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マーティーはどこか悪いのだろうか目ざめよ! 1983 | 8月8日
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マーティーはどこか悪いのだろうか
まだ2歳にしかならないマーティーは絶えず動き続ける機械のようで,片時も座っていることができませんでした。真夜中まで床に就かず,朝は朝で早くから目を覚まし,すぐにでも飛び出そうと待ち構えているのです。してはいけない事をしただけでなく,何もかも壊してしまうようでした。筋肉の協働作用がうまくいかず,いつも自分の足につまずき,物にぶつかっているほどでした。周りの人々はマーティーの母親に,「男の子だから仕方がないですよ。そのうちよくなります」と言ったものです。
ところが,よくならなかったのです。5歳の時マーティーは,他の5歳児と比べて,自分の思っていることを言い表わすのにかなりの困難を覚えていました。自分の頭の中で考えをまとめる点で問題がありました。6歳になっても,アルファベットの文字を書くことができず,色を識別できませんでした。学校に入ると,問題はさらに増えました。じっとして座っていることができず,短い時間でも,グループ活動に注意を集中できないようでした。それでも学校の先生は,マーティーのことを,感覚の鋭い男の子で,正しいことをしようと一生懸命努力している,と評価しました。
マーティーはまた,少しのことですぐに気を散らされてしまいました。台所から洗面所まで手を洗いに行くのにも,途中でほかの事柄を色々せずにはいられず,洗面所に着いた時には,何のためにそこへ行ったのか忘れているといった有様でした。
そして,かんしゃくを起こすことがありました。ありったけ,しばしば驚くような仕方で怒りを表わし,けたたましい叫び声を上げ,じだんだを踏むのです。マーティーの両親がマーティーに何かをするように求める場合,それは必ず同じ事柄でした。きちんと聴いていなかったのです。しばしばおしりをたたきましたが,それも役に立たないようでした。マーティーの母親は途方に暮れていました。
悪い子なのでしょうか。いいえ。知恵遅れなのでしょうか。いいえ。それでは,知能が平均以下なのでしょうか。いいえ,実際のところマーティーの知能はごく普通です。では,何が問題なのでしょうか。実は,マーティーは学習困難症なのです。
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お子さんは学習上の問題を抱えていますか目ざめよ! 1983 | 8月8日
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お子さんは学習上の問題を抱えていますか
幾十万もの子供たちが学習困難症と診断されています。誤ってこうしたレッテルをはられている子供たちがあまりに多過ぎるのでしょうか。お子さんが学習困難症なのかどうか,どうしたら分かるでしょうか。
学習困難症という言葉は10年ほど前から広く使われるようになりました。これは,正常な知力を持つ子供が学習に不可欠な技能の一つかそれ以上をマスターするのを困難にさせている様々な症状を指しています。そのような子供たちの視力や聴力は正常で,目に見える身体的な障害もありません。それでも,潜在的な能力と実際に成し遂げる事柄の間にみぞがあるのです。
その原因は何でしょうか。残念ながら,研究の結論はまだ出ていません。しかし,幾つかの調査結果は,出産前後及び出産時の外傷,早産,妊娠中の母親の病気,長時間にわたる分娩や難産などによって生じた脳の部分的な機能不全を挙げています。ですから,学習困難症はしばしば,微小脳機能障害と結びつけられています。それには知覚力の欠陥が関係していることがあります。つまり,その子は,自分の五感を通して入って来る情報を解釈する面で困難を覚えることがあるのです。この障害が遺伝的なものである可能性を示す証拠もあります。例えば,女の子よりも男の子のほうがこの障害を抱える率が高くなっています。
徴候と症状
原因は何であれ,学習困難症の子供は非常に現実的な問題に直面します。そして,それは様々な仕方で現われることがあります。もちろん,一つの行動様式だけで学習困難症の子供を見分けることができるわけではありません。二人の子供が全く同じ仕方で物事を学んだり行動したりすることはありません。次に症状の幾つかを挙げることにします。軽症から重症まで程度は様々です。
● 視覚による認識の問題: 「黒板が見えない」とその子は言います。ところが,視力検査をしてみると,視力は正常であることが分かります。その子は成績が悪いことに対する言い訳をしているのでしょうか。その子が学習困難症なら,視覚による認識の問題のあることが考えられます。つまり,自分の見たものを解釈することに困難を覚える場合があります。わたしたちは目で物を見ますが,見た物を理解するのはわたしたちの目ではなく,脳なのです。
ですから,読み書きがその子にとって問題になるかもしれません。読む時に言葉を飛ばすことがあります。同じ音で始まる言葉が入れ替わってしまうこともあります(“skip”を“skirt”に)。読む時に文字を入れ替えることがあり(“stop”を“spot”に),書く時には文字をひっくり返したり(“b”を“d”に)単語全体をひっくり返したり(“saw”を“was”に)することがあります。
● 聴覚による認識の問題: どうして言われた通りにしなかったのかと親に尋ねられると,「聞こえなかった」と答えます。ところが,聴力検査をしてみると,聴力は正常であることが明らかになります。本当に聞こえなかったのでしょうか。わざと不従順にして手を焼かせているのでしょうか。
その子に聴覚による認識の問題があるなら,その子はある意味で,つまり内面的な理由で耳が聞こえないと言えます。その子には,他の人々の話がごたまぜになったものしか聞こえないかもしれません。そして,“批判”を聞くと混乱し,攻撃的な仕方で反応することもあるでしょう。幾つかの指示を与えられても,実際にはそのうちの一つだけしか聞かない場合があります。ところが別の時には,その子の脳はすべてを聞き,認識するのです。認識できるかどうかは,言わば五分五分という事態になります。
● 言葉の問題: わたしたちは自分たちの聞く事柄から自らを表現することを学びます。ところが,聴覚による認識の問題を持つ子供は,完全なあるいは普通の意味で物を聞いたことが一度もないと言えるかもしれません。そのために,自分の考えを十分に言い表わすことができません。時には言葉や概念がひっくり返ることがあります。「ママ,車が後ろに走ってる」とその子は言うかもしれません。しかし,車は実際には前へ走っているのです。
● 視覚的および聴覚的記憶の問題: 視覚あるいは聴覚の認識の問題を持つ子供はしばしば,それに続いて視覚的および聴覚的記憶障害を抱えるようになります。ですから,何かを口頭で告げられたり何かを行なうよう命令されたりしても,覚えていられないかもしれません。視覚的記憶の欠如が見られる場合,自分の読んだ事柄や物を置いた場所を覚えているのが困難になります。
● 時間と空間に当惑する: 学習困難症の子供は空間に,すなわち上下・左右・上方下方・内外などの概念に当惑することがあります。端的に言うと,自分の足は下の方にあるということがはっきりと分かっていない子供に,どうして棚は上の方にあるということが理解できるでしょうか。あるいは,その子に紙を箱の中に入れるようにと告げると,その子はそれを箱の下に入れます。
自分の体についても貧弱な概念しか持たない傾向があります。自分の体がどれほどの場所を占めるか判断できないのです。その結果,幾度も自分についての判断を誤ります。そうした子供の動きがぎこちなく,固い場合が多くても,同年齢の他の子供たちよりはるかに多くても,少しも不思議ではありません。
時間についてもずれているのが普通です。昨日,今日,そして明日という概念に戸惑いを覚えるようです。曜日や月の順序をいつになったら覚えるのか,と親には思えることでしょう。
● 筋肉の協働作用がぎこちない: 学習困難症の子供にはまた,運動技能の欠如していることがあります。そうした子供にとって,物を切ったり色をぬったり絵をかいたりすることは非常に困難であるかもしれません。同年齢の他の子供たちが大分前から自分の靴ひもを結んだり,自分で服を着たり,ナイフで自分の食べ物を切ったりしているのに,その子はそうした技能を身に着けることができません。スポーツはその子にとって困難です。バットとボールをうまく合わせることができないのです。
● 頑固で融通がきかない: 学習困難症の子供は頑固で融通がきかなくなるきらいがあります。自分の周りでどんな事が起きていようと,その子は自分の欲しい物を自分が欲しい時に求めるのです。物事の全体を見ることをせず,枝葉のことばかり見て,全体像を見失っています。毎日の決まった日課が妨げられると,ひどく気にします。
「あの子をどうにかできないのですか」
そのような子供が怒ったり欲求不満やかんしゃくを起こしたりしたとしても,何の不思議があるでしょうか。結局のところ,その子は情報のスケッチのようなものしか“聞いて”おらず,“見て”いないかもしれません。筋肉の協働作用がうまくいかず,級友たちからばか者呼ばわりされることもあります。何よりも悪いことに,親や教師にも理解してもらえないでいるかもしれません。
確かに,認識や時間の概念がほとんどいつもずれている子供と生活するのは容易なことではありません。そのような親は,他の親たちよりも思い煩いや失意に打ちひしがれることが多いでしょう。ところが残念なことに,そうした親の窮状を見て批判する人がよくいます。「あの子をどうにかできないのですか」と,批判的な第三者は言うかもしれません。
親は自分の子供にどこかおかしいところがあると感じますが,どこが悪いのか分かりません。それでも,早期発見は重要です。治療せずにほうっておくなら,そのような子供は内向的になって自分を孤立させ,潜在的な能力を十分に発揮できないままに終わってしまいます。
「先生,うちの子供には症状が全部出ているのです」
心配そうな顔をした親は,学習困難症に関するある雑誌の記事を握りしめて,そのように言うかもしれません。文字通り幾十万人もの子供たちが“学習困難症”と診断されています。もちろん,本当にその通りの場合もあります。しかし,あまりにも多くの子供たちに対して無差別にこのレッテルがはられているということはないでしょうか。
「LD[学習困難症]の範ちゅうに全く入らないのに,そうしたレッテルのはられている子供たちは少なくない」と精神科医のトーマス・P・ミラーは述べています。どうしてそのような誤ったレッテルがはられるのでしょうか。「親に責任はないという態度」が一つの原因である,とミラーは説明しています。心配顔の親はこう言います。「うちの子が十分に学んでいないのは,私が親の分を十分果たしていないからではありません。そうではなくて,原因はうちの子の学習困難症にあるのです」。でも,本当にそうなのでしょうか。“親の側の困難症”ということはないでしょうか。
あるいは,“教える側の困難症”ということがあり得るでしょうか。学習困難症にかけては衆目の認める権威者であるバーバラ・ベイトマン博士はこう語っています。「学習困難症は,本当に優れた教え方を必要としている子供たちを適切な仕方で教える面での公立学校の失敗に対する格好な言い訳として,信じられないほどよく用いられるようになっている」。
よく使われるもう一つの言葉で,しばしば学習困難症と結びつけられるのは,活動過多(あるいは,機能亢進症)と呼ばれる語です。a 活動過多とは何のことでしょうか。分子濃度調整論精神医学会の出版した報告によると,それは「身体の活動が ―“体の中に大旋風”があるかのように ― ひっ迫したものになり,他の子供たちの場合と比べてその子供の手に負えないものになる」状態のことです。その症状はどのようなものでしょうか。単時間しか注意を集中していられない,すぐに気が散ってしまう,衝動的に動き回る,一つの事になかなか集中できない,じっと座っていられないなどです。
「うちの子供のことを言われているようだ」と言う親があるかもしれません。しかし,慌てて自分の子供を診断してはなりません。落ち着きがなく,元気がよく,せかせかしているからといって,必ずしも活動過多というわけではありません。ある種の食べ物に対するアレルギー,睡眠不足,あるいは聴力や視力の障害などほかの原因があるかもしれません。
もちろん,数の面での誇張はあるものの,活動過多を伴う学習困難症は非常に現実的な問題です。お子さんが学習困難症ではないかと思える場合,どうすべきでしょうか。専門家の意見を求めることです。注意深い検査を経るまでは,子供に“学習困難症”というレッテルをはってはなりません。
お子さんの担任の先生と率直な話し合いをしてみてください。質問をすることを恐れてはなりません。教師の側の困難症ではなく,学習困難症であることを確かめるようにします。原因が何であるか,またそれについてどんな処置を施せるかを知るようにします。時には,問題を理解するだけで役に立つこともあります。では,ひとたび診断が下されたなら,その後,どうしたらよいのでしょうか。
[脚注]
a 学習困難症の子供の間ではかなりの高い率で活動過多が見られるものの,活動過多の子供すべてが学習困難症であるわけではありません。
[6ページの図版]
ざ折感 ― なぜ?
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親には何ができるか目ざめよ! 1983 | 8月8日
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親には何ができるか
「何をしてやってもだめだ!」「この子はちっとも分かっていない!」 ざ折感を抱いた親はこう言います。どうすれば学習困難症の子供に親の考えを分からせることができるのでしょうか。また,活動過多がその子の問題であるなら,それについて何ができるでしょうか。
学習の問題を抱える子供は,子供ならだれしも必要としているもの,すなわち親から愛され,理解され,受け入れられることを必要としています。しかし,そのような子供のためには余分の注意と時間が必要かもしれません。その子は,自分に“どこかおかしいところ”があると感じ取るかもしれません。その子は知恵遅れではなく,人並みの知力があるということを何度も何度も話して激励してやらねばなりません。学習するのにほかの人々より多くの時間を必要とするだけのことなのです。
多くの土地で,特殊な教育計画が利用できるようになっています。普通の仕方では学習しない子供を教えるためには特殊な教育技能が求められます。言うまでもなく,これは親にとって難しいことです。感情の問題になるからです。場所によっては,そのような子供たちを抱える親を助けるために設けられた組織があります。
それに加えて,家庭の状況を改善するために親にできることは多くあります。家庭環境を秩序正しく,愛と正しい事柄に対するき然とした態度とに満ちたものにするなら,その程度に応じて,お子さんは安心感と幸福感を抱くようになります。同時に,お子さんの抱える行動上の問題は学習困難症の直接の結果であるかもしれないということを銘記しておくとよいでしょう。ざ折感からそのような行動に出ているのかもしれません。学習困難症のお子さんを治療するためではなく,抑えるために役立つ幾つかの提案をここに挙げることにしましょう。
お子さんに聴覚による認識の問題があれば,お子さんに話す時にはその子が注意を払っているかどうかまず確かめるようにします。それからゆっくりと話し,一度にあまり多くの指示を与えないようにします。言われたことを自分で繰り返し言ってみるよう求めます。お子さんにはあなたの言うことがいつも“聞こえる”わけではないことを忘れてはなりません。事実,そのような子供たちはしばしば音を聞き違えます。「あれ,馬(horse)と言ったんじゃなかったの」と言うかもしれませんが,実際にはその言葉は「うち(house)」だったのです。指示を紙に書くようにし,それを子供のポケットの中に入れてやることもできるでしょう。お子さんはポケットに一杯の指示を入れて歩き回らなければならないかもしれませんが,少なくとも何をすべきかは思い出すことでしょう。
活動過多でもあるかもしれない学習困難症の子供を懲らしめるのは決して生易しいことではありません。マーティーの母親は思い出をこう語っています。「マーティーには善悪が分からないのだときめつけて,その行動を大目に見るようになりました。ところが,その年の終わりには以前よりも問題が悪化し,マーティーは私に対して全く敬意を示さなくなっていました」。
ですから,あきらめてはなりません。箴言 29章15節は賢明にもこう勧めています。「むち棒と戒めは知恵を与える。しかし,したい放題にさせて置かれる少年はその母に恥をかかせる」。しかし,どのようにしてそうした子供と意思を通わせることができるのでしょうか。
「行動に関しては,娘のことをよく知って,できないという反応としないという反応の違いを見分けられるように努めています。そうすれば,その問題を扱うに当たって思いやりを示すべきなのか,き然とした態度を示すべきなのかが分かります」と,学習困難症の娘を持つサンドラは語っています。
そのような洞察力があれば,公平さと正しい事柄についてのき然とした態度を子供に示すことになります。これはお子さんと意思を通わす上できわめて効果的なものになり得ます。
罰はどうしたらよいでしょうか。例えば1か月間テレビを全然見せないというような長い間続く罰は効果的でないのが普通です。なぜなら月の半ばには,その罰が何のためであったかを子供はもう覚えていないからです。多くの場合,行儀がいつも悪いと動物園に行くのを(あるいはその子が楽しみにしている別の事柄を)とりやめにする,と警告するほうが効果があります。もちろん,子供は,親が本気でそう言っているということを知らなければなりません。親は首尾一貫していなければなりません。「ただ,あなた方の“はい”という言葉は,はいを,“いいえ”は,いいえを意味するようにしなさい」と聖書は勧めています。(マタイ 5:37)これには本当に効き目があるでしょうか。
マーティーの母親はこう報告しています。「行儀の悪いときには必ず,同じ孤立した場所に4分間座らせるようにしました。時間をじゅうぶん与えても指示通りのことを行なわなかったり,ほかの子供からおもちゃをつかみ取ったり,かんしゃくを起こしたりしたなら,その場所へ行かせました。これは非常に効果的でした」。
非常に大切な事柄がほかにもあります。日課と組織的な物事の扱い方です。そうしたものがあれば,これらの子供たちに必要な,組織だった生活を送らせることができます。日課や組織的な物事の扱い方は混乱を少なくします。食事や宿題,起床,就寝などのための時間が決まっていることは,その子たちが良い習慣を身に着けるのに役立ちます。そしてひとたび予定表を定めたら,それに付き従うようにします。
お子さんの感情面の福祉のために一言。前の記事で述べた通り,学習困難症の子供は,多くの場合,他の子供たち以上にざ折感や失望を味わっています。どんなことをしてやれるでしょうか。子供は模範を通して多くの事を学びます。ですから,親が自分の失敗を笑ってすませることができるのを子供が見れば,自分も同じようにするための助けになるでしょう。自分の感情を口に出すようにさせてやるのも助けになります。親が自分の感情を子供に話すなら,子供が自分の感情を親に打ち明けるのも容易になるでしょう。
活動過多を抑えるにはどうしたらよいか
学習困難症の子供すべてが活動過多であるわけではないものの,活動過多の子供の率は著しく高くなっています。これは言うまでもなく,ただでさえ難しい事態を一層難しいものにします。学習困難症同様,活動過多も軽症から重症までその程度は様々です。落ち着きがなくても単に別の活動に切り替えて気分転換をするだけで,それを抑えることができる場合もあります。そんな事ではどうにもならない場合,活動過多を抑える最善の方法は何でしょうか。
薬物管理: 場合によっては,アンフェタミン(興奮剤)が処方されます。興奮剤ですか。そうなのです。逆説的に思えるかもしれませんが,興奮剤には活動過多の子供をおとなしくさせる効果があり,活動を普通の範囲に抑え,集中力を向上させる傾向があります。この種の治療法を考慮に入れる場合には,副作用の可能性を比較考量する必要があります。そうした副作用には,神経質になること,不眠症,過敏症,めまい,心悸亢進,食欲不振,発育阻害などがあります。権威者の中には,そのような薬物は医師の監督のもとに注意深く使用するように,と勧める人もいます。しかし,さらに用心深く,活動過多を治療するために興奮剤を長期間使用することが安全か,効果的か,ということについてはよく分かっていない,と指摘する人もいます。ですから,こうした治療を受け入れるかどうかはあなたが決めなければなりません。
食品添加物を除く: 1973年以来,米国サンフランシスコ市にあるカイザー-パーマネンテ医学センターで小児アレルギーを扱っている医師,ベン・フェインゴールド博士は,人工的な食品添加物や着色料の入っていない食物を摂れば,活動過多の子供の少なくとも50%の行動は著しく向上することを示唆しています。そうした子供たちには食品添加物や着色料に対するアレルギー反応があり,それが行動に悪影響を及ぼしていると考えられました。
しかし,1973年以来激しい論争が闘わされ,この問題に関して専門家たちの間での意見の応酬がありました。論争の要点を解説しているのは,米国の食品・医薬品局のスタンフォード・ミラー博士の次の言葉です。「様々な研究は,ある一群の子供たちの行動と食品の成分との間に何らかのつながりのあることを示しているが,手元にある証拠からすれば,この問題はまだ検討中の域を出ないと結論せざるを得ない」。
大量ビタミン投与療法: 大量ビタミン投与療法は活動過多の子供たちを治療するために用いられてきました。この療法はビタミンの大量投与と糖分を減らすこととバランスの取れた栄養を注意深く維持することとから成っています。結果として,活動過多が著しく減った事例も幾つか見られます。
しかし,この場合にも専門家すべての意見が一致を見ているわけではありません。中には,学習困難症や活動過多に大量ビタミン投与の効き目はないように思われると言い,ビタミンの大量投与の副作用から健康の問題も引き起こされかねないと警告する人もいます。そうした人々は,大量ビタミン投与療法でよくなっている子供がいることをどう説明するのでしょうか。家族がこれまで以上に子供の障害に注意を向け,その子を助ける決意をしたことがその理由である,とそうした人々は言います。
一方,大量ビタミン投与療法の支持者たちは,時として生じる副作用は投与量と関係しており,量を減らせば治まると論じます。
診断に当たっても,上記のいかなる治療法を採用するにしても,内科医,それも特に小児科医に相談するのは望ましいことでしょう。
簡単な治療法がないことは明らかです。しかし,確かであると思われる事柄が一つあります。学習困難症と活動過多は実際の病気であり,“じっと”していたくない,学びたくないという子供自身の気持ち以外の一つ,あるいはそれ以上の原因で生じるということです。そのような子供は,その子の特別の必要を満たす特別の助けを必要としています。何にも増して,その子は自分の“違い”を理解してくれる親を必要とします。次の記事が示す通り,これは親にとって本当に挑戦となります。
将来の見通しはどうでしょうか。適切な訓練を受ければ,そのような子供で正常かつ実りある生活を送れるようになる人は少なくありません。レオナルド・ダ・ビンチ,トーマス・エジソン,アルバート・アインシュタインなどは,学習面での問題に首尾よく対処した人々の例です。
しかし,希望を抱けるさらに大きな理由があります。聖書預言の成就は,わたしたちが「終わりの日」に住んでいることをはっきりと示しています。(テモテ第二 3:1-5)わたしたちはこの邪悪な事物の体制の終わりにいよいよ近づいています。その後には何が待ち受けているのでしょうか。神のお造りになる義の新秩序が待ち受けています。そこでは学習困難症のような障害は除き去られるでしょう。そのことを想像してみてください。潜在的な能力と実際に成し遂げることとの間のみぞはもはやなくなります。マーティーのような子供たちは,もはや場違いの不適格者のような気持ちを味わわなくてよくなるのです。―ペテロ第二 3:13。啓示 21:1-4。
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「お子さんは学びたいと思っているのです!……悪いことをするのはざ折感に対する普通の反応なのです。……悪いことをするのは,『こっちを向いて! 僕は学習面で問題を抱えています。助けてください!』という叫びなのです」― ロバート・D・カーペンター博士
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できないという反応としないという反応の違いを見分けるよう努める
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激励が必要とされている
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一人の母親の体験談目ざめよ! 1983 | 8月8日
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一人の母親の体験談
私たちは20代の半ばで親になろうとしていました。この子は私たちが待ちに待っていた子供です。私は自分の食事に注意し,出産前の注意も万全を期し,正常で健康な赤ちゃんを産めるようできるだけのことをしました。
陣痛が始まると,私たちは喜び勇んで病院へ行きました。しかし,何と長い間待たされたのでしょう! 24時間以上後に,医師は赤ちゃんがストレスの徴候を示しているといけないと考え,薬物で人工的に分娩を促すよう命じました。
数時間後に目を覚まし,女の子が産まれたことを教えられました。初めてジェシカと対面した時,私たちの胸は高鳴りました! しかし,ほかの新生児とは違って,ジェシカが非常に紅潮しているのに気づきました。医師たちはこの子が正常で健康であり,紅潮しているのは難産による一時的な症状であると請け合いました。
どんな子供の場合でも,最初の3か月は非常に手がかかるものです。しかし,ジェシカはいつも長い時間泣き叫んでいるように思えました。医師は気にも留めず,「そのうちよくなりますよ」と言いました。生後6か月ほどして,ジェシカははいはいをするようになりました。そして,元気一杯で,次から次へと目まぐるしく動き回りました。それを見ている人々は,「この子を見ていると頭が痛くなる」と言ったものでした。
ジェシカが2歳になろうとするころに事態は悪化していました。いつも転んではけがをし,すぐに泣き,それもしばしば何の理由もなく泣きました。食事の時間になると,いつも泣いてばかりいました。何よりもひどいのはかんしゃくを起こした時でした。「どうしてだろう。『クッキーはもうこれでおしまいよ』と言っただけなのに」と私たちは考えました。
明るい面を挙げると,ジェシカの行動には人を面白がらせるところもありました。ある時デパートで,店のショーウインドーの中に入り込み,マネキンの服を取ってマネキンを運び出し始めたのです。『どうしてそんなことを考えるんだろうか』と私たちは思いました。
そして家では,目を覆いたくなるような事があり,いつもひどく散らかっていました。私はがまんできなくなっていました。まだ2歳なのに夜中になるまで眠らず,夜明けには起きているこの子にどうやってついてゆけるでしょうか。周りで見ている人たちでさえ,「本当に手に余る子ね」と言っていました。私たちはき然とした態度を保とうとしましたが,何をしてもうまくいかないのはなぜなのでしょうか。
活動過多?
ちょうどそのころ,訪れた一人の友人が私たちの窮状を見かねて,実は自分の子供は活動過多なのだが,活動過多の治療を専門とする医師に診てもらうことを考えたことがあるか,と私たちに尋ねました。その人は自分の息子には確かにそれがよかったと考えており,何らかの手を打つよう私たちに勧めました。
活動過多なのだろうか,と私たちは考えました。間違った結論に飛びつきたいとは思いませんでした。しかし,その医師と長い間話し合い,ジェシカを幾らか観察した後に,案の定ジェシカは活動過多と診断されました。医師はジェシカの食べ物から砂糖を除くこととある種のビタミンを摂取することを勧め,体内の様々な栄養素の欠如が化学的な不均衡を引き起こし,それが活動過多を生じさせているということを示唆しました。
考えてみると,特定の食物,特に“栄養価の低いスナック食品”を食べた後に,ジェシカの感情がうっ積するように見えることはかなり前から分かっていました。しかしこの時,とうとうやってみるべきことを見いだしたと感じました。そしてジェシカの食べた食物と行動の記録を付けるようになりました。砂糖だけが犯人ではないようでした。砂糖の入ったある食物はジェシカに悪い影響を及ぼさないように思われたからです。
その少し後に,ある新聞記事をたまたま目にしました。そこには,あるアレルギー専門医について,また人工着色料や香料が活動過多とどう結びついているかをテーマにした,その医師の出した新刊書について記されていました。これはもっと具体的だ,と私たちは思いました。その本を読んでみると,もっともだと思える点がたくさんありました。ジェシカの問題はここにあるのでしょうか。
その考えは正しかったようです。人工着色料や香料すべてを除いたところ,著しい成果が上がったのです。ジェシカは前よりもずっとおとなしくなりました。あたかもこれまでジェシカの体の中で速すぎる回転をしていたエンジンが,その時になって正常な速さに落ち着いたかのようでした。
人工着色料や香料を除くなどたやすいことだ,と私たちは考えましたが,……それはラベルを調べ始めるまでのことでした! 人工着色料や香料はありとあらゆるものに入っているのです。それに加えて,レストランや友人の家で食事をすることもあるので,決してたやすい仕事ではありませんでした。ところが,ジェシカが確かに“人工的に合成”されたものを食べても,何も起きないことがありました。ですから,ジェシカはすべての人工着色料や香料に対してアレルギー反応を示すわけでないことが分かりました。
学校での問題
時がたち,ジェシカが4歳半になった時,弟のクリストファーが生まれました。私たちはようやくより正常に近い生活に落ち着いてきたと感じました。人々はジェシカの行動の変化に目を留めました。初めて私たちは,ジェシカの本当の人格が表に出てくるのを目にするようになりました。
さて,新しい問題が表面に出てきました。ジェシカが非常にぎこちなく,しばしば転び,毎度のことのように物をこぼすことは既に分かっていました。そして,年がら年じゅうすり傷や打撲傷を体中にこしらえていました。しかし,ジェシカは間もなく学校に上がろうとしていたので,私たちは心配しました。5歳になるというのに,どうしてあれほど苦労しなければクレヨンを手に持って紙に色をぬれないのでしょうか。ジェシカは学習に困難を覚えるでしょうか。
学校が始まりました。ジェシカは興奮して大喜びで,学びたいという気持ちにあふれていました。そして,幼稚園には付き物の,色をぬったり,のりづけをしたり,はさみで切ったりすることが始まりました。しかし,こうした技能の面でこの子は明らかに困難を抱えていることがすぐにあらわになりました。
家で長い時間ジェシカの勉強を見てやりましたが,その宿題の時間はジェシカにとっても私たちにとってもしばしば苦痛の種となりました。その年の終わりに1年を振り返って,ほかのことでは利発な子供がアルファベットをマスターするということになるとこれほど困難を覚えるように見えるのはなぜだろうか,と考えました。ほかにも分からない事柄がありました。どうして自分の名前(Jessica)をジェシア(Jesscia)と書くのだろうか。また,どうしてbとdを入れ替えるなどして,しばしば文字をひっくり返すのだろうか。
1年生の時,ジェシカはある方面で非常に早く進歩しました。本を読むことになるとごくすらすら読むようでしたが,算数とつづり方は非常に苦手のようでした。ジェシカの答案が,非常に良いと採点されているか,非常に悪いと採点されているかのどちらかであるというのは不思議なことに思えました。「分からなかったの」とか,「黒板が見えなかったの」と,ジェシカは説明したものです。
すぐに,ジェシカを聴力と視力の検査に連れて行きました。ところが,聴力も視力も正常であることが分かり,大変驚かされました。しかし,事態は悪化したにすぎませんでした。学校に関連する頭痛や腹痛があまりにも多く,教室で,また家に帰ってからも泣くということが繰り返されました。
家庭でも,もう7歳にもなろうとする子が,あたかも親の言うことが聞こえなかったかのように,ある事柄をするよう何度も何度も告げられねばならないのを私たちは目にしていました。ジェシカは非常にぼんやりしているように見えました。靴はいつも逆に履き,服は後ろ前に着ていました。曜日という概念はジェシカにとって何の意味もなく,昨日,今日,明日の違いが理解できていませんでした。
2年生になると学校でのジェシカの問題はさらに悪化しました。ある日には単語をきちんと覚えているのに,つづり方の試験になると,said(言った)の代わりにsiadというように,どうして文字を入れ替えてしまうのでしょう。算数も同じでした。2+2=4というような簡単な概念が,彼女にはほとんど,あるいは全く意味をなしませんでした。学校の先生は,「家でジェシカの勉強を見てやらなければなりません」と何度も書いてきました。私たちは煮えくり返るような思いがしました。
学習困難症もある?
何度も学校へ足を運びましたが,その際とうとう学習困難症の専門家に会わせて欲しいと頼んだことがありました。ジェシカの話をし,学習面で彼女の抱えている問題を説明しました。心理学的な鑑定が行なわれることになりました。私たちは緊張して,その結果を待ちました。
その結果は決定的なものでした。ジェシカは確かに学習困難症だったのです。聴覚および視覚による認識の問題がありました。視覚および聴覚の記憶は平均をはるかに下回っており,そして筋肉の協働作用に著しい障害がありました。
こうした事実を認めるのは苦しいことでしたが,私たちはそれを受け入れました。その心理学者はこうした検査結果がジェシカの場合にどんなことを意味するかを説明してくれました。きちんとした助けがあれば,特別の教育法によって,ジェシカは自分が理解できなかったことを教えてもらうことができ,やがてクラスのほかの子たちに追いつけるというのです。
私たちは確かに気が楽になりました。ジェシカは実際にはずっと,言うことを聞いていたのです! ジェシカの脳が目や耳から受けた信号を誤って解釈したとしても,それはジェシカが悪いのではありません。私たちは初めて自分の娘を本当に理解するようになりました。
ジェシカが学習困難症であることがはっきりしてから既に数年がたちました。後悔していることがあるとすれば,ジェシカの障害の原因を突き止めるために貴重な年月を失ってしまったことだけです。学校で与えられる特別の助けに加え,家庭教師が非常に役に立つことにも気がつきました。進歩は私たちが予想していた以上のものでした。ジェシカ自身の自尊心もよみがえりました。ざ折感にさいなまれ,うとまれ,ひどい情緒障害へと向かっていた子供が,自分は学べるということを知るようになりました。楽しそうにしている時間がずっと多くなり,私たちの間の愛のきずなも深まりました。
将来については,ジェシカが大人として円熟に達するまでに普通以上の時間がかかることを私たちは理解しています。しかし,問題が何であるかをはっきりさせ,それをどう扱ったらよいかを学んでいるので,彼女がその秘められた力を十分に発揮するようになるまでできる限りのことをして助けてやるつもりです。―寄稿。
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