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真理に帰るべき時目ざめよ! 1973 | 1月22日
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にも,責苦の場所という意味は少しもありませんでした。神に服従したイエスのような人びとをも含む,人類の普通の墓を意味したにすぎません。使徒ペテロは詩篇 16篇10節をイエスに当てはめて次のように述べています。『ダビデ彼〔イエス〕につきて言う…なんじわがたましいを〔地獄〕[ヘブル語でシェオール,ギリシア語でヘーデス]にすて置かず,なんじの聖者の朽果つることを許し給はざればなり」。(使行 2:25-27〔欽定訳〕)まさか“ジーザス・ピープル”の中に,イエスは死んで火の燃える地獄に行った,と主張する人はいないでしょう。イエスは,故意に信じようとしない者たちの完全な滅亡を象徴するために,エルサレムの共同じんかい焼却場であるヒンノムの谷(ギリシア語でゲヘナ)を幾度か用いました。人類の普通の墓にいる者たちとは対照的に,「ゲヘナ」に投げ込まれる者たちには復活の希望は差し伸べられていません。
“天国に運び去られる”
“ジーザス・ピープル”の多くは,イエスを受け入れた人すべての希望は,“天国に運び去られる”ことであり,イエスを受け入れた者たちがみな,突如,天国に連れて行かれる時にある,と信じています。
しかし,聖書の示すところによると,天の王国には『小さき群』である限られたグループがいることはいますが,大多数の人類の希望は,新しくされたこの地球の上で永遠に生きることです。―ルカ 12:32。
古代イスラエルに住んでいたダビデは,天に行くことを祈り求めませんでした。そのような希望は開かれてさえいなかったのです。というのは,小さな天的級がまだ選び始められていなかったからです。その代わりにダビデは確信を持って述べました。「されど謙だるものは国をつぎまた平安のゆたかなるを楽まん」― 詩 37:11。
“ジーザス・ピープル”が用いる出版物の中には,「新しい地」に言及しているものがありますが,彼らの集会にかなりの間出席している人びとでも,そういうすばらしい希望については聞いたことがないと言います。ですから彼らは,真理と将来に対する希望をいっそう深く探求する必要があります。
エホバ神はイザヤを用いて,その「新しい地」に行き渡る正しい状態を予告されました。その時には,今日よく見られるように,自分が建てた家,あるいは自分が植えたブドウ園からほかの者が益を得て自分は利用されるだけ,というようなことはありません。その預言が約束するところによると,おのおのは自分自身の労働の益を楽しみ,人びとは「その手のわざをながく楽しむ」でしょう。(イザヤ 65:17-24,口語)使徒ペテロは,昔のこの預言に言及し,次のように書きました。「されど我らは神の約束によりて義の住むところの新しき天[神の正義の天の政府]と新しき地とを待つ」― ペテロ後 3:13。
今日の若い人びとの問題は,この世のむなしい,利己的な追求をやめたときにどこへ行くかということです。もし,ほんとうに正しい公正な状態を愛するのであれば,きわめて近い将来に実現する神の楽園の地以上のものを望む必要はありません。
“飛び回る”
“ジーザス・ピープル”の多くは,からだが震える「ペンテコスト的」示現のことをよく口にします。「飛び回る」こと,「異言」を語ること,「いやし」を行なうことなどについて話します。使徒パウロは,「異言」を語るなどの示現を,キリスト教の揺らん期と関係づけています。(コリント前 13:8-11)「異言」の賜物に明確に言及したのち,彼は次のように言いました。『われ童子の時は語ることも童子のごとく,思うことも童子のごとく,論ずる事も童子の如くなりしが,人と成りては童子のことをすてたり』。同使徒自身の予告どおり,現在こうした事柄は過ぎ去ったものとなっています。
したがって,これらの顕示は,第一世紀のキリスト教に明らかに見られた「霊の賜物」の源とは異なるところから来ているにちがいありません。今日では,声を聞くとか,霊に取りつかれるというようなことは心霊術と関係があります。したがって,イエスの親しい弟子が与えている次の警告に注意する必要があります。『愛する者よ,すべての霊を信ずな,その霊の神より出づるか否かを試みよ。多くの偽預言者,世に出でたればなり』― ヨハネ第一 4:1。
教理に対する関心
“イエス運動”の存在は,霊的な事柄が,今日の多くの若者の関心を捕えることを示しています。いく人かの若者はさらに深く探求しました。彼らは,“イエス運動”が聖書を読むとはいえ,聖書の真の教えに完全にもどっていなくて,キリスト教世界から全く偽りの教理をいくつか持ち出していることを知りました。彼らはエホバの証人といっしょにさらに深く聖書を調べてみて,人間の魂の不滅,地獄の火,三位一体など,聖書ではなく異教に根をもつ,これまで信じてきた信条を捨てる必要に気づきました。今では彼らは聖書のすばらしい真理を活発に他の人びとに伝えています。
エホバの証人と聖書を勉強する人びとは,これが「即座の改宗」の問題でないことを発見します。それには勉強が要求されます。聖書の教理や原則や預言について学ばねばなりません。彼らは,流行に対する熱狂ではなく,ほんとうに堅い信仰の基礎 ― 知識に基づいた深い確信を築き上げます。
「あなたは実際にエホバの証人のどこに関心を持ちましたか」と,ある元“イエス運動”参加者は質問されました。
「教理です。理くつに合っていました」と彼女は答えました。
彼女は次のように説明しました。「わたしは王国会館に踏み込んで,『わたしの質問に答えなさい』と言いました。その答えががっちりと聖書に基礎を置いていたので,わたしは切り返すことができませんでした。抜け穴を捜しました。でもひとつも見つからなかったのです」。
聖書が差し伸べる,地球の近い将来に対する希望を理解すれば,麻薬の必要も,叫び声を上げ,手を打ち鳴らし,床を踏み鳴らす,興奮した集会の必要も感じなくなります。これらの約束を理解した人には,平静さと,理性的な決意とが心のうちに生まれ,このすばらしい約束をほかの人びとと分かち合うことに,大きな喜びを見いだすのです。
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真のキリスト教のしるし目ざめよ! 1973 | 1月22日
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真のキリスト教のしるし
大きな教会,あるいは長年,教会員であることが真のキリスト教のしるしでないことに,たいていの人は同意するだろう。しかしそれらのしるしは実際にどんなものであるべきだろうか。初期クリスチャンたちの間における福音伝道に関する著書の中で,E・M・グリーンが述べていることは注目に値する。
「初期の福音伝道における最も著しい特徴の一つは,それに携わった人々である。信仰を伝達することは,非常に熱心な,あるいは正式に任命された福音伝道者の領域であるとはみなされていなかった。福音伝道はすべての教会員の特権,また義務であった。われわれは,使徒たちとさすらいの預言者たち,貴族と貧しい人,知識人と漁師のすべてが,キリストによってその教会に委ねられたこの主要な務めに熱意を込めて携わっているのを見てきた。教会の一般の人々は,それを彼らの仕事と理解していた。キリスト教は形式張らない宣教者たちによって広められた,主として平信徒による活動であった……
「年齢,背景,性別,および教養の異なるそうしたさまざまな人々の示した感化力を伴うこの熱意は,彼らの生活の質によって裏づけられていた。彼らの愛,彼らの喜び,変化した彼らの習慣それに漸進的に変化した人格は,彼らが伝えた事柄に重要性を付すものとなった」。
このようなわけで,老若を問わず会衆内のすべての人による熱心な福音の伝道とともに,クリスチャンとして実際に変化したという証拠 ― これらが真のキリスト教のしるしなのである。
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