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残酷な迫害に耐えて忠実を保つものみの塔 1963 | 8月1日
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ことはないばかりか,試練と同時に,それに耐えられるように,のがれる道も備えて下さるのである」。―コリント前 10:13,新口。
迫害のないうちに準備しなさい
迫害に対しては前以て備えておくことが必要です。迫害がなぜ許されているかを考え,とるべき道をいま考えておけば,迫害がきてもそれに対する心がまえができていることになります。
人は信仰,勇気,忠実を日毎に強め,まし加えなければなりません。どれだけ耐えるかは信仰の強さに比例し,信仰の強さは神に対する愛の深さに比例します。神への愛は知識を増し加えるにつれて深くなるものです。聖書を読み,学び,他のクリスチャンと交わって,そうする事から得られる深い確信を抱かねばなりません。また真理に生きることが必要です。真理を自分の身につけ,生活の上に真理をいかさなければなりません。そうするとき,日々,小さな試練を経ることになります。それに打ち勝ってゆくとき,後日臨むかも知れない大きな試練に耐える力が得られるのです。それにひきかえ,いまの日常生活において神の御心を行なうことをさしひかえているならば,後日激しい試練にあたって立つことができないでしょう。神とそのお目的について,いまできるだけのことを学んで下さい。学んだ事を心の奥におさめ,何事をするにもその知識に従って行なって下さい。試練のとき,神に頼るのは神を知る人です。その事を忘れてはなりません。
いまは世界史上において最大の危機のとき,神の民がふるわれ,試みられる時です。間もなくサタン悪魔はエホバの崇拝者に最後の総攻撃をしかけるでしょう。クリスチャンは神に全く信頼してこの残酷な迫害に耐え,勝利を得ます。クリスチャンは忠実を守って神にほまれと栄光を帰し,救いを得ます。「エホバを俟望みてその途をまもれ,さらば汝をあげて国をつがせたまはん,なんぢ悪しき者のたちほろぼさるる時にこれをみん」。(詩 37:34)残酷な迫害にも耐えて忠実を守る人にとって,これは大きな励みではありませんか。
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異言をかたるのは真の崇拝のしるしですかものみの塔 1963 | 8月1日
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異言をかたるのは真の崇拝のしるしですか
キリスト教国の宗派には,異言を語ることを重要視している派が少なくありません。そして真の崇拝には,異言を語ることが是非とも必要であると主張されています。このような宗派の出版物のひとつから引用しましょう。「我々は,五旬節の日にさずけられたと同じ聖霊のバプテスマを受けるべきである。聖霊を受ける者はすべて異言を語るであろう」。
世紀の変り目ごろアメリカで起きたリバイバル運動の中に,異言を語ることを特色とする運動がありました。一般的に言うとアメリカの聖霊降臨派の諸教会はこの運動に端を発してその後大きくなったものです。1906年のこと,この種のリバイバルのうち最も顕著なものがカルホルニア州ロサンゼルスで起きました。「突如として天から」と題する本はその模様を次のように伝えています。4月9日,「崇拝のために集まった人々は,あたかも雷にうたれたかのように,一人残らず椅子から床の上に投げ出されてしまった。7人が神をあがめる言葉を外国語で語り始めた。その声は熱をおび,非常に大きかったので,何事が起きたのかと人々が家のまわりに集まった」。
この出来事は五旬節に聖霊が下ったのと類似のもの,いわば第二の五旬節とも言うべきものであると,聖霊降臨派では見ています。そう言われると,次の疑問が生じます。異言を語ることは,今日,真のクリスチャンであることのしるしですか。異言を語るという奇跡の賜物が,1世紀のクリスチャンに与えられた目的は何でしたか。イエスは異言を語りましたか。
異言の賜物の目的
イエスは病気をいやし,死人をよみがえらせたほか,数々の奇跡を行ないました。イエスが神の真の預言者であり僕であることは,その行なった奇跡によって証明されたのです。それはモーセの場合と同様です。モーセは奇跡を行なうことにより,自分が神の僕であることを立証しました。しかしイエスは異言を語るという奇跡を行なっていません。この賜物がはじめて与えられたのは,西暦33年の五旬節の日でした。そのとき,異言を語るという賜物は,神の御霊がクリスチャンの上にあることを示すたしかな証拠となりました。
西暦33年の晩春,例年の通り五旬節を祝おうと,ローマ帝国の内外から大ぜいのクリスチャンが集まりました。その10日前に昇天したイエスの命令通り,120人の弟子はエルサレムにとどまり,約束のもの,すなわち「上から力を授けられる」のを待っていたのです。(ルカ 24:49,新口)その記念すべき日の朝9時頃,「突然,激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて,一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった……一同は聖霊に満たされ,御霊が語らせるままに,いろいろの他国の言葉で語り出した」。―使行 2:2-4,新口。
おそらくは10に余る外国語でイエスの弟子たちが語るのを聞いたユダヤ人は,何を感じましたか。聖書は次のように述べています,「だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った,『見よ,いま話しているこの人たちは,皆ガリラヤ人ではないか。それだのに,わたしたちがそれぞれ,生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは,いったい,どうしたことか……あの人々がわたしたちの国語で,神の大きな働きを述べるのを聞くとは,どうしたことか』」。―使行 2:5-11,新口。
ガリラヤ人がいろいろな外国語で語ったことは,神の御霊がイエスの追随者の上に留まっていることをこれら外国の人々に示す証拠となりました。それは奇跡でした。ロサンゼルスにおける聖霊降臨派のリバイバルで信者が大声に語ったのとは大きな相違です。というのは,エルサレムにおいては多くの外国の住人が「神の大きな働き」について,それぞれの国の国語で聞かされ,また教えられたからです。
五旬節の出来事からわかる通り,初期クリスチャンに聖霊が与えられたことには,福音の伝道に役立たせるという実際的な目的がありました。弟子たちに与えた最後の言葉の中で,イエスはそれを明らかにしました。「エルサレムから離れないで,かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい……ただ聖霊があなたがたにくだる時,あなたがたは力を受けて,エルサレム,ユダヤとサマリヤの全土,さらに地のはてまで,わたしの証人となるであろう」。―使行 1:4-8,新口。
エルサレムで神の聖霊を受けたイエスの弟子たちが異言の賜物を与えられたことは,世界各地から来た敬虔なユダヤの崇拝者にとってしるしとなり,また福音を伝道する際にも役立ちました。しかし五旬節の日におけるヨエル書 2章28-32節の真の成就は,御霊に満たされた人が一人残らず預言したことにあったのです。異言を語ることは,神のうしろだてを証明するしるしであって,付随的なものに過ぎません。―使行 2:16-22。
聖霊をそそがれた人が異言を語ったという例は,このほかに2回だけ聖書に記録されています。そのひとつは五旬節の日から約3年半の
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