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  • 神に関する混乱した考え方
    ものみの塔 1969 | 10月15日
    • 神に関する混乱した考え方

      今日,神については多くの考え方があり,混乱しています。神の存在を信ずると言う人は多くいます。しかし神に対するその人々の考え方はおおむねあいまいなものです。これは主として教会の教えに責任があります。

      神学者G・H・ブーバイヤーはこの点を率直に認め,こう語りました。「キリストの位格に関する正教的な教理が,疑問に満ちた非キリスト教徒,および教理の説明を受けるキリスト信者の多くにとって,少なからぬ当惑のもととなっていることを,我々は認めるべきであろう。『真の神から出た真の神,造られたのではなく生まれたもの,父と同一の本質』,また,『完全なる神であるとともに,完全なる人間,真の神にして真の人間』― こうして,聞きなれた言いまわしは続く。……知的な一般信徒の多くにとって,これは全く煙にまかれたような論議であろう」。―「ジョン・ライランド図書館報」,1968年春季,248ページ。

      ルーテル神学校の教授N・レロイ・ノーキストは,「ルーテラン」誌の中で同様のことばを述べました。「クリスチャンの信ずる事柄について一度も聞いたことのない者が,ルーテル教会の日曜日朝の礼拝に突然出席したとすれば,彼はそこで聞く事柄の意味がわからず,全く当惑するであろう」。

      あなたはどう感じておられますか。あなたも神に関する教会の教えに当惑していますか。あなたご自身は神についてどんな考えをいだいておられますか。それはあなたの所属する宗教組織の教えと同じですか。

      神に対する教会の考え方

      実を言えば,今日の多数の人は,自分の教会が神についてどのように教えているかをよく知りません。神についてほとんど何も語らない教会が多いのです。「レイディーズ・ホーム・ジャーナル」誌の今年の3月号は,「千人の婦人の報告: もはや教会に神を見いだすことはできない」という特別の見出しをその表紙に掲げました。アメリカ,カリフォルニア州クレアモントの組合教会の一員は,「わたしたちの教会の成人既婚者会の集会室には,『神は死んだ』というポスターがはってある」とさえ語りました。

      信徒に神について教えるという点で,教会がよい仕事をしていないことは明らかです。その大きな理由の一つは,神に関する教会の混乱した考えのためです。それはどんな考え方ですか。

      それは,神は『三位にして一つ』であるという考え方です。キリスト教国のおもな教会はみなこれを教えています。まず,ローマ・カトリック教会はこの考えを教えています。そして237の教会を集めた世界教会協議会の規約の一部は次のとおりです。「世界教会協議会は,聖書に従って,主イエス・キリストを神または救い主と認め,父,子,聖霊なる唯一の神の栄光のため,共通の召しの全うをともに目ざす教会の連合である」。

      このように,キリスト教国の大多数の人が所属する宗教組織は,「父,子,聖霊」は三つであるとともに「一つの神」であると考えています。これは神に関するあなたの考え方と同じですか。あなたはこのことをほんとうに理解できますか。

      自分の信仰を他の人に説明する

      だれかが,神に関するこの考えを説明してくださいと言う場合,あなたは説明できますか。ノーキスト教授によると,教会を尋ねる人は教会員に対して次のように言うことがあります。

      「あなたは,父は神であり,子は神であり,聖霊は神であると唱えるが,三つの神ではなく,ただ一つの神を信ぜよと言う。あなたの神には二つ,もしくは三つの顔があり,同一の神であるが,異なった人々に対して異なった行動をし,事態の変化に応じてそれぞれの顔を向けるという意味か」。

      教会員であるならば,あなたはどのように答えますか。あなたは納得のゆく説明を行なえますか。

      人々は説明を求めています。信仰の根拠を得るため,人は自分の疑問に確かな答えがほしいのです。神のことばはクリスチャンに対し,「汝らのうちにある望の理由を問ふ人には……つねに弁明すべき準備をな(せ)」と勧めています。(ペテロ前 3:15)しかし,神は三者であるが一つであるということに対してどんな説明がありますか。あなたはそれを説明できますか。

      神学者ノーキストの結論に注目してください。「我々はこれを説明できないのであり,その点を認めねばならないだろう。三位一体の教理の“なぞ解き”は不可能である。……この言いまわしをこしらえた人々は異端者に対する道具とすることを意図していた。

      「異端と戦うにあたり,彼らはことばの実験をし,三位一体の『三位』の関係を定義するために言いまわしを細かに工夫し,やがて,『これを信じないなら,ほんとうの信者ではない』と言えるようにしたのである」。―「ルーテラン」誌,1960年6月15日号,11,12ページ。

      神に関するこの考え方は説明できないというのです。どこかに誤りがあるのではありませんか。そして,神に関する教えそのものが混乱しているなら,その宗教が衰微していても不思議ではないでしょう。

      信条の作成

      「この言いまわしをこしらえた人々(が)……ことばの実験をし,三位一体の『三位』の関係を定義するために言いまわしを細かに工夫した」とはどう意味ですか。神に関してこのような考え方を作り上げたのはどんな人々ですか。

      それはイエスの死後の時代の教会人でした。それらの人々は,「わたしは信ずる」という書き出しで始まる信仰箇条もしくは告白文を作りました。「わたしは信ずる」という表現のラテン語形はクレドであり,英語の「クリード」(信条)はこのラテン語から来ています。三位一体の考えはそうした「クリード」(信条)つまり信仰告白文の中で発展してきました。

      あなたはその種の信条によく通じておられますか。その中にはどんなことがしるされていますか。そこに述べられていることは強固な信仰の土台となりますか。

  • 種々の信条に見られる三位一体説の発展
    ものみの塔 1969 | 10月15日
    • 種々の信条に見られる三位一体説の発展

      今日,教会に行く人の多くは,イエス・キリストとその使徒が三位一体の教理を発展させたと考えているでしょう。しかし,E・ウォッシュバーン・ホプキンス教授は「宗教の起源と進化」という本の336ページでこう述べています。「イエスおよびパウロは三位一体の教理を知らなかったと考えられる。いずれにしても,彼らはこの教理について何も述べていない」。イエスやパウロは三位一体を定義づけるような信条を作りませんでした。

      実を言えば,「三位一体」ということばは聖書の中に一度も出てきません。「父,子,聖霊なる一つの神」,また「父と同一の本質」などという表現も聖書の中には見あたりません。逆に聖書は,キリストを「神による創造のはじめ」と呼び,「キリストの頭は神なり」と述べているのです。(黙示 3:14,新。コリント前 11:3)それで,新カトリック百科事典は三位一体について,「すでに見たとおり,直接またじかにこれは神のことばに基づくものではない」と述べています。―第14巻,304ページ。

      初期の教会人はこの考えをもたなかった

      『三位にして一つの神』という概念はイエスや使徒の死後まもなく発展したものでもありません。そのことを米国聖公会神学校の教会史教授ジ ェームズ・アーサー・ミューラーが次のように書いています。「三位一体を教理化したものが2世紀の書物に見られないことは,当時の宗教思想の反映である。西暦150年ごろに著作を残したジャスティン・マーターは,御子が人間となる以前から存在していたことを強調しているが,御父に対する関係においては,御子を『父の地位につぐ』者としている」― 「信条と忠誠」,9ページ。

      2世紀末の著名な教会人イレナエウスでさえ,キリストが神に従属し,神と同等のものではないことを述べています。「イレナエウスの反異端論」,第2巻,第28章8節。

      このように初期の教会人は三位一体の考えをいだいていませんでした。事実『三位にして一つの神』という考えが人間によって最終的に公式化され,教会内に導入されたのは,キリストの死後400年以上もたってからです。

      使徒信条

      「しかし,使徒信条は使徒たちが作ったものではないのか。そして,この信条は三位一体を教えているのではないか」と言われるかたがあるでしょう。

      12使徒がこの信条を書いたということは幾世紀にもわたって教えられ,また信じられてきました。しかし,そのような主張は誤りであることが実証されています。実際の証拠から言えば,「使徒信条」を作ったのは,使徒たちより数百年のちの人々です。

      種々の信条や告白文を収録した,B・A・ゲリシュ編集の「キリスト教世界の信仰」という本はこう述べています。「使徒信条は使徒の名を冠しているが,これが使徒によって直接に作られたとは考えられない。これが使徒たちの時代から500年以内に現われたと考える理由さえないのである」。次にあげる使徒信条を調べてください。

      「我は天地の造り主,全能の父なる神を信ず。我はその独り子,我らの主,イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり,処女マリヤより生れ,ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け,十字架につけられ,死にて葬られ,陰府にくだり,三日目に死人のうちよりよみがえり,天に昇り,全能の父なる神の右に坐したまえり,かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会,聖徒の交わり,罪の赦し,身体のよみがえり,永遠の生命を信ず。アーメン」。a

      この文の中で,神とイエス・キリストと聖霊とが「一つの神」であることについてはひとことも述べられていません。あなたもその点に気づかれるでしょう。しかし,使徒信条が作られつつあった時代に,キリストの性格について激しい議論が持ち上がりました。キリストは神に対してどんな関係にありますか。キリストは神と別個のものであり,神より低いものですか。それとも,イエスは神そのものでしたか。

      ニケア信条

      4世紀までに,若年の助祭長であったアタナシウスを含む何人かの教会人は,イエスと神は同じであり,同一の存在であると唱えるようになりました。他方,長老アリウスをはじめとする人々は,イエスは神に創造されたものであり,御父に従属するという聖書見解をかたく守りました。西暦325年,こうした論争を解決するための教会会議が,ローマ皇帝コンスタンチヌスの命の下に,小アジアのニケアに召集されました。異教徒であったコンスタンチヌス帝はこの会議において,アタナシウスの側を支持しました。それで聖書に忠実に従うものであったにもかかわらず,アリウスの述べた見解は異端と宣言されました。

      以来,キリストには初めがあり,父と本質を同じくするものではないと論ずる人々に対して用いる道具とも言うべき信条を作るため,『ことばの実験と,言いまわしの工夫』がなされました。ニケア信条のもとの形は明らかに,アリウスの見解と戦うことを意図していました。ニケア信条の結びには,後代に取り除かれた次の宣言が付されていました。

      「主の存在したまわざりし時あり,生まれざりし前には存在したまわず,また存在せぬものより生まれたまいたりと言う者あるいは,神の御子は異なる存在,もしくは本質より成るもの,または,造られしもの または,変わり得るもの または,変え得るものと主張する人々,かかる者らを公同なる使徒的教会はのろうべし」。(「キリスト教文書資料集」から)

      ニケアで書かれたもとの信条が聖霊に人格を付していなかったことも注目に価します。聖霊に人格を付したのは後代の修正であり,それは西暦381年のコンスタンチノープル会議のおりになされたものと考えられます。西暦325年にニケアで書き上げられ,のちに修正を加えられたものが,ニケア信条として今日に伝えられています。それは以下のとおりです。

      「我は唯一の全能の父なる神,天と地およびすべて見えるものと見えざるものの創造者を信ずる。また我らは唯一の主イエス・キリスト,神の御子,万世の前に御父よりただ独り生まれたるもの,神より出でたる神,光より出でたる光,真の神より出でたる真の神,生み出されて造られず,聖父と同質なる御方を信ずる。その主によって,万物は成り,また主は我ら人間のため,我らの救いのために天より降り,処女マリヤの聖霊によって肉をとり,人となり,我らのためポンテオ・ピラトの下に十字架につけられ,苦しみ,葬られ,聖書に従って 三日目に甦えり,天に昇り,御父の右にすわられた。また主は生きている者と死んでいる者とを審くため,光栄のうちに再び来たりたまわん。その御国に終わりはない。また我は主また命の与え主なる聖霊を信ずる。聖霊は御父と御子より出で,御父および御子とともに崇拝と栄光を受け給う。また予言者によりて語り給えり。また我は唯一の公同かつ使徒的なる教会を信ずる。我は罪の赦しのための唯一のバプテスマを認め,死人のよみがえりおよび来らんとする世の生命を待望する。アーメン」。

      ニケア信条を注意深く読んで興味深いのは,その中で三位一体説がまだ安全に定義されていないことです。父と子は本質を同じくし,聖霊は「主また命の与え主」であると唱えられていますが,この三つが「一つの神」であるとは述べられていません。『ことばの実験と言いまわしの工夫』がさらに続きます。

      アタナシウス信条

      三位一体説が最終的に定義されたのはアタナシウス信条の中においてです。すでに述べたとおり,アタナシウスはニケア信条にまとめられた見解を特に主張した若い助祭長でした。アタナシウスは自分の名を持つこの信条を書いたのですか。

      幾世紀ものあいだそのように信じられていました。しかし,それが誤りであることは今日明確に証明されています。「キリスト教世界の信仰」の61ページはこう述べています。「この信条をアタナシウスに帰することの誤りは,オランダの学者,G・J・ボスにより17世紀までに明らかにされた。内面的な証拠に基づき,この文書は西暦381年から428年ごろのものと唱えられてきた」。

      しかし,この信条の作成された時代として,このように早い年代をあげる確かな根拠はありません。事実,アタナシウス信条の完成された形のものが歴史の上に出現するのは,彼の死後何百年もたってからです。それで,ジョン・J・モメントは種々の信条に関する自分の本の中で,「アタナシウス信条が現われたのは,アタナシウスの死後500年してからである」とはっきり述べています。(「我らは信ずる」,118ページ)アタナシウス信条が三位一体をどのように定義しているかに注意してください。

      「我らが一つなる神を三位において三位を一体において礼拝することである。しかも,位格を混合することなく,本質を分離することなく。御父の位格あり,御子の位格あり,聖霊の位格がある。しかし,御父と御子と聖霊との神性は,一つであり,み栄は等しく,稜威も等しく永遠である。御父のあり給う如く御子もそのようであり,聖霊もそのようである。御父が造られていないように御子も造られていない,聖霊も造られていない。御父が量りがたいように,御子も量りがたく,聖霊も量りがたい。御父の永遠であるように,御子も永遠であり,聖霊も永遠である。しかも,三つの永遠なるものではなく,一つの永遠なるものである。また,三つの造られたるものではないように,三つの量りがたいものではなく,一つの造られざるもの,一つの量りがたいものである。

      「同じように御父は全能である。御子も全能である。聖霊も全能である。しかも,三つの全能なるものではなくて,一つの全能なるものである。かくの如く,御父は神であり,御子も神 であり,聖霊も神である。しかも三つの神ではなくて,一つの神である。かくの如く御父は主であり,御子も主であり,聖霊も主である。しかも,三つの主ではなく,一つの主である。なぜならば我らが,キリスト教の真理によって,各位が個々に,神であり主であると告白せざるを得ないようにされるように。そのように,三つの神,三つの主ということは,公同の宗教によって,我らは禁ぜられているのである。

      「御父は,何物からも形成されたのでもない,すなわち造られたのでもなく生まれたのでもない。御子は,御父からのみ出たもので,形成されたものでもなく,創造されたものでもなく,生まれたのである。聖霊は御父と御子とより出で,形成されたのでもなく,創造されたのでもなく,生まれたのでもなく,発生したのである。それ故に,一つの御父であって,三つの御父でなく,一つの御子であって,三つの御子ではなく,一つの聖霊であって,三つの聖霊ではない。しかして,この三位においては,なにものも,よりさきであるものはなく,より後であるものもない,より大いなるものもなく,より小さきものもないのである。三位が全部そのまま,同様に永遠であり,同様に相等しい。かくて,すでに上に述べた如く,あらゆることを通じて,三位において一体が,一体において三位が礼拝されるべきである。それ故に,救われたいと願う者は,三位一体をこのように考えなければならない……」。

      それで,三位一体の教理は,イエス・キリストの死後何百年もしてから,ようやくまとめられたのです。神学者N・レロイ・ノーストのことばによれば,人々は「ことばの実験をし,三位一体の『三位』の関係を定義するために言いまわしを細かに工夫し,やがて,『これを信じないなら,ほんとうの信者ではない』と言えるようにした」のです。

      今日の大部分の教会が奉ずる神の概念はこうして公式化されました。

      広く受け入れられる

      しかしあなたは,自分の教会がこれらの信条をほんとうに容認しているとは思っていないかもしれません。これらの信条にある複雑な神の概念を,教区民に教えようとすることをさえ控える傾向がありました。しかし,それは,教会がこれらの信条を廃棄したという意味ではありません。それとは逆に,ほとんどすべての教会は,今でもこの混乱した神の概念を奉じているのです。

      ローマ・カトリック教会はその一例です。そのことはカトリック百科事典の「三位一体」の頃に明示されています。同事典はアタナシウス信条の一部を引用したのち,「[カトリック]教会はこれを教える」と述べています。

      英国国教会も使徒信条,ニケア信条,アタナシウス信条の三つを是認しています。米国聖公会もこの点では同じです。同教会は,「教理の重要な点において……[英国国教会から]離れる意向は少しもない」という立場をとっています。

      ルーテル派の諸教団もこれらの信条を採用しています。アメリカ・ルーテル教会の規約の第2条,第4項は,「当教会は,使徒信条,ニケア信条,アタナシウス信条の三つを当教会の信仰の偽りなき宣言として認める」と述べています。アメリカ合同キリスト教会の規約も同様に,「古代の諸信条に言い表わされた歴史的な教会の信仰は, 当教会の信仰でもある」と述べています。

      長老派もニケア信条を認め,メソジスト系のおもな教団もニケア信条を認めています。これら諸教派は三位一体の概念を正式に採用しています。バプテスト派の諸教団はおおむね種々の信条を認めていませんが,アメリカ,バプテスト協議会の事務総長はアタナシウス信条についてこう述べています。「アメリカのバプテスト派信徒の大部分は実質的にいって,この信条の内容に同意しているとわたしは確信する」。

      キリスト教国の教会の中に,いかなる信条をも公認しないものがあることは事実です。それでも,そのほとんどすべては,これらの信条とともに発展してきた三位一体の教義を奉じているのです。それでジョン・J・モメントは,アタナシウス信条に関し,「我らは信ずる」という本の中で,こう述べました。「その定義は陳腐なものであったが,プロテスタント諸教派は,正統的信仰の基準として,幾分か意識的にこれを採用し続けた」。

      聖書に反する概念

      しかし神のみことば聖書は,『三位にして一つの神』というこの概念を全く否定しています。聖書は,神は「永遠の王」であり,初めも終わりもないと述べています。(テモテ前 1:17,新。詩 90:2)そして聖書は,イエスが永遠の父とは異なり,「神による創造のはじめ」であることを述べています。(黙示 3:14,新)イエスと神が同一のものではなく,また同等のものではないことは,死から復活したイエスを『神がより上のすぐれた地位に高めた』ということにも示されています。(ピリピ 2:9,新)高められる前に神と同等であったなら,イエスはそれ以上高くされることはできなかったはずです。それはイエスを神より上位のものとすることになるからです。1世紀のクリスチャンが三位一体の教理を教えなかったことは明らかではありませんか。

      聖書の教えは明瞭です。「万物を造」られた全能の神はエホバです。(黙示 4:11)イエス・キリストは「神の子」であり,全能の神ご自身ではありません。(ルカ 1:35)そして聖霊は人格的な存在ではなく,神の活動力であり,人はこの力に満たされることができます。(使行 2:4)諸教会がこうした聖書の真理を教えてこなかったことは明らかです。それで創造者を喜ばせることを願うなら,その種の宗教組織から完全に離れることが大切です。―黙示 18:4。

      「エホバは真の神なり 彼はいける神なり 永遠の王なり」。―エレミヤ 10:10。

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