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偉大な教え手から学ぶものみの塔 1972 | 6月1日
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ませんか。(マタイ 24:19)確かにそうです。なぜなら,最初の適用の場合,その預言は,エルサレム市およびユダヤ州に臨むかん難のことを述べていたからです。きたらんとする荒廃を免れるには,その地域から山岳地方に逃げることが必要でした。ぐずぐずするのは愚かで,危険なことでした。もしクリスチャン婦人が脱出をのばし,逃げるための機会がほとんど終わろうとする時になって,みごもっていたり,乳飲み子をかかえていたりしていたならどうでしょうか。むずかしい事態に立たされたことでしょう。しかし,現代におけるその成就において逃げるということは,文字どおりの市や州から文字どおりの山岳地方へ実際に逃げることではありません。それは霊的な意味で逃げること,つまり対型的なエルサレムであるキリスト教世界,ならびにキリスト教世界がその一部となっている象徴的な大いなるバビロンすべてから完全に離れ去ることです。それらは皆,きたらんとするかん難において荒廃に帰することが定まっているからです。イエスの預言のこのより大規模な成就においても,音信は依然として同じです。すなわち,対型的エルサレム,つまりキリスト教世界からの脱出をのばしてはならないのです。しかしながら,今日このことは,地理的な意味での実際の移動をなんら必要としません。みごもっている婦人や幼い子どもをかかえた人々が文字どおりに旅行を求められるわけではありません。この意味において,キリスト教世界および大いなるバビロンの他のあらゆる領域から必要な霊的脱出をするのに特に不利なことはありません。しかし,もし家族の事柄にすっかり気を奪われて,エホバとの良い関係をつちかえなくなるなら,問題は別です。そのような婦人たちや他の人々すべてにとって,大切なのは,危険地帯から霊的な意味でのがれることをおくらせてはいけないということです。もし待っているなら,予測しなかった事態が生じて,のがれることがもっとむずかしくなるかもしれないからです。
18 (イ)聖書全巻を通じて,親であるということはどのようにみなされていますか。(ロ)それは,家族をかかえている人たちが他の人々の行ないうる奉仕と同じ種類のそれをすべて享受できるという意味ではありません。なぜですか。(ハ)事情がどうであれ,わたしたちはみな,神とそのみ子に対する奉仕をどのように行なうべきですか。
18 神のみことば聖書は,「子輩はエホバのあたへたまふ嗣業にして胎の実はその報のたまものなり」と述べています。(詩 127:3-5)このことは今なお真実です。親であるということは,聖書全巻を通じて誉れあることとされています。神から遣わされた偉大な教え手は,そのような誉れを減ずるようなことは少しも述べませんでした。一方,ある種の仕事,つまり使徒パウロが行なったような,広範な旅行や,弟子や他の人々に長時間宣べ伝えたり教えたりすることを伴う仕事となると,世話すべき大きな家族をかかえる人にとっては,そのような仕事をするのは明らかにほとんど不可能ですから,問題は結婚したクリスチャンがどの程度事情を調整できるかに応じて,神へのどんな奉仕に自分を役だてることを願い求められるか,あるいは自分の事情からすれば何を行なうことができるように思えるかということです。しかし,何を求めるにしても,また事情がどんなものであり,またどうなろうとも,わたしたちは神とそのみ子に対する奉仕に専心すべきです。それは,わたしたちが偉大な教え手の忠実な真の弟子であることを保証するものとなります。―ルカ 10:27。
自分の子どもをキリストの弟子にする
19 親であるということは,特権であるとともに,ほかに何であるといえますか。説明しなさい。
19 親であるということは,確かに,神から与えられた特権です。しかし,それはまた重い責任をも伴います。それもまた,神から与えられたものなのです。子どもの誕生と同時に,ある父親が“20か年計画”と呼んだもの,つまり成人に達するまでその子どもの世話を見る仕事が始まります。それは容易な仕事ではありません。子どもをいつも清潔にさせ,衣食住を備え,危害から守り,病気の際に看護し,教育を受けさせるなど,ひとりの子供の養育に要する時間とお金と労働のすべてを計算することは困難です。それは大へんな投資であり,深い愛と自己犠牲とを求めます。しかも現在の地上の状態 ― 犯罪や少年非行の増加,不安定な経済事情 ― は,すべて結婚した人々が子どもの養育に対していだく真剣な心配を増し加えるものとなります。
20 子どもが単に身体面の世話と教育を受けられるように取り計らうだけでは親の責任は十分に果たされません。なぜですか。
20 今日,世の多くの親は,子どもの身体面の世話をし教育を受けさせて知能の発達させることだけで満足しています。しかし,それが親の責任のすべてですか。決してそうではありません。もし親が偉大な教え手の弟子であれば,子どもが身体的に健康で,知的によく教育されて成長したとしても,子どもの思いが腐敗し,心が真実でなく,義にかなっていないなら,なんにもならないということを知っています。自分の子どもに人生のりっぱなスタートをさせたいと誠実に願う親は,近視眼的な態度でこのことを見すごしたりはしません。
21 (イ)子どもたちがイエス・キリストの弟子になるには,親は何をしなければなりませんか。(ロ)この世的な慣行に対するクリスチャンの見方をどれほどしばしば子どもと話し合う必要がありますか。
21 親である皆さん,あなたはご自分の責任を果たしておられますか。あなたのお子さんを弟子としておられますか。お子さんを偉大な教え手に導き,とこしえの命に至らせる知恵をその方から教えていただけるようにしておられますか。(ルカ 18:15,16)親がキリストの弟子であるからといって,単にそれだけで子どもが自然にキリストの弟子になるなどとは考えないでください。そうなるように子どもを教えないなら,子どもはイエス・キリストの追随者にはなりません。おそかれ早かれ,子どもたちは家庭外の人々と接するようになります。近所や学校での子どもたちと接するようになります。お子さんは,それら他の子どもたちから偉大な教え手について学ぶでしょうか。わたしたちはそう考えるような愚かな人間ではありません。子どもたちは,卑わいなことばを口にしたり,うそをついたりする人々と接することになるのです。品行の悪い人々と接することになるのです。品行の悪い人々,神の霊の実ではなく,堕落した肉のわざを生活態度に表わす人々を見ることになるのです。あなたはお子さんをこの面で備えさせましたか。そうしたものに染まらないようにするのに必要な霊的な強さを持つようお子さんを助けていますか。『はい,わたしはそうした危険について子どもと話し合いました』と言われるかもしれません。しかし,どれほどしばしばそうしてこられましたか。一度ですか。二度ですか。数回ですか。お子さんはそうした事柄に一度や二度や数度ではなく,何度も何度も,来る日も来る日も接するのです。このことを忘れないでください。こうした日ごとの圧力に耐えて,屈しないためには,お子さんは,そうした圧力に見合うように定期的に霊的な見方と強さとを新たにされる必要があります。
22 どうすれば,学校で生ずる試練に対処できるよう子どもを強化できますか。
22 子どもたちはおそらく学校で進化の理論を聞かされることでしょう。また,国家主義的な精神を示すよう,圧力を加えられるかもしれません。偽りの宗教の儀式や,異教に由来する他の祝祭に加わるよう誘われるかもしれません。お子さんは,こうした試練に会っても,偉大な教え手の教えおよびその父エホバ神に忠実を保つ覚悟ができていますか。あなたは,そうするようお子さんを備えさせましたか。それとも,お子さんが学校でそうした問題の一つに直面して,それに対処する心構えができていなかったので当惑して恐れ,もしかすると,まちがったことをしてしまったのではないかと思って泣きながら家に帰って来るまで手をこまねいて待っていますか。それが小さな子どもをどれほど当惑させるものとなるかを知ってください。お子さんに対して憫れみ深くあってください。皆さんはご自身の人生経験から,お子さんの生活にどんな問題が起こるのが必至かをご存じのはずです。天の父が何を望んでおられるかを知るよう,愛をもってお子さんを助けてください。ほかのだれにもまさってエホバ神を喜ばしたいという欲求をお子さんのうちに築かせ,ほんとうに大切なのは神がわたしたちをどう見ておられるかという点であることを認識させるようにしてください。―箴 29:25。詩 119:11。
23 (イ)クリスチャンの親はどんな点で,この世的な知恵だけで導かれている人々よりも有利ですか。(ロ)人生に首尾よく対処するには,子どもには何が必要ですか。それはいつ必要ですか。
23 偉大な教え手の弟子として,クリスチャンの親である皆さんには,この世的な知恵だけで導かれる人々に比べて,はかり知れない利点があります。世の人々には,神のみことば聖書の与える知恵と慰めと励みがありません。クリスチャンの親であられる皆さんは,子どもたちに対する供給者,保護者,教育者,訓練者としての任務を果たすにさいして,神の後ろだてに頼ることを知っています。皆さんは,ただお子さんに衣食住を与え,お子さんを学校に送れば,それで自分の務めは終わったのだと考えるような愚かな人ではありません。お子さんが人生に首尾よく対処するには,道徳上の指針,つまりそれにのっとって生活する原則が必要なことを皆さんはご存じです。そして,必要な導きと保護を受けるには,お子さんはそうした指針や原則を幼少の時に学びはじめることが必要です。
24 聖書の箴言は,適切な訓練を子どもに与えることの大切さをどのように強調していますか。
24 神のみことば聖書は,「子をその道に従ひて教へよ然ばその老たる時も之を離れじ」と命じています。(箴 22:6)一方,「任意になしおかれたる子はその母を辱しむ」,また,「愚なる子は其父の憂となり亦これを生る母の煩労となる」と述べています。(箴 29:15; 17:25)もちろん,愚かさは知恵の反対です。もし親が自分の子どもを偉大な教え手に,つまり『知恵と知識とのすべての宝がかくされている』方に導かないなら,子どもが無分別で愚かなこの世の道に従う場合,その親は重大な責任を負うことになるのではありませんか。そうです,子どもが助けを受け入れず,また生涯のじゅうぶん早い時期に助けを受け入れないと,痛ましい事態が起こるおそれがあり,またまさしく起きているのです。
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子どもを教えることはどれほど早くから始めるかものみの塔 1972 | 6月1日
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子どもを教えることはどれほど早くから始めるか
1 進化論によれば,幼少時の教育に対するどんな見方が薦められていますか。
お子さんを教えることをどれほど早い時期に始めれば,「じゅうぶん早い」といえるでしょうか。生まれてまもない最初の二,三年間は一種のきまりきった「過程」にすぎず,子どもは多かれ少なかれ一定の「段階」を自動的に経過するので,そうした誕生後の何年かの間に起きる事がらは子どもの後の人生に大きく影響するものではないと感じている人は少なくありません。しかしこれほどまちがった考えはありません。こうした考えはおおむねダーウィンの提唱した進化論を通じて一般化され
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