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  • 子供たちはエホバからの相続財産
    ものみの塔 1979 | 7月15日
    • 子供たちはエホバからの相続財産

      「出て行け! 出て行くんだ! 二度と戻って来るな!」 一人の父親はこう怒鳴って16歳になる息子を家から追い出しました。

      この十代の若者は,近年,世間の注目を浴びるようになった一群の子供たちのひとりです。「くずにされた子,勘当された子,家のない若者,追い出された子,また追われた子などと呼ばれるこれらの若者たちは,自分の家族から退けられ,大抵の場合,金も持たず,着の身着のままで『出て行く』よう告げられた子供である」とパレード誌の一記事は述べています。その記事はさらにこう述べています。「子供を勘当する親の中には,二度とその子に会いたくもないし,消息も聞きたくない,と思っている者もいる」。

      今日の大人の多くは,子供たちに関して明らかに悲観的な見方をしています。あなたはこうした態度の影響を受けていますか。この質問に対してどんな答えをされるにせよ,親が子供に対して取るよう聖書が勧めている見方を検討することには益があるでしょう。

      詩篇作者は,神の霊感の下で,嫡出の子についてこう書いています。「見よ! 子らはエホバからの相続財産,胎の実は報いである」。(詩 127:3,新)ウイリアム・ゲセニウスのヘブライ語辞典によると,この場合の「相続財産」という語は,「エホバから授けられた所有物,エホバの賜物」を意味します。高価な贈り物を受け取ると,人はそれを大事にするのが普通です。もしその贈り物を手入れし,維持してゆかねばならないなら,その点で最善を尽くすでしょう。

      あなたは,お子さんを,創造者であられるエホバから与えられた相続財産のように扱っていますか。聖書はこう述べています。「子どもが親のためにではなく,親が子どものために蓄えておくべきなのです」。(コリント第二 12:14)「当然のことですが,自分に属する人びと,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪いのです」。(テモテ第一 5:8)神は,親たちが自分の子供のために,物質的にも霊的にも必要物を「蓄える」よう望んでおられます。どうすればそれを首尾よく行なえるでしょうか。

      親も子供もみな,それぞれ独自の性格を持っていますから,どの家族のどんな子供にもうまくゆく,子育ての細かい規則を示すのは不可能です。しかし,いかなる場合にも有益なことが証明されてきた,特定の基本的な指針を検討してみることにしましょう。

      意思の疎通

      勘当された子供たちを収容している施設の一カウンセラーは,その施設の職員がそうした子供たちを助けようとする方法を指摘してこう述べています。「私たちは若い人々の話に耳を傾けます。そして問題に対して理解を示し,その子がどう思っているか聞き出します」。これは“意思の疎通”として知られており,それは耳を傾けることから始まります。意思の疎通を図ることによって,あなたの家族も益を受けられるでしょう。

      平生お子さんと十分意思を通わせていますか。といっても,むだ話や,天候など当たりさわりのない事柄に関する“強いられた”会話のことではありません。本当に効果のある意思の疎通は,“心と心”を通わせるものであるべきです。それは,親子の間の偽善のない愛と愛情に根ざしていなければなりません。『心に満ちあふれているものの中から口は語る』のですから,お子さんの話す事柄に注意していれば,お子さんの情緒的,また霊的な必要をよく知ることができます。―ルカ 6:45。

      子供たちと十分意思を通わせてゆくには,多大の忍耐と努力が求められます。これを首尾よく行なうため,親は,「何事も闘争心や自己本位の気持ちから」することがないように,という聖書の助言に従わねばなりません。親は,「自分の益をはかって自分の事だけに目をとめず,人の益をはかって他の人[特に自分の子供]の事にも目をとめ」るべきです。(フィリピ 2:3,4)受け継いだ罪のために,人間はだれしも,他の人よりも自分のことに関心を持つきらいがあります。親はこうした傾向と闘い,自分の子供たちが魅力を感じる事柄にもっと関心を示さねばなりません。

      「懲らしめと精神の規整」

      親の愛の見過ごせない証拠について,箴言 13章24節(新)はこう述べています。「むち棒を控える者は自分の子を憎んでいるのである。しかし子を愛する者は,懲らしめをもってこれを捜し出す」。聖書にはほかにも似たような指針があります。「細棒と戒めは知恵を与える。放任された少年は自分の母に恥を来たらす」― 箴 29:15,新。

      ここで述べられている懲らしめとは,単に体罰だけを意味しているのではありません。もっとも,時として体罰が必要になる場合もあります。子供たちは何をすべきか,また何をすべきでないかを知っているだけでなく,ある事柄がなぜ正しいか,あるいは間違っているかを知らねばなりません。言い換えれば,子供に効果的な懲らしめを与えるには,子供が納得して受け入れられる,矯正となる助言が必要です。

      聖書のさらに述べる次の命令に従えば,その必要を満たすことができます。「父たちよ,あなたがたの子どもをいらだたせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」。(エフェソス 6:4)子供たちは,人間の創造者の考え方や神の喜ばれる事柄と嫌われる事柄を学ばねばなりません。そのような精神の規整を備えるには,親自身が聖書によく通じている必要があります。

      この点と関連して有益なのは,古代イスラエルの親たちに対するモーセの次のような宣言です。「わたしが今日,あなたに命じているこれらの言葉はあなたの心にあらねばならず,また,あなたはこれをあなたの子に教え込み,家に座るときも,道を歩むときも,寝るときも,起きるときも,これについて話さなければなりません。また,これを徴としてあなたの手に結び付けなければならず,これはあなたの目の間の額帯とならなければなりません。また,これをあなたの家の側柱と門とに書き記さなければなりません」。(申命 6:6-9,新)この聖句に関して,カイルとデリッチ共著の聖書注釈書は次のように述べています。

      「神への愛がふさわしいものとなるには,神の律法が心に植えられ,思考と会話の絶えざる主題となっていなければならない。『その心にあらしめ』すなわち,神の律法は単なる記憶の問題ではなく,心の問題だ,ということである。……[申命 11:18と比較]その律法は,子供たちに施行され,家にいるときも,道を歩くときも,晩,床に就くときも,朝,起きるときも語られることになっていた。つまり,いつでも,どこでも語るということである。律法はしるしとして手に結ばれ,目の間に額帯(経札)として着けられた。……この言葉は象徴的なもので,いささかの逸脱もなく神の律法を守ることを表わしている」。

      お子さんをエホバから与えられた相続財産として扱うには,お子さんとの意思の疎通を常日ごろから図り,聖書に記録されている神のお考えを,たび重なる反復によって教えること(『教え込むこと』)が求められます。聖書に基づくそのような「懲らしめと精神の規整」を備えるに当たって,何らかの援助を必要としておられますか。もしそうでしたら,続く記事の中に示されている,聖書の諸原則と実生活での経験によく注意を払われるようお勧めいたします。

  • 十代の子供が親に期待するもの
    ものみの塔 1979 | 7月15日
    • 十代の子供が親に期待するもの

      どんな大人も,十代という時期を経てきました。十代の子供を持つ親は,一人残らず,かつては十代の若者でした。ですから,大人は十代の若者たちの問題や欲求不満を理解してやらねばなりません。ところが,親たちは自分が十代の時期に抱えていた問題を忘れ,物わかりのよい仕方で十代の子供たちを扱わない場合が,余りにも多く見られます。一人のおじいさんは,自分の経験を回想して,こう述べています。

      「子供のころ,私は家のしつけが厳しくて,不公平だと思ったことがよくありました。そして,自分が成長して子供を持ったら,愛をもって子供をしつけ,子供の話に耳を傾け,子供と筋の通った話し合いをしようと思ったことを覚えています。

      「ところが,自分の人生でそうする段になると,家族を養ってゆくのに問題がとても多いことが分かりました。長い時間働いたので,子供たちに会う時間はほとんどありませんでした。子供たちと一緒にいると,私はいらいらして,気が短くなったものです。

      「子供が成長してゆく年月はあっという間に過ぎ去ってしまいました。今では孫もおり,自分が親だったときとは全く異なった心構えでいます。孫と遊んだりして楽しむ時間があり,孫が面倒を起こすと,親たちが厳し過ぎて物分かりが悪いと思い,孫をかばってやりたいと思うことがよくあります。そして,親たちが,祖父母の示すような辛抱強さと物分かりの良さを示してくれれば」と思うことが度々あります。

      十代の子供は普通,独自の必要を持つ,一個の人間として自己を主張するということを,親は忘れがちです。親が誤解して,問題は大きくなります。十代の抱える問題を調査した一奉仕者は,大勢の十代の若者に次のような質問をしたことを伝えています。「何にも増してご両親に求めるものを一つ挙げるとすれば,それは何ですか」。ほとんど例外なく,若い人々はこう答えます。

      「分かってもらうこと」

      15歳になる少女はこうした願いを言い表わし,次のように述べています。「私には立派な両親がいるわ。でも私はもう幼い子供ではないということを両親に分かってもらいたいの。私を三年生の子供のように扱うんですもの。私のことを理解して,信頼してもらえたらと思います」。この少女は,自分の年齢に応じて,幾つかの規則を変更してほしいと願っていました。

      より大きな自由を得たいという衝動は大人へと成長してゆく正常な段階の一部です。ところが,多くの親にはこの事実を受け入れる用意ができていません。幼いころから,子供は親を頼り,親に依存してきました。そして,親はそのことに満足を覚えていました。ところが今や,十代になった子供は,完全な依存の精神から,より大きな自己依存の精神へと移ってゆきます。こうした態度の変化は悪いものではありません。十代の若者の中には,比較的若くして大人っぽい見解を培うようになる者もいます。聖書中に見られる例はヨシア王です。「彼はまだ[15歳ぐらいの]少年であったが,その父祖ダビデの神を求め始めた」。25歳ぐらいになって,ヨシア王は,自分の父親の推進していた偽りの崇拝に対して,攻撃的な挙に出ました。この十代の若者には,自分の意志に従って行動する自由がありました。単にまだ若かったというだけで,この王の態度や行動を非とすることができますか。いいえ,できません。(歴代下 34:1-8,新)また,ゴリアテと戦うことについて尋ねた際の,若者ダビデの動機は良いものでしたが,兄に誤解されました。―サムエル前 17:26-28。

      しかし,十代の若者はまだ大人にはなっていないので,その欲望すべてが円熟したものであるわけではありません。遊ぶ時間が必要です。親がくつろいでいたいと思うときにも,自分には物事を行なうエネルギーがあることを親に理解してもらう必要があるのです。十代の子供たちには交わりが必要です。もし親がふさわしい交わりをあてがってやらないなら,若者たちは自分で交わりを求め,それが親から認められないようなものであることに気付くかもしれません。

      十代の若者の大半は,パーティーを楽しみます。そのようなパーティーで時折見られる行状のために,親たちは自分の子供がそうしたパーティーに参加するのを望まないかもしれません。しかし,子供たちがパーティーへ行くのを全く禁じてしまうなら,若者をがっかりさせてしまい,気落ちさせる結果になりかねません。(コロサイ 3:21)親が集まりを取り決めれば,呼ぶ人を制限したり,その活動を監督したりする権利が親にあるので,数多くの問題を未然に防げます。若者たちが計画に加われば,一層うまくゆくでしょう。

      十代の若者が誤りを犯して,窮地に陥った時には,いつにも増して,親の理解を必要としています。親は自分の若いころを振り返り,若くて経験がないために犯した誤りを思い出してみるとよいでしょう。そうすれば,必要以上に過敏になったり,批判的になったりしないで済むでしょう。十代の若者が問題に陥ったときに,自分のところに来てほしいと思うなら,親はより軽い違反行為に対する反応の仕方によって,信頼を勝ち得ねばなりません。

      その間違いが不注意による誤りであれば,親は十分に思いやりを示さねばなりません。どこが間違っていたか,またどうしたらその間違いを繰り返さずに済むかを説明するために,あらゆる努力を払う必要があります。しかし,子供に向かって,お前が悪いのだと告げてはなりません。

      しかし,十代の子供が,学校で規律にかかわる重大な問題を起こしたり,警察ざたになったり,麻薬や不道徳に関係したりした場合,その親はどうすればよいでしょうか。親は,幼いころからの訓練でそうした問題を未然に防げると思うかもしれません。しかし,そうした問題が実際に起きてしまったらどうしますか。その時こそ,十代の子供が助けと巧みな導きを必要とする時なのです。

      このような問題は親にとって,非常な試みとなります。親たちはしばしば,「自分たちのどこが間違っていたのだろう」と言います。そして大抵の場合に,非行を犯した子供を脅し,非難しますが,そうすることはその子に苦々しい思いをさせ,かえってかたくなにその道を進ませてしまうきらいがあります。エホバは,ご自分の民が正道からそれたときにも,理解を示し,進んで許す態度を示されました。民の罪はゆゆしいものでしたが,神はご自分から率先してその民と意思の疎通を図り,援助の手を差し伸べました。エホバはこう言われました。「さあ,来なさい,あなたがた民よ。わたしたちの間で事を正そう。……たとえあなたがたの罪が緋のようであっても,それは雪のように白くされる」― イザヤ 1:18,新。

      若い人の将来は,この重大な時期にどのように扱われるかによって決まります。「放とう息子」が父親のもとへ戻って来たと同じように,子供があなたのもとへ戻って来るのを難しくするようなことを言ったり,行なったりしてはなりません。親は,子供が自分の監督下にある限り,その子たちを決して見放すべきではないのです。辛抱強くあり,憐れみを示してください。こうした特質を示す点で,エホバに見倣いたいものです。―ヤコブ 2:13。ペテロ第二 3:9,15。ルカ 15:11-24。

      一個の人間として扱われる

      十代の若者が大いに必要としているのは,一個の人間として扱われることです。チャールズ・R・フォスターは,自著,「今日の生活のための心理学」の中で,こう述べています。

      「人間は単に食べては寝るという生活をしていても満足しないことが知られている。人は一個の人間として認められることを求め,自分が成功していると感じたがる」。

      「当然のことながら,自分がある事柄を首尾よく成し遂げることができ,世の中で自分の占めている立場が重要であると感じるなら,だれしも良い気持ちになり,より能率的に働く。社会行動を研究する者は大抵,どんな人間にもまだ磨けば光るような隠れた才能があると考えている。それが何であるかを見いだすことさえできれば,どんな人間にも,うまくできる事柄やよりよくできる事柄が何かしらあるものである」。

      十代の若者は各々,他のどんな人間とも異なっているとみなされる必要があります。親は,子供が一人一人異なっていることを学びます。一人の子供には効を奏する訓練や懲らしめも,下の子には効き目がないかもしれません。子供たちが十代になると,特にそう言えます。

      ですから,一人の子を別の子と比較するのは良い事ではありません。ある人の業が,別の人のより優れた業と比較されると,励ましではなく,恨みが残ります。(コリント第二 10:12と比較してください。)十代の若者は,ありのままの自分,また一個人として自分にできる事柄のゆえに受け入れてもらいたいのです。そして,ありのままの自分を両親に愛してもらいたい,人間味のある思いやりをもって扱ってもらいたいと思っているのです。また一方では,息苦しくなるほど抑えつけられたり,いつまでたっても子供扱いにされたいとは思いません。

      一貫した指針を与えられること

      十代の若者が必要としている別の事柄は,変わることのない,一貫した指針や導きです。ザ・デトロイト・ニューズ紙によると,米国海軍兵学校の校長で,三人の子供の父親である,ジェームズ・F・カルバート海軍少将は,最近,次のように語りました。

      「今の子供たちは,我々から学ぶよりも,はるかに多くをテレビから学ぶ。普通の15歳の子供は,読書に毎日20分を費やし,テレビを見るのに二時間を費やす」。

      『義務感と家族の誇りという感覚』を植え付ける点での親たちの失敗に言及した後,同少将はさらに,「規律なくしては,基本となる敬意はあり得ない」と述べています。カルバート少将は,人間の規律を卵の殻に例えてこう語っています。「損なわれていなければ,それは強くて美しいものであるが,ひとたび壊れたり,ひびが入ったりすると,すぐに崩れ去ってしまう」。

      「若い人々は規律を求めて声を上げることはないかもしれないが,若者たちはそれを切実に必要としている。親の厳格な権威は,子供のうちに安心感を育む」。

      十代の若者は一貫した規律のもたらす安心感を必要としています。ある種の制限や規則の必要性を容易に認めないかもしれませんが,親がその規則に関して一貫性を示すべきだという点にはすぐに同意します。十代の若者は,自分がしても良い事柄と,してはいけない事柄を知りたがります。その時々の親の“気まぐれ”でそれらの規則が日によって変わるなら,子供は落胆してしまいます。イエスは,「あなたがたの“はい”ということばは,はいを,“いいえ”は,いいえを意味するようにしなさい」と言われました。―マタイ 5:37。

      規則や制限は境界線に例えることができます。十代の若者に必要とされるのは,境界線がはっきり定められ,それを識別することです。ひとたび識別したなら,十代の若者はその境界線内で信頼と自由を得たいと考えます。一人の父親はこの事実を,家を借りた際にその家族が経験した事と比較してこう語っています。

      「それは樹木の茂った地域にありました。私たちがまず最初に尋ねた事柄の一つは,境界線はどこかということでした。その地所で何をすることが許されているのか,という点を知りたいと思いました。そこで楽しく生活するには,そうした事柄を知らねばなりません。地主が毎週のように規則を変えた場合に引き起こされる不快感と失意は容易に想像できます。十代の子供たちに課される制限にも,同じ原則が当てはまります。その規則は道理にかなった,一貫したものであるべきです。それから,その境界線内では,信頼を示し,自由を与えるのです」。

      その規則を,実情にそぐわないほど厳しくする必要はありません。何か特別な出来事や行事があれば,例外として何かを頼むということも考えられるでしょう。

      人生の目的を定める上での助け

      必要とされる導きの中には,人生の目的を定め,職業を選び,必要とされる世俗の教育を受ける上での助けも含まれます。だれしも,自分には自分なりの価値があり,自分の行なっている事柄にはそれなりの価値があると感じられねばなりません。自尊心を持ち,一個の人間として誇りを抱いているべきです。

      親は,その子に合った職業を選ぶよう十代の子供を助けることにより関心を示します。その子の「賜物」,才能,あるいは好みを考慮に入れねばなりません。(ローマ 12:6と比較してください。)そして,達成可能な目標を定めるよう援助されるべきです。すべての人が目立った地位に就けるわけではありません。一つの目標が実現されるたびに,より高い目標を定めていけば,現実的な仕方で数々の目標を達成できます。

      大人の生活の諸問題に対処できるよう若者に教育を施すことには重い責任が伴います。若者は,自活できるように訓練され,手に職を持つのは大切です。(テモテ第一 5:8。箴 31:10,19,20)イエスはキリストになるはずでしたが,その養父ヨセフがイエスに職を仕込んだので,「大工の息子」また「大工」として知られるようになりました。(マタイ 13:55。マルコ 6:3)使徒パウロは,自分の職業,つまり天幕作りをすることによって,自分とその同行者たちが生活してゆけるようにしました。―使徒 18:1-4; 20:33,34。

      大人の生活の諸問題に対処し,大人としての責任を受け入れる準備をするに当たって,十代の子供は親の支えと,“落伍者”にならないための励ましを必要としています。宿題をするのに助けを必要とする場合は少なくありません。時には,宿題を投げ出したくなることもあるでしょう。そのようなとき,その挫折感に理解を示し,問題を率直に話し合うことによって,親は励ましの源になれます。親が時折り難しい宿題の手助けをするなら,宿題をする際の若い人々の挫折感をよりよく理解でき,実際的な提案を与えることができます。物分かりの良い親が少しの時間を費やして,問題を話し合うだけで,十代の子供がその危機を

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