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一千年の後に全人類が受ける試み神の千年王国は近づいた
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箇所はすべて,啓示の書の19章から21章までの同じ文脈の中で非常に密接に関係し合っています。ですから,「命の書」に書き記されない人びとにとって「火の湖」が意味する事がらは,同時に悪魔サタンとその悪霊たちにとってそれが意味するところと同じです。それは「第二の死」を意味しています。それは必ずしも二度目の死を遂げるという意味ではなく,聖書の述べる第二の種類の死を遂げることです。それは果てしのない死です。
28 したがって,サタンとその悪霊たちは,たとえかつて一度も死んだことがなくても,その種の死をこうむることができます。最初の人間の罪によってもたらされた第一の種類の死には,ほんの少しの命もありませんでした。同様に,神に故意に背き,そうするために自分の完全性をさえだいなしにする者たちのための永遠の処罰である「第二の死」には,命のひらめきさえもありません。それで,聖書に基づくすべての規定によれば,サタンとその悪霊たちが火と硫黄の湖でかぎりなく永久に責めさいなまれるとは,彼らが無に帰させられる,つまり存在しなくなること,彼らの霊の命が永久に拭い去られることを意味しています。結果として,神の所有される宇宙は,二度と再び悪霊の現われることのない,悪霊のいない所となります。
一千年が終わった後に生き返る
29 聖なる者たちの宿営,また君として仕える,愛されている都市の代表者たちが生き残るのを神が許されたことは,神が彼らに対してどんな行動を取ったことを示していますか。
29 ゆえに,何と輝かしい永遠の時代が人類を待ち受けているのでしょう。ご覧なさい! エホバ神は「ゴグとマゴグ」および悪魔サタンとその悪霊たちの滅びにさいして,「聖なる者たちの宿営」と,君として仕える「愛されている都市」の地上の代表者たちを生き残らせてくださるのです! それは神が彼らの名を「命の書」に書き記された,あるいは彼らの名を「命の書」に記載させたということのほかに何を意味していますか。それは彼らが神に対する誠実を守り,そのようにして,神のみ子イエス・キリストと14万4,000人の共同相続者たちとに加わって,あらゆる良いものの創造者であられる,いと高き神の宇宙主権の正しさを立証したゆえに,神が彼らを義と認め,彼らを義とされたことを意味しています。エホバ神によって義と認められるということは,楽園の住みかで永遠の命を受ける権利をエホバが彼らに授けられることを意味します。
30 (イ)最終的試みを首尾よく通過する人たちは,だれの恩をいつまでも負う者となりますか。彼らはどこに永遠に立ちますか。(ロ)彼らはいつ,ほんとうに「生きる」ことになりますか。
30 千年の間,愛ある仕方で人類を扱うことによって,喜んで応ずる従順な人たちを肉身でそうした完全な義にかなうまでに引き上げてくださったのは,祭司で審判者である天の王イエス・キリストです。もし,彼が千年の終わりまでにそうしなかったなら,最高の審判者エホバ神による最終的試みを受けるよう彼らを引き渡すのを躊躇されたことでしょう。なぜですか。なぜなら,完全な義に欠けているとすれば,彼らは神による試みを首尾よく通過して,とこしえの命を取得することは決してできないということを彼は知っておられたはずだからです。それで彼らは,肉身で全き義にかない,罪の全くない状態で,エホバの崇拝者としてその「真の天幕」もしくは神殿の地的な中庭に立ちます。彼らは主権者なる主エホバに対する非の打ちどころのない誠実と揺るぎない忠誠をもって神による試みを通過することにより,そこに永遠に立ち続けます。彼らは神のみ子イエス・キリストの恩を永遠に負う者として留まります。彼らの贖い主で救い主なる主イエスは,ご自分のわざを完成させた証拠として,愛をもって彼らを完全な義にかなうそうした状態にまで引き上げてくださったのです。ゆえに,その時こそ,彼らはほんとうに生きるのです!
31 こうして,キリストの統治する千年の終わりまでには,「残りの死人」はどんな状態に達しますか。アダムに帰因する死はどうなりますか。
31 こうした事がらに照らしてみると,啓示 20章5節のかっこ内の,「(残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった。)」という陳述の正確さを正しく評価できます。もしイエス・キリストと,「第一の復活」にあずかった14万4,000人の共同相続者が彼らのために千年間の予備的な仕事を成し遂げなかったなら,完全な命を享受するそうした状態は,千年の終わりに際して「残りの死人」の受ける分とはならなかったでしょう。実際,その時までには,『(アダムから受け継がれた)死はその中の死者を出し,死は火の湖に投げ込まれて,「第二の死」つまり消滅に遭っている』でしょう。(啓示 20:13,14)その時,コリント第一 15章25,26節で予告されたことが実現します。「神がすべての敵を彼の足の下に置くまで,彼は王として支配しなければならないのです。最後の敵として,死が無に帰せしめられます」。
32 その時,啓示 21章3,4節のことばはどのようにして全く実現しますか。
32 その時,罪深いアダムから受け継いだ死は,まさに次のことばどおりになるでしょう。「そして神みずから彼らとともにおられるであろう。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:3,4。
33 (イ)そのような豊かな命を得る人たちは,命を永遠に延長させてもらうに価する者であることをどのようにして実証しますか。(ロ)その時,彼らはローマ 6章23節の真理をどのようにして身をもって認識しますか。
33 千年の終わりまでに,このような完全な意味で生き返る人たちはすべて,その豊かな命を永遠に延長させることを望みますか。永遠の命を得る権利を,あらゆる命の源であるエホバ神から受けるに価することを実証するなら,彼らはそうすることができます。忠実で忠節な人たちは,エホバに対する魂をこめた誠実さの徹底的な試みを通過するゆえに,自分たちの命を守られ,また永遠にわたって命を延長させられて幸福を享受する,その貴重な特権をもって報われます。こうして彼らは,「神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」であることを身をもって悟ります。(ローマ 6:23)もし,神がその愛する独り子をお用いにならなかったなら,人類家族にとってこのような事は不可能だったでしょう。
34,35 (イ)「大患難」以前に,白い衣をまとってエホバの霊的な神殿ですでに奉仕していた「大群衆」に関しては,どんな希望がありますか。(ロ)復活させられた「不義者」たちでさえ,エホバのその中庭に対してコラの子たちが抱いたどんな気持ちを培うことができますか。
34 その時,エホバという名をお持ちになる神をその霊的な神殿の地的な中庭で崇拝し,その神に仕えるのは,なんと魂を満足させる事がらでしょう。「彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」ということばは,輝かしい千年期の初めに「大患難」の生存者たちの「大群衆」に関してすでに実現しました。(啓示 7:9,14,15)清い衣をまとったこの「大群衆」の成員は千年の間,また一千年が終わった後に主権者なる主エホバに対する絶対の誠実に関する試みがなされる間も最後までずっと神の霊的な神殿のその中庭に留まるものと期待されています。一千年の期間中に墓からよみがえらされる人たちも,エホバへの崇拝と奉仕を行なえるよう,エホバの霊的な神殿の地的な中庭に導かれます。正しい認識をいだいて,エホバへの奉仕をそこで行なうことにより,復活させられる「不義者」たちさえ,レビ人コラの子たちが感じたように感ずることでしょう。
35 『なんじの大庭にすまう一日は千日にもまされり われは悪の幕屋におらんよりは むしろ わが神の家の門守とならんことを欲うなり そは神エホバは日なり盾なり エホバは恩と栄光とをあたえ 直くあゆむものに善き物をこばみたもうことなし』― 詩篇 84:表題,10,11。
36 誠実を保つよう決意している人たちは,ダビデの言い表わした,神の神殿に関するどんな感謝の気持ちを培いますか。
36 生ける唯一の真の神に対する心からの誠実を保つよう決意している人たちは,ダビデが次のように述べて言い表わした,霊的な事がらに対する感謝の気持ちを培います。「わたしは一つの事をエホバに願った。わたしはそれを求めている。わたしの命の日の限り,エホバの家に住むことを。エホバの麗しさを仰ぎ見,感謝をもってその神殿を見る,そのために」― 詩篇 27:表題,4,新。
37,38 (イ)エホバの「足台」はついには,当然そうあるべきどんな状態にされますか。(ロ)エホバの「足台」の上に留まる住民は,単に自然の楽園だけを享受しますか。彼らは詩篇の最後の一編の叫びにどのように答え応じますか。
37 その時,全地はその驚くべき創造者の崇拝の行なわれる所となります。地は創造者の「足台」であり,他方,天はその「王座」です。(イザヤ 66:1,新)その天の王座は輝かしいものですから,その地的足台も,その足を据えるにふさわしい,輝かしい所とされます。地上はどこもかしこも楽園のように,つまりエデンの園,エホバの園のようになります。(創世 2:8; 13:10)それは楽しみと喜びの場所となります。なぜなら,そこは,「神の栄光に達しない」状態のもとにはもはやいない,神の崇拝者たちすべてにとって純粋の幸福を伴う生活の場となるからです。彼らは麗しく開花した敬虔な特質をすべて備えており,神との快い関係を存分に享受します。ゆえに彼らは,地的な楽園だけでなく,霊的な楽園の中にいることをも悟ります。このすべては,言語に絶するこうした良いものすべての偉大な創造者で供給者であられる方を賛美するよう,まさに魂を揺り動かす理由ではありませんか。彼らは自分たちの磨いたきれいな声と音楽的技能のすべてをもって,感謝をこめて創造者を賛美するでしょう。そして,霊感を受けた詩篇の最後の一編の次のような熱烈な叫びに答え応じて,天に住む者たちの大群衆と,とこしえに声を和することでしょう。
38 「ヤハを賛美せよ。その聖なる場所で,神を賛美せよ。そのみ力の大空で,神を賛美せよ。その大能のみわざのゆえに,神を賛美せよ。その偉大さの豊かさのゆえにより,神を賛美せよ。角笛を吹き鳴らして,神を賛美せよ。タンバリンと円舞をもって,神を賛美せよ。弦と笛をもって,神を賛美せよ。きれいな音のシンバルをもって,神を賛美せよ。鳴り響くシンバルをもって,神を賛美せよ。息あるものはみな,ヤハを賛美せよ。ヤハを賛美せよ」― 詩篇 150:1-6,新。
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それが近づいていることを示す「しるし」神の千年王国は近づいた
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10章
それが近づいていることを示す「しるし」
1 至福千年期が近いことを知るのは,なぜ胸の躍るような興味を感じさせられる事がらでしょうか。
聖書の述べるところからすれば,生者あるいは死者の別なく全人類にとって至福千年期はきわめて望ましい時代です。それゆえにこそ,至福千年期が近づいたという発表は,物のわかる人すべてにとって大いに歓迎すべきニュースです。では,それが近づいたことを確信できるどんな確かな理由があるかを知るということは,胸の躍るような興味を感じさせられる事がらでしょう。それはどんな
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