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人間は楽園で生活することになっていましたものみの塔 1984 | 1月15日
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人間は楽園で生活することになっていました
わたしたちの愛ある創造者は,人間が喜びの楽園<パラダイス>を享受するよう望んでおられます。神は人間の最初の先祖となった者たちのためにそのような住みかを創造されました。聖書はこう述べています。「神はエデンに,その東のほうに園を設け,ご自分が形造った人をそこに置かれた。そうしてエホバ神は,見て好ましく食物として良いあらゆる木を地面から生えさせ(た)」― 創世記 2:8,9,15。
その最初の住みかはまさに楽園でした。“楽園<パラダイス>”という言葉には「庭園」という意味があります。それは,「喜びの楽園<パラダイス>」でした。これは「エデンの園」の別の名称でした。そうした住みかとしてどのような所を思い浮かべますか。色とりどりの花々や低木,果樹,美しい景色,噴水,水の透き通った静かな池などが読者の思いの目に浮かびますか。また,そびえ立つような樹木に縁取られた青々と茂った牧草地と,深い森の香りや鳥の歌声で満たされたおいしい空気を心に描きますか。
「それだけではない。平和と安全も存在する」とお答えになるかもしれません。そして,エデンの園では確かに平和と安全が存在していたのです。動物たちでさえ互い同士,また人間の最初の先祖と平和な関係にありました。「地の上を動き,その内に魂としての命を持つすべてのものに,あらゆる緑の草木を食物として与えた」と神は言われました。「[神は]人がそれぞれを何と呼ぶかを見るため,[動物たち]を彼のところに連れて来られるようになった。……それで人は,すべての家畜と天の飛ぶ生き物と野のあらゆる野獣に名を付けていた」。―創世記 1:30; 2:19,20。
実にすばらしい住みかではありませんか。しかも,人間と動物が互いに対して平和な関係にあり,その天の創造者とも平和な関係にあったので,まさに完全な状態でした。そのような喜びの楽園に住めるとしたら,あなたは喜ばれるに違いありません。
その最初の楽園はどこにあったのでしょうか。聖書はそれが地上にあったと述べており,そこを流れていた四つの川の名まで挙げています。その中には今日でも依然として存在しているユーフラテス川も含まれています。ところが,ある宗教百科事典は,「最初のエデンは天にあった」という最近出された見解について述べています。しかし,そのような見解は聖書の記録と矛盾するだけではなく,最初の男女はエデンでの結合によって「一体(文字通りには,一つの肉体)」になったというイエス・キリストの陳述とも矛盾します。―マタイ 19:4-6。創世記 2:21-24。コリント第一 15:50。
神は地上の楽園で生活するよう人間を創造されたにもかかわらず,今日の教会員の大半は自分たちの享受できる唯一の楽園は天にあると信じています。ところが興味深いことに,ある聖書百科事典は次のように述べています。「確かに人間は天での喜びをこの世の楽しみと同じもの,あるいは少なくともそれに似たものと考えるのが普通である。そして各人は,自分が地上で最も大切にしているものを墓のかなたで確実に入手し,それを十二分に楽しむことを希望している」。
人間は楽園を物質の次元で考えますが,それは神が人間を地上で生きる者,また地上の事物を楽しむ者として創造されたからです。(詩編 115:16)このことから質問が生じます。例えば,イエスがご自分の傍らで死んだ悪行者に,「あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」と約束されましたが,その楽園<パラダイス>はどこに存在するのでしょうか。―ルカ 23:43。
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聖書は地上の楽園を約束しているかものみの塔 1984 | 1月15日
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聖書は地上の楽園を約束しているか
「パラダイスとは天国を指す一つの名称である。イエスは十字架上の死にゆく泥棒に話した際に,その意味でこの語を用いていた」とワールドブック百科事典は述べています。
では,イエス・キリストは死にゆくその泥棒に対し天的な楽園<パラダイス>を実際に約束したのでしょうか。それとも,地的な楽園<パラダイス>を約束されましたか。
天的な命に関する約束
イエスがご自分の忠実な使徒たちに天的な命の希望を差し伸べられていたことに疑問の余地はありません。処刑される前の晩に,イエスはこう約束されました。「わたしの父の家には住むところがたくさんあります。……わたしはあなた方のために場所を準備しに行こうとしているのです……。そしてまた,わたしが行ってあなた方のために場所を準備したなら,わたしは再び来て,あなた方をわたしのところに迎えます。わたしのいる所にあなた方もまたいるためです」。天的な命に関する何という壮大な約束でしょう!―ヨハネ 14:2,3。
イエスは天で神の王国の王として支配します。そして神は人類の中からイエスと共に支配する人々を選び出してこられました。聖書は,それら選び出された人々がキリストと共にどんなことを行なうかについてこう述べています。「彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対し王として支配するのです」― 啓示 5:10。テモテ第二 2:11,12。
使徒ヨハネは,キリストと共に天で支配するために「地から買い取られた」者たちの数は14万4,000人になると述べました。それらの人たちは,永遠の命を受ける人の総数と比べると,「小さな群れ」になるでしょう。(啓示 14:1-3。ルカ 12:32。ヨハネ 10:16)天に受け入れられるという希望を持つそのような人たちに対して,キリストはこう約束されました。「征服する者に,わたしは,神のパラダイスにある命の木から食べることを許そう」。(啓示 2:7。ヨハネ 16:33。ヨハネ第一 5:4)この象徴的な「神のパラダイス」は目に見えない天にあります。
では,天的なパラダイスだけがイエスの追随者すべての前に置かれた楽園<パラダイス>であると考えるのは正しいことでしょうか。同情心を示したあの悪行者は神への忠実の道を追い求めることにより世を征服したのではなく,自らの邪悪な行ないゆえに正当なこととして死に処されていました。それでは,キリストはその悪行者にどんな楽園<パラダイス>を約束しておられたのでしょうか。
その悪行者に対して約束されたのはどんな楽園だったのか
イエスの隣に掛けられた悪行者の一人は,「あなたはキリストではないのか。自分とわたしたちを救え」と言いました。ところが,同情心のある悪行者はその者を叱りつけ,それからイエスの方を向いてこう言いました。「あなたがご自分の王国に入られる時には,わたしのことを思い出してください」。それに対してイエスは,「今日あなたに真実に言いますが,あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」という驚くべき約束をされました。―ルカ 23:39-43。
この約束された楽園<パラダイス>はどこにあるのでしょうか。さまざまな聖書翻訳におけるこの節の訳し方のために,この点に関する大勢の人々の見解は影響を受けてきました。大抵の聖書は,日本聖書協会発行の口語訳聖書と同様,「よく言っておくが,あなたはきょう,わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と訳出しています。ですから,そのような翻訳によれば,イエスと悪行者は自分たちが死んだまさにその日に楽園<パラダイス>に行ったことになります。しかし,イエスは死んでハデス,つまりシェオルに行かれたと聖書が述べているのに,どうしてそのようなことがあり得るでしょうか。使徒ペテロは,イエスがそこから三日後に復活されたことについて述べた中で,「彼がハデス[ヘブライ語,シェオル]に見捨てられず……このイエスを神は復活させた」と言いました。―使徒 2:31,32。詩編 16:10。
イエスはご自分の復活に先立って明らかにシェオル,つまりハデス(人類共通の墓)におられたので,J・P・ランゲ著の「聖書の注解」はこう述べています。「しかし我々は,このパラダイスを,天的なパラダイスではなく……ゲヘナに対立するもので,やはりパラダイスと名づけられた,シェオルの一部分であると理解しなければならない」。
D・D・フェドンは自著「福音書の注解」の中で,楽園<パラダイス>に関するこの見解の背景となる幾つかの点を示し,こう説明しています。「この名称[パラダイス]はユダヤ人の教会によって[エデンでの当初のパラダイスから]ハデスの祝福された部分,つまり死と復活の中間の段階へと移し変えられた。イエスが,死にゆく泥棒に対してパラダイスという語を使ってこれを指し示そうとされたことに疑問の余地は全くない」。
パラダイスは「ハデスの祝福された部分」ですか。これはユダヤ人の教師たちに起源を有する見方であると思われますが,確かに,聖なるヘブライ語聖書の中で教えられている事柄ではありません。今日の僧職者の大半は,パラダイスがハデスの一部分であるという見解を受け入れていません。カトリック百科事典は次のように述べています。「カトリックの神学者や注釈者の支配的な解釈によると,この場合のパラダイスは天国の同義語として用いられており,この泥棒は救い主に伴ってそこへ入る」。
カトリック教徒の抱くこの見解に同意するプロテスタントの著述家は少なくありません。J・G・バトラーはその注解書「聖書著作」の中でこう述べています。「死にゆくその人にとって何という日だったのだろう! その日の朝,この人は地上の裁きの法廷の前で有罪宣告を受けた犯罪人とされていたのが,シオンの丘に夕やみが忍び寄る前に,天の法廷で受け入れられた者として立っていたのである」。
しかし待ってください。聖書によると,イエスは亡くなられた時に,天ではなくてシェオル,つまりハデスへ行かれたことをわたしたちは既に理解しました。イエスは三日間死んでおり,人類共通の墓の中で無意識の状態にありました。(伝道の書 9:5,10)ですから,イエスは天へ行かれたはずがありません。聖書は,イエスがご自分の復活後40日して天へ戻られたと述べています。―使徒 1:3,6-11。
イエスは明らかに,その悪行者が楽園<パラダイス>に復活させられると約束しておられたにすぎません。イエスはその悪行者がまさにその日に楽園に住むようになると言っておられたのではありません。ですから,イエスの言葉の正確な翻訳は,「今日あなたに真実に言いますが,あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」ということになります。数々の聖書翻訳はこのように訳しており,そのうちの一つ(ラムサ訳)は脚注の中でこう述べています。「古代の本文には句読点がなかった。読点は,今日の前にも,後にも付けることができた」。
では,イエスが悪行者に約束された楽園<パラダイス>はどこに存在するようになるのでしょうか。そして,いつそれを享受することになるのでしょうか。
地的楽園
思い起こしてみてください。神がまさにこの地球上のエデンに最初の楽園を創造されたことについては先に述べました。人類が平和と安全のうちに永遠の命を享受する地上の楽園をお作りになることが神の目的であったのは明らかです。神のこの目的が成就されずに終わるのを,神がお許しになると思いますか。決してそのようなことはありません。「わたしは自分の喜びとすることをみな行なう」と神は言われました。「わたしはそれを話したのである。わたしはまた,それをもたらすであろう」と記されています。(イザヤ 46:10,11)確かに,神はご自分の目的とされる事柄を行なわれます。そして,「義なる者たちは地を所有し,そこに永久に住むであろう」というのがそのお目的です。―詩編 37:29。
ですから,あの悪行者に対する楽園<パラダイス>についての約束を読むとき,この地球全体が美しい生活の場,実りの多い庭園のようになるさまを思いの中に描かなければなりません。“楽園<パラダイス>”という言葉にはそのような意味があるからです。イエスはそのかつての悪行者と共にまさにこの地上の楽園<パラダイス>に住まわれるのでしょうか。いいえ,イエスは天にいて地的楽園を王として支配されます。イエスは,その人を死人のうちからよみがえらせ,その人の身体的および霊的な必要を満たすという意味でその人と共におられるのです。
この悪行者が,天におけるキリストの共同支配者としての命を受ける資格がある忠実なクリスチャンの征服者でなかったことは明白です。この人は邪悪な事柄を行ないました。それはイエスが復活させる他の無数の人々の場合と同じです。(使徒 24:15)しかし,そうした邪悪な事柄をしたのは,神のご意志について無知であったためです。ですから,楽園では神のご意志が何であるかを教えられ,そのご意志を行なうことにより自分たちが本当に神を愛していることを証明する機会を与えられるでしょう。
楽園の情景
楽園<パラダイス>は「地球とは全く別の場所」だという結論を出してはいるものの,新カトリック百科事典は,「メシアなる王によって招来される平和と理想的な公正とは,イザ[ヤ] 11.6-11に示されているパラダイスにおける平和と公正のようになるであろう」と述べています。そこに描き出されている美しい楽園について考えてみてください。メシアなる王イエス・キリストの支配について述べた後,人の心を揺り動かすこのイザヤ 11章の預言は,さらに6節から9節の中で次のように述べています。
「おおかみはしばらくの間,雄の子羊と共に実際に住み,ひょうも子やぎと共に伏し,子牛,たてがみのある若いライオン,肥え太った動物もみな一緒にいて,ほんの小さな少年がそれらを導く者となる。また,雌牛と熊も食べ,その若子らは共に伏す。そしてライオンでさえ,雄牛のようにわらを食べる。そして乳飲み子は必ずコブラの穴の上で戯れ,乳離れした子は毒へびの光り穴の上にその手を実際に置くであろう。それらはわたしの聖なる山のどこにおいても,害することも損なうこともしない。水が海を覆っているように,地は必ずエホバについての知識で満ちるからである」。
ここでこのように美しく描き出されている楽園の状態はどこで成就するのでしょうか。キリスト教世界の宗教上の教師たちはそれが地上で実際に成就するとは信じていません。「イザヤの描き出している情景の特徴すべては,現存する地上の有形的性状の特徴を備えている」とJ・P・ランゲ教授は認めています。しかし,同教授は次のように付け加えています。「この預言がこの世界で実現されることはあり得ない。この成就のために設けられる,栄光を受けた霊的な有形的性状の新たな基盤を想定しなければならない」。
では,この預言は人々が天的な楽園で享受する平和と安全を描き出した象徴的なものなのでしょうか。決してそのようなことはありません。これはまさにこの地球上での状態を描き出しています。今日すでにエホバの証人の組織内では,神の預言者イザヤが非常に美しい仕方で描き出したような霊的繁栄と平和と安全の状態が全地球的な規模で存在しています。しかし,そのような楽園の状態はやがて拡張されて,文字通りの仕方で成就するのでしょうか。
なるほど,キリスト教世界の宗教の教師の大半は,神が動物同士および動物と人間の間に平和をもたらされるという考えを一笑に付すかもしれません。それでも,全能の神は動物の世界にそのようなすばらしい変化をもたらされるとの確信を抱くことができます。一人の聖書注釈者がこの聖書預言に関して述べている通りです。「もしすべてが象徴的なものにすぎないのなら,動物の変化に関するこのような詳細にわたる陳述が何の役に立つというのだろうか。またここには,人間が罪に陥る前の状態との対応あるいは比較があるように思われる。世に罪が入る前には,動物は人間の助け手で,人間によって名を付けられた。神がお造りになったものすべては良いものであった。人間と動物の間の敵意は少なくとも知られていなかった」。
確かに,メシアの支配に関するイザヤのこの預言的な描写とエデンの園に存在した状態との間には実に見事な対応が見られます。そこには,「エホバについての知識」が満ち満ちていました。神はご自分の完全な地上の子,アダムと親しく語られたに違いないからです。聖書は明確に,その時動物たちが「あらゆる緑の草木を食物として」与えられたと述べています。動物はほかの動物を食べなかったのです。(創世記 1:30)そして動物たちは人間に服し,名前を付けてもらうために人間の前に姿を現わすようにという命令に従いました。―創世記 2:19,20。
調和と安全のそのような状況が全地に回復されるのを見るのは実に壮大なことではありませんか。すべての人が互いに愛し合い,人間の間のこの壮大な平和が動物の領域にまで反映されてそこでの敵意も終わる,栄光に満ちた地上の楽園を享受するのは何と大きな特権なのでしょう。確かに,聖書は地上の楽園を約束しているのです。
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