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エフェソスの使いへ『その時,神の秘義は終了する』
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と言われました。(エゼキエル 28:13,ド)その最初の「楽しみのパラダイス」はもう存在していません。ですから,啓示 2章7節はそれを指しているのではありません。また,キリストの千年統治の間に地に回復される楽園を指しているのでもありません。カルバリで杭に掛けられたイエス・キリストは,自分のそばの杭に掛けられていた同情的な悪行者に話した時,その地上のパラダイスのことを指しておられました。「きょうあなたに真実に言いますが,あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」― ルカ 23:39-43。
28 (イ)悪行者に約束されたパラダイスは,なぜ啓示 2章7節に述べられているパラダイスではありませんか。(ロ)悪行者が将来入るパラダイスと,啓示 2章7節の「神のパラダイス」にはどんな相違がありますか。
28 その悪行者は,神のパラダイスにある命の木から食べる資格を得られるよう,世を征服してはいませんでした。彼は,バプテスマを受けた,「神の会衆」の成員ではありませんでした。というのは,それは,西暦33年のペンテコステの日つまり,悪行者がイエスのそばで死んだ51日後に創設されたからです。(使徒 2:1-42)さらに,聖霊はそのペンテコステの日に初めてキリストの弟子たちに注ぎ出されたのですから,この悪行者は神の霊によって生み出されてはいませんでした。霊によって生み出されることは,神の天の王国を見,それに入ろうとする者に要求されている事柄の一つなのです。(ヨハネ 3:3,5; 7:39)この悪行者が死人からの復活によって入るパラダイスは,神の王国の下における,来たるべき地のパラダイスであるはずです。それは,啓示 2章7節に述べられている神のパラダイスとは違います。そこに述べられているのは,征服を遂げる教会つまり会衆に約束されている,天的また霊的なパラダイスです。
29 (イ)「神のパラダイスにある命の木」は何を象徴していますか。(ロ)その「命の木」から食べ続けることは何を意味しますか。(ハ)したがって,それは征服を遂げる霊的イスラエル人にどんな報いを提供しますか。
29 「神のパラダイスにある命の木」は,必ずしも命と不滅性の源であるエホバ神の象徴ではありません。むしろ,持続される命のための神の備えを象徴しています。征服者がその「命の木」にあずかるということは,ここで示されている特別な命のための神の備えにあずかることを意味しています。ヨハネがここで使ったギリシャ語は,クシロンで,字義どおりには「木材」を意味します。ですから,それは果樹園の場合のように,「樹木」を意味するのかもしれません。その「命の木」から食べ続けるということは,その木のある場所,つまり,「神のパラダイス」で生き続けることを意味します。まさにエホバ神のおられるところで,エホバ神と交わりを共にしながら,パラダイスのような状態の下で生き,かつ住むという意味です。それはなんと壮大な考えではありませんか。それには,復活の時,彼らが死人から天の,霊の被造物によみがえらされることが必要です。(コリント第一 15:43-50)征服を遂げることに対するなんと壮大な報いでしょう。今日,霊的な事柄を取り入れることのできる耳を持つ霊的なイスラエル人にとって,み子イエス・キリストにある神の霊が,霊によって生み出される者たちから成る会衆に述べる約束を聞くことは,本当に価値あることなのです。
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スミルナの使いへ『その時,神の秘義は終了する』
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第9章
スミルナの使いへ
1,2 (イ)スミルナはどこにありましたか。その都市はどんなことで有名でしたか。(ロ)スミルナの会衆に対するキリストの音信はどんな内容でしたか。
栄光を受けたイエス・キリストが語りかける第二の会衆は,古代ローマのアジア州にあるスミルナの会衆です。この都市は,エフェソスの北方約50㌔の地点にある,エーゲ海沿いの湾に位置しており,使徒ヨハネが当時囚人として送られていたパトモス島からさらに離れた所にありました。スミルナにはティベリウス・カエサルの神殿があり,皇帝崇拝が盛んに行なわれていました。また,割礼を受けた生来のユダヤ人が相当の人口を占めており,彼らは使徒のキリスト教に反対していました。このスミルナ会衆に対し
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