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これが幸福への道ですか目ざめよ! 1979 | 11月22日
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ば,すぐに滅びなければならないものです。それは人間の禁止命令や教えにすぎません。確かにそれは,その押し付けられた信心深さ,そして苦行,体に対する厳格さのゆえに,知恵の様を取ってはいますが,肉欲と闘う点では全く役に立ちません」― コロサイ 2:20-23,新英訳聖書,欄外。
極端な「苦行」は見せかけのもので,「知恵の様を取って」いるにすぎません。それは,神を喜ばすことにも,幸福を得るのに役立つことにもなりません。
では,主に快楽を求めて生活するという,もう一方の極端はどうでしょうか。それが,生きる純粋の喜びを得る道ではないでしょうか。多くの人はそのように考えています。そうした人々の,快楽を追求する並外れな行為の幾つかは,次の記事の中で取り上げられています。
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遊ぶことに全力を傾ける人々目ざめよ! 1979 | 11月22日
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遊ぶことに全力を傾ける人々
その結婚式は,幾百人もの見物客を集めました。結婚の行列が進んで行く間,見物人たちは結婚行進曲を歌いました。市長は言葉を選びながら,その式典は普通のものとは幾分趣を異にすると述べましたが,その理由は出席者すべての目に明らかでした。それは人間の結婚式ではなく,二匹のヤドカリの結婚式だったのです。
この催しはすべて,余暇を楽しく過ごす方法として,米国ニュージャージー州オーシャンシティーの住民たちが考え出したものです。これは,今日,その度合いを強める,余暇に取りつかれた状態を浮き彫りにしています。遊ぶことに全力を傾けようとする人は少なくありません。
米国では,レジャー産業が産業中第一位を占めている,と言う人もいます。生活費の高騰をしり目に,レジャーにつぎ込まれたお金は,1965年の583億㌦(約11兆6,600億円)から1977年の1,600億㌦(約32兆円)へと増加しました。米国商務省の娯楽問題担当官は,「アメリカはレジャー精神を発達させている。現在のこのブームは衰えるきざしを見せていない」と述べています。1985年には,アメリカ人は全体として,年間3,000億㌦(約60兆円)をレジャーにつぎ込むものと考えられています。
新手の遊びを見いだす
近年になって,人々が仕事から離れている時間を費やす方法は,驚くほど増加しました。例えば一つのグループは,“古代キャンプ”なるものを造りました。そこでは,1820年以前に作り出された道具しか使うことが許されません。キャンパーたちは,フレンチ・アンド・インディアン戦争当時の特色を反映した衣装で身を包み,二週間を過ごします。
さらにまた,「独創的アナクロニズム協会」というのがあります。余暇の時間に,その会員たちは中世にいるかのような服装や様式で生活します。会員たちは四つの“王国”に分かれ,その王国はさらに男爵領や州などの小さな地域に分けられます。その活動の中には,武器はなまくらであるとはいえ,完全武装して行なわれる戦闘も含まれています。実際の武器で打たれたら,傷だけですんだか,あるいは殺されていたかを判定する審判も選ばれます。
別の新手の遊びは,“浴槽<バスタブ>レース”です。ニューヨーク州のサラナク湖では,人々が本物の浴槽に船外機を取り付け,うなりを上げて湖面を走り回ります。同じような活動をしているのは,米国ミズスマシ・レース協会です。しかしこの団体は,波間をかき分けて進むのに浴槽ではなく,古くなって捨てられたフォルクスワーゲンの“カブト虫”を使います。屋根を取り外し,車に防水処置を施してから,駆動軸にスクリューを取り付けます。
余暇に対してこれほど関心が寄せられるのはなぜか
今日,余暇の活動にこれほど多くの関心が寄せられているのはなぜでしょうか。中には,予想もしないような答えを出す人もいます。メリーランド大学の余暇研究学部のジョン・W・チャーチル博士はこう述べています。「労働の意義が変化してきた。我々には,生産的でありたい,物事を成し遂げたり,生み出したりしたいという強い衝動があると思う。これはごく基本的な必要であろう。この必要を自分の仕事で満たせない人々が非常に多いので,いきおい余暇だけが成功を収めることのできる場になる」。チャーチル博士は,余暇に重きを置く現在の風潮を,「生産性へ向けての転換」と見ており,生産性を下げる傾向とは見ていません。
今日,余暇に対する関心が高まっている別の理由は,多くの人が収入や地域社会での地位を成功の尺度とはみなさなくなったことにあります。そのかわりに,とっぴな余暇の活動を通して作り上げられる自己の姿をもって成功とみなすのです。そうした人々の願いは,ただ単に遊ぶことではなく,めざましい遊び方をして認められることです。
余暇に対してこのように大きな関心が寄せられているより根深い理由は,最近見られる,“自己”に対する関心の爆発にあります。しかし,自己に関心を向けてはいけないのでしょうか。楽しみを持つことによって自己に対する関心を表わすのは間違っていますか。必ずしもそうではありません。自分に対するある程度の関心や健全なレクリエーションは有益です。しかし,次の記事の示すとおり,娯楽はしばしば手に負えないものになることがあります。
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遊びが割りに合わなくなるとき目ざめよ! 1979 | 11月22日
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遊びが割りに合わなくなるとき
ある人々の考えとは反対に,聖書は楽しく時を過ごすことを非としていません。イエスは,最初の奇跡として,底を突いたぶどう酒を補充し,結婚の宴の歓びを増し加えました。(ヨハネ 2:1-11)イエスがしばしば宴席に連らなっておられたことは,その反対者たちが大酒や大食という偽りの口実をもってイエスを非難した事実からも明らかです。―マタイ 11:19。
聖書は生活を精一杯楽しむように歓めています。賢明な一聖書筆者はこう述べます。「わたしは歓びをほめた。人間にとって,食べて,飲んで,歓ぶことに勝るものは日の下に何もないからである。またそれは,真の神が日の下で彼らにお与えになった,命の日の間にその労苦によって当人に伴うべきものである」― 伝道 8:15,新。
しかし,余暇や楽しみのための活動を追求し,それが過度に及ぶ場合はどうでしょうか。快楽を追い求めることが,人の生活の主要な関心事になる場合はどうですか。そのような場合,遊びに,休息や気分転換,楽しみなどの望ましいおまけが付くことはありません。むしろ,当人や他の人々に害が及びかねません。
当人に及ぶ害
多くの人は,過度の飲酒にふけって余暇を過ごします。聖書の箴言には,そうした行為の及ぼす害が生々しく描写されています。
「飲み過ぎる者,極上の酒を試さずにはいられない者を示せ。そうすれば,惨めで,しょげ返り,いつもいざこざを起こし,いつも不平を言っている者をご覧にいれよう。その者の目は血走り,受けずに済んだかもしれない打撲傷を負っている。ぶどう酒に誘惑されてはならない。たとえ,それが濃い赤色で,杯の中で泡立ち,なめらかに下ってゆくとも。翌朝,あなたは毒へびにかまれたような思いをする。あなたの目の前には怪しい光景が浮かび,はっきりと物を考えることも,話すこともできなくなる。あなたはあたかも,海に出て,船に酔い,波にもまれる船のはるか上の張り綱で揺られているような気分になる。あなたは言う,『わたしは打たれたに違いない。わたしは打ちのめされたに違いない。でも,それを覚えてはいない。どうして起きられないのだろう。迎え酒が必要だ』」― 箴 23:29-35,今日の英語聖書。
とはいえ,アルコールの乱用の有害な結果は,快楽に重きを置く余り生じる害のうち,当人に累を及ぼすものの一分野に過ぎません。ジョン・ノルトハイマーは,ニューヨーク・タイムズ紙の中で次のように伝えています。「余暇の時間と中流階級に広く分配された富のおかげで,英気を養うこと,運動すること,あるいは単にスリルを味わうためレクリエーションの名の下にある程度の危険に身をさらすことを求めるアメリカ人の数は急激に増加している」。
同記者は,「メトロポリタン生命保険会社の統計家の計算によると,毎年約1万人のアメリカ人が,楽しみや冒険のため面白半分に何らかの危険を冒し,その結果として死亡する。そしてその数字は増加の一途をたどっている」。
「休暇中に神経衰弱になる」人々
余暇の時間は精神面の問題を引き起こすこともあります。パレード誌(1978年6月11日号)の一記事は,その冒頭で次のように述べています。「どうして休暇中に神経衰弱になる人々が多いのだろうか。休暇の時期のどんな点が,精神的な変調をきたすきっかけになるのだろうか。(オーストリア)インスブルック診療所のハインツ・ブロコプ博士は,その乱れの原因を,多くの行楽客の孤独感,そして新しい環境に順応する点での問題,退屈感,休暇の準備の後の幻滅などに帰している。同博士はこう述べている。『毎年,世界各地からオーストリアを訪れる行楽客は250万を超え,そうした人々は一応休息を取り,くつろぐために来ることになっている。ところが,休息とくつろぎだけは得られなかったというような人が大勢押しかけるので,私は大忙しになる』」。
単に自由な時間があるというだけで,幸福になれるわけでないのは明らかです。その上,人々が余暇の時間を過ごす方法の多くは,心身両面の乱れを引き起こします。残念なことに,余暇の活動から生じる悪い結果が当人を傷付けるだけでは終わらないことも珍しくありません。
他の人に及ぶ結果
人が余暇の時間に行なう事柄は,他の人々に影響を及ぼします。一例として,多くの土地で観光のもたらしている結果について考えてみるとよいでしょう。観光客が来れば,ホテルやプール,キャンプ場,そうした場所に行くための道路などが必要になりますから,多くの場合に,特定の地域の環境や経済が打撃を被ります。著述家ガイ・マウントフォートは次のように説明しています。
「生物学的に貴重な沼沢地は干上がり,川の流れは変えられ,土地の起伏はきれいにならされ,自然の植物は破壊されるか,もっと見ばえのする移植された種類に取って代わられる。ほどなくして,そこは他の人工的な行楽地と全く変わらなくなる。つまり,現代的で,機能的で,人為的な楽しさはあるが,魅力も風情もない所となる。土地の人に幾らか勤め口が提供されるが,大抵,短期滞在の専門労働者が移入され,利益の大半は外国の投資家や国内の他の地域へと流れて行ってしまう」。
自然の景観をそこなうことを何とも思わない行楽客は少なくありません。マウントフォートによると,ガラパゴス諸島では,「高さ30㌢になる文字をも含む無数の落書きが,多くの岩壁やがけの外観を完全にそこなってしまった」とのことです。それに加えて,不注意から来る空気や水の汚染,酒気帯び運転,その他快楽を追求する人々の過失などのもたらす悪影響があり,その結果は実に嘆かわしいものです。
どうすれば,快楽の追求にはめをはずして,有害な結果を招かないようにできるでしょうか。次の記事は,幾つかの有益な指針を与えてくれます。
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あなたは生活から真の喜びを得られます目ざめよ! 1979 | 11月22日
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あなたは生活から真の喜びを得られます
生活から楽しみを得たいと思わない人はいません。人々は大抵,余暇の時間に行なう様々な形のレクリエーションによって,その欲求を満たそうとします。レクリエーションが心身両面に益があるということを認めないわけにはゆきません。
しかし,近年,賃金が上がり,余暇の時間が増えた結果,多くの人は興味深い結論に達しました。そうした人々は,“良い生活をする”ことが問題を解決することも,長続きする幸福をもたらすこともないのを,経験から学んだのです。
では,どうすれば生活から真の喜びを得られるのでしょうか。ここで,ソロモン王の試みた実験を考慮してみるのは有益です。ソロモンは,ほとんどの人が真の幸福を得られずにいる理由を注意深く調べました。神の霊感の下に,ソロモンは自分の経験とそこから導き出した結論を伝道の書の中に書きました。快楽を追い求めて幸福を見いだそうとすることについて,ソロモンはこう書き記しています。
「わたしはぶどう酒で自分の肉体を元気付けて,心で探った。一方,わたしは知恵で心を導いていた。人間の子らにとって,彼らがその命の日数のあいだ天の下ですることにはどんな良いことがあるのかを見得るまでは,実に愚かしさを捉えるために。わたしはより大きな事業に従事した。自分のために家々を建て,自分のためにぶどう園を設けた。自分のために園と庭園を造り,その中にあらゆる果樹を植えた。自分のために水の溜め池を作って,樹木の生い茂った森林にそれでかんがいをさせた。わたしは下男や下女たちを取得し,家の者の子らを持つようになった。また,わたしよりも先にエルサレムにいただれよりも,家畜,牛や羊をおびただしく持つようになった。わたしはまた,銀や金を自分のために,そして王たちや管轄地区の特殊な資産を蓄積した。わたしは自分のために男の歌うたいや女の歌うたいと,人間の子らの無上の喜び,つまり婦人,いや婦人たちを作った。そしてわたしは,わたしより先にエルサレムにいただれよりも偉大で,増し加わった者となった。その上,外ならぬわたしの知恵はわたしのものとしてとどまった。そして,わたしの目の求めるものは何でも,わたしは自分の目から遠ざけなかった。わたしはどんな歓びも自分の心に得させないようにしたりはしなかった。わたしの心はわたしのすべての骨折りゆえに喜びに満たされたからであって,これはわたしのすべての骨折りからのわたしの分となった」― 伝道 2:3-10,新。
この聖書記述者は,アルコール飲料を飲むことからもたらされる幸福感を注意深く調べました。今日では,麻薬の乱用によっても,そうした感覚が追い求められています。また,巨万の富を蓄積し,自分の周りをパラダイスのように美しくしました。えり抜きの音楽による娯楽や「婦人,いや婦人たち」から得られる喜びを含むあらゆる種類の余暇の楽しみをさぐりました。
自分の調査が徹底したものであることを指摘して,ソロモンは次のように書いています。「そしてわたしは,まさしくわたしは身を翻して,知恵と狂気と愚かしさを見た。というのは,王の後に
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