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真実の歴史的な年代のしるされた本ものみの塔 1968 | 11月15日
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真実の歴史的な年代のしるされた本
1 人はそれぞれの歴史の面でどんな事柄をよく知っていますか。
今この瞬間,自分がどこにいるのか,また言うまでもなく,自分がどのようにしてここに来たかについては,疑問の余地がありません。また,自分の遭遇した出来事の起こった時はかなりよく覚えているものです。たとえば,1時間あるいは1日もしくは1週間前に自分はどこで何をしていたかは覚えています。たいていの人は自分の年を知っており,それまでの生涯の重大事件のいくつかをかなり正確に話せます。
2,3 過去の歴史上の出来事にかんする幾つかのどんな重要な質問がありますか。
2 しかし現代からはるかに遠い過去についてはいかがですか。自分が遭遇したことのない出来事やその年代について,どれほど知っていますか。たとえばイエスの生まれた年,あるいはもっと大切な,イエスの死なれた年代を知っていますか。言うまでもなく,彼はかつて地上に生を享けた最大の偉人なのです。エルサレムがバビロニア人の手で滅ぼされた年をご存じですか。その特異な年代は,ある出来事がなぜ今日のわたしたちの世代に生じたかを知るのにきわめて大切です。時の流れの中でわたしたちは今どこに立っていますか。今年から数えて7年目にアダムの創造以来の第6000年が満了することをご存じですか。その年つまり1975年まで生きるなら,その時いったいどんな出来事を目撃すると思いますか。
3 それらは確かに興味深い大切な質問ですが,真実の答えをどこから得ますか。わたしたちが生まれるはるか昔に起こった種々の出来事は,これらの問題と深い結びつきを持っていますが,それらの諸事実をどのようにして知ることができますか。文字にしるされた過去のどんな記録を事実また真実として信頼できますか。
4 それらの質問の答えを得るどんな助けがあるので,落胆するには及びませんか。
4 真理を求める誠実な人が,これらの問題に対する答えの探求をむなしい試みと見なして途方に暮れてはなりません。実際のところ最も古い歴史の本を自由に調べることができるのです。それは最高の権威として信頼でき,かつ典拠となり得る本です。また,それに基づいて他のあらゆる証拠を吟味し,評価できるのです。幸いなことに,この歴史的な文書は今や数多くの国語に翻訳されており,真理の探求者はその本を自国語で読めます。その本とは,霊感によるエホバ神の聖なるみことば聖書です。そしてエホバだけが物事の始めと終わりを知っておられます。―イザヤ 46:10。
5 聖書は歴史の本としてどれほど価値がありますか
5 一般の歴史家は,遠い過去を説明するために歴史をさかのぼって研究しますが,聖書の記録を冷笑し無視する史家は,断片的で貧弱な考古学上の発見に基づく歴史の間隙を,頼りにならない伝説や途方もない推定,はてはあからさまな憶測をたよりに埋め合わせることを余儀なくされています。一方,多数の誠実な研究者は,発掘されたあらゆる出土品によって確証された非の打ちどころのない証拠として聖書の真価を認めます。精査を受けた聖書は,古代の出来事のきわめて完全なそして驚くほど正確な記録の本としてその真価を確かに証明してきました。ゆえに,真実の歴史的な年代のしるされたこの本を用いて,はるかアダムの創造の時までさかのぼり,さほどの困難もなく歴史上の年代を計算でき,また,一般の歴史に見られる間隙を確実な資料によって埋め合わせることができます。そのうえ,手早く,また,さほど骨をおらずに行なえるのです。
暦の使用の変化
6 現在一般に使用されている暦が採用されたのはいつですか。それはどれほど正確ですか。
6 年代を定めるのに今日用いられているのはグレゴリー暦ですが,年代の基準となるこの暦の歴史はまだ400年にも足りません。1582年,当時のユリウス暦を廃したのは法王グレゴリー13世でした。ユリウス暦はその年までに太陽年との間に約10日のずれをもたらしていました。この差を是正するため同法王は10月の月から10日を削除するように命じ,1582年10月5日は10月15日となりました。現在用いられているこの暦はきわめて正確で,太陽年との差はわずか26.3秒にすぎず,この差は100年毎にわずか0.53秒の割合で増加するにすぎません。それは10万年毎に9分弱,そして1600万年で1日弱の相違をもたらすことになります。
7 ユリウス暦が用いられたのはいつですか。その暦法によってどんな誤差が訂正されましたか。
7 グレゴリー暦の採用される時まで使われていたユリウス暦は,紀元前46年,ユリウス・カエサルの制定した暦法です。その年は,「混乱の年」として知られています。というのは,当時までに以前の暦の日付は太陽年のそれより約3か月進んでいたため,紀元前46年の1年を445日としなければなりませんでした。こうして,いわば太陽が暦に追いつけたのです。
8 聖書には出来事の年代がどのようにしるされていますか。また,現行の暦法で年代を定めるのに,この事はどんな問題をもたらしていますか。
8 聖書にしるされている出来事の年代がもしユリウス暦あるいはそれ以前の他の暦法に基づいておれば,それらの年代をグレゴリー暦に換算するのは,どちらかと言えば容易なことです。しかしそうではありません。聖書には,特定のそしてしばしば個別的な時期や出来事が述べられており,また,その年代は他とは無関係にそれぞれ独自の仕方で付されているのです。時には,特定の王の即位の年に基づいていたり(ネヘミヤ 2:1。エステル 1:1-3。ダニエル 9:1,2。ルカ 3:1),軍事上の勝利や大国の滅亡の年を基準にしたり(列王上 6:1。エゼキエル 1:1,2; 8:1; 20:1; 40:1),ノアの洪水などの異常な出来事に関連して定められたりしています。(創世 9:28,29)それで,聖書中のそれらの出来事が起こった年代を現今の暦法で定めるのはひと仕事です。
9,10 (イ)この問題をどんなたとえで説明できますか。(ロ)その旅行者は問題を解くためにまず第一に何をすべきですか
9 この問題を次のようにたとえることができるでしょう。ヨーロッパ大陸の史跡を視察していた英国人の一旅行者が,ある朝,ホテルを出て,ゆっくり歩いて森を通り,道々しばしたたずんでは美しい風景や気持ちの良い湖水を眺めました。午後になって,小川を渡り,さらに歩みを進めて山を越えました。さて夕暮れの迫ったころ,旅行者はどれほどの道のりを歩いたものかと考えました。昼近くまで,あちこち立ちどまりながら歩いた距離は,それぞれ道標にメートル法でしるされていたことを思い出しましたが,橋を渡ってからはもはや道標はありませんでした。
10 歩いた道のりを知るには,始発点に戻って,始めのころ道端に見かけた道標の里程をメートルからフィートに換算するだけでは不十分です。まず最初に,現在位置から逆に戻って,山を越え,橋を渡り,そして最初に目につく道標までの距離を算出しなければなりません。この距離が算定されさえすれば,あとは割合容易に計算できるでしょう。ただし,それは道標の里程を信用してのことです。
11 (イ)では,時の流れの中でわたしたちが今どこにいるかを知るために,第一にすべきことは何ですか。(ロ)“絶対日付”とは何ですか。そのような日付にはどんな価値がありますか。
11 同様に,人類が時間という道のりを,どれほど歩んだかを定めるにも,古代の暦を現今の暦法にただ換算するだけで済むものではありません。まず最初に,聖書にしるされている遠い過去と,現代とを隔てている間隙を越え,歴史上の一定点,絶対日付とも呼べる,過去の確定された年代までさかのぼって計算しなければなりません。それは,聖書および一般の歴史の出来事が符合し,またその両方が現今の年代計算にしたがって完全に一致する年代でなければなりません。グレゴリー暦に換算されたその種の確定した年代を用いれば,人間はその時からどれほどの時代を経たか,現在どんな位置にあるかを理解できます。また,元来異なった暦法にしたがって年代の付されている聖書中の他の歴史上の出来事の年代も,かなめとなるその時を基点にすれば前後いずれにも算定できます。
“絶対日付”紀元前539年
12 クロスによるバビロンの倒壊にかんしては,どんな“絶対日付”がありますか。
12 そのような確定した年代,もしくは絶対日付の一つは,ダニエル書 5章1節から31節にしるされている出来事に関するものです。それは,クロス大王の率いるメディアおよびペルシア人が,ベルシャザルの悪名高い酒宴の席をふみにじって,バビロンの都を奪い,第三世界帝国を倒した年です。その年はグレゴリー暦で紀元前539年であり,インドの仏滅紀元の始まった4年後にあたります。
13,14 どんな重要な出土品に基づいて,バビロン倒壊の年が紀元前539年と定められましたか。
13 その歴史的な出来事の起こった年代,紀元前539年を確定する根拠となったのは,ナボニドス年代記として知られている石碑です。この重要な石碑は1879年,バクダード市付近の遺跡の中から発掘され,現在,大英博物館に保管されています。この出土品の碑文の翻訳は,ロンドンで1924年,「バビロンの攻略と滅亡に関するバビロニアの歴史的本文」と題する本の中にシドニー・スミスにより発表されました。その碑文は次のとおりです。
14 「タシリト[チスリ,ユダヤ暦の7月]の月,クロスがチグリス河畔のオピスのアッカドの軍を攻撃した際,アッカドの住民は反乱を起こしたが,彼(ナボニドス)は混乱した住民の大虐殺を行なった。14日,シッパルは戦わずして陥落し,ナボニドスは逃亡した。16日[ユリウス暦紀元前539年10月11-12日,グレゴリー暦同年10月5-6日],グティアムの総督ゴブリヤス(ウグバル)およびクロスの軍は戦わずしてバビロンに入城した。その後,ナボニドスはバビロンに戻ったとき,(そこで)捕えられた……アラアハサムヌの月[ヘシバン,ユダヤ暦8月]の3日[ユリウス暦10月28-29日],クロスはバビロンに入城し,緑の葉をつけた小枝が,彼の前に敷かれ,町には『平和』(スルム)体制が宣言された」― 「ジェームス・B・プリッチャード著,「旧約に関する古代近東本文」(プリンストン,1955年版),306頁。
15,16 ナボニドス年代記にはバビロン倒壊に関連して,ベルシャザルのことは少しも触れられていませんが,その理由をどう説明できますか。
15 ナボニドス年代記には,それらの出来事の起こった時にかんする詳細が,正確にしるされていることに注目してください。この刻文により現代の学者は天文学の知識を用いて,それらの日付をユリウス暦あるいはグレゴリー暦に換算できるのです。この年代記が,クロスによるバビロンの陥落に関連してベルシャザルについてなぜ少しも触れていないか,また,539年という年代がどのように確証されているかについては,ジャック・フィネガン教授が自著,「古代の世界からの光」(1959年)の227-229頁で述べている次のことばに注目してください。
16 「ナブナイド(ナボニドス)はその最年長のむすこ,ベルシャザルと共同統治を行なった。バビロニアの碑文はベルシャザルを皇太子と称している……ゆえにベルシャザルは実際にバビロンで共同執政権を行使した以上,引き続き最後までその地位にあったと言えようし,ダニエル書(5:30)が彼をバビロンの最後の王として述べたのは誤りではない。ナブナイド王在位の17年にバビロンはペルシア人クロスの手に落ちた。ナブナイド年代記には正確な日付がしるされている。タシリトの月の14日,紀元前539年10月10日,ペルシア軍はシッパルを攻略し,その16日,つまり10月12日,『クロスの軍は戦わずしてバビロンに入城し』,クロス自身はアラアハサムヌの月の3日,すなわち10月29日,都に入城した」。
17 バビロン倒壊の年月日は他のどんな権威者により確証されていますか。
17 他の研究者はこう述べています。「ナブナイド年代記には……17年7月14日a(539年10月10日b)シッパルはペルシア軍の手に落ち,バビロンは17年7月16日(10月12日)に陥落し,また,クロスは17年8月3日c(10月29日)にバビロンに入城したとしるされている。この資料によりナブナイドの治世の終わりおよびクロスの治世の始まりが確定できる。きわめて興味深いことに,ナブナイドの時代にさかのぼるものでウルクから出土した最後の石板の碑文は,バビロンがクロスの手に落ちたのちの日付で書かれている。およそ200キロ南に位置するその町にはバビロン陥落の報はまだ達していなかった」― ブラウン大学研究論文,第19巻,パーカー,デュベルスタイン共著,「紀元前626年 ― 西暦75年にわたるバビロニア年代記」,1956年版,13頁。
18 (イ)約20人の歴史家および註釈者はどんな日付を一様に認めていますか。(ロ)この見解の一致はつい最近得られたものですか。
18 今日広く認められている多くの権威者は少しも疑うことなく,紀元前539年を,クロス大王の手によるバビロン陥落の年として受け入れています。前述の引用文に加えて,一般的な参考文献ならびに基礎的な教科書の両者を代表する多数の史書から幾つかの文章を参考として次に掲げます。d またこれら短い引用文は,その年代が最近明らかにされたものではなく,徹底的に研究され,そのうえ過去60年間一般に広く受け入れられてきた年代であることをも示しています。
「クロスは紀元前539年,バビロンに入城した」。(ブリタニカ百科事典,1946年版,第2巻,852頁)「クロスがナボニドスの軍を敗ったとき,バビロンは539年の10月,ペルシアの将軍ゴブリアスの前に降伏した」― 同第6巻,930頁。
「紀元前539年,バビロンは一戦を交えることもなく,ペルシア,アケメネス朝のクロス大王に敗れた」― アメリカーナ百科事典,1956年版,第3巻,9頁。
「紀元前539年,クロスはバビロンを攻略した」― エール大学オリエント研究双書,1929年版,第15巻,ドーティー著,「ナボニドスとベルシャザル」,46頁。
「紀元前539年,ペルシア人はその都市を占領した(ワールドブック百科事典,1966年版,第2巻,10頁)「紀元前539年,ペルシア人はバビロニアを征服した」。(同,13頁)「カルデアのバビロニア王朝最後の王ナボニドスの治世は紀元前555-539年にわたる」― 同193頁。
「リディアの没落により,ペルシア人によるバビロニア進攻の道が開かれた。そしてこの国は予想外に容易に征服された。紀元前539年,大いなる都バビロンはペルシア軍の前にその門を開いた」― ハットン・ウェブスター著,「古代史」,1913年版,64頁。
「紀元前539年,バビロンもクロスの手に落ちた」― W・L・ウェスターマン著,「古代諸国の歴史」,1912年版,73頁。
「しかし紀元前539年,クロスはバビロニア攻略を目ざして軍を進め…一撃をも加えずシッパルを降し,その2日後,クロスの軍の先鋒はバビロンに入城した」― F・K・サンダース著,「ヘブライ史」,1914年版,230頁。
「彼[ネブカデネザル]の死と,539年,クロスの急襲によるカルデア帝国の崩壊との間に長年月が流れたとはまず思えない」― W・F・アルブライト著,「聖書時代」,ルイス・フィシケルスタイン校訂,「ユダヤ人の歴史,文化,宗教」の1955年再版,49頁。
「クロスは紀元前539年10月29日,バビロンに入城し,解放者として人々の前に現われた」― ゾンデルバン挿絵入り聖書辞典,1965年版,193頁。また93,104,198,569頁も参照のこと。
「ネブカデネザルは壮大な城壁をバビロンにめぐらしたが,ベルシャザルの軍が敗れたのち,その都は紀元前539年,何らの抵抗を示すことなく降伏した」― ライサー著,「世界史梗概」,1942年版,28,29頁。
「新バビロニア帝国はペルシア人の手に落ち,紀元前539年,バビロンは抵抗を示すことなくクロスの前にその門を開いた」― 注釈者のための聖書辞典,1962年版,335頁。
「ナボニドスの第17年(紀元前539年),クロスはバビロンを征服した」― ファローズ編,通俗および原典批評ならびに聖句索引聖書百科事典,1913年,第1巻,207頁。
「紀元前539年,クロス大王はそれまでにきわめて容易に,かつすみやかに掌握した諸帝国に,バビロニアを加えた」― 新標準聖書辞典,1926年版,91頁。
「その都[バビロン]は紀元前539年,不意に征服された」― ペロウベット編,一般聖書辞典,1912年版,69頁。
「紀元前539年は,古代オリエントにおけるセム族の指導権の失墜をしるしづけ,また,少なくとも以後1000年間続いたアーリア人の指導権の確立された年である。クロスによるこのバビロン征服は,後代のギリシャおよびローマ治下のあらゆる史的発展の基礎となった」― ホイットコーム著,「メディア人ダリウス」,1959年版,緒言,2頁。
「クロスはまた紀元前539年,バビロンを征服し,こうして,メソポタミアおよびシリアの支配者となった」― ヘイズ,ムーン共著,「古代および中世史」,1930年版,92頁。
「ナボニドス(ナブナイド)......はバビロンの最後の王(紀元前555-539年)であった」― カトリック百科事典,1907年版,第2巻,184頁。
「539年,バビロン王朝はクロスの前に倒れた」― ファンクとワグノールズ共編新百科事典,1952年版,第10巻,3397頁。
「バビロンに都を持つカルデア帝国(第二バビロニア帝国)は……紀元前539年まで存続し,その年,クロスの進攻に面して倒壊した」― H・G・ウェルズ著,「歴史概説」,1921年版,140頁。
「紀元前539年,クロスはバビロニアを征服した」― 国際標準聖書百科事典,1960年版,第1巻,367頁。
「539年,クロスはバビロンの都を征服し,バビロニアはペルシア帝国の一州となる」― 1951年スイスで出版された,ヘルベルト・ハーグと同僚との共編,ドイツ語,聖書辞典。150頁,バビロニアの項参照。
19 それでは,ペルシア人によるバビロン征服後どれほどの歳月が流れましたか。
19 きわめて多くの学者が確証し,同意している年代,紀元前539年に基づき,25世紀前のバビロンの倒壊に関連して,今日わたしたちが歴史の流れのどの時点にいるかをほぼ確定できます。1968年10月6日でその第三番目の世界帝国倒壊後,2506年の歳月が流れたことになります。e 紀元前539年以前の他の重要な出来事の年代も今ではかなり正確に定めることができます。聖書にしるされている年代を受け入れさえすれば,それは容易なことであり,また,キリスト教国の伝統的な年代学者の陥った重大な誤りを回避できます。
紀元前607年のエルサレム崩壊
20 (イ)“ダリウス”という名が楔状文字の碑文に出てきますか。(ロ)しかしわたしたちは何を確信できますか。
20 ダニエルの神エホバを信ずる人は,聖書の歴史的な正確さが,霊感を受けていない不完全かつ不十分な未発見の普通の碑文などに依存していないことを知っています。それで,これまでに発見された楔状文字による異教の碑文に“ダリウス”の名が一度も出ていないという理由だけで,聖書の記録の真実さが失われるわけではありません。霊感の下にしるされた歴史的な事実は次のとおり明確です。「カルデヤ人の王ベルシャザルはその夜のうちに殺されメデア人ダリヨスその国を獲たりこの時ダリヨスは六十二歳なりき」。(ダニエル 5:30,31)ダリウスは,クロスの総督で,彼とともにバビロンに入城し,その都f に長官をたてたグバルと同一人物だと言う学者もいます。またこの主張はかなり有力ですが,ダニエルはメディア人ダリウスのことを,再三,総督ではなく王と呼び,その称号を用いて個人的に話しかけてさえいます。―ダニエル 6:1,6-9,12-25。
21 ダリウスの治世の元年にダニエルはどんな驚くべき発見をしましたか。
21 ダニエルは,ダリウスの二,三か月の短い治世中,年代上の驚くべき発見をしました。「メデア人アハシュエロスの子ダリヨスがカルデヤ人の王とせられしその元年すなはちその世の元年に我ダニエル,エホバのことばの預言者エレミヤにのぞみて告たるその年の数を書によりてさとれり すなはちそのことばにエルサレムは荒て七十年を経んとあり」。(ダニエル 9:1,2)この70年の期間が満了するのはいつかという大問題がダニエルの心にかかっていたことには疑問の余地がありません。しかし幸いにも彼は日ならずしてその答えを得ました。
22 ダリウス1世が王位にあったのは,どれほどの期間ですか。彼を継いでバビロンの王になったのは,だれですか。
22 ダリウス1世の治世は短く,その在位の「元年」ということばは,彼が少なくとも満1年王位にあったことを示唆しています。(ダニエル 9:1; 11:1)クロスは前538年の末にはそのあとを継いで王位に就き,エホバの預言者ダニエルはその高官の地位にとどまりました。「このダニエルはダリヨスの世とペルシャ人クロスの世においてその身栄えたり」。(ダニエル 6:2,28)これら二人の王とその王朝のあいだに密接な関係のあったことは,再三見られる「メディアとペルシャ……の律法」という表現からわかります。―ダニエル 6:8,12,15。
23 (イ)どんな重大な預言が成就を見ようとしていましたか。(ロ)ユダヤ人は何年までには故国に戻りましたか。それは,急速に展開したどんな事態のために可能になりましたか。
23 さてエホバは2世紀前,その預言者イザヤを通してこう宣言されました。「クロスについては彼はわが牧者 すべてわが好むところを成しむる者なりといひ エルサレムについてはかさねて建てられ その宮の基すゑられんといふ」。(イザヤ 44:28)この200年前の預言はまさに成就を見ようとしていたのです。クロスは王位に就き,その治世の「元年」,少なくとも前537年の春以前に,「エホバ(は)……ペルシャ王クロスの心を感動(され)」ました。王はユダヤ人の復帰とエホバの宮の再建を許す有名な布告を出し,その写しが作成され,帝国内の四方に流布されました。こうしてユダヤ人は,故国に再び定住するのに必要な時間的余裕を得,そして「壇をその本のところに設け」,「七月の一日より」燔祭をエホバにささげることができたのです。この「七月の一日」という日付は,入手し得る最善の天文学的年表によればg 紀元前537年10月5日(ユリウス暦)あるいは9月29日(グレゴリー暦)と算定されています。―エズラ 1:1-4; 3:1-6
24 それで70年にわたる荒廃は,いつ始まり,いつ終わりましたか。
24 それでもう一つの里程標がこゝに明確に定められました。つまりユダの地の70年にわたる荒廃の期間は紀元前537年10月1日ごろに終了したのです。(エレミヤ 25:11,12; 29:10)今や簡単な算術で,70年にわたるその期間の始まりを定められます。70年に537年を加えれば607年となります。ゆえに,ユダの地が荒廃し,住民がことごとく連れさられたのは紀元前607年10月1日ごろでした。
25 どんな問題に対する答えが,紀元前607年という年代に関連していますか。
25 次の記事では,アダムが創造されたのはいつかという,興味をそそる問題を究明しますが,同時に聖書の年代表における紀元前607年という年の大切さはさらに明白になるでしょう。
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1975年を待ち望むのはなぜかものみの塔 1968 | 11月15日
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1975年を待ち望むのはなぜか
1,2 (イ)1975年に異常な関心が寄せられたのはなぜですか。どんな結果が生じていますか。(ロ)しかしどんな質問が提起されていますか。
1975年についてこれほど話し合われているのはいったいなぜですか。最近の月々,熱心な聖書研究生のあいだでは,想像に基づくものも一部にはありますが,この問題にかんする活発な話し合いが,野火のように盛んになってきました。その関心の火は,1975年がアダムの創造以来6000年にわたる人類の歴史の終わりをしるしづける年になるとの確信から燃え上がったのです。このような重大な年代が間近に迫っていることは,確かに想像の焔を燃えたたせ,限りない論議を誘います。
2 しかし待ってください! どんな根拠があって,アダムが約5993年前に創造されたと言えるのですか。誤ることのない歴史的な正確さゆえに絶対の信頼を置ける1冊の本,つまり霊感を受けたエホバのみことば聖書は,そのような結論を支持し,認めますか。
3 数多くの聖書にしるされている,アダムの創造の年代は,霊感による聖書の一部ですか。また,その年代はすべて一致していますか。
3 新教徒の用いる欽定訳聖書の欄外の引照や,カトリック・ドウエイ訳のある版の脚注には,アダムの創造の年代は紀元前4004年としるされています。しかしこの欄外の年代は,霊感を受けた聖書の本文の一部ではありません。その年代が最初に想定されたのは,聖書の最後の筆者の死後,15世紀余ののちであり,西暦1701年前の聖書にはいずれの版にも付記されていません。それは,アイルランド人の高位僧職者,英国国教会の大主教ジェームズ・アッシャー(1581-1656)の得た結論に基づいて挿入されたのです。アッシャーの年代表は,アダムの創造の年代を定めようと過去何世紀ものあいだ行なわれた教多くの誠実な研究の結果の一つにすぎません。100年ばかり前に行なわれた調査によれば,まじめな学者の手で出版された年代表は少なくとも140種に達しました。それら年代表によるアダム創造の年代の算定は,紀元前3616年から紀元前6174年までの多種多様で,ある年代表は紀元前2万年という途方もない憶測を掲げています。世界中の数多くの書物に載せられているこれら矛盾した説明を読んだのでは,前述の質問の答えを求める人はまさに混乱させられるばかりです。
4 前の研究記事でどんなことを学びましたか。したがって,これから何を行なえますか。
4 前の記事では,ある聖書の,霊感に基づかない欄外の注に頼らずに,霊感の記録つまり聖書そのものから,70年間にわたるユダの地の荒廃が紀元前607年10月1日ごろに始まったことを学びました。この70年の期間の始まりは,明らかにその終わり,つまり紀元前539年のバビロンの倒壊と関連しています。それで,紀元前539年という絶対年と同様,現行のグレゴリー暦で十分に確定された紀元前607年という年代を用いれば,過去の時代をさらにさかのぼって,聖書歴史の他の重要な出来事の年代を定めることができます。たとえば,サウル,ダビデ,ソロモンなどが順番に神の選民を治めた年代は,現行の暦法に基づいて定められます。
5 紀元前997年には歴史上重大などんな出来事が生じましたか。
5 ソロモンの死後,その国は二分されました。ユダとベニヤミンの2部族で構成された南の国は,引き続きソロモンの家系の王によって治められ,ユダの国として知られました。イスラエルの国を構成した北方の10部族は,時にその後代の首都にちなんで“サマリヤ”と呼ばれ,ヤラベアムとその後継者の手で治められました。さて,エルサレムの崩壊にかんするエゼキエル書 4章1-9節の預言的な期間390年を計算に入れると,ソロモンの死は紀元前997年だったことがわかります。それは紀元前607年のエルサレム崩壊より390年前のことです。
390年間負われたイスラエルの罪
6,7 エゼキエル書 4章1-9節には,どんな期間のことが述べられていますか。
6 このことにかんして預言者エゼキエルの語ることばに注目してください。
7 「人の子よ 汝磚瓦をとりて汝の前に置き その上にエルサレムの邑をゑがけ しかしてこれを取囲(め)……これすなはちイスラエルの家にあたふるしるしなり また汝左側を下にして臥しイスラエルの家の罪をその上に置よ 汝がかく臥すところの日の数はこれなんぢがその罪を負ふ者なり 我かれが罪を犯せる年を算へて汝のために日の数となす すなはち三百九十日の間 汝イスラエルの家の罪を負ふべし 汝これを終なばまた右側を下にして臥し四十日の間 ユダの家の罪を負ふべし 我汝のために 一日を一年と算ふ……汝 小麦 大麦 豆 あぢ豆 粟および裸麦をとりて これをひとつの器にいれ 汝が横はる日の数にしたがひて これを食とせよ すなはち三百九十日の間これを食ふべし」― エゼキエル 4:1-9。
8 南の国の「罪」を負うことは,いつ終わりましたか。
8 エゼキエル書のこの章は過去の歴史的な出来事を物語っているのではなく,将来にかんする預言を述べているのです。それは,輝かしい都エルサレムが包囲され,その住民が奴隷として連れ去られてゆく将来の時を述べており,そのすべては紀元前607年に生じました。それで,ユダに関して述べられた40年の期間はその年に終わりました。390年にわたって負わねばならないと述べられた,北の国の“罪”は,ユダが40年間負ったそれと比べれば,およそ10倍も大きいものでした。それではこれら390年が終わったのはいつですか。
9 北の国の「罪」を負うこともやはり紀元前607年に終わったと言えるのはなぜですか。
9 それは,サマリアの崩壊した紀元前740年に終わったわけではありません。というのは,エゼキエルがその預言的な劇を演じたのは,「エコニヤ王の擄ゆかれしより第五年」以後のことです。(エゼキエル 1:2)それで問題の期間は,アッシリア軍によるサマリア陥落の127年後,紀元前613年よりも前に終了することは当然あり得ないからです。この預言的な劇は全体としてエルサレムの崩壊を率直にさし示しており,また,イスラエルの家とユダの家とは,実質的には契約下にある不可分の同一民族なのです。その残れる者は,二分された民としてとらわれから帰るのではない以上,二つの家の罪を負うことは,時を同じくして続き,紀元前607年,同時に終わったとするのが,唯一の合理的な結論と言えるでしょう。こうしてユダの地の荒廃の70年間は,両方の家の罪を負う期間の終了した70年後に終わり,二つの家の残れる者はエルサレムの地に復帰できたのです。
10 それで,イスラエルの「罪」を負うことが始まったのはいつですか。
10 もし,「イスラエルの家の罪」を負うことが607年に終わったのであれば,390年前のその始まりは紀元前997年です。その年にソロモン王は死に,ヤラベアムは罪,そうです,重大な罪を犯しました。ヤラベアムは,その国をダビデの家から引き裂かれ,「イスラエルをしてエホバにしたがふことをやめ(させ)」,「大なる罪を犯さ(せ)」ました。―列王下 17:21。
エジプト出国の年,紀元前1513年
11,12 今や人類史上の他のどんな出来事の年代を確定できますか。その助けとして,問題のカギとなるどんな聖句を用いますか。
11 遠い過去を回顧すると,人類の歴史にはもう一つの里程標が見えます。それは,イスラエル民族がモーセに率いられ,エジプトの使役から解放されて出国した,忘れられない出来事です。しかし信頼できるエホバのみことば聖書がなければ,この偉大な出来事の年代を暦で確定することは不可能だったでしょう。というのは,古代エジプトの象形文字の刻文は,最初の世界強国にエホバのもたらされた屈辱的な敗北にかんして明らかに沈黙を守っているからです。しかし聖書の年代表を用いれば,その記念すべき出来事の年代は,比較的に容易に定めることができるのです。
12 列王紀略上 6章1節にはこうしるされています。「イスラエルの子孫のエジプトの地をいでたるのち四百八十年 ソロモンのイスラエルに王たる第四年ジフの月すなはち二月にソロモン,エホバのために家を建ることを始めたり」。
13,14 (イ)グレゴリー暦によれば,ソロモンが王位についたのはいつですか。(ロ)ソロモンはいつ宮の建立を始めましたか。
13 この資料があるので,あとは,ソロモンが宮の建立を始めた年を暦で定めればよいのです。そうすれば,パロの軍隊が紅海で滅ぼされた年代は容易に計算できます。
14 「ソロモンのエルサレムにてイスラエルの全地を治めたる日は四十年なりき」。(列王上 11:42)このことは,ソロモン在位の最後の年が紀元前997年の春に終わったことを示します。a 997に40を加えれば紀元前1037年となります。これはソロモンが平和な統治を開始した年です。しかし記録の示すとおり,ソロモンはその治世第4年の第2の月に至るまでは宮の建立を始めませんでした。つまりその時までに満3年と1か月治めたのです。それで1037年から3年を引けば,紀元前1034年となり,この年に宮の建立が始まりました。その時期は第2の月ジフ,4月ないし5月のころでした。この時が聖書によれば,イスラエル民族のエジプト出国後「(第)四百八十年」にあたります。
15 (イ)基数と序数の違いを説明しなさい。(ロ)それでイスラエル民族はいつエジプトを去りましたか。
15 “第”という字を数字の前に用いる場合は,たとえば10に“第”を付して“第10”と言うように,その数は基数から序数に変わります。ですから,野球の試合で(第)10回のプレーと言えば,9回の表と裏はすでに終わり,(第)10回にはいっており,この回はまだ完了していないという意味です。同様に,聖書は序数を用いて,宮の建立はイスラエル民族のエジプト出国後,第480年に始められたと述べており,その年は現行の暦で紀元前1034年ですから,(480年ではなく)満479年を1034年に加えると,紀元前1513年という年代に達します。これがエジプト出国の年で,日付は春の過ぎ越しの時,つまりニサンの月の14日でした。
大洪水以来何年を経たか
16 これまでに歴史をどれほどさかのぼれましたか。さらに遠くさかのぼることができますか。
16 これで,今年西暦1968年の春から紀元前1513年の春までの年数を,聖書の助けを借りて正確に逆算できましたが,それは合計3480年です。しかしエホバのことば聖書の正確な歴史的記録を用い,その筆者の信頼できる記憶に従えば,さらに遠い過去,ノアの大洪水の日までもさかのぼれます。
17 イスラエル民族の経験を述べたステパノは,どんな出来事および期間について言及していますか。
17 イエス・キリストの追随者で最初の殉教者となったステパノは,エホバの述べられた,アブラハムの子孫の遭遇する事柄について次のように言及しました。「神またその裔はほかの国に寄寓人となり,その国人はこれを四百年のあひだ奴隷となして苦しめんことを告げ給へり」。(使行 7:6。創世 15:13)ここでステパノは,イスラエル民族が外国の地で寄留者となり,奴隷として使役され,また民族として400年間苦渋を味わった,3つの昔の経験を述べています。
18 それらの出来事は順番に続いて起こったそれぞれ別個の経験であるとする結論は,なぜまちがっていますか。
18 これら3つの経験が同じ期間にわたるとか,それぞれ別個のもので順番に続いて生じたと見なすのはまちがいです。奴隷にされたのは,異国人としてエジプトに移住して70年余ののち,つまりヨセフの死後しばらくしてからでした。それでステパノは,彼らの苦しんだ400年の期間に奴隷となり,また外人居留者であったことを述べたのです。
19 イスラエル人はエジプトに移住する前から“外人居留者”だったとどうして言えますか。
19 彼らが「ほかの国に寄寓人となり……四百年のあひだ…苦し(ま)ん」とステパノが語ったとき,彼らはエジプト入国前,外人居留者でなかったと言ってもおらず,意味してもいないことに注意してください。それで,この聖句はイスラエル民族がエジプトに400年間居住したことを証明するとの主張は誤りです。ヨセフの兄弟たちがエジプトにはいり,初めてパロの前に出たとき,「この国にやどらんとて我らはきたる」と語ったのは真実です。しかし,その時までは外人居留者ではないと言ったのでもなく,また意味したのでもありません。というのは,彼らの父ヤコブはその同じ時に,パロに自分の年を尋ねられ,こう答えたからです。「わが旅路[外人居留者として]の年月は百三十年にいたる」。ヤコブは,エジプトに下る前にその生涯をほとんど外人居留者として過ごしただけでなく,その先祖もまた外人居留者だったとパロに告げました。―創世 47:4-9,[新世訳]。
20 その400年の期間はいつ終わりましたか。また始まったのはいつですか。
20 イスラエル人の苦難は紀元前1513年に終わったのですから,その始まりは400年前の1913年です。その年は,イサクが乳離れをして,イシマエルから「笑(われた)」時にあたります。当時,イサクは5歳でした。それでこれはイスラエル人がエジプトに移住した時よりはるか昔の出来事でした。―創世 21:8,9。
21,22 イスラエル人は満430年間エジプトにいましたか。昔のある写本はこの点をどのように明らかにしていますか。
21 では,イスラエル人が外人居留者としてエジプトにとどまったのは,どれほどの期間でしたか。出エジプト記 12章40,41節はこう述べています。「さてイスラエルの子孫のエジプトに住居しその住居の間は四百三十年なりき 四百三十年の終にいたり すなはちその日にエホバの軍隊みなエジプトの国よりいでたり」。
22 この40節は「七十人訳」によれば次のとおりです。「しかしイスラエルの子孫[とその先祖,アレキサンドリア写本]がエジプトとカナンの地に居住したその居住の間は四百三十年[であった]」。サマリアの「五書」には,「カナンの地とエジプトの地で」とあります。それでユダヤ聖書評釈者写本よりも古いヘブル語写本に基づくこれら二つの写本には,“エジプト”ということばとともに,“カナンの地で”ということばが用いられているのです。
23 (イ)それでイスラエル人が実際にエジプトにいたのはどれほどの期間ですか。パウロはこの点をどう確証していますか。(ロ)聖書にしるされている400年と430年の期間の違いを説明しなさい。
23 アブラハムがカナンの地にはいった時から,イサク誕生までは25年,b その時からヤコブの誕生までが60年,その後ヤコブがエジプトに移住するまでが130年,合計215年となり,これはその430年の丁度半分で,エジプトに移る前,カナンの地で費やされた年数です。(創世 12:4; 21:5; 25:26; 47:9)使徒パウロもまた霊感の下に,族長アブラハムがカナンの地にはいった時にアブラハムの契約が結ばれ,その後430年を経て律法契約が制定されたことを確証しています。―ガラテヤ 3:17。
24,25 大洪水が始まったのは紀元前何年ですか。それはアブラハムがカナンの地にはいる何年前でしたか。
24 この430年を1513年に加えれば,紀元前1943年に到達します。この年に,アブラハムは初めてカナンの地にはいりました。それはメソポタミアのハランでその父テラの死去したのちのことです。これで,ノアの洪水の起こった年代を確定するのに必要なのは,幾つかの世代の年を加算することだけです。その数字は創世記 11章と12章にしるされており,次のようにまとめられます。
大洪水の始めから
アルパクサデの誕生まで(創世 11:10) 2年
シラの誕生まで(11:12) 35〃
エベルの誕生まで(11:14) 30〃
ペレグの誕生まで(11:16) 34〃
リウの誕生まで(11:18) 30〃
セルグの誕生まで(11:20) 32〃
ナホルの誕生まで(11:22) 30〃
テラの誕生まで(11:24) 29〃
ハランにおけるテラの死,そして75歳のアブラムがカナンに向かって出発する時まで(11:32; 12:4) 205〃
合計,427年
25 これら427年を紀元前1943年に加えれば,大洪水の始まりは,4337年の昔,すなわち紀元前2370年となります。
アダム創造以来6000年
26,27 (イ)アダムが創造されたのは大洪水の何年前でしたか。それは紀元前何年ですか。(ロ)アダムがその年の秋に創造されたと言えるのはなぜですか。
26 さて,アダムの創造の年代を知るには,大洪水前の10代の先祖に関する年数を同様に加算すればよいのです。それは次のとおりです。
アダムの創造から
セツの誕生まで(創世 5:3) 130年
エノスの誕生まで(5:6) 105〃
カイナンの誕生まで(5:9) 90〃
マハラレルの誕生まで(5:12) 70〃
ヤレドの誕生まで(5:15) 65〃
エノクの誕生まで(5:18) 162〃
メトセラの誕生まで(5:21) 65〃
レメクの誕生まで(5:25) 187〃
ノアの誕生まで(5:28,29) 182〃
大洪水の始まる時まで(7:6) 600〃
合計1656年
27 この1656年を2370年に加えれば,アダムの創造された年,グレゴリー暦紀元前4026年が得られます。人間がその始まりから時を数えるのは自然なことであり,また古代の暦はたいてい秋を年の始めとしているので,最初の人間アダムの創造をその年の秋と見なすのは妥当でしょう。
28 この年代表はアダムの創造に関してアッシャーのそれとどれほど違っていますか。
28 こうして,多年この問題を究明し,またキリスト教国の一部の伝統的な年代計算に盲従しなかった多数の献身した聖書学者の綿密な独自の研究により,アッシャーの計算よりもさらに22年過去にさかのぼるアダム創造の年代が得られました。
29 アダムの創造の年代に関心をいだいているのはなぜですか。
29 数多くの計算を行ない,系図を調べて得たこの知識は,今日のわたしたちにとっていったいどれほど有益ですか。調べたのはすべて過去の歴史にすぎず,墓地を歩き回って,墓石に刻まれた日付を書きとめるようなむだぼねおりではありませんか。アダムの創造の年代を調べるのは,ツタンカメン王の誕生の年を調べることよりも興味深いでしょうか。確かに興味深い事柄です。その一つとして,4026に1968を加えると(紀元前1年と西暦1年の間に零年のないことを考慮すれば),アダムの創造以来,今年の秋で合計5993年の歳月を経たことになります。つまり,今からおよそ7年先,1975年の秋で,全人類の父アダムの創造以来6000年を経ることになるのです!(その年は,もしアッシャーの計算が正しければ1997年ですが,そうではありません)
アダムは“第六日”の終わりに創造された
30 1975年の前に何が起こり得ますか。しかしわたしたちはどんな態度をとるべきですか。
30 以上の研究から推して,ハルマゲドンの戦いは1975年の秋までに終わり,また待望のキリストの千年統治がその時までに始まると考えられるでしょうか。それはあり得ることです。しかし,人類生存の第7番目の千年期が,安息日に似たキリストの統治する千年期とどの程度厳密に合致するかをもう少し検討してみましょう。これら二つの期間が暦年において互いに一致するとすれば,それは単なる偶然ではなく,時にかなったエホバ神の愛ある御目的による事柄です。しかし,わたしたちの年代表はかなり正確ですが(絶対に誤りがないと言うことはできないので),地上における人類生存の6000年が1975年の秋に終わるとせいぜい指摘できるにすぎません。これはエホバの創造の第7番目の“日”の最初の6000年が1975年に終わることを必ずしも意味するものではありません。なぜですか。なぜなら,アダムは,創造されたのちに,その“第六日”内のある期間生活したので,その未知の時間をアダムの生涯930年から引かなければ,第6番目の7000年の期間もしくは“日”がいつ終わったか,またアダムは“第七日”にはいってどれほどの期間生きたかを定められないからです。しかし,創造の第6番目の“日”は,グレゴリー暦によるアダム創造の年以内に終わったと考えられます。その差は何年ではなく,おそらく何週間か何か月でしょう。
31 創世記の最初の二つの章から何がわかりますか。
31 アダムの創造に関しては,聖書の述べるところを注意深く調べるのは大切なことです。創世記を編さんしたモーセは,大洪水前にしるされた記録文書もしくは“歴史”に言及しています。その最初のものは創世記 1章1節から始まって,創世記 2章4節の次のことばで終わっています。「これは……天と地……の歴史である」。第2番目の歴史的な記録文書は,創世記 2章5節から始まって,5章2節で終わっています。したがって,幾らか異なった見地に立ってしるされた,創世にかんする二つの別個の記録があるわけです。その2番目の記録の創世記 2章19節(新世訳)で,“造っておられ(た)”と訳されている原文のヘブル語の動詞の時制は未完了つまり進行形です。それは,アダムの創造されたのちに動物や鳥が創造されたという意味ではありません。そうでないことは創世記 1章20-28節からわかります。それで創世記 2章19,20節は,1章と2章に食い違いを生じさせないために,人間の“助け手”を創造する必要を説明した単なる挿入句と見るべきでしょう。ですから進行形のそのヘブル語の動詞は,「かつて造り続けられ(た)」とも訳せるのです。―ロザハム訳およびリーサー訳(いずれも英文)を調べてください。
32 創造の第6日はアダムの創造の直後に終わったのではないとどうして言えますか。
32 創造にかんする創世記の中のこれら二つの記録は,資料の取り扱い方に幾らかの違いはあっても,エバがアダムののちに創造された事実をも含めて,あらゆる点で互いに全く調和しています。それで創造の第6日は,エバの創造という出来事ののちに終わったのです。それが,アダム創造ののちのいつかは述べられていません。こうしるされています。「その[アダムとエバの創造の]のち,神はお造りになったものすべてをごらんになった。すると,見よ,それは非常に良かった。晩が来て,朝が来た。第六日である」。(創世 1:31,新世訳)創造の第6日が終わると,第7日が始まります。
33 (イ)創造の第6日は,アダムの創造後まもなく終わったとどうして言えますか。(ロ)創世記 1章31節のことばは,アダムとエバが罪を犯す以前に第6日が終わったことをどのように証明していますか。
33 アダムの創造から,安息の日つまり第7日の始まりまでの時間は必ずしも長時間でなかったことに注意してください。アダムは動物に名前をつけ,また自分の伴侶がいないことを知りましたが,それには長時間を要しませんでした。動物はみなアダムに服しており,おとなしく,また神の指示の下に連れてこられたので,追いかけて捕える必要はなかったのです。ノアがその同じ種類の動物の雄と雌を取って箱舟に入れるのに要したのはわずか7日でした。(創世 7:1-4)また,エバの創造は,「アダム(の)睡…りし時」のつかのまに成し遂げられました。(創世 2:21)それで,アダムの創造と,創造の第6日の終わりとの時間的な隔たりは,どれほどかわかりませんが,比較的に短かったと考えられます。また,第六日の終わりには次のような宣言が述べられました。「神はお造りになったものすべてをごらんになった。すると,見よ,それは非常に良かった」。このことばは,アダムとエバが罪を犯し,エデンの園から追放される以前に創造の週の偉大な第7日がすでに始まったことを証明しています。
1975年!……さらにその先の将来!
34 聖書の年代表にかんするより深い知識はどのようにして得られましたか。
34 聖書の年代学は,歴史上有名な出来事を,時の流れの中で,起こった順に位置づける助けとなる興味深い学問です。多年,ものみの塔協会は,聖書の中の歴史的かつ預言的な出来事を証明する最新の研究に,協会内の研究者が,遅れずについてゆけるよう取り計らってきました。そして聖書年代表上の主要な問題点は,聖書預言の成就や考古学上の発見,あるいは原語の文章を一層明確に訳出した,よりすぐれた聖書翻訳によって解決されてきました。しかし,あまり重要ではありませんが,幾つかのむずかしい年代上の問題はまだ解決されていません。たとえばエジプト出国の際,エホバは年の初めを政暦の秋から,教暦の春に変えられました。ではユダヤ人の暦に6か月が加算されましたか,それとも引かれましたか。―出エジプト 12:1,2。
35 なぜ今は,無関心でいたり,満足感にひたったりすべき時ではありませんか。
35 絶対に確実なことが一つあります。それは,聖書預言の成就によってさらに強力な裏付けを得た,聖書の年代表によれば,人類生存の6000年間がまもなく,そうです,この世代のうちに終わるということです!(マタイ 24:34)ゆえに今は,無関心でいたり,満足感にひたったりすべき時ではありません。「その日その時を知る者なし,天の使たちも知らず,ただ父のみ知り給ふ」と言われたイエスのことばをもてあそぶ時でもありません。(マタイ 24:36)それどころか,今は,現在の事物の制度の悲惨な終わりが足ばやに迫っている事実に十分目ざめるべき時です。まちがわないでください。天の御父ご自身は「その日その時」のいずれをも知っておられますが,それで十分なのです!
36 この点で使徒たちはどんな有益な手本を残していますか。
36 1975年より先の将来を見通すことはたとえできないにしても,そのために手をゆるめてもよいと言えますか。使徒たちはこの年まで見通すことさえできず,1975年については何一つ知らなかったのです。彼らは,割り当てられたわざを成し遂げるのに,わずかの時間しか残されていないことを見通し得ただけです。(ペテロ前 4:7)したがって,その筆になる記録にはすべて,事の急を告げる響きがあふれています。(使行 20:20。テモテ後 4:2)また,それは正しいことでした。もし手をゆるめ,あるいはぐずぐずして,終わりは何千年も先のことだと考え,気をゆるめたのであれば,自分の前に置かれたレースを決して走り抜くことはできなかったでしょう。しかしそうではありませんでした。彼らは懸命に,しかも早く走り,そして勝利を得たのです! それは彼らにとって生か死かの問題でした。―コリント前 9:24。テモテ後 4:7。ヘブル 12:1。
37 では,今から1975年まであなたは何を行なってゆきますか。またその先の将来はいかがですか。
37 この20世紀後半のエホバの忠実な証人についても同じです。証人たちはクリスチャンとしての正しい見方を持っています。たゆまず続けられるその福音伝道の活動は,ここ10年間に見られる特異な事柄ではありません。証人たちは,単に1975年までエホバに奉仕するために献身したのではありません。キリスト・イエスが,「我に従ひきたれ」とその弟子たちに命ぜられ,歩むべき道を明らかに示されて以来,クリスチャンはいつもこの道を走ってきました。それで,キリスト・イエスのいだかれたと同じ心構えを保ってください。何事であれ,そのために手をゆるめたり,疲れはてたり,また,あきらめたりすることのないようにしましょう。大いなるバビロンや,サタンの支配する現在の事物の制度をのがれる人々は,今や命を目ざし,また神の国を目ざして走っており,1975年が訪れても,走り続けるでしょう。決してとまることはありません! 彼らは賛美と奉仕をとわにエホバにささげつつ,永遠の命に通ずるこの輝かしい道を走り続けるでしょう!
[脚注]
a 「王の在位の年の計算は,春に始まる即位紀元に基づいており,これはまた,バビロニア人の計算と同じである。バビロニアではこの方法がおもに用いられていた」― シャッフ,ヘルゾグ共編「新宗教知識百科辞典」,1957年版,第12巻,474頁。
b ついでですが,その25年にもう5年を加えると,合計30年となりますが,その年にイサクは乳離れをしました。この点から,400年の期間(創世 15:13。使行 7:6)と430年の期間(出エジプト 12:40。ガラテヤ 3:17)の違いを説明できます。
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1世紀の出来事の年代は20世紀の今日どのように定められるかものみの塔 1968 | 11月15日
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1世紀の出来事の年代は20世紀の今日どのように定められるか
1 聖書中の他の年代をさらに考慮することはなぜ大切ですか。
前の二つの記事の中では,アダムの創造にまでさかのぼる古代の歴史にかんする聖書の記録の正しさを吟味し,証明できました。しかし,歴史上の年代をどれほど検討したところで,もし地上におけるイエスや使徒たちの宣教の年代を歴史の流れのうちに位置づけることを割愛したとすれば,たしかに片手落ちと言わねばなりません。世界中の人々の生活やその歩みおよび諸国家にこれほど重大な影響を与えた人物はかつていなかったからです。
2 1世紀の出来事の年代を定める前に,まず何をしなければなりませんか。
2 すでに指摘したとおり,クリスチャン・ギリシャ語聖書中にしるされている出来事の年代を定めるには,現今のグレゴリー暦や,およそ400年前に廃止されたユリウス暦のいずれも十分なものではありません。それは,重要な出来事の年代を定めるのに,聖書の中で用いられている方法が全く異なっているためです。したがって,聖書中の出来事の年代を現行の暦法に合わせるにはまず共通の起点,つまり聖書および証明済みの一般の歴史のいずれによっても確証され確定された絶対日付を見いだすことが必要です。それを成し遂げさえすれば,聖書にしるされている他の歴史的な出来事の年代は,普通の暦に従って定められます。
3,4 (イ)チベリウス・カエサルが王位についたのはいつですか。(ロ)では,バプテスマのヨハネが伝道のわざを始めたのは何年ですか。
3 ユリウス・カエサルの死後,その養子,ガイアス・オクタビアヌスはローマの元老院を巧みに押え,巧妙な策略を弄して共和制体のイメージを帝国のそれに変え,ついにローマの初代皇帝の座に就き,地位を固めました。紀元前27年,神格化への道を進むオクタビアヌスは宗教的な称号,アウグスツスを僭称しました。また,ユリウス暦の8月(セックスティリス)を自分の称号にちなんで改名し,2月の月から1日を借りてその月に加えたので,8月(英語august)は,前任者ユリウス・カエサルにちなんで命名された7月(英語july)と同数の日を持つようになりました。これは偶然ですが,彼はユリウス暦紀元14年の,その名に由来する8月19日(グレゴリー暦,8月17日)に没しました。その日,アウグスツスの腹違いの子で養子となったチベリウスが跡を継いで皇帝になりました。
4 ゆえにユリウス暦の紀元14年8月19日はローマ史上,争う余地のない確定された日付です。それで,バプテスマのヨハネがヨルダンの荒野で伝道を始めた年代は,史家ルカが「テベリオ・カイザル在位の十五年」と明示しているので,もはや疑問の余地なく確定されました。(ルカ 3:1)その“十五年”はグレゴリー暦紀元29年8月16日まで続きます。バプテスマのヨハネが伝道を始めたのは,その年で,それは明らかに春でした。
5 ルカは,バプテスマのヨハネが宣教を始めた時をどのように明示していますか。
5 ルカはこの点の記述を補足し,歴史上一点の疑惑も許さぬほど明確にしました。この重要な出来事が反対者の攻撃の的にされることをおそらく予想していたのでしょう。「テベリオ・カイザル在位,十五年」としるしたのち,ルカはさらに「ポンテオ・ピラトは,ユダヤの総督[西暦27-37年],ヘロデはガリラヤ分封の国守[西暦40年まで],その兄弟ピリポは,イツリヤおよびテラコニテの地の分封の国守[西暦34年まで],ルサニヤはアビレネ分封の国守たり,アンナスとカヤパとは大祭司たりしとき[西暦約18-36年]」と付記して,当時在官中の6人の他の重要な支配者の名前を列挙しています。(ルカ 3:1,2)チベリウス在位第15年,時を同じくして権力を行使していたそれら6人の支配者が列挙されては,たとえ疑いをいだく人がいても,ヨハネの宣教が西暦29年に始まったのではないと,ローマ史あるいはユダヤ史を用いて反証するのは不可能です。
70週年
6 西暦29年には,ほかにどんな重要な出来事が生じましたか。
6 西暦29年は重要な年です。それは単に,パプテスマのヨハネが「なんぢら悔改めよ,天[あるいは神の]国は近づきたり」と宣明したからではなく,もっと大切なことに,その神の国のために神の油そそがれる人物が間近に来ていたからです。(マタイ 3:2)先駆者であるヨハネはイエスよりも約6か月年上でした。(ルカ 1:34-38)ゆえにイエスがパプテスマを受け,油そそがれたのは,同じ西暦29年の秋であり,その時,イエスは「年おほよそ三十」でした。(ルカ 3:23)その場にいたヨハネは,イエスがそこで神の聖霊によって油を注がれ,油そそがれた者,つまりキリストになったことをあかししました。―ヨハネ 1:32-34。
7 (イ)ダニエルの預言によれば,メシヤはいつ到来することになっていましたか。(ロ)その到来を待つ期間はどれほどの長さですか。
7 この油そそがれた者が西暦29年の秋に教えるわざを開始されたことは,長年月にわたる,ダニエル書 9章25節の預言により確証されています。その句は一部次のとおりです。「エルサレムを建なほせという命令の出づるよりメシヤ[油そそがれた者の意]たる君の起るまでに七週と六十二週あり」。7週に62週を加えた合計69週が,7日を1週間とする文字どおりの週であるとすれば,メシヤの出現を待ち望む期間は,文字どおりの24時間の日にしてわずか483日,つまり16か月にすぎません! そうではなく,これらの週は預言的な意味を持つ週なのです。それで,「一日を一年」とする聖書の定めに従うと,それは483年(69週ではなく69週年)を表わします。―民数 14:34。エゼキエル 4:6。
8 エルサレムを建て直せとの命令が出されたのは紀元前537年でも,アルタクセルクセスの第7年でもないと,どうしてわかりますか。
8 では,「エルサレムを建なほせという命令」が出たのはいつですか。紀元前537年ではありません。その年のクロスの勅令は,町を復興し,再建することではなく,「エホバの…家[あるいは宮]を…エルサレムに建つること」を命じただけだからです。(エズラ 1:2,3)また,エズラが王の特別の手紙を携えてエルサレムに上った年,ペルシアの王アルタクセルクセス1世の在位第7年,紀元前468年でもありません。その手紙はエルサレム再建の許可や命令については何一つ触れず,エルサレムの宮の奉仕に関する用件のみを述べています。―エズラ 7:1-27。
9 エルサレムを建て直せとの命令の出された時となったアルタクセルクセス在位の第20年には,どんな出来事が起こりましたか。
9 ところが,アルタクセルクセス1世の第20年,ネヘミヤはエルサレムの町が「大なる患難にあひ」,また「エルサレムの石垣は打崩され その門は火にやけたり」との知らせを受けました。そこでネヘミヤは機をみて,その事態に対して王の配慮を求め,こう訴えました。「王もしこれを善としたま…(は)ば願くはユダにあるわが先祖の墓の邑に我を遣はして我にこれを建起さしめたまへ」。ネヘミヤはさらにこう奏上しました。「王もし善としたまはば請ふ…書を我に賜ひ…王の山林を守るアサフに与ふる書をも賜ひ彼をして殿に属する城の門を作り邑の石垣および我が入べき家に用ふる材木を我に授けしめたまへ」― ネヘミヤ 1:2,3; 2:5-8。
10 エルサレムの町を建て直せとの勅令が出されたのはその年のいつでしたか。しかし勅令が実施されたのはいつですか。
10 王に対してこの請願がなされたのは,その年の春,ニサンの月でした。しかしやがて手紙がしたためられ,ネヘミヤは,バビロンの東方約640キロのシュシャン(スサ)のペルシア王宮をあとに,およそ1450キロに及ぶ長途の旅にのぼり,やがて王の手紙をユフラテ「河外」ふの総督たちに渡し,その後,陰暦の月タンムズ(第10月)の末,くずれ落ちたその町に到着しました。「我ついにエルサレムに到(れ)り」と自ら述べているとおりです。(ネヘミヤ 2:9-11)ゆえに,「建なほせ」との命令が実施されはじめたのは,アルタクセルクセスの第20年の後半,紀元前455年のアブの3日もしくは4日であり,預言の69週が始まったのはこの時です。―ネヘミヤ 2:11 ― 6:15。
11 アルタクセルクセスが王位についたのは何年ですか。では,その治世第20年はいつですか。
11 アルタクセルクセス1世の治世の初まりが紀元前474年であることは,斯界の権威者によって確定されています。アルタクセクセス治世中に生存したギリシャの史家ツキジデスによれば,テミストクレス将軍がギリシャをのがれてアジアに着いたのは,アルタクセルクセスが「王位に就いてまもなく」のころであり,その父クセルクセスの在位中ではありませんでした。1世紀のギリシャの伝記作家プルタークおよび紀元前1世紀のローマの史家ネポスはともにこの点でツキジデスを支持しています。このテミストクレス将軍は,(小アジアの)エペソに到着するや直ちに,王の前に立つまでの1年間ペルシア語を勉強させてほしいと王に懇願しました。その願いは許され,そして王にまみえましたが,1世紀のギリシャの史家ディオドラス・シクラスによれば,テミストクレスは紀元前471年に死にました。このことと一致して,ジェロームのユーセビウスにもあるとおり,彼がアジアに着いたのは473年であり,その結果,アルタクセルクセスは474年に王位に就いたことになります。ゆえにこの王の治世第20年は紀元前455年にあたります。以上の事実および他の歴史上の証拠に基づいて,著名な学者エルネスト・ヘングステンベルグ(1802-1869)は自著,「旧約聖書のキリスト論」,第2巻,389頁に一部こう述べました。これはリューエル・ケイスのドイツ語からの翻訳です。「アルタクセルクセスの第20年はキリスト前455年である……」。そしてアッシャー大司教その他もこの点で同意しています。
12 アルタクセルクセスの治世にかんするこの知識がイエスのバプテスマの時を定めるのにいかに役だつかを説明しなさい。
12 それで,エルサレムの再建を命じた有名なアルタクセルクセスの勅令が出され,実施された年として確定された紀元前455年に基づいて計算すれば,メシヤの出現を待つ483年の期間は,西暦29年後半に終わったことになります。a 以上のすべての事実を考えれば,イエスがバプテスマを受け,油をそそがれた年を確定する証拠にはたしかにことかきません。
13,14 (イ)イエスは西暦29年にバプテスマを受けたのですから,その誕生はいつですか。(ロ)しかし一部の批評家はイエスの誕生を何年と見なしていますか。それはどんな証拠に基づく見解ですか。(ハ)ヘロデがエルサレムを手中に収めた年は,イエスの誕生の年を決定するのにどのように役だちますか。
13 イエスがバプテスマを受けた年は西暦29年と確定され,その時彼は30歳でしたから,その誕生は紀元前2年の秋と定められます。それでイエスは紀元前1年の秋には誕生後1年を経ました。零年はありませんから,翌西暦1年の秋,彼は2歳で,同29年の秋,イエスは30歳になりました。しかしイエスの誕生を紀元前4年,あるいはさらにさかのぼって紀元前6年とする年代学者もいます。それは,ヘロデの没する少し前に月食が起こったというヨセハスの記述をもとにして計算したためです。(「ユダヤ人古代史」,第17巻,第6章,4節)これまでの計算によれば,紀元前4年3月13日にそのような月食が生じており,ゆえに救い主はその日付以前に生まれ,こうして,2歳またそれ以下の赤子を殺せとヘロデの命令が出されることになったのだと論じられています。
14 しかし,これはイエスの誕生を紀元前4年とする十分の証拠とは言えません。月食は比較的に普通の出来事であり,1年に2度生ずるのも珍しいことではないからです。もっと重要なのは,ヘロデはローマ政府によって王位に就けられて37年後に没したというヨセハスの記述です。(同古代史,第17巻,第8章,1節)実際のところヘロデは紀元前38年の夏までは,まだエルサレムを手中に収めてもおらず,王位に就いていませんでした。それで,もしヨセハスがヘロデの治世の始まりを,3年前にローマ元老院から同意を受けた時ではなく,エルサレムを掌握し,かつ実際に王として統治しはじめた年と見なしているとすれば,ヘロデの死は紀元前1年となります。この計算でゆけば,イエスが紀元前2年の秋に誕生し,カルデアの占星術者の訪問を受け,またベツレヘム一円の無実な赤子の殺害が起こったと十分に考えることができます。―マタイ 2:1-18。
15 メシヤが「第七十週」のなかばに断たれたのであれば,それは西暦紀元の何年にあたりますか。
15 70週年にかんするダニエルの預言の残りの部分もこれらの年代を確証しています。ダニエル書 9章26,27節は,「メシヤ絶れん ただしこれは自己のためにあらざるなり」と述べていますが,この出来事は,69週ののち,そして70週の「なかば」に起こりました。この最後の週,第70週は当然,他の69週の各1週と同じ長さですから,それは7年の期間です。ゆえにメシヤは,7年の長さをもつ第70週の「なかば」,つまり西暦29年の秋から3年半ののち,すなわち西暦33年の春に絶たれました。「その週のなかばに犠牲と供物を(正式に)廃せん」とあるとおり,その時,律法契約は犠牲とともに「〔刑柱〕につけ」られ,正式に廃止されたのです。(ダニエル 9:27。コロサイ 2:14,〔新世訳〕)こうして,イエスはその宣教中,聖書にしるされているとおり,b 年1度の過ぎ越しの祝いに4回あずかることができました。
16 イエスが西暦33年4月1日の金曜日午後に死んだことをさらに証明するどんな天文学的事実がありますか。
16 天文学上の特定の事実も,また,イエスが西暦33年に死なれたことを確証しています。この出来事は,木曜日の午後6時に始まって翌金曜日の同じく午後6時に終わる,ニサン14日の24時間の1日のうちに起こりました。それでイエスは金曜日の「九時」つまり午後3時に死なれたことがわかります。(マルコ 15:34-37,新世訳)過ぎ越しの翌日,ニサンの15日は,週のどの日にあたっても,これにはかかわりなく安息日でした。(レビ 23:6,7)それがもし予定の毎週の安息日にあたれば,イエスの死の場合がそうだったように,ニサンの15日は「大安息日」となりました。(ヨハネ 19:31,新世訳)さて,天文学的計算によれば,c クレゴリー暦の西暦33年3月31日,木曜日の夜,そのような過ぎ越し時の満月が生じました。イエスの宣教中,ニサンの月の木曜日に満月となった他の唯一の例は,西暦30年だけです。しかしその時は,メシヤが宣教を6か月行なえただけで,その死の年とはなり得ないので,問題になりません。ゆえに,イエスが西暦33年4月1日の金曜日の午後,死なれたということにはまず疑問の余地がありません。
西暦36年から49年までの出来事の年代を確定する
17 「第七十週」の残りの期間には何が起こりましたか。またその週はいつ終わりましたか。
17 メシヤが刑柱上で死を遂げられたのちの第70週の残り3年半の期間は西暦36年の秋に終わりました。その間,天の御国級への,エホバの特別な招待は,ユダヤ人およびその改宗者にのみひきつづき差し伸べられました。それは次の預言どおりでした。「彼一週のあひだ衆多の者と固く[アブラハムの]契約を結ばん」。(ダニエル 9:27)救いの福音が西暦36年の秋まで異邦人に伝えられなかったのはそのためでした。そしてその時,使徒ペテロがコルネリオおよびその家の者たちにバプテスマを施す特権にあずかったのです。―使行 10:1–11:18。
18 西暦36年の秋には何が始まろうとしていましたか。
18 さて,西暦36年の秋の到来に及んで,キリストについて伝道するわざは,異邦諸国に大いに広げられる時となりました。ここでもまた,偉大な時間厳守者で,かつご自分のわざのいかなる新しい分野に関しても時間どおりに適切な備えをなさるかたであるエホバが,「異邦人の使徒」となるべく十分の用意のできた人物,つまり使徒パウロとなったタルソのサウロを備えておられたことがわかります。―ロマ 11:13。ガラテヤ 2:8,9。
19 パウロは与えられた割当てにかんして36年までに用意を整えていましたか。
19 その西暦36年,もはやパウロは新しく改宗したばかりの新参者ではありませんでした。ユダヤ人でしたから,36年まで待って改宗する必要はありませんでした。33年,イエスが活動舞台を去ったのちの最初の年に,彼は真理の光に打たれたものと思われます。その後,2年か2年半,パウロはダマスコで働き,ついには,かごに入れられて,その町の城壁の穴から吊りおろされて脱出する羽目にあいました。しばらくのあいだアラビアに行っていた彼は,ついにダマスコに戻り,まもなくエルサレムに上りました。それは改宗して3年後であるとパウロ自身述べていますから,エルサレムでペテロとヤコブを初めて尋ねたのは西暦36年のことです。彼はこう述べています。「その後シリヤ,キリキヤの地方に往けり」― 使行 9:3-25。ガラテヤ 1:15-21。
20 エルサレムにある統治体が割礼の問題で決定を下したのはいつですか。
20 ガラテヤ人にあてたこの同じ手紙の中でパウロはさらにこうしるしています。「そののち十四年をへて…またエルサレムにのぼれり」。(ガラテヤ 2:1)序数を用いる当時の計算の仕方に従えば,36年から数えて第14年は西暦49年となります。エルサレムを訪問したこの時に持ち上がったのが割礼の問題で,それは統治体に提出され,落着しました。―使行 15:2-29。ガラテヤ 2:3-9。
21,22 聖書にしるされているどんな出来事が西暦41-49年の間に起こりましたか。
21 西暦36年から49年にはほかにも興味深い出来事が起こっており,それは聖書にしるされています。たとえば,クラウディウスが皇帝のころ,ヘロデ・アグリッパ1世の没する少し前,預言者アガボはエホバの霊に動かされて,来たるべき飢饉を預言し,使徒ヤコブはヘロデの手にかかって殉教し,またペテロはエホバの御使いの助けで,その同じ窮地より救い出されました。―使行 11:27–12:11。
22 それらの出来事が西暦44年に起こったことは,一般の歴史でも認められています。クラウディウスの即位が宣言されたのは41年であり,ヘロデ・アグリッパ1世が虫に食いつくされて死んだのは,西暦44年の過ぎ越しののちだからです。(使行 12:21-23)しかし預言された飢饉は46年になるまで生じませんでした。当時,ユダヤのローマ行政長官はチベリウス・アレクサンダーでした。それで満2年の余裕があったので,アンテオケのクリスチャンは緊急事態に備え,記録にあるとおり救援対策を設け,万全を期すことができました。これらの出来事ののち,ひきつづき聖書の使徒行伝 13,14章にはパウロの第1回宣教旅行のことがしるされています。バルナバを同伴したパウロはキプロス島を訪れ,その後シリヤのアンテオケに戻る前に,小アジアの多くの都市を尋ねました。この第1回旅行は47年そして48年の大半に及んだようですが,前述のとおり49年の春エルサレムに上る以前に,郷里アンテオケに戻る余裕も十分にありました。
パウロの宣教上の他の出来事の年代を定める
23,24 パウロが波乱に富む第2回宣教旅行に上ったのはいつですか。そして,ギリシャのコリントに着くにはどれほどかかりましたか。
23 さて,西暦49年から52年にわたるパウロの第2回宣教旅行の行程中の日付を定めるのに,聖書のすぐれた記録がいかに役だつかを見てください。エルサレムの統治体によって作成された特別の手紙を携えたパウロは,49年の春アンテオケに戻りました。その写しはわたしたちのために保存されています。(使行 15:23-29)記録によれば,「数日ののち」,そしておそらくその同じ年,49年の夏のころ,バルナバはキプロスでのわざに戻りましたが,パウロとシラスはシリアおよび隣りのキリキアの諸会衆で奉仕するため旅立ちました。―使行 15:36-41。
24 ゆえにパウロとシラスが小アジアに移り,そこを通って初めてヨーロッパにはいったのは西暦50年の春に違いありません。(使行 1:1-12)その後の6か月間はきわめて忙しい時でした。これら開拓者たちは,新たな道を切り開き,50年の秋にコリントに達する前に,ピリピ,テサロニケ,ベレアそしてアテネに新しい会衆を設立したのです。何という目まぐるしい奉仕の年だったのでしょう! 考えてみてください。およそ15か月の短時日に,1世紀のこれら宣教者たちは優に2000キロを越す旅路を,おそらくその大部分を徒歩で進み,そのうえ,ユダヤ人および異邦人から成る数多くの新しい会衆を設立したのです。
25 パウロは西暦50年の終わりごろにはコリントに着きましたが,このことを示すどんな歴史的証拠がありますか。
25 パウロがコリントに着いたのは50年の終わりごろでした。このことは一般の歴史の上でも確証されています。5世紀初頭の史家パウロス・オロシウスによれば,クラウディウス皇帝が全ユダヤ人に対してローマからの退去を命じたのは50年の1月25日でした。時を移さずアクラとプリスキラは持ち物をまとめ,通行許可証を入手し,まもなく出帆し,しばらくしてコリントに着きました。その後,1年半ほど住むことになった新しい家に落ち着き,テントを作る仕事にとりかかったのです。そのすべては,パウロが同年の秋コリントに着くまでの何か月かの間に生じました。聖書はこうしるしています。「パウロ…アクラといふ…ユダヤ人に遇ふ。クラウデオ,ユダヤ人にことごとくロマを退くべき命を下したるによりて,近頃その妻プリスキラとともにイタリヤよりきたりし者なり」― 使行 18:2。
26 パウロがコリントに50年の秋から52年の春まで滞在したことを確証するどんな証拠を考古学者は発見しましたか。
26 同じ使徒行伝 18章の12節の記録は,聖書の歴史上の記述の正確さを証明するもう一つの例となります。その句は次のとおりです。「ガリオ,アカヤの総督たる時,ユダヤ人,心を一つにしてパウロを攻め,さばきの座にひきゆ(く)」。考古学者は,皇帝クラウディウスの勅令をしるした,碑文の断片を発見しました。そしてガリオは51年の夏から52年の夏までアカヤの総督だったことが証明されました。ガリオによってその訴えが却下されたのち,パウロは,シリヤのアンテオケに向けて出発するまで,コリントに久しくとどまりました。(使行 18:18)それでパウロはコリントに50年の秋ごろ着き,1年ほどしてガリオの前に引き出され,その後,聖書にしるされているように,合わせて18か月とどまったのち,52年の春その地を去りました。(使行 18:11)こうして彼は,西暦52年盛夏,アンテオケに着くこととなりました。
27 故郷アンテオケに戻った今,パウロは安心して隠退しましたか。
27 全時間宣教者奉仕の多忙な長い歳月を経,かつ1世紀当時の旅行に伴う危険や苦難をことごとく耐えたパウロは,隠退してここアンテオケに落ち着き,安楽な老後を送ったのではなかろうかと考える人があるかもしれません。(コリント後 11:26,27)しかしそうではありません! パウロはひとときといえども隠退を考えませんでした。その書簡,その活動のすべてには,なおいっそう迅速に,かつ効果的にわざを推し進めねばならないとの絶えざる緊急感がうかがえます。
28 パウロの第3回宣教旅行に関し,訪れた場所およびその期間について述べなさい。
28 ですから,アンテオケにしばしとどまったのち,この精力的な宣教者は再び旅立ちますが,驚くにはあたりません。アンテオケに「しばらくとどまりてのち」,おそらく52年の秋ごろ,彼は3回目の旅行を始めました。このたびは陸路,「ガラテヤ,フルギヤの地を次々にへてすべての弟子を堅う(し)」,エペソに着き,そこにその後2年半とどまりました。(使行 18:23; 19:1-10)次に,彼はそのことばどおり,五旬節の祝い(55年)ののち,マケドニヤを経て,コリントに下り,その地で冬を過ごし,今度は同じ道筋を戻って翌年春の過ぎ起しの時にはピリピにたどり着きました。こうしてパウロは西暦56年の五旬節までにはエルサレムに戻ることができたのです。―コリント前 16:5-8。使行 20:1-3,6,15,16; 21:8,15-17。
29 エルサレムで捕えられてから,ローマで死ぬ時までにパウロが経験した事柄の年代は,どのように定められますか。
29 しかしエルサレムに着くやいなやパウロは宗教上の敵対者から直ちに襲われ,不本意にもローマ軍の手でひそかにカイザリアに向けて護送されました。そして,わいろをこととする狡猾な総督ヘリクスに代わってフェストが任官するまで2年間,拘禁されました。(使行 21:27-33; 23:23-35; 24:27)フェストが総督となった年にかんして大英百科事典は,55年あるいは60-61年として互いに争い合う批評家二派についてこう述べています。「真実はそれら両極端の中間にあると確言できよう。それは,いずれの側の論議も相手側の誤まりを証明できるほどに一方の極端を証明してはいないと思えるからである」。d ゆえに,前述のすべての事実に照らして考えるとき,パウロが皇帝に上訴して,聞き届けられ,ローマに向けて出帆した時としては,58年が妥当であると言えるでしょう。歴史に残る最も有名な難船にあって命拾いをしたのち,マルタ島で一冬を過ごし,翌59年の春,ローマに着いたパウロは,囚人として2年その地にとどまり,61年まで伝道し,また教えました。(使行 27:1; 28:1,11,16,30,31)パウロはローマでの2度目の投獄の際に殉教の死を遂げましたが,その期間はおそらく西暦64-65年のころでしょう。―テモテ後 1:16; 4:6,7。
30 1世紀の出来事をこうして調べることにはどんな益がありますか。
30 以上,1世紀の出来事を回顧してみましたが,それはいずれも興味深く,かつ信仰を強めるものでした。聖書の筆者は現代の暦法については何も知りませんでしたが,出来事の日付を記録するに際して用いた方法,その慎重さおよび正確さは,古代のさまざまな事件を時間の流れの中で正確に位置づけるのにいかに貢献しているかがわかります。聖書の年代表が詳細な点でも調和しており,真実が正しく取り扱われていることを知り,聖書に対するわたしたちの確信と信頼の念はさらに深められ,聖書はまさしく真理をしるしたエホバのみことばであるとの信仰はますます深められます。
[脚注]
a この年代を計算するに際して,紀元前1年と西暦1年とのあいだに零年のないことを考慮に入れます。
c パーカー,ドゥッベルスタイン共著,「紀元前626年-西暦45年にわたるバビロニア年代記」,1942年版,46頁。また,オッボルゼル著「月食総覧」,1887年版,第2巻,344頁。
d 大英百科事典,1946年版,第3巻,528頁。また,ヤング編,聖書分析索引,「フェスト」の項,342頁。
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『すべての国の民への証言』ものみの塔 1968 | 11月15日
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『すべての国の民への証言』
エホバの証人の1968年度年鑑より
ザンビア共和国
人口: 3,780,000人
伝道者最高数: 35,525人
比率: 106人に1人
何千人もの生徒が放校され,わざを禁止するという政府官憲の脅迫は後を絶ちません。ラジオや新聞には間違って報道され,仕事ははく奪され,暴徒に襲われることさえあります。こうした中でザンビアの兄弟たちはひるむことなく,停滞することなくかえって全分野にわたって奉仕を拡大しました。
北西領域にある孤立した地方,カボンポという所に,女や子供も含めて400人ばかりの兄弟が特別な集会のために集まっていました。プログラムの始まる
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