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  • 一千年にわたる裁きの日の終わりに期待すべき事がら
    神の千年王国は近づいた
    • ぬ義と人類の関心事に対する忠実です。それはあたかも,この天の審判者が義の帯を結ぶ,つまり義によって支えられる,すなわち義のわざに携わるべく帯をしめるようなものです。そうです,あたかも,忠実という特質の帯をつけ,それをしめる,もしくはご自分が神の規準にしたがって裁く人びとの関心事を忠実に預かる証拠として自ら帯をしめるようなものです。その結果,この地には何という平安と静けさがもたらされるのでしょう。その時,人びとの互いに対する態度は何と変わることでしょう。他の人たちに益となる,性格上の何とすばらしい変化が見られるのでしょう。次のように述べたイザヤの預言的なことばは,そのことを実に楽しく描いています。

      8 「〔義〕はその腰の帯となり,〔忠実〕はその身の帯となる。おおかみは小羊と共にやどり,ひょうは子やぎと共に伏し,小牛,若じし,肥えたる家畜は共にいて,小さいわらべに導かれ,雌牛と熊とは食い物を共にし,牛の子と熊の子と共に伏し,ししは牛のようにわらを食い,乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ,乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても,そこなうことなく,やぶることがない。水が海をおおっているように,〔エホバ〕を知る知識が地に満ちるからである」― イザヤ 11:5-9,口語〔新〕。

      性格の変化

      9 神の霊は個人の性格のそうした変化をいつから,まただれの上にもたらしましたか。

      9 おおかみ,ひょう,熊,たてがみのある若いライオン,コブラその他の毒蛇になぞらえられる,人間の性格を想像してみてください! そのような性格を持ってはいても,神の王国の音信についに答え応じて,自分たちの性格を変え,子羊や子やぎ,小さな子供や乳飲み子,あるいは乳離れした子供などのようにおとなしくて,穏やかな他の人たちと仲よくやってゆけるようになった人びとは少なくありません。西暦33年のペンテコステの祭りの日に集まったクリスチャン会衆の上にキリストを通して神の聖霊が注がれて以来,神の霊は会衆の成員をキリストに似るよう変化させるべく働いてきました。結果として,会衆の忠実な成員は,たとえ性格の点でかつては恐ろしい野性動物に似ていた人でも,互いに忍び合い,いっしょに仲よくやって行けるようになりました。(使徒 2:1-33)イザヤの預言に一致して,彼らは仲間のクリスチャンを害しませんし,エホバの崇拝の「聖なる山」にある会衆に危害をもたらすこともありません。

      10 (イ)キリストの14万4,000人の仲間の審判者たちのほかに,だれの上にそうした性格上の変化がもたらされましたか。(ロ)キリストが一千年にわたる審判者としてのわざを開始するさい,そうした変化は彼らにとってどうして有利な結果をもたらしますか。

      10 ついには主要な審判者イエス・キリストの14万4,000人の仲間の審判者を構成する人たちだけでなく,今日,あらゆる国民・部族・民族・言語の中から集められている,エホバの崇拝者たちの数え切れないほどの「大群衆」に関しても,そうした性格の変化が生じています。それら地上の楽園に住む見込みを持つ人たちは,「大患難」にさいして確かに神の保護を受けて無事に大患難を通過し,一千年にわたって審判者の職務につくイエス・キリストの治める神の新秩序に入ります。(啓示 7:9-17)当然のこととして,彼らは変化させた自分たちの性格をそのまま神の新秩序に携えて行きます。それは彼らにとって非常に有利な結果をもたらします。というのは,彼らは,天の審判者イエス・キリストが千年期の裁きを表明し始める際にその対象とされる「生きている者」となるからです。(テモテ第二 4:1)そうした状況のもとでは,エホバの崇拝の「聖なる山」からは,危害や破壊に対する恐れはなくなります。彼らはエホバをすでに知っており,したがってそれら生存者が世界中にいるのですから,地はまさしくエホバを知る知識で満たされます。しかも,その知識は増大するのです。

      11 地上の下等生物に関して,大洪水の八人の生存者に神は何を保証されましたか。現代の場合,それに対応する事がどのように生じますか。

      11 ここで,ノアの時代の大洪水を生き残った八人の人間に対して言われた事が思い出されます。箱船を出てから神に犠牲をささげた彼らに対して,エホバはこう言われました。『地のすべての獣畜 空のすべての鳥 地にはうすべてのもの 海のすべての魚汝らを恐れ汝らにおののかん これらは汝らの手に与えらる』。(創世 9:2)現代においても,これに対応する事が生ずるのではないでしょうか。きたるべき「大患難」は地上の不敬虔な人間を襲うのですから,陸上の動物や鳥また海の魚を絶滅させるわけではありません。神は人間に対する失われた,ある程度の恐れ,また恐怖感をそれら下等動物のうちに置くであろうと予想するのは当を得たことです。そして,人間は,そこなわれた地を楽園に変える仕事を委ねられるのです。確かに神はご自分の霊によって,14万4,000人の人びとおよび今日の「大群衆」の間で,獣のような性格をクリスチャンのそれに変えさせることができたのですから,野性動物の場合にも何かそれと同様の事がらを行なうことができるでしょう。実際,野性の動物は地上のエホバの崇拝者たちを傷つけることはありません。

      12,13 (イ)昔の最初の楽園にいた男女は,地上の下等生物に対してどんな態度を取りましたか。(ロ)地上の下等生物の間には,比喩的な意味以上のものを持つ,どんな関係が生じますか。

      12 このことと一致して,わたしたちは,イザヤ書 11章6-9節に述べられている動物に関する魅惑的な描写が,より偉大なエッサイであられるエホバ神のみ子,平和の君による千年統治の期間中,地球上の鳥や魚また陸性動物に関して文字どおりに成就することを期待できます。ずっと昔,最初の喜びの楽園つまりエデンの園では,女エバは,話せるようにされたへびから話しかけられたとき,そのへびを恐れて逃げようなどとはしませんでした。(創世 3:1-4)その前のこと,アダムは自分の前に連れてこられた野性動物や飛ぶ生き物に名前をつけて,それら動物に対して恐れをいだいていないことを明らかに示しました。(創世 2:19,20)地上の下等動物を恐れることもなければ,下等動物から危害を受ける心配もない安全な,そのエデンのような状態が,回復される楽園に再びもたらされるでしょう。

      13 また,それら陸性動物や飛ぶ生き物や魚は,人間に関してはもとより,動物同志の間でも仲よくなります。神が霊感を与えて,イザヤ書 11章6-9節やエゼキエル書 34章25節またホセア書 2章18節のような預言を記させたのは,あたかもその文字どおりの成就が実現不可能な理想でもあるかのように,単に比喩的もしくは霊的な意味だけを持たせるためであって,現実の生活の中でそうした事がらが生ずるということを実際に示させるためではなかったと考えるのは,つじつまの合わないことです。

      14 とはいっても,地上の下等生物をならすよりももっと重要なのは何ですか。それはなぜですか。

      14 それにしても,主要な目的は動物や鳥そして魚などの創造物をならすことではありません。そうした地上の生物は人類が存在するよりもずっと前から存在してきました。問題なのは,あるいは危機にさらされているのは,地上の人類の存続なのです。アダムとエバの子孫はすべて,罪人として生まれてきたので,「神の栄光に達し」ませんでした。(ローマ 3:23)多くの場合,人は敬虔な特質ではなく,いま野獣が示しているような獰猛な性質を呈しています。それで人類は,永遠の命を受けるにふさわしいことを証明して,創造者なる神に賛美をもたらすには,その「神の栄光」に引き戻されねばなりません。人類家族の成員は一体とされ,互いに傷つけ合わない平和な関係に入り,公正と義を完全に行なう必要があります。これこそ,千年間にわたって審判者を勤めるイエス・キリストがもたらされることなのです。

      15 人類の上に立つ天の審判者たちは,人口は増えても,悪行の発生率の減少する事態をどのようにしてもたらしますか。

      15 現在,人間の犯す犯罪の増加率は,地上の人口の増加率よりももっと速い速度で大きくなっています。それとは著しく対照的に,千年期の期間中,地上の人口は死者の復活のゆえに,つまり「義者」と「不義者」との復活のゆえに一様に増えてゆきます。が,悪行の発生率は減少してゆき,ついには消滅点に達します。どうしてですか。なぜなら,人類の上に立つ天の審判者たちは全く義にかなっているとともに,神の規準に基づく真の義を全人類に教えるからです。この方面で助けになることとして,「水が海を覆っているように,地は必ずエホバの知識で満たされ」るでしょう。(イザヤ 11:9,新)その神権統治下の千年期の時代に認められるのは,エホバの崇拝だけです。人類はエホバの「真の天幕」,つまりその霊的な神殿の地的な中庭に導き入れられます。人類はそこで,イエスが天の父にささげた祈りの中で次のように言われた事の真実さを知らされるでしょう。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」― ヨハネ 17:3。ヘブライ 8:2。

      16 (イ)どんな結果からすれば,一千年にわたって審判者としての職務につくキリストは目的を達し損うことはないと言えますか。(ロ)キリストは元に戻った人類に,楽園におけるとこしえの命を授けるわけではありません。なぜですか。

      16 一千年にわたる裁きの日は,その目的を達し損うことはありません。その期間の終わりの時までには,喜んで答え応じる従順な人びとはすべて,真の公正と義の点で完全に訓練されていることでしょう。アダムとエバから受け継いだ彼らの肉体的また精神的欠陥は除去されてしまいます。いまや彼らはあらゆる点において神の絶対的な義の規準に自らかなうことができるようになります。ではその時,主要な審判者であるイエス・キリストは,楽園の美に包まれた,まさに輝かしい平和な地上でとこしえの命を得る権利を彼らに授けるのでしょうか。いいえ,そうではありません! この点に関しては,イエスは神の代理を勤めることはなさいません。というのは,次のように記されていることをご存じだからです。「神が彼らを義と宣しておられるのです」。(ローマ 8:33)では,神の立てられた審判者は何を行なわれるのでしょうか。

  • 一千年の後に全人類が受ける試み
    神の千年王国は近づいた
    • 9章

      一千年の後に全人類が受ける試み

      1 一千年にわたる裁きの日の終わりに,回復された人類には最終的に何が要求されますか。それで,代理審判者イエス・キリストは,彼らをどうしますか。

      千年に及ぶ裁きの日の終わりに,義をもって裁かれた人類家族は完全な者として,その審判者で解放者であるイエス・キリストの前に立ちます。しかし,依然として彼らは,楽園の地上でのとこしえの命を受けるに価する者として裁かれるわけではありません。彼らはなお,宇宙の最高法廷,つまりいと高き神,主権者なる主エホバの法廷の前に出なければなりません。この最終的要求と一致して,代理審判者イエス・キリストは,今や完全な義にかなえるようになった人類を,ご自分の父なる神に引き渡さねばなりません。それは,試みを受けて,平和と幸福を伴うとこしえの命という貴重な賜物を受けるに価するかどうかを示す人びとすべてに対し

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