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真の崇拝 ― 成功する生き方ものみの塔 1976 | 7月15日
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……かえって,真理を明らかにすることにより,神のみまえで自分をすべての人間の良心に推薦するのです」― コリント第二 4:2; 5:11; 6:4-10。
成功する生き方
8 真理と空論を区別するものは何ですか。例で説明してください。
8 真理の道を歩むことを生きる道として選ぶ人々は,その報いとして貴重な益を受けます。真理は実際においてうまくいきます。科学者が科学上の法則と考えるものを発見したときは,それが単なる理論以上のものであることを認められるためには,まず実地というテストに耐えねばなりません。設備の設計や病気をなおすことその他,実際面で成功しなければなりません。ところが,生活に関する問題においては,今日の人々の考えや行動に大きな影響を与える識者,哲学者,宗教指導者たちは,彼ら自身このテストに合格していません。彼らの言うこと,書くことは,多くの場合立派に聞こえます。それは説得力のある文体で書かれ,巧みな言い回わしの多くの論議で裏付けがなされているかもしれません。しかし生活に関する彼らの理論のほとんどは,真理かどうかのテストに落ちます。なぜそうでしょうか。そのような理論はうまくいかないからです。彼らの哲学が実際にもたらした不幸な結果は,わたしたちの周囲の至るところに見られます。
9 真の崇拝が結局うまくいく生き方であることは何が証明していますか。
9 それと対照的に,聖書に記録されている神の過去のしもべたちの,確信に満ちた,目的のある生活,また今日真理を実践している人々の生活は,真の崇拝だけが本当に成功する生き方であることを示しています。真の崇拝者たちをして同時代の人々の中で異色あらしめるのはいつでも,神の戒めに対する従順です。前の記事で取り上げたように,古代イスラエルは,モーセを通して与えられた「律法という知識と真理の骨組」を忠実に固守する限り,その時代の優れた顕著な存在となりました。(ローマ 2:20。ヨシュア 1:8。ネヘミヤ 9:13)一世紀のキリスト教も,それを受け入れた人々の生き方に大きな影響を及ぼしました。有名な歴史家ジョン・ロードは,自著「古ローマ世界」の中で次のように述べています。
「キリスト教の真の勝利は,その教理を信ずる者たちを善良な人間にする点に見られた。……彼らが清廉潔白な生き方をしたこと,そのモラルが非の打ちどころのないものであったこと,善良な市民であったこと,そしてクリスチャンとしての美徳を備えていたことを示す証拠を我々は持っている」。
彼らにとって「真理の道」は成功しました。またそれは,今日それを実践している人々の間で成功しています。―ペテロ第二 2:2。
真理はどのように成功するか
10,11 (イ)多くの僧職者は,生きる道としての聖書の道徳規準をどのように見ますか。(ロ)彼らの考え方がうまくいかない理由はどこにありますか。
10 現代の哲学者と宗教指導者のほとんどは,「新しい道徳」なるものを提唱して,聖書の真の規準を下げようとします。神の律法はあらゆる場合に,淫行と姦淫は悪いこと,間違ったことであると述べています。(コリント第一 6:18。テサロニケ第一 4:3。出エジプト 20:14)しかし,ミシガン大学にあるセント・メリー・チャペルのカトリック司祭が,校内新聞の彼の助言欄に書いたことは,僧職者が持っている考えの典型です。いくつかの「考慮すべき事柄」があって結婚を延期した,そして「時々性行為を行なっていた」婚約中の二人の学生に対する助言として,この司祭は次のように述べています。「我々は彼らを淫行者と呼ぶことができ,またそのようなやり方で彼らを処分することは容易である。……厳密な法的意味においては彼らはあるいは法律の条文を犯したかもしれない。しかし彼らはその法律が大事にしている価値を犯しただろうか。彼らは姦淫者だろうか。確かにそうではない!……心の中のやるせない寂しさをなだめるために,正しいとは言えないなんらかの形で欲望を満足させなかった者が我々のなかにいるだろうか」。この司祭や,この司祭のような他の僧職者の指導を受けている人々の中には,「正しいとは言えない」形で欲望を満足させている人が少なくないに違いありません。しかし彼らの生き方は成功しますか。
11 神の律法中に示されている真理の道は侮られるようなものではありません。人間から出たそのような考えに導かれている人々は,正しい結婚に不忠実であることからくる離婚,家庭の崩壊,性病の流行その他多くの問題を刈り取っています。(ガラテア 6:7,8。ヘブライ 13:4)ある医師は,この問題の一面を例で示し,「メディカル・ワールド・ニュース」の中で次の警告を与えています。すなわち,性に対するより厳格な態度からの解放は,「必ずしも自由にはつながらない。仮につながるとすればそれは」,病気からの自由といった「他の自由を犠牲にしたうえでのことである」というわけです。「純潔は多くの場合健康の問題である」と,同医師は断言しています。
12,13 生きる道としての真理が(イ)喫煙(ロ)輸血に適用される場合に成功するのはなぜですか。
12 身体を清く汚れなく保つことについての原則を守ることによっても,真理が実際面でいかに有効に働くかが示されます。たばこは中毒者の体に不潔なものを持ち込んで有害な影響を与えます。真の崇拝者はそれを避けます。(コリント第二 7:1。ローマ 12:1)彼らは「魂をこめ」また「力をこめ」て神に奉仕することを願っていますから,たばこにおぼれて長い人生と体力をたばこの奴隷にするようなことをしません。(マルコ 12:29,30。ローマ 6:19)米国立麻薬乱用防止研究所の所長ロバート・デュポン博士は最近たばこに,「人間社会の中で恐らく最も危険な麻薬」との烙印を押しました。常用癖の制御が困難なので,「紙巻きたばこの愛用者は,ヘロイン使用者と同じ問題を抱えている」と同博士は述べています。肺,口腔,咽喉のガン,冠状動脈の病気などにかかる危険度が高いことは,よく知られています。最近の研究は,消化性潰瘍や卒中を,はっきり喫煙と結びつけています。たばこを吸う母親から生まれる子供は非常に身長が低く,体重も軽く,知力も劣ります。その子供たちが先天的心臓障害にかかったり,誕生時近くになって死んだりする危険が大きくなります。「真理の道」のほうがはるかにうまくいきませんか。
13 輸血の危険や無血手術の利点などに関する知識の増大は,『血を避けよ』という聖書の命令の正しさを立証しています。(使徒 15:20,28,29)ニューヨーク市にある聖バルナバ病院の二人の医師は,そのような手術の成功をたたえ,その利点を次のように指摘しました。
「そのうえ,全血輸血から起こるアレルギー性または溶血性反応,腎閉鎖,肝炎などの合併症を心配しなくてよいのであるから,喜ばしいことである」― ニューヨーク州の「ジャーナル・オブ・メディスン」。
確かに真理の道は実際面で成功します。
14,15 軍事上の紛争に関連して,真の崇拝と偽りの崇拝がどれほど成功したか,対比してください。
14 実地のテストに耐えた別の真理は,イエスが語られた,「剣を取る者は剣によって滅びる」という真理です。この真理は,これと関係のある,「あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」という結論とよく調和します。(マタイ 26:52。ヨハネ 13:35)しかし,新カトリック百科事典(1967年版)は別の道があると述べています。「正義の戦争と,敵を愛せよというキリストの命令との間にはなんの[本質的な]矛盾も」ない。「正義の戦争は,悪行者よりもむしろ悪行に対する憎しみの表現である。……カトリック教徒はもちろん,正当化できそうな条件が満たされそうかどうか,自分で自由に評価することができる」。この種の導きは実際面で有効に働きますか。
15 二つの世界大戦中,両陣営のカトリック教徒と新教徒はほとんど全部,真理の道に反する,『彼ら独自の(相反する)評価を行ないました。その結果はどうでしたか。うまくいきませんでした。彼らは仲間のカトリック教徒や新教徒を幾百万も殺し,自分たちがキリストの忠実な弟子でないこと,また真理にいないことを,疑問の余地なく証明しました。しかし,歴史家のJ・S・コンウエーは,「諸教会に対するナチの迫害」の中で,次のように述べています。
「大きな教会が従ったのに対し,エホバの証人たちは狂信的と言ってもいいほど[死を賭して]教義上の抵抗を続けた。そのような抵抗は極めてまれであった。……彼らは聖書の命令に立脚して武器を取ることを拒否した。……ゲシュタポの総力をあげてのテロに対抗して同様の決意を表明した教派は他にはなかった」― 196,198,199ページ。
これら二つの,史上最悪の大戦争ぼっ発後,真理の道に従ったと言い得たのは,どんな人たちだけですか。
16,17 (イ)政府に関する真理はどのように実証されましたか。(ロ)神の王国政府はなぜ成功しますか。実例で示してください。
16 今日人類が直面している大きな問題 ― 世界政府 ― に関する聖書の原則も,真理であることが証明されつつあります。『この人かの人を治めてこれに害をこうむらしむることあり』,『人は自らその歩みを定むること能わざるなり』とは,昔に述べられた真理です。(伝道 8:9。エレミヤ 10:23)人間生活の現実は,人間が作り出し得るものより優れた政府を要求します。幾千年にわたる人間の歴史はこのことを疑問の余地なく証明しました。現在では,最近のニューヨーク・タイムズのニュース解説が慨嘆した通り,「あらゆる場所の指導者たちが権威と信頼を失っていることは明らか」です。「あらゆる国のあらゆる種類の政府は,国民が非常に憂慮している問題を解決する彼らの能力への信頼を呼び起こすことができないために,困った立場にある」― 1974年5月15日付,2ページ。
17 ところが今日,他のすべての政府が失敗している点で成功している政府が一つあります。なぜ成功しているのでしょうか。なぜならそれは,人間の作った似たりよったりの政府ではないからです。それは神の王国政府で,現在,地上における真理の道を管理しています。200以上の国に住む200万を超える忠節な臣民は,その政策を,身体面,精神面,物質面で,自発的に熱意を込めて支持しています。その憲法と法典(聖書)は,各地方の都市のような会衆を通して,地上の政府のどの法律の場合よりもはるかに効果的に実施されています。したがってクリスチャン会衆は,「真理の柱また支え」として働き,人々を従順になるように助け,また真理の道にとどまることを望まない者を除きます。(テモテ第一 3:15。コリント第一 5:6-13)その王国政府の臣民は,世界の常時ベストセラーの上位10位の半分以上を占める教科書を通して,真理に関する比類のない教育を受けています。a この王国政府はうまくいっています。そして日増しに発展しています。それは真理を基礎にしているからです。
成功へのかぎ
18 真理を生き方とする強みを幾つか挙げてください。
18 真理を自分の生きる道とする人々は,いろいろな出来事や状況に現実的な考えをもって当たります。人間の状態に関する真理の理解は,それらのクリスチャンたちが人間として,援助を必要としている他の人々に愛を示す助けになります。彼らの家族も,家族の頭および子供の教育に関する聖書の正しい助言に従う益を反映します。(ペテロ第一 2:12。エフェソス 5:33; 6:1-4)彼らは将来に関する真理を聖書を読んで知っていますから,現在に対する欲求不満から解放されて確信と喜びに満ちた見方を持つようになり,恐れがなくなります。―箴 3:25,26。
19,20 (イ)真のクリスチャンの生き方の何に他の人々は注目しますか。(ロ)エホバの証人をほめながら彼らの信条を非難する人々はなぜ道理からはずれていると言えますか。(ハ)わたしたちの祈りはどんなものであるべきですか。
19 この生き方が成功していることは,しばしば他の人々の注目を引きます。エホバの証人が大会を開いていた時にワシントン市の一新聞に載せられた,これらのクリスチャンについての感想は,その原因を指摘しています。
「慎み深く行動することに対する彼らの強い関心は,一都市にとって一服のさわやかな強壮剤である。……彼らがここへ来たのは何かを求めるためではなく,『ただ聖書とその原則を,人類の病弊の唯一の実行可能な解決策として擁護するためである』と彼らは言う」。
そこに成功へのかぎがあります。神の言葉聖書は「実行可能な」ものです。それは実際面でうまくいきます。
20 ニューヨーク州,ロチェスターのデモクラット・アンド・クロニクル紙に掲載された一記事は,「証人たちは彼らの宗教を日ごとに実践しているという印象を与える」と述べていますが,その前に,「他の信仰を持つ人々が彼らの聖書の解釈にどれほど異議を唱えても,証人たちの信条は深く,誠実に信じられている」と述べています。エホバの証人の振舞いをほめる人が同時に彼らの「解釈」を非難するのはよくあることですが,それは不合理ではないでしょうか。エホバの証人の振舞いを異なるものにしているのは何でしょうか。彼らは生まれつきそうなのでしょうか。そうではありません。まさにこの「解釈」が,エホバの証人を彼らたらしめているのです。彼らが信じていることは聖書から得た真理であって,彼らの生き方なのです。だからこそ他の人々が失敗するところで彼らは成功することができるのです。ですからエホバの証人は詩篇作者と同じように確信を抱いてこう祈ります。「わたしに教示してください,ああエホバよ,あなたの道を。わたしはあなたの真理のうちを歩むでしょう」。「あなたの真理のうちを歩ませ,わたしを教えてください」。そのように歩む人について詩篇作者はこう述べています。「[エホバは]その者が選ぶ道を教示される。彼ら自らの魂は善良さそのものに宿り,その子孫は地を所有するであろう」― 詩 86:11; 25:5,12,13,新。
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聖書の原則に従い生活を改めるものみの塔 1976 | 7月15日
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聖書の原則に従い生活を改める
ダホメーに住むエホバの証人の一兄弟は,戸別に行なう伝道の業に携わっていた際,明らかに夫婦げんかの最中だった一組の若い夫婦に会いました。話をする許可を得た彼は,エフェソス 4章26節にある,「怒り立ったまま日が沈むことのないようにしなさい」という聖句を読み,次いで証言にはいりました。その若い夫婦はそうした優れた原則を学んで非常に喜び,その日に王国会館で行なわれる公開集会に出席するようにとの招待に応じました。たまたま,講演は結婚に関するものでした。それによってふたりは,神のみことばに見いだせる実際的な助言に対する認識をさらに深めることができました。聞いた事柄に非常に感動したその夫婦は,家庭聖書研究の取り決めを喜んで受け入れました。
わずか2,3週間聖書を学んだだけで,ふたりは自分たちの生活を神のみことばに一致させる必要を悟り,ふたりの結婚を合法的なものにするために必要な処置を取りました。まもなく妻は野外奉仕に参加し始め,夫は非常に良い進歩を示していました。彼らは,その兄弟が機敏で,有益な聖書の助言を教えてくれたことをたいへん喜んでいます。今ではその夫婦の生活も神のみことばに光輝を加えることができるのです。
「羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されて」いる人々は確かに大勢います。(マタイ 9:36)ある日曜日の朝,ひとりのカトリック教徒が教会へ行ったところ,司祭は出席者に説教を準備しなかったと述べました。その人にとって,それは「重荷に小付」でした。彼はその教会をやめてどこかほかのところを探すことにしました。しかし,行くあてもありませんでした。それまでにもしばらくの間彼はそのことについて祈っていました。その人は時折りエホバの証人と話したことを思い出して,王国会館に行くことにし,集会で数人の兄弟と話をしました。そして家庭聖書研究が始まったのです。「真理」の本の第二章が終わると,彼は脱退を通知する手紙を司祭に書き送りました。司祭が訪問したところ,その関心を持つ人は,33年間「飢え渇いた」すえついに真理を見いだした,と司祭に告げました。
聖書研究は引き続き行なわれました。数週間して,その人は,研究を司会している兄弟に,不道徳なことが行なわれていることで知られるホテルを持っていると言って,どうしたらよいか尋ねました。兄弟がそのことに関連のある聖書の原則を示すと,その人はホテルを売る決心をしました。それからまもなく彼はその事業を捨て,明らかな良心を持って非常にまじめで熱心な伝道者になりました。生活の面でそうした変化を遂げる人々は,『すべての事においてわたしたちの救い主なる神の教えを飾り』ます。―「エホバの証人の1976年の年鑑」より
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