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  • キリスト教は三位一体に対する信仰を要求しますか
    ものみの塔 1975 | 6月15日
    • も,すべてのものを自分に服させたかたに自ら服し,こうして,神がだれに対してもすべてのものとなるようにするのです」― コリント第一 15:28。

      それに,もし父,子そして聖霊が同等であって,一つの神であるとすれば,子に対する罪は父と聖霊に対する罪ともなるはずです。ところが,そうではありません。イエス・キリストはこう述べました。「人はあらゆる種類の罪と冒とくをゆるされますが,霊に対する冒とくはゆるされません。たとえば,人の子に逆らうことばを語るのがだれであっても,その者はゆるされるでしょう。しかし,聖霊に言い逆らうのがだれであっても,その者はゆるされないのです」― マタイ 12:31,32。a

      それでは,三位一体の教理はキリスト教の教旨にかなったものといえますか。そうはいえません。なぜなら,それはイエス・キリストが「神の子」で,「全創造物の初子」,また「神による創造の初め」であるという聖書の明確な言葉を否定しているからです。(ヨハネ 20:31。コロサイ 1:15。啓示 3:14)それはイエスが父と同等であり,永遠に共存していると主張する誤った教理です。

      ゆえに,真のキリスト教は三位一体を罪深い人間の“作り出した”誤った教理として退けることを要求しています。ゆえに,神の理知ある被造物すべての中で第一の地位を占める方である,神の長子イエス・キリストを通して,唯一真の神であられるみ父を崇拝すべきでしょう。―コロサイ 3:17。

  • ヨハネ第一の手紙 5章7,8節には三位一体を裏づける何らかの証拠がありますか
    ものみの塔 1975 | 6月15日
    • ヨハネ第一の手紙 5章7,8節には三位一体を裏づける何らかの証拠がありますか

      聖書学者はヨハネ第一の手紙 5章7,8節に見いだされる,あることばの信憑性を多年疑問視してきました。とはいえ,それらのことばは“公認本文”に確かに出ているので,欽定訳,ドウェー訳その他の翻訳にも出てきます。ところが,それらのことばが偽ものであることを示す証拠が増えるにつれて,三位一体を信じる人々は聖書翻訳からのその削除を延ばす処置を取っているようです。

      例えば,英国の高名なローマ・カトリックの聖書学者モンシニョール・ノックスはその翻訳(1944年)の中に次のような脚注を付しました。「この節は信頼できるギリシャ語写本のいずれにも出ていない。しかし,ラテン語訳は真の本文を保存してきたと言えるかもしれない」。また,カトリックのコンフラタニティ訳(1941年)の本文は次のように訳されています。「天で証をするものが三つあるからである。それは父,ことばそして聖霊であり,それら三つは一つである。また,地上で証をするものが三つある。それは霊と水と血であり,それら三つは一つである」。この翻訳は脚注の中でこう述べています。「多くの写本の証拠や大半の注釈者によれば,これらの節は次のように訳されるべきである。『また,証拠を与えるものが三つある。霊と水と血である。それら三つは一つである』」。それにもかかわらず,その脚注はこう付け加えています。「教皇庁は現在の読み方の出所に関する最終的判断を下す権利を自ら保留している」。

      「カトリックの聖書注釈」(1953年)と題する本は父,ことば(イエス)そして聖霊の三者がキリストの神性をどのように立証しているかをあえて説明しようとしています。そして,「それら三つは一つである」ということばの説明として,それら三つのものは「全く同一の性質を持っている」と述べています。ところが,その後の箇所で同書は(読者のほとんどが調べないであろうと思われる)別のページに言及しています。その箇所を見るとこの句は今では,古ラテン,ウルガタそしてギリシャ語各写本に忍び込んだ行間注であると一般的に考えられていることを認めているのがわかります。それが真実である以上,どうしてその句を説明しようとするのでしょうか。

      これらつけ加えられたことばが本文に含まれていないエルサレム聖書(1966年)の脚注は対照的で,こう述べています。「ウルガタ訳の7-8節は次のとおりである。『天には証するものが三つある。父,ことばそして霊であって,これら三つは一つである。地上には証するものが三つある。霊と水と血である』。下線を付したことばは(初期のどのギリシャ語写本にも,初期のどの翻訳にも,あるいはウルガタ訳そのものの最良の写本にも含まれておらず)恐らく本文に忍び込んだ行間注であろうと考えられる」。

      意義深いことに,問題の偽のことばは,ローマ・カトリックの最新の英訳である新アメリカ聖書にも含まれていません。とはいえ,それらのことばはいったいどのようにして聖書写本に忍び込んだのでしょうか。狂信的な写字生が三位一体の教えを支持しようとして故意にこの文を挿入したものと思われます。しかし,その偽りの教理を裏づける証拠はこの節あるいは聖書の他のどこにもありません。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1975 | 6月15日
    • 読者からの質問

      ● 現実に健康が脅かされる場合,堕胎は正当化されるでしょうか。

      これは非常に深い人間の感情や気づかいが関係する問題ですが,神の完ぺきな助言によれば,母親あるいは子どもの潜在的な危険は堕胎を正当化するものではありません。

      この問題に対する人間の見解は多種多様で,しばしば相いれません。しかし,聖書の見解の根底をなしているのは命と命に対する敬意です。人間の命は神に由来するとともに,人間の命には神から付与された目的があります。(創世 1:27。ヨブ 33:4。詩 100:3-5)聖書を読むと,その至る所に命に対する神の深い敬意が反映されていることがわかります。神は人間に対して,自分の命を大切にし,また他の人の命を神聖なものとして尊重するよう,愛情をこめて勧めました。神の律法を無視して他の人間の命を取った者は,それがたとえ子宮内の胎児の命であっても,有罪とされ,それとともに責任を問われました。―創世 9:5,6。出エジプト 21:14,22-25。

      時として妊産婦がかなりの危険に直面することは否定できません。誠実な関心を示す医師は,糖尿病や高血圧あるいはその他の心臓・血管系の病気などの健康上の問題のゆえに,母親の命が危険にさらされているとの結論に達するかもしれません。そして母親は,『堕胎をするか,それとも自分が死ぬかのどちらかです』と告げられるかもしれません。あるいは,妊娠中に母親が風疹(三日はしか)に感染した場合のように,失明あるいは奇形の子どもが生まれる恐れがあると考えられるので堕胎を勧められるかもしれません。そのような場合の堕胎は実際には命に対する敬意を示すことになると論ずる人もいるでしょう。そうした問題の重大性や堕胎を勧める人の誠実さを決して過小評価するものではありませんが,人は母親と子どもの両方の命のことを念頭におくべきでしょう。

      人間はすべて不完全ですから,今日,完全な妊娠というような事はあり得ません。(ローマ 5:12)そのようなわけで妊産婦はすべて,ある程度の危険に直面します。なかには健康な婦人でさえ,妊娠中や出産時に命を失う場合があるのは悲しい現実です。(創世 35:16-19)母親の命あるいは健康が危険にさらされているというだけの理由で妊娠はすべて中絶されるべきでしょうか。明らかにそうではありません。確かに,なかには妊産婦の年齢や健康状態のゆえに普通よりも危険が大きい場合もありますが,それでもなお異常な危険に直面する多くの人をも含めて,たいていの婦人は無事に子どもを産むのではありませんか。それに,いかに善意からであるにせよ,医学上の診断が誤る場合もありえます。では,命の神聖さに関する神の見解を受け入れる人は,潜在的な危険があれば堕胎は正当化されるなどとどうして結論できるでしょうか。胎内の成育中の子どもの命は,単に起こるかもしれない事柄のゆえに断たれてもよいのでしょうか。a

      同様に,どんな妊娠の場合でも子どもが欠陥あるいは奇形を伴って生まれてくる可能性があります。「赤ん坊は14人につきおよそ1人の割合で遺伝的な障害を伴って生まれてくる。その障害は糖尿病から……ほんの数日間しか生きられない,どうしようもない不具に至るまでさまざまである」。(ニューヨーク・タイムズ・マガジン,1974年9月8日号,100ページ)こうした潜在的な危険があるからといって,妊娠はすべて堕胎に終わらねばならない

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