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「その日と時刻」が知らされていないのはなぜですかものみの塔 1975 | 8月1日
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「その日と時刻」が知らされていないのはなぜですか
「ずっと見張っていなさい。あなたがたは,自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです」― マタイ 24:42。
1 (イ)きたるべき「大患難」は,地の住民すべてにとって何を意味しますか。(ロ)マタイ 24章30節に予告されているように,『人の子が天の雲に乗って来る』のはいつですか。
地の全住民が,生きるか死ぬかの一つの出来事に直面する時が近づいています。イエスはそのことを予告して次のように言われました。「その時,世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難がある」。この時は,「地のすべての部族」が,キリストの破壊的な力を感じる結果として「人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見」,それが自分たちにとって何を意味するかを知って利己的な悲嘆にくれ,身を打ちたたく時です。―マタイ 24:21,22,30。
2 その「大患難」に生き残る人々がいることは何から分かりますか。
2 しかし,それは集団的には「すべての部族」について真実ですが,各個人には必ずしも当てはまらないでしょう。それは,あなた自身がどうしても経験しなければならないことではありません。なぜでしょうか。なぜなら,イエスはこの同じ預言の中で,一部の「肉なるもの」が救われることを予告されたからです。イエスはすばらしい希望を差し伸べ,ある者たちが救われて「永遠の命」の見込みを持つことを知らせました。(マタイ 24:22; 25:46)そしてその預言から60年以上たった後イエスは使徒ヨハネに,「すべての国民と部族と民と国語の中から」,生存者として「大患難から出て来る」であろう人たちが出現することを示されました。(啓示 7:9-14)今適切な行動を取ることにより,あなたもそれら生存者のひとりとなることができるかもしれません。―ゼパニヤ 2:2,3。
それはいつか
3,4 イエス・キリストの使徒たちは,マタイ 24章3節に記録されている質問を行なった時にどんなことを考えていましたか。
3 自分自身の安全や,自分の愛する者たちの安全を考えるなら,この「大患難」はいつ来るか,と質問するのは至極当然なことです。聖書はそれをわたしたちに教えていますか。
4 イエス・キリストの使徒たちは同じような質問をしました。「そうしたことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。(マタイ 24:3。マルコ 13:3,4)この質問をした時,彼らは何を考えていたでしょうか。わたしたちが住んでいる時代について尋ねていたのでしょうか。このことについては,聖書の中の,この質問に先行する幾つかの聖句が説明しています。それらの聖句の示すところによると,使徒たちは,イエスが群衆に向かって,「『エホバの名によって来るのは祝福された者』と言うときまで,あなたがたは今後決してわたしを見ないでしょう」と言われた時にちょうどイエスと共にエルサレムの神殿の敷地内にいました。そして彼らが神殿の敷地を立ち去ろうとしていたとき,イエスは神殿の建物について弟子たちに言われました。「石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは決してありません」。それは明らかにユダヤ教の体制の終わりを意味しました。(マタイ 23:38–24:2)使徒たちの質問は,こうした事柄を念頭に置いて行なわれたものでした。
5 (イ)イエスの答えは,ユダヤ教の事物の体制の終わりについて論ずるものでしたか。(ロ)イエスの答えに,それよりもずっと多くの事柄が関係していたことが,どうして分かりますか。
5 イエスは彼らの質問にお答えになりました。しかしその答えは,ユダヤ教の体制のみに影響する事柄ではなく,それ以上の事柄に及ぶものでした。マタイ 24章21,22節で用いられていることばは,イエスが人類史上空前の「大患難」を念頭においておられたことを示しています。さらに30節ではイエスは,ユダヤ人だけでなく「すべての部族」がそれに巻き込まれることを示しておられますし,25章32節では,「すべての国の民」がそれに関係することを示しておられます。
6 (イ)マタイ 24章のどれほどの部分は,一度以上成就しますか。(ロ)現代における成就は特に世界のどの部分で見られますか。
6 マタイ 24章4節から22節に記録されていることはすべて,一世紀当時,つまり西暦33年から70年の間に成就しました。しかしそれは,聖書も一般の歴史も世界史上画期的な年として示している西暦1914年以降,わたしたちの時代にも当てはまります。イエスの預言の成就となる出来事は,昔の不忠実なエルサレムに当たるものを構成する国々,すなわちキリスト教世界の中でとりわけはっきり見られます。キリスト教世界は,聖書の神と契約関係にあると主張します。
7 1914年以後,詐欺師たちが本当に,「わたしがキリストだ」,と言ってやって来たことについて述べなさい。
7 イエスの予告どおり,西暦1914年以後,多くの詐欺師が出て,自らをメシアの役を果たす者として示し,実際に,「わたしがキリストだ」と言いました。(マタイ 24:4,5。マルコ 13:5,6)そのうちの幾人かは宗教指導者で,1930年代に出た男などは,「神聖な父」と自称し,人からは「王の王,主の主」と呼ばれました。政治家もいました。たとえば,ガーナの元支配者エンクルマは,イエス・キリストのことばを言い換えて,「まず政治王国を求めよ」と国民に勧めました。ソ連の共産主義さえも,「楽園」というメシア的祝福をその人民にもたらす,と主張してきました。
8 (イ)イエスが予告された『戦争や戦争の知らせ』は,イエスが語られた,『国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がる』こととは違いますか。(ロ)「国民は国民に,王国は王国に敵対」するという表現は,世界大戦だけを指していますか。
8 その同じ期間中に,『国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がった』ので,『戦争や戦争の知らせ』がありました。(マタイ 24:6-8。マルコ 13:7,8)注目すべきことに,人類史上先例のない二つの世界大戦がありました。しかし,『国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がる』というイエスの表現は,一世紀にも適用されましたから,世界大戦だけを指すものでないことを忘れないようにしましょう。戦争と共に深刻な食糧不足や病気も,予告されていたとおりに生じました。「そこからここへと」起こる恐ろしい地震も,時代を特徴づけています。こうした事実は,わたしたちの時代に毎日のニュースとなっていますから,あなたはそれらの事実をよくご存じです。
9 (イ)今日,「王国の良いたより」はどの程度宣べ伝えられていますか。(ロ)イエスの追随者たちはどんな「名前」のために,あらゆる国民の憎しみの対象になっていますか。
9 不法の激増を含む困難な状態にもかかわらず,エホバのクリスチャン証人は,『王国の良いたより』を宣べ伝えるわざを「人の住む全地」に,そうです200以上の国々に押し広げてきました。多数の人が彼らの伝えることを喜んで聞きました。しかし彼らは,自分たちの師の名のゆえに「あらゆる国民の憎しみの的」ともなりました。こうした事柄もまた予告されていたことでした。(マタイ 24:9-14。マルコ 13:9-13)「イエス」という名を用いるということだけで彼らはそのような憎しみを受けているのではありません。イエスを信ずると主張する人の多くは,イエスという名を用いても迫害されてはいません。しかしエホバのクリスチャン証人は,イエスを,地の新しい王となるべく神から油そそがれた方として,また人間が受け入れられる方法で神に近づけるようにしてくださる唯一のかたとして示します。(ルカ 19:11-23。ヨハネ 14:6。使徒 4:12)自分自身の計画を利己的な気持ちで続行しようとする人々をいらだたせるのはこの「名前」,あるいはこの名前が暗示するもの,または意味するものです。
10 (イ)一世紀においては,イエスの追随者たちがエルサレムから逃げ出すための合図となるものは何でしたか。(ロ)「嫌悪すべきもの」,およびそれが立った「聖なる所」は何であることがわかりましたか。
10 第一世紀においては,イエスの預言から33年後に,イエスの追随者たちがエルサレムおよびその周辺から逃げ出すための合図となった事件が発生しました。エルサレムそのものが,「野営を張った軍隊」,つまりユダヤ人がイエス・キリストの代わりに選んだ皇帝の支配する国の軍隊によって包囲されたのです。(ヨハネ 19:12-15)予告されていた「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」,すなわちケスチウス・ガルスの率いるローマ軍が,ユダヤ人の「聖都」エルサレムの「聖なる所に立って」いました。そのことは,イエス・キリストのことばを信ずる人々が,物質の富を救うことなど考えずに逃げるべき時が来たことを示していました。エルサレム史上先例のない「大患難」が切迫していました。神のご配慮により,ローマ軍が一時的に撤退した時に,逃げ道が開かれました。―マタイ 24:15-22。ルカ 21:20-22。マルコ 13:14-20。
11 (イ)20世紀においては,「嫌悪すべきもの」は何であることが明らかになりましたか。そして「聖なる所」とは何ですか。(ロ)神のみ子の王国にではなく,人間の支配に信頼を寄せたキリスト教世界はどうなりますか。
11 「しるし」のこの特色も,他の特色と同じく,20世紀に成就しました。1918年のこと,連邦教会会議は,国際連盟を「地上における神の王国の政治的表現」としてたたえ,天におられる神のみ子イエス・キリストに与えられていた諸国民を支配する権威に従うよりも,人間の支配のほうを実際に好んでいたことを示しました。(啓示 11:15; 12:10)それはエホバ神の目にどんなにか「嫌悪すべきもの」であったでしょう。連盟の後継者である国際連合も同様の「誉れ」を盛んに受け,こうして国際連合は,キリスト教世界が『神聖』視する所に置かれました。しかし聖書の予告するところによると,まず初めに(イエスの大預言の中で大きな注意を向けられている)キリスト教世界,ついで偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンの残余の部分という順に,国際連合に信頼している人々を荒廃させるのは,この「嫌悪すべきもの」,すなわち国際連合です。(啓示 17:1-5,16-18)これは決してささいなことではないでしょう。イエスはそれを描写して,「その時,世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難がある」と言われました。
12 その「大患難」で滅びないようにするためには,わたしたちは各自今どんな行動を取らねばなりませんか。
12 その大患難において切り断たれるのを免れるには,今逃げること,キリスト教世界の教会とのきずなを全部断ってキリスト教世界から出ることが緊急に必要です。自分がキリスト教世界の偽善に従っていないことを,ことばだけでなく行動によって,神に実証することが必要です。キリスト教世界は,キリストを信ずると主張してきましたが,キリストの教えを適用することをせず,その代わりに世の政治問題にかかわりを持つようになりました。生存者のひとりとなるためには,人は「世も世にあるものをも」 一切「愛していてはなりません」。しかし神のみ子の忠実な追随者でなければなりません。―ヨハネ第一 2:15-17。
13 マタイ 24章4-22節の最初の成就は,真のクリスチャンたちの期待にどのような有益な影響を与えましたか。
13 生じた出来事によって示されているように,マタイ 24章4節から22節に記録されているイエスの預言の個所全体は二重に適用されるということを念頭に置いておきましょう。その最初の成就は,あとの事柄も生ずるという,真のクリスチャンの確信を強めました。
エルサレムに患難が臨んだ後
14 (イ)マタイ 24章23-28節に予告されている出来事は,歴史のどの期間中に生じますか。(ロ)それで,マタイ 24章24節に記されている「偽キリスト」に注意しなさいという警告と,4,5節に見られる警告との間にはどんな相違がありますか。
14 マタイ 24章23節から28節に記録されている事柄は,西暦70年から後に,そして目に見えないキリストの臨在(パルーシア)の日に至るまでに発展する事柄に触れています。「偽キリスト」に注意しなさいという警告は,4,5節の単なる繰り返しではありません。あとのほうの聖句は,より長い一つの期間 ― ユダヤ人バル・コヘバなどが西暦131年から135年にかけてローマ人圧制者たちに反抗したり,ずっと後にバハイ教の指導者が再臨のキリストと主張したり,またカナダのドゥクオボル派の指導者がメシアなるキリストと自称したりした一つの期間について述べています。しかし,イエスはその預言の中で,人間の詐称者たちの主張に誤導されないようにと,ご自分の追随者たちに警告しておられます。
15 イエスの臨在は目に見えない,という事実に対する認識は,イエスの弟子たちをどのように誤導から守りましたか。
15 イエスが弟子たちに告げられたところによると,イエスの臨在は単なる局地的な事柄ではありません。イエスは,天から地に注意を向ける,目に見えない王になるのですから,イエスの臨在は,「東のほうから来て西のほうに輝き渡る」いなずまのようでしょう。それでイエスは弟子たちに,鷲のように遠くを見るように,真の霊的食物はイエス・キリストのところにしか見いだされないことを認識するように,イエスが目に見えないさまで臨在される時には,イエスを真のメシアとしてそのもとに集まるように勧められました。1914年以降は,イエスが目に見えないさまで臨在されているときとなります。―マタイ 24:23-28。マルコ 13:21-23。「神の千年王国は近づいた」の320-324ページをご覧ください。
西暦1914年以後
16 マタイ 24章29節–25章46節に記述されている出来事は,どの時期に成就しますか。
16 聖句と歴史上の出来事とを比較してみると分かるように,マタイの記録の24章29節から25章の終わりまでに叙述されている出来事は,西暦1914年以後の期間中に最高潮に達するものです。もとより,これらの出来事のうちには一世紀に始まったものもあります。しかしそれらが指し示す大詰は20世紀に見られます。このことは,「忠実で思慮深い奴隷」に関して言われていることや,十人の処女やタラントの例えについても言えます。―マタイ 24:45-47; 25:1-30。
17 (イ)マタイ 24章29節の「患難」は何を指していますか。(ロ)西暦1914年から始まった出来事は,西暦70年に生じた事柄の「すぐのち」に起こる出来事であると言えるのはなぜですか。
17 マタイ 24章29節が,『それらの日の患難ののち』に起こる何かの事柄に言及しているなら,それは西暦1914年以後の,そして西暦70年にエルサレムに臨んだ「大患難」ののちの出来事について述べているのです。寿命の短い人間の見地からすれば,わたしたちの時代の出来事は,西暦70年に起きたことの「すぐのちに」生じたとは実際に考えられないかもしれません。しかし,千年も「すでにすぐる昨日のごとく」に感じられる神は,異なった見方をされるのです。―詩 90:4。啓示 1:1の「ほどなくして」と比較してください。
18 マタイ 24章29節の成就について説明しなさい。
18 西暦1914年以後,「太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天の諸勢力は揺り動かされるでしょう」と,予告されていた通りのことが起きました。第一次世界大戦を始まりとして人類は本当に暗い時代に入りました。人がいつも頼りにしていたところからは,将来を照らす光は来ませんでした。また実際の天が歴史を通じて鳥の領域と見られていたことは事実です。しかし20世紀の初めに,人間は飛行機で空を飛ぶことに成功し,その飛行機はすぐに戦争の種々の目的のために利用されました。それは,人を死に追いやるロケットの開発,さらには人を月に運ぶ宇宙探検へと発展し,その結果,月は地球を支配するための重要な軍事基地とみなされるようになりました。同期間中に,太陽や星からくる宇宙線が地にふりそそぐことについても知られるようになりましたが,そのことも人々が恐怖するものの一つとなりました。天そのものが変化したからではなく,人間自身が行なっていた事柄の結果として,また人間が制御できない地球外の諸勢力についての知識が増したために,この時代の多くの人々にとって物質の天は前兆を示すもののようになりました。―マタイ 24:29。マルコ 13:24,25。
19 こうした事柄はすべて,マタイ 24章30節に記述されているどんな出来事がしだいに近づいていることを示していますか。
19 こうした事柄はすべて,この事物の体制の終わり,つまりマタイ 24章30節に,「人の子のしるしが天に現われます。またその時,地のすべての部族は悲嘆のあまり身を打ちたた(く)」と記されている時がしだいに近づいていることを示すものです。その時はいまや間近に迫っています。―マルコ 13:26。
20 その「悲嘆」にすべての人が加わるのではありませんが,それはなぜですか。次の節はそのことをどのように示していますか。
20 しかしながら,この邪悪な事物の体制を滅ぼすために『人の子が力を伴って来る』時を,すべての人が嘆くわけではありません。その時までには,「選ばれた者たち」,すなわち霊で油そそがれる14万4,000人のイエス・キリストの追随者は,イエスの預言通りに全員集められているでしょう。(マタイ 24:31。マルコ 13:27)またそのほかの人々も多数,油そそがれたそれらの人々といっしょの立場を取り,彼らと共に,神のメシアの王国について,あらゆる国民に対して証しを行なうわざにあずかっています。―ゼカリヤ 8:23。
21 人の子の「来る」時が非常に近いということを,わたしたちはどのようにして知ることができますか。
21 イエスの予告された事柄がすべて確実に成就するということについては,彼らの心には何の疑いもありません。イエスは言われました。「では,いちじくの木から例えとしてこの点を学びなさい。その若枝が柔らかくなり,それが葉を出すと,あなたがたはすぐに,夏の近いことを知ります。同じようにあなたがたは,これらのすべてのことを見たなら,彼[人の子]が近づいて戸口にいることを知りなさい」。イエスが予告された「これらのすべてのこと」は,現在,間違えようがないほどはっきり見ることができます。―マタイ 24:32-34。マルコ 13:28,29。
時を確かめる
22 破壊的な力をもってイエスが「来る」のを見る世代として,イエスはどの「世代」に言及されましたか。
22 では,人の子が,不義の道を愛する者たちをこの地から一掃するために破壊する力をもって来るのはいつでしょうか。イエスご自身が次のように答えておられます。「あなたがたに真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません」。(マタイ 24:34。マルコ 13:30)その世代とはどの世代のことですか。西暦1914年以後,預言の成就である出来事を目撃してきた世代です。イエスの言われたことが真実であることについては何の疑問もありません。イエスは力をこめてさらにこう言われました。「天と地は過ぎ去るでしょう。しかしわたしのことばは決して過ぎ去らないのです」― マタイ 24:35。マルコ 13:31。マタイ 5:18と比べてください。
23 その出来事の起こる「日と時刻」をだれかが知っているかどうかについて,イエスは何と言われましたか。
23 イエスはこれよりもさらに詳細な点を示し,これが起こる正確な時を弟子たちに告げられましたか。反対にイエスは,「日と時刻」とはだれにも分からない,と彼らに言われました。そして幾度も,そうです,五度も繰り返して言うことによって,その点を強調されました。「その日と時刻についてはだれも知りません。天の使いたちも子も知らず,ただ父だけが知っておられます」と言われました。―マタイ 24:36–25:13。
24 「大患難」に関する預言が一世紀に成就したとき,イエスの弟子たちは,大患難の襲う時を前もって知らされていましたか。
24 「大患難」に関するイエスの預言が第一世紀に成就したときにも,弟子たちは,エルサレムから逃げるべき時について,前もって日時を知らされていたのではありません。そのことを銘記していましょう。その代わりに,彼らが常に注意していなければならなかったのは,一つのしるし,つまり「嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる所に立つ」ことでした。(マタイ 24:15,16)しるしは西暦66年に現われました。歴史の記録によると,イエスの追随者たちは従順に都市から出て,ヨルダン川の向こうのペラの山地に居を定めました。しかしそのあと,「大患難」が西暦70年にエルサレムに臨むまで幾年か経過しました。その大患難がいつ襲うかを,イエスの追随者たちが前もって教えられていたことを示すものはなにもありません。彼らはすでに安全な場所にいました。それを知らなければならない理由は実際にありませんでした。
25,26 ノアが洪水の起こる日を前もって知らされていた事実は,わたしたちが「大患難」の来る「日と時刻」を前もって知らされることを期待する根拠とはなりません。なぜですか。
25 しかしイエスはご自分で,ノアの日をご自分の臨在の時にたとえられませんでしたか。(マタイ 24:37-39)ノアは,洪水が始まる正確な日を前もって告げられませんでしたか。そうです。しかし,ノアが「日」を告げられた理由は,わたしたちの状況には当てはまりません。ノアとその家族は,洪水の始まる時を知る必要がありました。それは,洪水の水が落ちる前に,基礎となる動物の類をすべて安全に箱船の中に入れ,それから自分たちも箱船に入ることができるようにするためでした。これは,何か月も前に行なうことのできない事柄でした。そのようなことをすれば,時期もこないのに,蓄えた食糧を使い果たす結果になったでしょう。それで神がノアに,『今七日ありて我四十日四十夜地に雨ふらしめ我造りたる万有を地の面より拭去ん』と言われたのは,ちょうど適当な時でした。―創世 7:4。
26 しかしわたしたちは,神のきたるべき破壊的なみわざの始まる「日と時刻」を知る必要はありません。わたしたちには動物を生き残らせる仕事を任されてはおらず,またいま世界中の200以上の国で見られる,神を恐れる人々の保護も,一か所にあるなんらかの物質の建造物の中に彼ら全部が入ることにかかってもいません。神の民の保護を含む神の目的の遂行には,彼らが「日と時刻」とを前もって知らされる必要はありません。
生存者の前途
27 「大患難」の生存者の一人となるためには,どんな条件を満たさねばなりませんか。
27 聖書はきたるべき「大患難」を生き残る人々がいることを明示しており,またそれら生存者の一人となるために何が要求されているかを示しています。啓示 7章14節は,大患難生存者の「大群衆」を描写し,「彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」と述べています。これは,「大患難」の襲う時に彼らがエホバ神のみ前に清い,エホバ神の意にかなった様子をしていることを意味します。そのためには彼らはどんなことを要求されることになるでしょうか。それは,自分の罪を許していただくための基礎として,イエスの流された血に信仰を働かせ,神のご意志を行なう努力を続けることです。―ヨハネ 3:36。ヤコブ 2:26。
28 その「大患難」を生き残る人々にはどんなすばらしい前途がありますか。
28 生存者の「大群衆」の前途は本当にすばらしいものです。子羊イエス・キリストは「命の水の泉に彼らを導かれる」でしょう。(啓示 7:17)その時「大群衆」は,地上の生活を不快なものにしていた圧制的な体制すべてから解放されているので,人間の弱さや不完全さから脱して元の状態を取り戻すのに理想的な状態に置かれているでしょう。イエス・キリストは,ご自分の贖いの犠牲の価値を,余すところなく彼らに適用されるでしょう。彼らは,イエスの援助に従順に答え応ずるとき,しだいに完全になっていくでしょう。先祖から受け継いだ罪と不完全さに起因する病気,老齢,それに死は,ついには永遠に滅ぼされてしまいます。(啓示 21:3-5)幾十億もの人々が復活するので,死がもたらした被害さえも,もと通りになります。(ヨハネ 5:28,29)これら復活した人々も同じく終わりのない命を得る機会を持ちます。
29 各自いま何をするのは賢明なことですか。
29 患難が襲う「日と時刻」はあなたにとって確かに生死を意味するものです。であれば,その「日と時刻」が明日くるかのように今自分が生活しているかどうかを確かめてみるのは,知恵の道ではないでしょうか。わたしたちは,「大患難」が襲う「日と時刻」を知りません。しかし,そのために大患難が急速に近づいている事実が変わるわけではありません。大体の時期は,神のことばの中に明確に記されています。1914年の出来事だけでなく「大患難」をも見るとイエスが予告しておられた「世代」は,現在かなりの年齢に達しています。そのことは,情勢の緊迫感を増し加えます。わたしたちは自分が個人的に,神の裁きの「日と時刻」が近づいている事実を本当に十分に認識して生活しているかどうか,注意深く考えてみなければなりません。
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その「日と時刻」を知らないことは,あなたにどのような影響を及ぼしますかものみの塔 1975 | 8月1日
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その「日と時刻」を知らないことは,あなたにどのような影響を及ぼしますか
1 神の支配的な特質は,神が「大患難」の始まる「日と時刻」を示しておられないこととどんな関係がありますか。
「大患難」が現在の事物の体制を荒廃させ始める「日と時刻」をエホバ神が示されなかったことには,一つの目的がありました。その目的は,神の支配的な特質,すなわち愛と密接なつながりを持ちます。(ヨハネ第一 4:8)神は愛の神であられますから,神を本当に深く愛する者だけをご自分のしもべとして望まれます。(詩 119:97。ヨハネ第一 5:3)理性のある被造物が非常な恐怖をいだいて神の前に卑屈な態度を取り,神から受けるかもしれない罰を恐れるがゆえに神に奉仕する,というようなことをさせるのは神の望まれるところではありません。神はいつも,人々に本心を示させながら人々の愛をも同時に引き出すという方法で,人々を扱ってこられました。
2 エホバは不完全な人間に対しその愛をどのように示されましたか。
2 エホバは大いなる過分のご親切を表わされ,地上での生存を可能にするためにご自分が働きを開始させた自然のサイクルから益を得ることを,感謝も認識もない人間たちにさえ許してこられました。(使徒 14:16,17; 17:24,25)さらにまたエホバは,16世紀以上の期間にわたり,40人ほどの人々に霊感を与えて,エホバがどんな神であるか,エホバが是認される者はエホバから何を求められるかなどを知らせる,一つの記録書を作らせました。(テモテ第二 3:16,17)聖書に書かれているその記録は,わたしたちが,多くの問題や困難な状況の存在する現在においてさえ,最も有意義な人生を送ることを可能にする健全な指針を与えます。(詩 19:7-11)その記録はまた,わたしたちのために命を捨てるべくその独り子を与えたときに神が示された驚くべき愛を,わたしたちに知らせてくれます。このことは,唯一まことの神との是認された関係を得る機会を人類に開き,また病気や老衰や死から解放された生活のできる前途を可能にしました。―ヨハネ 3:16。テトス 3:4-7。啓示 21:3,4。
3 エホバが「大患難」をもたらすことは,エホバが愛の神であることと矛盾しません。なぜですか。
3 しかし,そのような神が,人類に恐怖を抱かせるような破壊的な患難をもたらすというのは,どういうわけですか。実際に,神が愛の神であられるために,そうすることが必要となるのです。これは今日の多くの人々にとって奇異に聞こえるかもしれません。27世紀ほど前,ヘブライ人の預言者ミカが,エホバは十支族の王国イスラエルと,二支族の王国ユダの上に災いを下される,と発表したときにも,それは多くのイスラエル人にとって奇異に聞こえました。彼らは疑念を抱いて尋ねました。『エホバの気 短からんや エホバの行為かくのごとくならんや』と。これに対してエホバは答えられました。『我がことばは品行正直者の益とならざらんや』。(ミカ 2:7)そうです,正しく歩んでいる者たちの益を図るには,義の道に従うことをかたくなに拒否する,そしてそうすることによって不公正や圧制や不法を助長する者たちをすべて神が処置される必要があります。そうした事柄は,今日の地上での生活をますます危険で不愉快なものにしています。
4 エホバは全人類に関してどんなことを望んでおられますか。
4 それでもエホバは,邪悪な者たちに対して行動を起こすご自分の「日と時刻」が来る前に,悪い道を捨てるよう,すべての人に温かく訴えておられるのです。(イザヤ 55:6,7。エレミヤ 18:7-10と比べてください)エホバは,不従順な子どもを罰しなければならないことを悲しむ,しかし子どもが正しいことを行なうのを喜ぶ,慈愛深い人間の父親のようです。西暦前607年にエルサレムの上に臨ませた激しい滅びについてエホバがどのように感じられたかに関し,聖書は,「心より世の人をなやましかつ苦しめ給うにはあらざるなり」と述べています。(哀歌 3:33)エホバはむしろ人々が命の道を追い求めるのを好まれます。命の道は,エホバが人々に対して不利な措置を取ることを不必要にするだけでなく,人々に個人的な幸福や満足をももたらし,また仲間の人間の安全や喜びにも寄与します。「エホバは……ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれる」と,使徒ペテロは書いています。―ペテロ第二 3:9。
5 (イ)エホバが「日と時刻」とを示しておられないために,個々の人は自分自身について何を表わしますか。(ロ)神が「日と時刻」を知らせておられないという事実は,誠実な人々が真のクリスチャンを見分ける際にどのように助けになりますか。
5 エホバ神が,この地球上の邪悪な事物の体制に裁きを執行すべくご自分のみ子を送る「日と時刻」を知らせておられない事実は,人々に本心を示させる点で確かに一つの役割を果たしています。もし創造者を本当に愛しているのでなければ,そして創造者とのりっぱな関係の価値を認識していなければ,人々は自分の心が傾く対象 ― 豊かな物質の財産とか,この世での名声,自己中心の生活などを追い求めるでしょう。そのような人々は,神は「日と時刻」とをわたしたちに告げておられないので,多分わたしたちの時代には来ないだろう,と考える傾向があるかもしれません。神が「日と時刻」を知らせておられないことはまた,神のご意志を行なうことを望む人々の益となっています。なぜそう言えますか。なぜなら,エホバ神がされたことは,エホバの「日と時刻」の直前になって,エホバ神のしもべを装っているだけの人々の間で偽善的な信仰が誇示されるのを不可能にするからです。したがって誠実な人々は,神の献身的な民を見分けるのに困惑することはありません。神の裁きの「日と時刻」を無視する人々と,それをしない人々との違いをはっきりと見ることができます。
その「日と時刻」を無視することは危険
6 今日,多くの人々は,ペテロ第二 3章3-7節に述べられているようにどんな態度を示しますか。
6 「大患難」が近いことを示す聖書的証拠に注意を引くと,多くの人々はそれを軽視し,嘲笑します。それは聖書が述べている通りの行為です。「終わりの日にはあざける者たちがあざけりをいだいてやって来るからです。その者たちは自分の欲望のままに進み,『この約束された彼の臨在はどうなっているのか。わたしたちの父祖が死の眠りについた日からも,すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているではないか』と言うでしょう」。ノアの日の洪水のような,過去において神が行なわれた刑の執行は,彼らにとっては何の意味もありません。神が,過去において行なわれたように邪悪な者たちを滅ぼされるということを,なんとしても信じたくないのです。生き方を変えずに,自分の利己的な欲望にいつまでも屈していたいのです。(ペテロ第二 3:3-7)もし彼らがそのような態度を固執し,神の「日と時刻」が彼らに追いついたなら,彼らが災いを逃れることは決してないでしょう。
7 裁きが執行されるきたるべき「日と時刻」を真剣に考えない態度は,クリスチャン会衆と交わっている人にさえどのように影響しますか。
7 エホバの裁きが執行される,エホバのきたるべき「日と時刻」を無視することは,今日真のクリスチャン会衆と交わっている人々にさえ伝染する恐れがあります。「大患難」について聖書が何と述べているかを人は知っているかもしれません。そのことについては何年も前から聞いており,もしかしたら献身しているクリスチャンの両親からさえ聞かされてきたかもしれません。しかし,実際には大したことは起きていないので,自分自身の思いの中では,神の「日と時刻」の来る時を,遠い将来のことのように考え始めているかもしれません。会衆内の人々の健全な交わりは楽しむかもしれませんが,キリストが追随者たちにお命じになった宣べ伝えるわざや弟子を作るわざには,彼らと一緒に魂を込めて直接に参加することをしません。この世や,この世が提供する物質上有利に思える立場が,いままでよりも大きな魅力を帯びてくるかもしれません。やがてその人は,自分が物質主義的な関心事を追い求めているか,またはエホバ神との是認された関係を持つことを妨げている習慣や性癖を捨てる一層の努力をすることをやめているのに気づくかもしれません。『事が実際に起き始めたなら』生き方を変えよう,とさえ言うかもしれません。しかし現在のところはその用意がありません。そのような人は,神のご要求の正しさに対する認識に欠けており,非常に危険な立場にあります。
8 食べすぎや飲みすぎは,「大患難」に対する人の態度にどんな影響を及ぼすことがありますか。
8 また,不節制なために,「大患難」の到来の確実さに対して鈍感になる人も少なくありません。イエス・キリストはこの危険を弟子たちに警告し,次のように言われました。「しかし,食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい」。(ルカ 21:34,35)明らかに,食べ過ぎたり飲み過ぎたりすると感覚は鈍り,心は罪悪感で「押しひしがれ」ます。それと同時にそのような不節制は良い動機を押し出してしまいます。―箴言 20:1。イザヤ 28:7と比べてください。
9 暮らしのことを心配しすぎるとどんな危険がありますか。
9 同様に,暮らしのことを心配し過ぎることも,心の大きな重荷となります。エホバ神はご自分の民の世話をされる,という慰めとなる安心感を見失うようなことをするなら,そのような人の心はやがてその人を動かして,将来を経済的に安全にするために,できるかぎりの事柄をさせるようになるでしょう。(ヘブライ 13:5,6)そのうちに霊的関心事の追求は押し出されてしまって見られなくなり,その人は霊的に破産し,エホバ神のみ前に是認されない状態になります。―テモテ第一 6:9,10。
信仰に一致した生活をする
10 わたしたちは毎日をどのように生きるべく努力すべきですか。なぜですか。
10 それよりもはるかに良いのは,裁きを執行するエホバの時が確実に来ることを認めて日々生きることです。そうすれば人は,神の「日と時刻」が到来する時に,神が非としておられる状態に陥るのを防ぐことができるだけでなく,現在においてさえ,生活をより楽しいものにすることができます。(テモテ第一 4:8)なぜなら,神の命令は愛に基づいており,善を促進するのに役立つからです。(ローマ 13:8-10)その命令に従順に従えば,精神や肉体や感情に害となる道を追い求めることはありません。―箴言 4:1-15。伝道 11:9,10。
11 過去の人々は,邪悪な体制の終わりが自分たちの生きている間にはこないことを知っていましたが,何によって,神のご意志を行なうことを全生活の中心にすることができましたか。
11 20世紀よりもずっと昔に,すべての悪を終わらせて地の事柄を義をもって管理させるという神の目的に信仰を持つことを示す生き方をした人々がいました。彼らは,そのことが自分たちの生きているうちには生じないことを知っていました。それでも,死から復活させられる時に,神が彼らのために意図しておられることにあずかりたいという望みを非常に強く持っていたので,彼らは神のご意志を行なうことを全生活の中心としました。―ヘブライ 11:35-40と比べてください。
12 神の約束の成就においてアブラハムとサラはどのようにその信仰を証明しましたか。
12 アブラハムとサラの例を考えてみましょう。ふたりは進歩的な都市ウルの住人でした。それにもかかわらずアブラハムは,神に招かれたとき,自ら進んで故郷の町を離れ,見ず知らずの土地に向かって出発しました。(創世 12:1-4)妻のサラは,このことにおいて彼に申し分のない協力をしました。神が彼らを導かれた土地についに入ったとき,彼らはいずれかの都市を愛して住み心地のよい家に落ち着くようなことはしませんでした。彼らも彼らの子孫も,引き続き天幕生活をしました。ウルでのもっと快適な生活に戻ることを妨げるものは実際に何もなかったのに,なぜそうしなかったのでしょうか。聖書はこう答えます。「彼らは約束の成就にあずかりませんでしたが,それをはるかに見て迎え入れ,自分たちがその土地ではよそからの者,また寄留者であることを公に言い表わしました。そのように言う者は,自分自身の場所をせつに求めていることを示しているのです。しかも,もし彼らが,自分たちの出て来たその場所をいつも思い出していたのであれば,帰る機会もあったはずです。しかし今,彼らは,さらに勝った場所,すなわち天に属する場所を得ようと努めているのです」― ヘブライ 11:13-16。
13,14 人生における進路を決定する際に,財産に対する過度の心配に左右されなかったアブラハムとサラは賢明でした。何がそのことを示していますか。
13 アブラハムとサラは賢明な選択をした,とあなたはお考えですか。彼らの人生は本当に満足のいくものとなりました。(創世 25:8)アブラハムとサラは,自分たちの取った行動に対して豊かな報いを受けました。エホバは,家族を養うアブラハムの努力を祝福されました。それで彼は何物にも事欠くことはなく,いつも豊かでした。(創世 13:2; 14:14)アブラハムは神と非常に親しい関係を持ち,み使いたちと話したり,み使いたちをもてなす特権さえ与えられました。(創世 18:1–19:1)彼と彼の妻の生殖力は奇跡的に回復させられたので,彼は愛妻サラによってイサクをもうけることができました。そして彼の家系を通して,神ご自身のみ子が人間として生まれ出ました。(創世 17:17。ヘブライ 11:11,12。ルカ 3:23-34)アブラハムとその忠実な子孫に対する神の保護ならびにご配慮について,詩篇 105篇14,15節は次のように述べています。『人のかれらを虐ぐるをゆるし給わず かれらの故によりて王たちを懲しめて宣給く わが受膏者たちにふるるなかれ わが預言者たちをそこなうなかれ』。―創世 12:17; 20:3,7。
14 もしアブラハムが,ウルを去れとの神の招きに応じていなかったなら,彼はすばらしい機会を逃していたにちがいありません。名前をとっくに忘れ去られてしまった古代ウルの他の裕福な人々と,なんら変わるところはなかったでしょう。しかし彼はその招きに答え応じたので,エホバは,アブラハムの名前を大いなるものにするとの約束を果たされました。(創世 12:1,2)古代においてアブラハムの名前ほど,とりわけ顕著な信仰の模範として,大いなるものとなった名前はあまりありません。そしてアブラハムは『エホバの友』として知られるようになりました。(イザヤ 41:8)アブラハムは,神の定めの時に死からよみがえらされ,その前途にとこしえの命の見込みを持つことになるでしょう。アブラハムとその献身的な子孫について,ヘブライ 11章16節は次のように述べています。「ゆえに神は,彼らを,そして彼らの神として呼び求められることを恥とされません。彼らのために都市[メシアの王国]を用意されたからです」。
15 第一世紀のクリスチャンは,自分たちの生きている間に神の義の新秩序が到来することを期待していましたか。
15 西暦一世紀のイエス・キリストの真の追随者たちの中にも,アブラハムとサラが示したりっぱな精神が見られました。彼らもまた,彼らが生きている間には,新しい天と新しい地の新秩序の招来は成就しないことを知っていました。神の霊感を受けて書いた使徒パウロは,仲間の信者たちに,「エホバの日」は,真の信仰を捨てる背教がしっかりと根を下ろしたのちでなければ来ないことを指摘しました。―テサロニケ第二 2:1-8。ペテロ第二 3:13。
16 初期のクリスチャンは,有形財産に対してどんな態度をとりましたか。それはどのように益になりましたか。
16 そのために第一世紀のクリスチャンたちは,「エホバの日」の到来を無視した生き方をしたでしょうか。イエス・キリストの弟子としての自分と神との関係を尊重した人々は,そのような生き方はしませんでした。自分たちが持っている霊的な喜びに他の人々もあずかることができるように,自分の財産を進んで手離しました。(ルカ 14:33。フィリピ 3:7-9)たとえば,西暦33年のペンテコステの日の後,多数の信者は自分の持ち物を売って基金をつくりました。それは,使徒たちの教えから引き続き益を得るようエルサレムにとどまるために基金を必要としていた人々を助けるために使うためでした。―使徒 2:41-47; 4:34,35。
17 第一世紀という遠い昔のクリスチャンたちが,「良いたより」の伝道を,急を要する事柄と見たのはなぜですか。
17 イエス・キリストの忠実な追随者たちは,弟子を作る使命を真剣に考えました。(マタイ 28:19,20)30年たたないうちに,彼らはローマ帝国内に広く散在する多くの場所で,またさらに遠くの場所においてさえ,「良いたより」を宣明することに成功していました。(コロサイ 1:23)彼らは緊急にそれを行なう必要があることを認めていました。人々がイエス・キリストの共同支配者として不滅の命を得る見込みについて学ばないうちに死ぬことさえあるのを彼らは知っていました。可能なかぎり多くの人がその栄光ある前途にあずかる機会を得るように,彼らは無私の気持ちで働きました。それに,ユダヤ教の事物の体制の終わりは,その世代のうちに来ることになっていました。したがってユダヤ人は,どこに住んでいようと,このことに関するイエス・キリストの預言について知らされる必要がありました。そうすれば彼らはそれに従って行動して災厄を免れることができました。
18 わたしたちの時代のエホバのクリスチャン証人たちは,一つの集合体として,聖書の助言を自分の生活に適用することや「良いたより」を他の人々に宣べ伝えることの重要さについて,どう考えていますか。
18 エホバのクリスチャン証人たちは一つの集合体として今日同じことを行なうべく励んでいます。神のことばの助言に従うことこそ最善の生き方である,と彼らは確信しています。神のことばの助言は今でさえ人が生活を楽しむことを可能にし,また将来に対する確かな希望を人に与えます。(テモテ第一 6:17-19)彼らはまた,次の事柄の重要さをも認めています。それは,「大患難」が襲わないうちに創造者との是認された関係に入る必要のあることを,あらゆる場所の人々に警告することです。(エゼキエル 33:2-9。コリント第一 9:16と比べてください)神のご意志に関する正確な知識を得るよう仲間の人間を助けることに彼らが進んで真剣に努力してきたのはそのような理由によりました。
19,20 (イ)他の人々が神の目的に関する知識を得るのを助けるために,多数の証人は自分から進んでどんなことまでしてきましたか。(ロ)他の関心事を追い求めなかったことを彼らが後悔する理由が何かありますか。
19 エホバについて,またエホバが人類に対して持っておられるすばらしい目的について学ぶよう仲間の人間を助けるために,相当数の人々が,有望な職業を捨て,利益のあがる関係事業をやめ,不必要と考えられる有形財産を売りました。あるいは他の種々の方法で自分の境遇を調整しました。また同じ理由で,自国内の他の場所に,あるいは他国にさえ移転した人も少なくありません。それから,独身を選んだ人,あるいは結婚していても,子どもがいたら達成することが困難だったであろう奉仕にあずかれるよう,子どもを持つ喜びを差し控えた人たちもいます。
20 そうした人々の中には年を取って体が弱くなった人たちもいます。彼らは,自分たちがこの不敬虔な体制からいまだに救い出されていないことに失望していますか。特定の関心事,つまりそれ自体は悪くなかったであろう関心事を追い求めなかったことを後悔していますか。自分たちが行なった犠牲は必要ではなかったのだ,と感じていますか。エホバ神に対する深い愛と,他の人々を助けたいという心からの願いに基づいて決定をした人たちは,少しも後悔していません。違った生き方をしていたならもっと裕福になっていただろうにと考えて,他の人々をうらやむようなことはしません。また,一定の地域に落ち着くことに決め,そこで聖書の原則に従って子どもを育てた人々を見下げるようなこともしません。自分の場合には正しいと自分に分かっていたことを行なったことに満足し,エホバ神との親しい関係を保ったことを喜びます。
エホバの道を認識する
21 もし「大患難」が,わたしたちが個人的に期待しているかもしれないほど早くこないなら,わたしたちはどう考えるべきですか。
21 わたしたちが,世の増大する諸問題や,生計を立てるための日々の苦闘,病気,老齢,そして死などからできるだけ早く解放されたいと思うのは,至極当然なことです。しかし,もしその解放が自分が個人的に期待しているほど早く来ないとしたらどうですか。そのことはあなたの心にどんな影響を及ぼしますか。エホバ神との正しい関係の重要さを忘れて,この世でまだどんな快楽が得られるかを考えるよう誘惑されるでしょうか。もしあなたが本当にエホバを愛しているなら,神に対するあなたの奉仕はどんな期日にも制限されません。真のクリスチャンが持っているものは,この世が提供する何物よりも大きな価値があることをあなたはご存じです。エホバ神はご自分のしもべに約束されたことをすべて成就されるとあなたは確信しています。ヘブライ人にあてられた霊感による手紙にあるとおりです。『神は不義なかたではないので,あなたがたがみ名に示した愛を忘れたりはされない』― ヘブライ 6:10。
22 もしわたしたちがほんとうに人類に対する神の見方を自分の見方としているなら,「大患難」までの残された期間をどのように見るでしょうか。
22 ここで述べられたことは,「大患難」は遠い先のことだという意味なのだと結論して,神から離れているこの世の思考の型と同じような型にはまり込むようなことがあってはなりません。神の暖かい訴えに人々がまだ答え応じているかぎり,わたしたちはそれから励ましを得るべきです。それは,一人の人も滅ぼされず,すべての人が悔い改めに至るというエホバの望みと一致しています。(ペテロ第二 3:9)わたしたちは,神の人類に対する見方を自分の見方としているので,とこしえの命の見込みのあるエホバの側に立つ道がまだ他の人々のために開かれていることを喜びます。またわたしたちは,できるだけ多くの者が神のみ前に是認された立場を得るようにとのエホバの目的の明らかな成就を引き続き見ているので,裁きの執行されるエホバの「日と時刻」も来るという確信を確かに強められるはずです。というのは,それも神の不変の目的の一部であるからです。
23 (イ)現在の邪悪な体制が除去されること,新秩序が立てられること,などに関する神の目的が達成され,しかもそれが神のお定めになった時に起こるということを,何がわたしたちに確信させてくれますか。(ロ)このことを考えて,わたしたちは各自何をすることを自分の決意としなければなりませんか。
23 エホバご自身の名声,エホバの真実さは,不公正,圧制,苦痛を終わらせるというエホバの約束がその成就に向かって「急ぐ」,つまりひたすらに進んでいるという強い確信をわたしたちに与えてくれます。(詩 117:2)人間的な見地からすれば,それが遅れているようにある人々には思えるかもしれません。でもそれは,ヘブライ人の預言者ハバククに示された通りの状態なのです。『この黙示はなお定まれる時をまちてその終りを急ぐなり 偽りならず もし遅くあらば待つべし 必ず臨むべし とどこおりはせじ』。(ハバクク 2:3)それであなたは今現在,エホバ神との是認された関係を維持するように努力しておられますか。将来にどんなことが起きようともエホバに仕えつづけることをあなたの決意としておられますか。もしあなたの動機が正しく,神と仲間の人間に対する愛があるならば,あなたは確かにそうしておられるでしょう。そしてあなたは,神を心から熱く愛するあなたや人類の他の人々すべてに神がお与えになる報いを,確信を抱いて待ち望むことができます。
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霊的食物の益にあずかるものみの塔 1975 | 8月1日
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霊的食物の益にあずかる
● トーゴ共和国では,地域あるいは巡回大会を開く許可を得ることはできません。しかし,兄弟たちの何人かがアクラに行って,同地の大会に出席しました。とはいえ,兄弟たち全員が霊的食物にあずかるようにするため,トーゴ共和国の支部は謄写版で大会のプログラム全部の写しを作って各会衆に送り,そのプログラムの資料を提供する特別集会を開くよう兄弟たちに要請しました。この取決めは非常な成功を収め,非常に優れた教訓や励ましを与えるものとなりました。―「エホバの証人の1975年の年鑑」より。
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特別の努力を払って「良いたより」を分かち合うものみの塔 1975 | 8月1日
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特別の努力を払って「良いたより」を分かち合う
● 島々が散在しているところでは,「良いたより」を人々と分かち合うために特別の努力が払われています。ミクロネシアのマーシャル群島地区では,9人の伝道者の一行がコプラ(やし油の原料)運搬船で,24日間の航海を行ない,どこでもその船の立ち寄る所で証言をしました。その会衆は食糧を提供して一行を援助しました。一行が立ち寄った場所の一つはキリでしたが,そこの住民はアメリカが核実験を行なった当時,ビキニ環礁から移って来た人たちでした。上陸後,伝道者の一行は直ちに「王国ニュース」第16号を持って村全体を回り,その冊子の取り上げている問題を説明する,その日の午後の話を聞きに来るよう人々を招待しました。反響は満足すべきもので,72人の村人が姿を現わし,そのほとんどが成人でした。その集まりはタコノキの木々の下の涼しい場所で開かれ,人々は砂の上に座りました。講演が終わった後,聴衆の質問に対する答えが述べられ,聴衆の間には感謝の気持ちのこもった反応が見られました。―「エホバの証人の1975年の年鑑」より。
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