい判決が下され,刑が執行されるよう取り計らいます。また,身分の低い者よりも身分の高い者に,あるいはおとなしい者よりも尊大な者に特別に目をかけたりなどはしません。

      6 彼は「大患難」のさいに講ずる措置によって,審判者として職務につく千年の期間が義の行なわれる時になることをどのように示しますか。

      6 エホバの霊に満ちあふれているこの審判者は,千年にわたって審判者としで仕える時代がどんな時期になる見込みがあるかを示すため,ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」で最高潮に達する,きたるべき「大患難」にさいして,ご自分が身分の低い,おとなしい人たちの解放者であることを自ら示されるでしょう。(マタイ 24:21。啓示 7:14; 16:14,16)彼が天の軍勢に与える命令や指図は,その口から出る「杖」のようになります。というのは,司令官としての彼の言われる事は成就して,不義を宿す『古い地』は粉々に打ち砕かれてしまうからです。そのくちびるはエホバの霊によって動かされ,地上の邪悪な者たちに対するご自分の態度や気持ちを表明します。したがって,そのような者たちは死刑に処されます。高慢で,尊大で,邪悪な者たちは一掃され,この地球はことごとく清められます。もちろん,そうした者たちの,見えない支配者であるサタンは鎖で縛られ,底知れぬ所に入れられてしまいます。

      7,8 (イ)人類を益することとして,それはどうして審判者があたかも義の帯を結び,忠実の帯をしめるようなものとなりますか。(ロ)それは人類に変化を生じさせるという点で,どんな影響を人類に及ぼしますか。

      7 実際,エホバにより任命された審判者として一千年にわたってその職務につくイエス・キリストに人類が期待できるのは,ほかならぬ義と人類の関心事に対する忠実です。それはあたかも,この天の審判者が義の帯を結ぶ,つまり義によって支えられる,すなわち義のわざに携わるべく帯をしめるようなものです。そうです,あたかも,忠実という特質の帯をつけ,それをしめる,もしくはご自分が神の規準にしたがって裁く人びとの関心事を忠実に預かる証拠として自ら帯をしめるようなものです。その結果,この地には何という平安と静けさがもたらされるのでしょう。その時,人びとの互いに対する態度は何と変わることでしょう。他の人たちに益となる,性格上の何とすばらしい変化が見られるのでしょう。次のように述べたイザヤの預言的なことばは,そのことを実に楽しく描いています。

      8 「〔義〕はその腰の帯となり,〔忠実〕はその身の帯となる。おおかみは小羊と共にやどり,ひょうは子やぎと共に伏し,小牛,若じし,肥えたる家畜は共にいて,小さいわらべに導かれ,雌牛と熊とは食い物を共にし,牛の子と熊の子と共に伏し,ししは牛のようにわらを食い,乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ,乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても,そこなうことなく,やぶることがない。水が海をおおっているように,〔エホバ〕を知る知識が地に満ちるからである」― イザヤ 11:5-9,口語〔新〕。

      性格の変化

      9 神の霊は個人の性格のそうした変化をいつから,まただれの上にもたらしましたか。

      9 おおかみ,ひょう,熊,たてがみのある若いライオン,コブラその他の毒蛇になぞらえられる,人間の性格を想像してみてください! そのような性格を持ってはいても,神の王国の音信についに答え応じて,自分たちの性格を変え,子羊や子やぎ,小さな子供や乳飲み子,あるいは乳離れした子供などのようにおとなしくて,穏やかな他の人たちと仲よくやってゆけるようになった人びとは少なくありません。西暦33年のペンテコステの祭りの日に集まったクリスチャン会衆の上にキリストを通して神の聖霊が注がれて以来,神の霊は会衆の成員をキリストに似るよう変化させるべく働いてきまし

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする