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あなたは真実さをどれほど強く愛していますかものみの塔 1974 | 1月15日
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あなたは真実さをどれほど強く愛していますか
ニューヨーク市クィーンズ区でのことでした。ひとりの婦人が,ある肉片を指定してそれをひき肉にしてくれるようにと肉屋の店員に頼みました。ところが,店員がそれをひく前に,店の責任者はその肉片をそれより質の悪いものと取り換え,それを客に渡すようにと店員に言いました。ひかれた肉を差し出された時,客は,「これがわたしのお願いした肉ですか」と店員に尋ねました。
あなたならどのように答えるでしょうか。あなたなら真実のことを告げますか。
客には事実を知る権利があります。それでも,こうした事情のもとで,店員が真実を告げ,それによって店の責任者の不正を明らかにするのは容易なことではありません。しかしながら,彼はそれを行ないました。結果として,彼は解雇されました。
あなたも彼と同じように行動したでしょうか。
真実なことを願う気持ち
自分の益になると見ると,人々はよくうそを言います。しかし,あなたは人がうそを言うのを好みますか。
わたしたちは真実なことを聞きたいと思うものです。親は自分の子どもから真実なことを聞きたいと思います。子どもは親が真実なことを話してくれるようにと願います。政府は国民に真実を告げることを,そして国民は政府に対して真実さを求めます。しかし,わたしたちが特に関心を払うべきなのは,全能の神が,わたしたちの口が真実を語ることを求めておられる,という点です。神のことばはこう述べています。「おのおの隣人に対して真実を語りなさい」― エフェソス 4:25。
聖書の中で,キリスト教は「真理の道」と呼ばれており,また使徒ヨハネは「真理における同労者」について語っています。(ペテロ第二 2:2。ヨハネ第三 8)「真理」のうちにある人が偽り事に関与できないことは明らかです。
初期クリスチャンのアナニアとサッピラは,故意の欺瞞を神がいかに嫌悪されるかを示す例となりました。ふたりは地所を売りましたが,それから得たものをみな仲間のクリスチャンのために寄付しているかのように見せかけました。しかし,実際には,得たお金のいくらかを自分たちのために隠しておきました。こうしてふたりは,自分たちが実際以上に寛大な者であるという印象を会衆に与えようと企てました。この欺き,つまり,人を偽ろうとする故意の計画的な共謀のゆえに,神はふたりを処刑されました。―使徒 5:1-11。
神が,習慣的な偽りの行為を重大なとがと見ておられることは明らかです。聖書は,「すべての偽り者」が「火といおうで燃える湖」に入ることを述べており,それは「第二の死」を表わしています。(啓示 21:8)したがって,わたしたちは,そうした偽りの習慣が自分の生活に根づくことのないように用心しなければなりません。
偽りを言う傾向を避けなさい
それでも,真実を告げるのは必ずしも易しいことではありません。ときおり,偽ろうとする強い傾向の働くような場合もありえます。何かの過ちを犯して,それを隠したいと思っている場合などは特にそうです。
例えば,しばらく前のこと,クリスチャンの長老たちは,会衆の一成員の家を訪ねました。その人の行状について不規律と考えられる点について話し合うためでした。しかし彼は,そのことについて話し合うのを望まなかったので,家族のひとりを戸口にやって,自分は家にいないと長老たちに言わせました。のちに,その偽りが知られた時,彼は『小さな』うそにすぎないと言って弁解しました。それでも,それはやはりうそであり,家族の他の者をもその偽り事に関係させたのです。
わたしたちはみな,なんらかの場合に,そしてなんらかの形でことばを誤る者です。弟子ヤコブは,そうしたことの「ない人がいれば,それは完全な人であ(る)」と述べています。(ヤコブ 3:2)わたしたちは何かを誇張して話したり,何かの形で真実とは違うことを言ったりしたことがあるものです。例えば,自分では実際にはそう思っていないのに,ただだれかを喜ばせるために,ある計画に対する賛成や熱意をさえ示したことがあるかもしれません。
真実ではないと自分の知っている事がらを言う場合,あなたは自分についてどのように感じますか。それはあなたの自尊心を高めますか,それとも低めますか。真実でない事がらを言うのはあなたの生活の習慣のようになっていますか。関係している事がらは小さなものに見えるかもしれませんが,不真実さの影響は予期しないほど重大なものとなることがあります。
例えば,婦人が隣家の人に,自分の子どもの聞いているところで,『お宅の新しいカーテンほんとうに好きですわ』と言ったとしましょう。しかしそののち,家庭での会話のさいに,隣の家が新しいカーテンをつけたが自分はそのカーテンを『少しも好きではない』と夫に言うとしたらどうでしょうか。これは,それを聞いている子どもに,正直に物を言わなくてもよいのだと考えさせることにならないでしょうか。ですから,巧みな受け答えをすることは全く差しつかえないとしても,自分の口にすることが真実さに対する敬意を欠く結果にならないだろうかと考えてみることが必要です。
確かに,真実を話すように注意を払うのは賢明なことであり,自分の良心の指示を無視すべきではありません。シカゴの一百貨店の商品検査役の秘書として働いている人はそのような注意を働かせました。彼女の雇い主は,「もしだれかが電話をよこすなら,わたしはいないと言ってくれ」と彼女に言いました。そのように言っても良心にとがめを感じない人たちもいます。しかしながら,その秘書はその問題を考え,それに従うことが自分の良心の苦しみになるのを知りました。それで,クリスチャンとして,本人が実際にはその部屋にいるのにそこにいないとは答えられない理由を雇い主に説明しました。雇い主は,その正直さを求める態度のゆえに彼女に敬意を払うようになりました。
『小さな』うそ,ささいな不真実とみなされることばが多くあるかもしれません。しかし,そうしたことを避ける注意を払わないなら,それによってさらに重大な悪に陥る危険はないでしょうか。
もちろん,真実さを強く愛するクリスチャンの態度をすべての人が十分に認識するわけではありません。一例として,米国,マサチューセッツ州ホルデンの一造園会社で働いていたあるエホバの証人の場合があります。彼は土地の銀行からの電話を受けました。銀行は,ある用具の販売に関する請求書の数字について確認を求めてきたのです。しかし,会社の書類にある数字は銀行にあるものとは異なっていました。
雇い主が戻って来た時に証人がそのことについて尋ねると,雇い主は気を荒らだてて怒りはじめました。実際よりも高い金額を記載した不正な請求書が銀行に対して発行されていたのです。それは銀行から余分の金を得るため,また税金のためであると雇い主は説明しました。雇い主は,証人が銀行に電話をかけて彼の『大きな誤り』についてわび,ごまかしの数字を真実なものとして報告することを求めました。証人は,自分がそれに従えない理由を説明しました。そして,雇い主が正直に物事を行なおうとする態度をいだいていないのを見たとき,その仕事をやめました。
真実さを守るためにはほんとうの強さの求められる場合が少なくありません。真実なことに対するあなたの愛はどれほど強いものですか。あなたが真実を話すのは自分にとって都合の良い場合だけですか。もしもそうだとすれば,ただ「便宜」として正直さを求め,自分に不利と見ればうそをつく人々とどれだけ異なっているでしょうか。
真実を話すのは行なうべき正しいことであり,また神に喜ばれる事がらです。これこそ,わたしたちが真実さを求める理由であるべきです。ほんとうにエホバ神を愛し,何にもまさってエホバに喜ばれることを求めているのであれば,自己の利益を図る力がどれほど強く働くとしても,故意に偽りを語る者とはならないはずです。その人は,「真実の神エホバ」のしもべであることを,自分の行動によって示すでしょう。―詩 31:5,新。
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恐れの気持ちからの解放ものみの塔 1974 | 1月15日
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恐れの気持ちからの解放
その男の人はしだいに年老いていました。可能なかぎり友人の近くで過ごし,自分だけで遠くに行くことはめったにありませんでした。だれも知らない所で死に倒れて自分ののどに少しの水も入れてくれる人がいないというようなことを恐れたからです。もしそのようなことかあれば悲惨なことだ,来世に通ずる険しい丘をよじ登るためにはどうしても水が心要だから,と彼は考えていました。また,自分の死のさいに回りに来てくれる友人はみな自分が離れて行く家に不幸を臨ませないようにと自分の霊に懇願してくれ,また,自分の家族内の女たちに子を産ませてくれるようにとそれに懇願してくれるだろう,とも信じていました。
世界のほかの場所では,別の人が自分の前途にある死に対して同じように恐怖をいだいていました。彼の属する民は一般に,死者はしばらくのあいだ引き続き意識と知覚を保つ,と信じていました。彼は,まず押しつぶさんばかりの墓の重みを感じ,それから永劫のやみに入るのだ,と考えました。そののち,どのようにしてかはわからないが自分は家の庭から切り取った二本の棒で身を支え,そのとき死の使いたちが到着して,「あなたの神はだれか」と自分の霊に尋ねる,そう尋ねられているとき自分の頭は墓石にぶつかり,自分はくしゃみをしながら,「宇宙の主なるアラーにこそ栄光あれ」と言うのだ,と彼は信じていました。死後に正しい答えができるようにと願う彼は,生きている間,くしゃみをするたびにこの文句を練習しました。
それと同じころ,はるか離れた所の別の人は,自分が突然の死もしくは不自然な死を遂げるのではないかと不安に取りつかれていました。そうした不慮の死そのものではなく,「免罪を受けて」(司祭の奉仕によって赦免を授けられること)神との最終的な平和を得るいとまもなく死を見ることを恐れていました。しかし,彼の親族は彼以上の不安にまとわれていました。彼の死の瞬間に家じゅうの戸と窓をすべて開け,魂を解き放つようにしなければならなかったからです。これは,人を害する力のある死者の魂を怒らせることのないよう非常な注意を払わなければならない,と信じていたためです。家族のある者は,死者がまじないをかけることのないようにと,死者の心臓のあたりに自分の手を当て,また死者の目を閉じます。家じゅうの鏡には覆いがかけられます。生きている者も死んだ者も死人や死そのものの姿を見ることがないようにとです。死者の家畜やみつばちは,今では新しい持ち主のものとなっていますから,先の主人の死を知らされます。それらの動物が盲目的に以前の主人の死についていくことのないようにとです。
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