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  • キリスト教は三位一体に対する信仰を要求しますか
    ものみの塔 1975 | 6月15日
    • イエス・キリストは,ユダヤ人は自分たちの崇拝しているものを知っていると言い得ました。ところが,三位一体の教理を受け入れる人々は,自分たちのあがめている方がだれかを説明することも理解することもできません。それらの人々にとって神は大いなる秘義なのです。これは,神秘的な三位一体の見地から神についてうんぬんしようとする場合,何かが欠けていることを示していませんか。

      前述のカトリックの神学者の言葉は,神からの啓示なくしては三位一体の考えを持ち出すのは不可能だったと考えられることを示唆しています。もしそうだったとすれば,キリスト教ではない他の諸宗教でさえ三位一体の概念が教えられているのはどうしてでしょうか。E・ウォシバーン・ホプキンズ教授は自らの研究に基づいて,ヒンズー教,仏教そしてキリスト教世界の三位一体についてこう述べています。「宗教的表現としてはこれら三つの宗教の三位一体は全く同一である……人はクリスチャン,ビシヌュ崇拝者あるいは仏教徒として,わたしは至高の実在としての神および化身した神,そして創造的な聖霊を信じる,と言えよう」。

      また,中国の仏教の三位一体が自称クリスチャンの唱える三位一体と実質的に全く同一の仕方で定義されているのも注目に価する事柄です。次のように書かれています。

      「三者はすべて一つの実体的実在の中に含まれている。その三者は同一であるが,一つではなく,しかも異なってはおらず,部分もしくは構成要素を成しているわけでもない。一つと見なされる場合,その三つの位格は完成者(如来)呼ばれる。[三位一体の三つの位格の間には]実質的相違はない。それらは同一の不変の実体の現われ,異なった側面である」―「宗教の起源および進化」,348ページ。

      そのように三位一体を信ずるからといって,仏教徒やヒンズー教徒がクリスチャンであると主張するような人は確かに一人もいません。キリスト教ではない他の諸宗教においてもキリスト教世界の神学者が用いるのと同様な言葉遣いでそれぞれの信条を組み立てることができるのであれば,聖書の神だけがこの教理を啓示できたという主張は無意味なものになります。仏教徒やヒンズー教徒で,自分たちの信仰の源は聖書の神であると認める人は一人もいないでしょう。それでは,キリスト教世界の諸教会の教理の根拠は,聖書の中に明らかにされている神から得たものでしょうか。

      “三位一体”という言葉は聖書には出てきません。『父,子そして聖霊』のことが一緒に述べられているのは事実です。(マタイ 28:19)しかし,ただそれだけで三位一体の存在が暗示されているでしょうか。ある家族は父親と母親と息子で構成されているかもしれませんが,その家族は三位一体であり,家族の各成員は同等の権威と知識と力を持っているなどと言う人はいません。―マタイ 2:19-21と比較してください。

      しかし,ある人は,『“新約聖書”は「父,子そして聖霊」のことを単に一緒に述べる以上にはるかに多くの事を論じており,三位一体の教理を教えている』と答えるかもしれません。はたしてそうでしょうか。

      新カトリック百科事典は三位一体の神学的発展について論じた後,こう述べています。「三位一体の教義はつまるところ4世紀末に作り出されたものであるという印象を受けるかもしれないが,それはある意味で当たっている」。“新約聖書”はそのような教義を作り出す根拠を提供していますか。例えば,“新約聖書”はイエス・キリストが神と同等であることを示していますか。

      イエス・キリストがそのように主張したことは一度もありませんでした。イエスはご自分の父を神として認めていました。マリア・マグダレネに向かってイエスは,「わたしは,わたしの父またあなたがたの父のもとへ,わたしの神またあなたがたの神のもとへ上る」と言いました。(ヨハネ 20:17)イエスはご自分の権威の源としての父により頼み,こう述べました。「子は,自分からは何一つ行なうことができず,ただ父がしておられて,自分が目にする事がらをできるにすぎません」― ヨハネ 5:19。

      聖書は父と子が同等であることを示すどころか,イエスが父に服従しておられたことをはっきりと示し,次のように述べています。「キリストの頭は神……です」。(コリント第一 11:3)「み子自身も,すべてのものを自分に服させたかたに自ら服し,こうして,神がだれに対してもすべてのものとなるようにするのです」― コリント第一 15:28。

      それに,もし父,子そして聖霊が同等であって,一つの神であるとすれば,子に対する罪は父と聖霊に対する罪ともなるはずです。ところが,そうではありません。イエス・キリストはこう述べました。「人はあらゆる種類の罪と冒とくをゆるされますが,霊に対する冒とくはゆるされません。たとえば,人の子に逆らうことばを語るのがだれであっても,その者はゆるされるでしょう。しかし,聖霊に言い逆らうのがだれであっても,その者はゆるされないのです」― マタイ 12:31,32。a

      それでは,三位一体の教理はキリスト教の教旨にかなったものといえますか。そうはいえません。なぜなら,それはイエス・キリストが「神の子」で,「全創造物の初子」,また「神による創造の初め」であるという聖書の明確な言葉を否定しているからです。(ヨハネ 20:31。コロサイ 1:15。啓示 3:14)それはイエスが父と同等であり,永遠に共存していると主張する誤った教理です。

      ゆえに,真のキリスト教は三位一体を罪深い人間の“作り出した”誤った教理として退けることを要求しています。ゆえに,神の理知ある被造物すべての中で第一の地位を占める方である,神の長子イエス・キリストを通して,唯一真の神であられるみ父を崇拝すべきでしょう。―コロサイ 3:17。

  • ヨハネ第一の手紙 5章7,8節には三位一体を裏づける何らかの証拠がありますか
    ものみの塔 1975 | 6月15日
    • ヨハネ第一の手紙 5章7,8節には三位一体を裏づける何らかの証拠がありますか

      聖書学者はヨハネ第一の手紙 5章7,8節に見いだされる,あることばの信憑性を多年疑問視してきました。とはいえ,それらのことばは“公認本文”に確かに出ているので,欽定訳,ドウェー訳その他の翻訳にも出てきます。ところが,それらのことばが偽ものであることを示す証拠が増えるにつれて,三位一体を信じる人々は聖書翻訳からのその削除を延ばす処置を取っているようです。

      例えば,英国の高名なローマ・カトリックの聖書学者モンシニョール・ノックスはその翻訳(1944年)の中に次のような脚注を付しました。「この節は信頼できるギリシャ語写本のいずれにも出ていない。しかし,ラテン語訳は真の本文を保存してきたと言えるかもしれない」。また,カトリックのコンフラタニティ訳(1941年)の本文は次のように訳されています。「天で証をするものが三つあるからである。それは父,ことばそして聖霊であり,それら三つは一つである。また,地上で証をするものが三つある。それは霊と水と血であり,それら三つは一つである」。この翻訳は脚注の中でこう述べています。「多くの写本の証拠や大半の注釈者によれば,これらの節は次のように訳されるべきである。『また,証拠を与えるものが三つある。霊と水と血である。それら三つは一つである』」。それにもかかわらず,その脚注はこう付け加えています。「教皇庁は現在の読み方の出所に関する最終的判断を下す権利を自ら保留している」。

      「カトリックの聖書注釈」(1953年)と題する本は父,ことば(イエス)そして聖霊の三者がキリストの神性をどのように立証しているかをあえて説明しようとしています。そして,「それら三つは一つである」ということばの説明として,それら三つのものは「全く同一の性質を持っている」と述べています。ところが,その後の箇所で同書は(読者のほとんどが調べないであろうと思われる)別のページに言及しています。その箇所を見るとこの句は今では,古ラテン,ウルガタそしてギリシャ語各写本に忍び込んだ行間注であると一般的に考えられていることを認めているのがわかります。それが真実である以上,どうしてその句を説明しようとするのでしょうか。

      これらつけ加えられたことばが本文に含まれていないエルサレム聖書(1966年)の脚注は対照的で,こう述べています。「ウルガタ訳の7-8節は次のとおりである。『天には証するものが三つある。父,ことばそして霊であって,これら三つは一つである。地上には証するものが三つある。霊と水と血である』。下線を付したことばは(初期のどのギリシャ語写本にも,初期のどの翻訳にも,あるいはウルガタ訳そのものの最良の写本にも含ま

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