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  • 『真理を実践する』ことを差し控えてはならない
    ものみの塔 1974 | 12月15日
    • れ』た結果が今日の霊的な暗やみです。―コリント第二 4:4。

      4 人間の歴史全体を通じて神とみ子からの光が多くの人に達してきたことについてどんな証拠がありますか。

      4 人々はこうした世の中に住んでいますが,それは,神とみ子からの光を受けてやみから解放されている者たちが人類の中にいない,という意味ではありません。み子は「神の像」であり,そのゆえに光でもあります。(ヨハネ 8:12)光の神とそのみ子は真理の光を広く与えてきましたから,人類の歴史を通じていつの時代にも,光の中を歩んで創造者の恵みと祝福を受けてきた人々がいます。ヘブライ 11章は,クリスチャン時代以前のそうした人々の例を幾人か挙げています。クリスチャン・ギリシャ語聖書は,初期キリスト教の歴史を語って一世紀の末にまで及び,光の中を歩んだ人々,つまりキリスト・イエスとその追随者たちについて述べています。そして,使徒をはじめキリストの初期の弟子たちの死後現代に至るまで,光の道を堅く守った人々を識別するための,文字になった実際の記録はあまりないとはいえ,わたしたちは,小麦と雑草に関するイエス・キリストの例えから,上記の全期間を通じて,神の光の中を歩み,神のことばである光の書に従ってきた人たちのいることを確信できます。(マタイ 13:24-30,36-43)現代においては,小麦と雑草に関する例えの成就がその頂点に達するにつれ,「王国の子たち」は確立された王国において栄光を受け,なお地上にいる残れる者は「太陽のように明るく輝」いて霊的な啓発を施し,他の人々が将来の保護を求めて光の神の側に集まれるようにしています。

      光の中を歩むのは必ずしも易しいことではない

      5 サタンと配下の悪霊は人々に神のことばからの光を受けさせないようにするためにどのような策略を用いてきましたか。

      5 人々が神のことばの光を受け,神の光の中を歩むのを阻もうとする戦いは,やみの力であるサタンと配下の悪霊たち,およびサタンが持つ見える地上の組織によってなされる激しい戦いです。(ヨハネ第一 5:19)光に接するようになる人々には,その人々をつまずかせてやみの中にとどまらせようとするあらゆる妨害の加えられることが少なくありません。それは,真理の光に逆らう親族からの圧迫である場合もあります。またそれは,やみにある宗教勢力の偽りの教えによってあまりにも長く盲目にされてきたことによる,神のことばの真実さに対する疑いである場合もあります。さらには,自分の接する仲間からの圧迫,あるいは,光の子らの前に置かれた神からの要求に従って生きるのを難しくする自分の罪ある性向が問題となるかもしれません。

      6 (イ)やみの隷属から解かれた後にもどのようなことが起こりえますか。(ロ)わたしたちはどんな点を考えるのがよいですか。

      6 人は,やみの力の支配から離れて光の中に入った後でも,引き続きこの事物の体制からの攻撃にさらされます。そのために,『真理を実践する』ことがある人にとって時に難しい場合もありますが,それでも,十分に注意して,以前の生き方に戻らないようにすることが大切です。使徒ヨハネはこう書きました。「『神と分け合う者である』と言いながらやみの中を歩きつづけるなら,わたしたちは偽りを語っているのであり,真理を実践してはいません」。(ヨハネ第一 1:6)わたしたちは皆時に意に満たない行動をすることがあります。しかし,そうであるとしても,わたしたちが常々実践している事はなんでしょうか。この世のやみから出て光の中に入ったと唱えながら,実際には光ではなくやみの中を歩んでいる人がいるでしょうか。わたしたちは本当に真理を実践していますか。それとも,わたしたちの生活の型は,わたしたちがしり込みし,自分を欺き,自分を偽っていることを示していますか。―ヨハネ第一 1:8–2:2。

      7 どんな自己吟味が肝要ですか。それは何に基づいてなすべきですか。

      7 この問題に関しては,神のことばを用いて自分を吟味してみることが肝要です。神のことばを,真理を実践し,光の中を歩む人が当然行なっているべき事を知るための導きとするのです。この自己吟味は多くの肝要な分野に及びます。それはわたしたち各自が関心を持つべき分野です。また,この自己吟味は,コリント会衆にあてて使徒パウロが語った次のことばを銘記しながら行なうべきです。「わたしたちは,自己推薦をするある人びとと自分を同列に置いたり,その人びとと自分を比べたりはしないのです。彼らは,自分によって自分を量り,自分を自分と比べる点でいかにも分別がありません」。(コリント第二 10:12)わたしたちがする自己吟味は,光の書,つまり神のことばに基づいてなされるべきなのです。パウロはさらにこう述べました。「取るに足りない者であるのに,自分は何か偉い者であると考える人がいるなら,その人は自分の思いを欺いているのです。むしろその人は自分自身の業がどんなものかを吟味すべきです。そうすれば,他の人と比べてではなく,ただ自分自身に関して歓喜する理由を持つことになるでしょう」。(ガラテア 6:3,4)『真理を実践している』と言う人に神が何を求めておられるかを,各人が神のことばに基づいて調べてください。だれか他の人によって,あるいは人間の定めた標準によって自分を量ることのないようにしましょう。

      日常の行動の中で真理を実践する

      8 エフェソス人への手紙の中で,使徒パウロは何を避けるように忠告しましたか。

      8 エフェソスの会衆にあてて使徒パウロは次のことばを書きました。「わたしは主にあってこのことを言い,また証しします。すなわち,あなたがたはもはや,思いのむなしさのままに歩む諸国民と同じように歩んではいません。彼らは精神的な暗やみにあり,神に属する命から疎外されています。それは彼らのうちにある無知のため,またその心の無感覚さのためです。彼らはいっさいの道徳感覚を通り越し,貪欲にもあらゆる汚れを行なおうとして,身を不品行にゆだねたのです」― エフェソス 4:17-19。

      9 今日の世界のどんな標準は,多くの人の思いが暗やみにあることを示していますか。

      9 この世の標準,人々の言う「状況の倫理」こそ,精神的な暗やみにあり,神に属する命から疎外された思いの所産です。この世は事実上,「自分の望む事をやれ」と唱えています。人は自らの立法者となるべきであり,人の自由を制限する外からの法典や規則に拘束されることはない,というのがその意味です。こうした標準が人の心を無感覚なものにします。「何をしようと差し支えない」というのがそのモットーです。

      10,11 精神的な暗やみにある人々の中にはどんな人たちも含まれていますか。なぜ?

      10 精神的な暗やみにいる人々の中には,こうした世の標準に支持を与えているキリスト教世界の多くの宗教指導者たちも含まれています。そうした指導者たちは,人々を鼓舞して真理を実践させるのではなく,むしろ,悪行を容認する諸国民や高位の人々からの圧迫に面してそれに暗黙の同意を与えています。この点を裏付けるものとして,米国のある大学付属会堂付きプロテスタント牧師が姦淫について述べたことばを読んでください。『夫,そして妻もまた,結婚関係外の情交[姦淫]に自由に携わり,それを秘密にではなく,夫婦双方の同意と了解のもとになしうるようなときに,充実した生活は最もよく達成される』。また,サンフランシスコの一牧師は,聖公会系の一週刊誌の中でこう述べました。「それ自体が罪となるような性行為は存在しない。……わたしは,同性の二人が互いに愛を表現し,性交[同性愛]によってその愛を深めることも可能であると信じている」。

      11 こうした精神的な暗やみは娯楽の分野にも及んでいます。実際のところ,いわゆる「芸術」の世界にある人々は,多くの点で,この世代の針路指向者,「スタイル決定者」となっています。ただ同棲し,結婚関係外で子どもを産み,そうした淫行についてなんの恥じらいも感じない男女のことが新聞や雑誌の記事になることは珍しくありません。事実,こうした風潮に抗議する人は,しかつめらしいとか,時代後れであるとか評される場合が多いのです。ラジオやテレビのショウや座談には,そうした疑わしい性質の人々がその番組の呼び物として登場する場合が少なくありません。そうした人々は,自分の生活をこれ見よがしにさらけ出すことをいといません。あらゆる可能な手段を尽くして社会の良俗に衝撃を与えようとしているかのようです。やがてそうした衝撃が自らにはね返り,その不品行によって自分のまいたものを刈り取る結果になることを,彼らはほとんど知りません。

      12 精神的な暗やみにある人々について,ローマ 1章24-27節の中にはどんな描写がなされていますか。

      12 使徒パウロは,1,900年前にこれと同様の状況下で生活していたローマの人々への手紙の中で,この種の人々について適切に描写しました。こう述べました。「そのため神は,彼らをその心の欲望に合わせて汚れに渡し,彼らの体が自らの間で辱しめられるようにされました。実にそれは,神の真理を偽りと換え,創造したかたより創造物をあがめてそれに神聖な奉仕をささげた者たちです。創造したかたこそ永久にほめたたえられるのです。……このゆえに神は,彼らを恥ずべき性欲に渡されました。その女性は自らの自然の用を自然に反するものに変え,そして同じく男性までが女性の自然の用を去り,互いに対し,男性が男性に対して欲情を激しく燃やし,卑わいな事がらを行なって十分な返報を身に受けました。それは彼らの誤りに対して当然なものです」― ローマ 1:24-27。

      13 世俗的で無能な人々の心と思いについてパウロはどのように描写していますか。

      13 エフェソス人への手紙の中で,パウロは,そうした人々が「精神的な暗やみにあり……(それが)その心の無感覚さのため」であることを述べました。そして,ローマ人への手紙の中でも,そうした人々が「その推論するところにおいて無能な者となり,その悟りの悪い心は暗くなった」と述べています。(エフェソス 4:18。ローマ 1:21)どちらの場合でも,そうした人々が光と結び付いておらず,むしろやみと,つまり,光や理解のない状態と結び付いていることに注目してください。

      14 やみにあり,「その推論するところにおいて無能な」人々の生み出すものについて,ローマ 1章28-32節から示しなさい。

      14 パウロはそうした無能さの結果をさらにこう示しています。「そして,ちょうど彼らが神についての正確な知識を身につけることをよしとはしなかったように,神も彼らを非とされた精神状態に渡して,不穏当な事がらを行なうにまかされました。彼らがあらゆる不義・邪悪・強欲・悪に満たされ,ねたみ・殺人・闘争・欺瞞・悪念に満ち,ささやく者,陰口をきく者,神を憎む者で,不遜,ごう慢,またうぬぼれが強く,有害な事がらを考え出す者,親に不従順な者であり,理解力がなく,合意したことに不実で,自然の情愛を持たず,あわれみのない者であったからです。こうした事をならわしにする者は死に価するという,神の義なる定めをはっきり知りながら,彼らはそれを行ないつづけるだけでなく,それをならわしにする者たちに同意を与えているのです」― ローマ 1:28-32。

      15 光の中を歩もうとする人が直面する問題について述べなさい。

      15 「やみの権威」からの影響のために地上はこうした人々で満ちていますが,この種の人々は,使徒ヨハネの述べる,「真理を実践」する人々ではなく,むしろ,『死に価する事をならわしにする』人々です。光の中を歩み,光の源であるかた,およびそのみ子,主イエス・キリストと結ばれていようとする人々,つまり真理を実践しようとする人々が直面する問題は,自分を囲むこうしたやみの中にあっていかにして精神的な平衡を正しく保ち,光の道からいざない出されないようにするか,という点です。では,精神的な平衡を正しく保っていざなわれないようにするためには,何が求められますか。

      16 (イ)『光の中を歩む』とはどういうことか説明しなさい。(ロ)誤った考えや行動をどうしたら避けることができますか。この点でだれの生涯はわたしたちの励みになりますか。

      16 真理を実践するためには,「光の中を歩んで」いなければなりません。(ヨハネ第一 1:7)光の中を歩むためには,光の神から与えられる助言に絶えず注意を払い,神の道に対する愛を培わなければなりません。もしそうするなら,光の神エホバの非とする標準をこの事物の体制が是認しているのを見ても,わたしたちはそうした歩みに伴う見かけの満足について思いめぐらしたりはしません。また,世のそうした低い標準にも何か埋め合わせとなるものがあるように感じて,そうした快楽を少しだけ楽しめたらどんなによいだろうなどとひそかに思うようなこともありません。また,結局のところ,たとえ短時間であろうとその快楽を得ることは光の原則を犯すだけの価値があるのだ,と考えて自分を欺くようなこともしません。むしろわたしたちは,真理を実践しつつ神を呼び求め,正しい原則に従おうとせつに努めるのです。聖書を調べるわたしたちは,例えばエホバのしもべモーセの生涯などがそこに記録されているのを見ます。モーセは,ファラオの娘の子と呼ばれることを拒み,「罪の一時的な楽しみを持つよりは,むしろ神の民とともに虐待されることを選(んだ)」と書かれています。記録によると,それは,「キリストの非難をエジプトの宝にまさる富とみなしたから」であり,「彼は報いをいっしんに見つめ」ていました。(ヘブライ 11:24-26)これこそ真理を実践することであり,光の中を歩むことです。

      自分の交わりに注意することによって真理を実践する

      17 真理を実践することと自分の交わりに注意することにはどんな結び付きがありますか。

      17 この記事を読んでおられるかたの多くも,『友を見れば人がわかる』とか,『同じ羽色の鳥は集まる』といった言いならわしを聞いたことがあるに違いありません。これらのことばは共に,人はその交わる仲間と似ている,という考えを伝えています。聖書に示される方正な生き方のための要求を顧みないでただ自分の望むままに行動しようとする,このくらまされた世の人々との交友を求めるとすれば,その人は,そうした仲間に加わり,そうした人々と同じようになることを避け難いでしょう。この点での聖書の警告は,「悪い交わりは有益な習慣をそこなう」です。(コリント第一 15:33)したがって,真理を実践しようとする人は皆,自分の交わる人々が,光の中を歩むのを助けているか,あるいは光の神に仕える面での進歩を妨げているかを,全く正直に自問しなければなりません。

      18 (イ)不道徳なことを勧める牧師を容認する宗教組織がある場合,たとえその組織内のすべての人がみだらな生活をしていないとしても,真理を実践しようとする人がそうした組織ともはや歩みを共にできないのはなぜですか。(ロ)では,真理を実践する人はどうすべきですか。

      18 『光の中を歩み』たいと唱えている人が,この体制のいわゆる「状況の倫理」を容認しているような宗教組織とも交わりを持つことは,宗教的に筋の通った考えですか。自分に属する牧師が姦淫・同性愛・その他のみだらな生活を支持する説教をその説教壇からすることを許しているような教会組織がある場合,神の道を学んで光の道すじを歩もうとする人は,どうしてそうした組織と交わり続けることができるでしょうか。その教会組織の中にはその種の事をならわしにしていない人々もいるとしても,それは相違を来たしません。光の神の明示されたご意志に反する事がらを信じかつ宣べ伝える人々を,その組織は依然容認しているのです。一世紀のコリント会衆にいた不道徳な人に関するパウロの助言は,「その邪悪な人をあなたがたの中から除きなさい」ということでした。(コリント第一 5:13)したがって,エホバ神の恵みを得,真理を実践しようとする人は,啓示 18章4節の訓戒に従わなければなりません。それは,宗教上の大いなるバビロンに関してこう述べています。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい」。そうです。真理を実践し,光の中を歩もうとする人は皆これに応じ,大いなるバビロンに属する偽りの宗教組織から完全に「出な」ければなりません。

      19 人は娯楽の分野でもどのように自分の交わりに注意すべきですか。どんな選択が必要になりますか。

      19 言うまでもなく,人は,娯楽の面でも自分の交わる人に注意しなければなりません。ここで言う交わりは,人とじかに接することに限られていません。大多数の人は,娯楽の世界の人々と直接の交わりを持ってはいません。しかしそれでも,人は,この世の堕落した標準を追う本や雑誌を読んだり,先に挙げたローマ人への書の中で略述されているものなど,神のことばが非としている事がらをたたえ上げるような映画やテレビの番組を見たりする点で,自分の習慣に注意しなければなりません。人は,光の神が強く嫌悪される事がらをなんでも是認しているこの邪悪で病んだ社会の人々と交わりを持ちながら,しかもなお神の光の中を歩むことはできません。どのような交わりを選ぶかは各自の決定にかかっています。しかし,その人が真理を実践しているかどうかの判断はエホバ神にかかっています。ヨハネ第一 1章6節の次のことばを忘れないでください。「『神[つまり,光の神]と分け合う者である』と言いながらやみの中を歩きつづけるなら,わたしたちは偽りを語っているのであり,真理を実践してはいません」。この要点は明確で強力です。神のことばの助言に注意を払い,自分の生活をその助言に合わせること,これは,クリスチャン,つまり,主イエス・キリストに従うすべての人の務めです。

      20 真理を実践するにあたって考慮するべき他の事がらを挙げなさい。

      20 しかし,真理を実践することの中には,自分の日常の行動に注意し,正しい交友を保つ以上のことが含まれています。真理を実践するためには,他の必要な事項を守ることも求められるのです。例えば,真理を実践する人は,会衆の集会で同じ貴重な信仰を持つ人々と交わることをどのように見なすでしょうか。必須なことと見なしますか。それとも,ほかにすることがない場合に行なうことと見なしますか。光の神,および世の光であるみ子について他の人に語り告げる業に加わることに関してはどうですか。人類の前途に置かれたものとして神のことばが予告する数々の祝福について他の人々にすすんで語ろうとしていないで,しかもなお真理を実践することができますか。また,信仰の家族,つまり,クリスチャン会衆内で真理を実践することに共に加わっている他の人々を助ける問題もあります。そうした人々との関係およびそれに伴う責任と,真理を実践することにはどのようなつながりがありますか。光の神エホバおよびそのみ子と分け合う者となり,真実に真理を実践し,やみの中を歩んではいないと言えるようになるために,人は一定の基礎的な要求を満たさなければなりません。次の記事の中でそうした点を取り上げます。

  • 「彼のおきてを守りつづけ」なさい
    ものみの塔 1974 | 12月15日
    • 「彼のおきてを守りつづけ」なさい

      「そして,わたしたちが彼のおきてを守りつづけるなら,それにより,彼を知るようになったことがわかるのです」― ヨハネ第一 2:3。

      1 真理を実践するためになぜ自己吟味が必要ですか。

      今日,献身してバプテスマを受け,エホバ神の証人となった人々が,全地に幾十万人もおり,その人々は共に集まり合い,また,王国の良いたよりを,家から家に,また他の多くの方法で宣明する業に携わっています。これら神のしもべは神を愛し,そのご意志を行なうことを願っています。神のおきてを実行し,その律法を守るために彼らが自分の命を献げたのはそのためです。しかし,「彼の[神の]おきてを守りつづける」ことが何を意味するかを十分に認識しない人が時にいるかもしれません。自分の生き方や動機について絶えず自己吟味を続けないなら,この体制に存在するやみの力のためにエホバの要求に対して盲目な者となってしまうかもしれません。わたしたちは神のおきてを実行し続けることが必要です。何か同じ事をし続けると,それはやがて人の習慣,つまり規則的に行なう事がらとなります。一方,それを今行なわないと,やがて忘れてしまいます。何にせよその規則的に行なう事がらはその人の習慣であると言えます。それはその人の生き方,やがてはやめるというような考えを抱かずに行なう事がらとなります。

      2 人はどのようにしてエホバを真に知るようになりますか。

      2 神のおきてを守る人についても同じことが言えます。その人は,それが神の要求であることを知り,来る日も来る日も,来る月も来る月も,また来る年も来る年もその歩みを続けます。これらすべての要点は次のことです。つまり,エホバの望まれる事がらを常に守り行なうこと,これが「彼[エホバ]を知る」唯一の道である,という点です。これは,ただ自分がそのような気持ちになる時だけ,また,より大切と見なす他の事の妨げとならない時にだけ神に仕える,というようなことを許しません。こうした定常不変の態度こそ,「真理を実践」する,また「彼のおきてを守りつづける」ということばの中に表わされている考えです。

      「集まった群衆」の中で

      3 集まり合うことについてエホバはご自分の民に何を求めておられますか。

      3 「集まった群衆の中でわたしはエホバをたたえます」と詩篇作者は書きました。(詩 26:12,新)光の神エホバは,ご自分の民がそのみ名のうちに集まり合うことを命じておられます。ヘブライ語聖書は,年ごとに特別の行事を守り行なうために共に集まることを定めた,古代の神の民イスラエルに対するエホバの命令を載せています。そのために集まることは多くの場合民の義務になっていました。しかしそれは,民にとって祝福であり,益になることでもありました。崇拝のために集い合うという務めは,神の民のクリスチャン会衆にも受け継がれました。基本的に言って,ヘブライ 10章24,25節は,クリスチャンが共に集い合い,そうする務めを忘れないことを求めています。そうした集まりの目的は,互いを励ましてその信仰を築き上げ,愛と正しい業とを鼓舞することです。

      4 (イ)真理を実践するために人は何をしなければなりませんか。(ロ)会衆の集会についてどのように論じる人がいるかもしれませんか。しかし,どんな点を銘記しておくのがよいですか。

      4 今日,この20世紀のクリスチャン会衆は,崇拝のために集まり合うという点で『彼のおきてを守って』いなければなりません。『集まった群衆』が存在するためには,群れの中の一人一人がこのおきてを守らなければなりません。一つの群れとなって真理を実践するためには,各人がエホバのおきてに聴き従わなければなりません。全地のエホバの証人の間では週に五時間の集会を開くことが習慣になっているが,それだけの集会をするようにという具体的な命令は聖書の中にない,と論じる人がいるかもしれません。確かにそのとおりです。しかし,わたしたちは,神が寛大さを示され,霊的な良い物を満ちあふれるほど備えてくださっていることにむしろ感謝すべきではありませんか。わたしたちは集会に出席するごとに霊的な益を得ています。わたしたちの信仰は強められています。仲間のクリスチャンに会う時,わたしたちは,エホバのおきてを守り,真理を実践するための助けを得ます。それこそわたしたちの望んでいることではありませんか。

      5 それで,エホバの献身したしもべは会衆の集会をどのように見なしますか。

      5 それで,エホバの献身したしもべが集会でクリスチャン兄弟や姉妹と共になるためできるかぎり努力するのは全く当然なことです。集会に出席しないでいるための口実を見つけようとするよりも,むしろ,会衆の集会に可能なかぎりすべて出席すべき理由をはっきり見るようにします。病気になったり,思いがけなく何か重大な事が起きたりした場合には,当然のこととして健全な判断力を働かせます。しかし通常の場合には,聖書によって訓練された良心がその人を動かして真理を実践させ,集い合うことをやめてはならないという,エホバのみことばの中のおきてに従わせるのです。

      6 集会を欠かす「理由」が,それを習慣的に欠かす「口実」ともなることについて述べなさい。

      6 しかし,主のしもべであっても注意していないなら,こうした恵まれた交わりを,ごくささいな事でいつも欠かしてしまいます。時には,たまたま訪ねて来た親族のためにある集会に出席できない状況があるかもしれません。しかし,親族が訪ねて来るごとに,また同種の事があるごとに,集まった群衆の中で真理の道を歩む人々と共になることを差し控えてしまう人がいますか。むしろ,一緒に来るようその親族を誘うことはいかがですか。また,悪天候,仕事,軽い病気などのために時おり集会を欠かしてしまうことがあるかもしれません。しかし,そうした「理由」をむしろ「口実」として主の民と定期的に交わることをやめるようになる時,その人は光ではなくやみの中を歩き始め,真理を実践する者ではなくむしろ偽りを語る者となっています。少し考えてみましょう。出エジプトの時,忠実なイスラエル人は,家の戸口の柱に幾らかの血を振りかけ,過ぎ越しの子羊を食し,知らせがありしだい直ちに旅立てるようにしておくことを,何かの理由で怠ったでしょうか。その場合,エホバのおきてを守るかどうかはまさに自分の生死を左右する,ということを彼らは知っていました。時の重大さという点で今は多少とも劣るでしょうか。今は何か異なる点があるのでしょうか。わたしたちは,対処しにくい危機の時代に住んでいるのではありませんか。それゆえにこそ,わたしたちはいよいよ積極的な態度を示し,エホバの命じておられるとおり,集まった群衆と定期的に交わり合うべきです。

      公に真理を実践する

      7 この討論の中で初期キリスト教のどんな目だった点を次に取り上げますか。

      7 第一世紀のクリスチャンについて目だった点の一つは,それらクリスチャンが良いたよりを宣明したという点です。イエスについては,ガリラヤの全土を回り,会堂で教え,王国の良いたよりを宣べ伝えたことが記されています。(マタイ 4:23)イエスは,山の中,海辺に集まった人々の間,関心を持つ人たちの家など,語りかけることのできる人のいる場所ならどんな所ででも伝道しまた教えました。特別に訓練を与えていた十二人に対しては,「行って,『天の王国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と命じました。そして,そうした指示を与えた後,宣べ伝えて教えることのためにその12人を諸都市に遣わしました。―マタイ 10:5-10。

      8 エホバのクリスチャン証人はキリスト教世界の大多数の人とどんな点で異なっていますか。

      8 したがって,20世紀のクリスチャンがこれと同じ事をするのは全く道理にかなったことです。また,キリスト教世界の大多数の人々が,「みことばを行なう者」ではなく,それをただ聞くだけの者となり,真理のことばを広めて真理を実践する面では何も行なっていないということも,このことから明らかになります。しかし,エホバのクリスチャン証人は「みことばを行なう者」となっています。イエスのようになるためには王国の良いたよりを他の人に語り告げる業に加わらねばならないことを彼らは知っています。イエスおよび初期クリスチャン会衆の人々の場合と同じように,それは彼らにゆだねられた使命です。聖書の記録はこう述べます。「彼と結ばれていると言う者には,このかたが歩まれたとおりに自らも歩んでゆく務めがあります」。―ヤコブ 1:22。ヨハネ第一 2:6。

      9 公の伝道に参加して真理を実践する際の問題について述べなさい。

      9 王国伝道に加わってこの真理を実践してゆくことは,クリスチャンにとっても常に易しいことであるとは限りません。反対者からの虐待を忍ばねばならない場合も多くあります。いわば公の伝道活動のために生まれた人,つまり,人々に全く意のままに語りかける能力を初めから持つ人はほとんどいません。したがって,忠実なクリスチャンは,能力ある熟達した働き人となることを目ざして励まねばなりません。また,良いたよりを他の人々に分かつように人を動かすものは神と隣人に対する愛であることを認め,人は公の伝道の業を遂行するために謙遜にならなければなりません。こうした理由で,この業に加わることがクリスチャンにも時に難しく見えることがあり,そのためにそれを怠る口実を設けるかもしれません。

      10 (イ)伝道の業に参加することを時に阻むような問題を幾つか挙げなさい。どんな場合にそうした「理由」が「口実」となっていますか。(ロ)サタンの策略についてどんなことを銘記しておくのがよいですか。わたしたちはどこに助けを仰ぐことができますか。

      10 何か特別の場合には,それなりの理由のために,伝道の業に参加できないことがあるかもしれません。自分の住んでいる家がなんらかの急ぎの修繕をどうしても必要としている場合もあります。行き来のために頼らねばならない自動車が緊急な配慮を必要としているかもしれません。また,処理しなければならない個人的な性質の問題があって,そのために,宣べ伝えて教える業に携われないこともありえます。しかし,ここでも問題は,どんな場合にそうした理由が口実に変わるだろうか,という点です。そうした障害に押されて真理を実践してゆくことをやめてしまいますか。人はおのおの自分の心にあるものを知っています。言うまでもなく,エホバもそれを知っておられます。今や全人類が直面しようとしている生死を決する問題にあたり,わたしたちは,忠実なクリスチャンとして,やみの中を歩み始めるようなことがないように注意したいと願うはずです。やみの神サタンは,わたしたちの強い所ではなく,弱い所をねらいます。わたしたちに自分のことを哀れに思わせ,否定的な考えを抱かせることができれば,サタンは問題が起きるごとにいよいよその点に働きかけます。サタンのたくらみに立ち向かい,首尾よくそれに打ち勝つためには,エホバ神により頼まねばなりません。わたしたちにはエホバの助けが必要であり,それを祈り求めるべきです。そして,自分が習慣的に実践しているのは王国の関心事を第一にすることだろうか,それとも他の事がらを第一にしているだろうか,と自問すべきです。

      11 物質的なものを追い求めることが真理を実践する上で妨げとなることについて述べなさい。正しいことを行なう力はどこから得られますか。

      11 わたしたちは,いかなることがあっても神の愛から離れないように用心していなければなりません。預言者ハガイの時代に,神は怠慢な民に対して,問題がどこにあるかを告げました。そのことを思い出してください。神はこう言われました。「わたしの家が荒れはてているのに,あなたがたは,おのおの自分の家の事だけに,忙しくしている」。(ハガイ 1:9,口)わたしたちは同じような歩み方をして,自分をエホバの恵みから切り断つのですか。エホバが地を揺り動かし,山々が海のもなかによろめき落ちる時,わたしたちの家,また新たに羽目板を入れた所や手を施した所はどうなるでしょうか。(詩 46:2)それゆえ,公の伝道の業に十分に加わって真理を実践し続けてゆくことは本当に重要ではありませんか。この,二度と繰り返されない活動が成し終えられる時は近づいています。わたしたちの前途には大患難が控えています。光の神の力により頼みつつ,わたしたちの手のなすところを力を尽くして行なってゆきましょう。「自分に力を与えてくださるかたのおかげで,わたしはいっさいの事に対して強くなっている」という,パウロのことばを忘れないでください。(フィリピ 4:13)その「いっさいの事」の中に,エホバのみ名の賛美となるわたしたちの公の伝道の業も含まれますように。

      兄弟たちを愛することによって『光の中を歩み』つづける

      12 他のどんな形のやみを避けなければなりませんか。なぜ?

      12 真理の実践という面で同じように重要な別の点に移り,ヨハネ第一の書をもう一度読むことにしましょう。「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎む者は,今この時に至るまでやみの中にいます。自分の兄弟を愛する者は光の中にとどまっており,その者につまずきのもととなるものはありません。しかし,自分の兄弟を憎む者はやみの中におり,やみの中を歩んでいます。そして自分がどこへ行くのか知りません。やみがその者の目をくらましているからです」。(ヨハネ第一 2:9-11)神のおきてを守って真理を実践することは,自分の兄弟を愛することと密接に結び付いています。すべての面で方正に行動し,神の民と集まることにも宣べ伝えて教える活動にも定期的に参加していながら,他の時間には仲間のクリスチャン兄弟とほとんどあるいは全く関係を持たず,彼らを避け,その福祉に無関心でいるとすれば,それはいかにも愚かなことではありませんか。

      13 (イ)ここでどんな問いが当然発せられるかもしれませんか。(ロ)マラウィやニカラグアの兄弟たちに関する例は,神のしもべたちが互いに愛を示して真理を実践しようとしていることをどのように示していますか。

      13 『どうしてそのようなことがあるだろうか』と尋ねるかたがおられるかもしれません。また,『わたしは兄弟たちを愛している。わたしは兄弟たちのためにどんな事でも喜んでしたい。しかし,何をしたらよいだろうか。何を必要としているのだろうか』と言われるかたもおられるでしょう。その点について次のような見方をしましょう。近年,エホバのしもべたちが多くの苦しみに遭うような出来事が地上の多くの場所で起きました。例えば,マラウィにおいて,エホバの民は非常な迫害を受け,その大多数はついには自分の家と国から逃げ,別の国に居住しなければなりませんでした。彼らのクリスチャンとしての行動に対する反対のためです。ニカラグアでは,破壊的な地震がその首都マナグアを襲い,忠実なクリスチャンの中にも,家・仕事・集会場所など,自分の持つものをすべて失った人が多くいました。全世界のエホバのしもべたちの反応はどうでしたか。これらの霊的な兄弟たちの福祉に対して深い配慮が示されました。それは,そうしたクリスチャンたちのために送られた援助の形で示されました。それは,クリスチャンとしての配慮,兄弟たちに対する心づかいのすばらしい表現でした。

      14 兄弟たちへの関心を示して真理を実践するにあたって会衆内のどのような人たちについて銘記しているのがよいですか。どのような点でその人たちを助けることができますか。

      14 しかし,この問題をさらに地方的なレベルで見ることにしましょう。わたしたちは,自分の会衆で定期的に会い,それゆえに自分がよく知る人々の間で真理を実践することにも関心を払っていますか。もちろん,そうしている人は多くいます。しかし,わたしたちは今自己吟味をしていることを忘れないでください。今は,生活費の高騰のために人々が非常な圧迫を感じている時代です。一家の働き手が不況のために仕事から一時帰休になったりすると,この圧迫は大いに増し加わります。定まった収入で生活している人の多くは生活上の必要物を得るだけでも非常に難しくなっており,しかもそうした状態は今後いっそう悪化するものと思われます。(ハバクク 3:17)わたしたちのまん中にいるだれかまたはある家族が,なんら自らの落ち度によらずして困窮に陥っていることがわかった場合,わたしたち一人一人はどうするでしょうか。弟子ヤコブはこう書きました。「兄弟か姉妹が裸の状態でいて,その日の食物にも事欠くのに,あなたがたのうちのだれかが,『安らかに行きなさい。暖かくして,じゅうぶん食べなさい』と言うだけで,体に必要な物を与えないなら,それはなんの益になりますか」。(ヤコブ 2:15,16)これは,真理を実践する人が考えるべき点です。

      15 ほかのどんな人たちがわたしたちの配慮を必要としていますか。どのような点で助けることができますか。

      15 会衆内にいる老齢の兄弟や姉妹についてはどうですか。その人たちはどのように暮らしていますか。わたしたちは,そうした人たちに対する配慮や思いやりによって,自分が『光の中を歩んで』いることを示していますか。そうした人々に関するエホバのおきてを守りつづけていますか。そうした人たちが集会や野外奉仕に行くためには,だれかが迎えに行って助けてあげることが時に必要かもしれません。また,物質面での生活上の必要物を入手したり,家の中を整えたりする面でも援助が必要かもしれません。これらも真理を実践する方法です。年老いた人々は,だれかが立ち寄って,神のことばの真理について語ってくれたり,自分に関心を示してくれたりするだけで感謝する場合もあります。聖書はこう命じています。「義の道に見られるしらがはうるわしい冠である」。(箴 16:31,新)エホバにとって,そのご意志を多年忠実に行なってきたご自分のしもべが,真理を実践し,光の中を歩む他の人々から親切な世話を受けるのを見ることは,どんなにか喜ばしいことでしょう。

      16 会衆内の長老たちに敬意を払うことも真理を実践する道であることを述べなさい。

      16 もう一つ銘記すべき点として,真理を実践することの中には,りっぱに主宰の任に当たる長老たちに敬意を払うことも含まれます。使徒パウロはこう忠告しています。「さて,兄弟たち,あなたがたにお願いします。あなたがたの間でほねおって働き,主にあってあなたがたの間で主宰の任に当たり,あなたがたを訓戒している人たちを重んじなさい。そして,その働きのゆえに,ひときわ深い考慮を愛のうちに払いなさい。互いに対して平和な態度を保ちなさい」。(テサロニケ第一 5:12,13。ヘブライ 13:17)わたしたちは,会衆内の年長者たちをこのように見なしていますか。

      17 一方,長老たちはどうしたら真理を実践していることを示せますか。

      17 言うまでもなく,主宰の任に当たる人々が真理を実践し,「羊」の福祉に熱心な関心を抱いているべきことも明らかです。その人々は兄弟たちに対していばってはなりません。それは,光の神であるエホバの道を反映するものではないからです。彼らは次の命令を神から直接に受けています。「神の羊の群れを牧しなさい。強いられてではなく,自らすすんで行ない,不正な利得を愛する気持ちからではなく,真剣な態度で牧しなさい。また神の相続財産である人びとに対していばる者のようにではなく,かえって群れの模範となりなさい」― ペテロ第一 5:2,3。

      18 神の民に対するパウロの権威ある忠告に含まれる知恵について述べなさい。

      18 最後に,真理を実践し,光の中を歩み,エホバのおきてを守り,この邪悪な事物の体制のやみから離れているためには,コロサイ会衆にあてられた使徒パウロの知恵のことばにある次の権威ある忠告に従うことがわたしたちすべてに求められます。「したがって,神の選ばれた者,また聖にして愛される者として,優しい同情心,親切,へりくだった思い,柔和,そして辛抱強さを身に着けなさい。だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなくゆるし合いなさい。エホバが惜しみなくゆるしてくださったように,あなたがたもそのようにしなさい。しかし,これらすべてに加えて,愛を身に着けなさい。それは結合の完全なきずななのです」― コロサイ 3:12-14。

      19,20 モーセ時代のどんな出来事は,わたしたちの住む今日の世界と似ていますか。わたしたち一人一人は,エホバのおきてを守って真理を実践することによってどのような祝福を受けますか。

      19 サタンが人々の思いをくらまして,キリストに関する栄光ある良いたよりが輝きわたらないようにしている結果人々の上に全くのやみがのしかかっているこの時代ですが,そうした時代にあって真理を実践し,神のおきてを守るための道がここにあります。世のやみはひときわ濃くなっていますが,神のことばからの真理の光はその明るさを増しています。それは,イスラエル人がエジプトで奴隷となっていたモーセの時代のことを思い出させます。心のかたくななエジプトのファラオに加えられた九番めの災いもしくは打撃は,その地を襲った濃い暗やみでした。それについて次のように記されています。「モーセすなはち天にむかひて手をのべければ あつき黒暗三日のあひだエジプト全国にありて 三日の間は人々たがひに相見るあたはず またおのれのところよりたつものなかりき されどイスラエルのひとびとのすまひにはみな光ありき」― 出エジプト 10:22,23。

      20 わたしたちは重大な時代に生きています。そして,世は行く手を知らずにやみの中を摸索していますが,光の神,また神が遣わした世の光である主イエス・キリストからの真理の光は目ざましいまでに照り輝いています。真理を実践し,神のおきてを守りつづけ,光の中を歩むということがわたしたちすべてに何を意味するかをいつも忘れずに考えることは,本当に適切なことではありませんか。それが今後の来たる日々に何を意味するかは,使徒ヨハネの次のことばの中に述べられています。「神ご自身が光の中におられるのと同じように光の中を歩んでいるなら,たしかにわたしたちは互いに分け合う者となっているのであり,み子イエスの血がわたしたちをすべての罪から清めるのです」。(ヨハネ第一 1:7)わたしたちは,光の神と結ばれた関係にあることを感謝しましょう。神にはいかなるやみも存在しないのです。

      [755ページの図版]

      エホバのクリスチャン証人の毎週の集会には,人を築き上げる聖書的な討議のために,幾十万という人が集まっている

      [758ページの図版]

      老齢や病弱のクリスチャン兄弟姉妹を助けることによって,わたしたちはそうした人たちへの愛と関心を示せる

  • エホバの道に喜びを見いだす
    ものみの塔 1974 | 12月15日
    • エホバの道に喜びを見いだす

      1 エホバの霊的な光はこの世のよくない習わしに関して人にどんな益を与えますか。

      光は人を活気づけます。暗い夜が過ぎてだんだん明るくなるのを見るのはうれしいものです。霊的な意味で言う場合,エホバの道に従う人々は光を楽しみ,またそれを他の人々に反映しています。(エフェソス 5:8。テサロニケ第一 5:5)この種の光は,実を結ばないやみの業を明らかにし,それらよくない事がら,つまり,この世のやみに隠れるつまずきのもとを,それ自身が光っているかのごとくにはっきり映し出します。こうして,正しい事を願う人々はそれを避けることができます。―エフェソス 5:13。

      2 (イ)光は邪悪な人々に対してどんな働きをしますか。(ロ)ヨブ 38章14節の意味を説明しなさい。

      2 光は地上の邪悪な人々を暴き出し,そうした人々が地の表から振り払われるようにします。(ヨブ 38:12,13)一方それは,やみに隠れて秘密の業をするようなことのない人々に大きな喜びとなるものを明示します。エホバは,夜明けが東から西へと地表を徐々に移行する時の様をこう述べておられます。『地は変はりて土に印したるごとくに成りもろもろの物は美はしき衣服のごとくにあらはる』。(ヨブ 38:14)古代の印章は粘土板の上を転がして,そこに鮮やかな印影を残すものでしたが,ちょうどそれと同じように,朝の光も地上の

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