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僧職者が辞職するのはなぜかものみの塔 1970 | 9月1日
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教会との関係を全く断っています。カナダのモントリオールで17年間大司教を務めたポール・エミール・カーデナル・レジャーは,1967年,大司教の職を辞するにあたり,次のように述べました。「ある人は,あらしが起きている時期にわたしが船を離れるのはなぜかと問うかもしれない。それはもっともなことだ。しかし,わたしが指導的な立場を離れる原因は,つまるところ,まさにこの宗教的な危機である」。
こうした事態から次のような疑問が生まれます。僧職者が群れをなして辞職している,キリスト教世界の諸教会に行く必要があるだろうか。そうした教会以外に,霊的な糧を与えてくれる所があるだろうか。
聖書の真理を見いだしている僧職者
僧職者の中には,神のみことばである聖書を真剣に調べはじめた人がいます。アメリカの東部に住むひとりのバプテスト派の牧師は,1968年10月に,「とこしえの命に導く真理」と題する聖書研究の手引きを求めました。彼はその本を二日間で読み,真理の響きがあることに気づきました。彼の教会の会員もこの手引きの本に盛られている豊富な霊的糧を討議することに同意し,自分たちの学んだ事柄を大いに喜びました。やがて,その教会の建物は売られ,一家族を除く他のすべての家族がエホバの証人とともに家庭聖書研究を始めました。そして今では集会に出席しています。
南アフリカのナザレ・バプテスト教会の69歳になる牧師は,家庭聖書研究をしばらくした後,1968年10月に辞職することになり,最後の説教をしました。その中で教会を去る理由を説明し,とこしえの命に至る道を見いだしたからであると述べました。この牧師は現在,エホバの証人とともに神の御国の良いたよりを広めるわざに参加しています。
ウルガイのペンテコステ派の一牧師は,現在の事物の体制の終局に関する聖書の教えに関心を示しました。エホバの証人のひとりと話し合った後,エホバの証人の集会に出席した彼は,真理を見いだしたことを確信し,まもなく他の人々に証言しはじめました。
こうした例はさらに増加の傾向にあります。教会に霊の思いの面での空虚さを認める,多くの誠実な僧職者や教会員は,どこか他の場所に神の真理を見いだそうとしています。もし神と神のみことばをほんとうに愛しておられるなら,あなたもそうなさるべきではありませんか。
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聖書の新しい翻訳 ― 神に誉れを帰すものですかものみの塔 1970 | 9月1日
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聖書の新しい翻訳 ― 神に誉れを帰すものですか
最近,新英語聖書と呼ばれる新しい英訳聖書が出版されました。それは英国の主要プロテスタント諸教会の代表者たちで構成される委員会の手で作られたものです。
新英語聖書(新英)出版のおもな目的の一つは,聖書をもっと理解しやすくすることにありました。1970年3月13日付,ジャパン・タイムズ紙はこう述べました。「359年を経た欽定訳に比べれば,現代の読者にとってこの聖書の理解しやすさには,はかり知れないものがある。今後,英国の諸教会では,欽定訳にかわって,この聖書が用いられることになろう」。
この翻訳は多くの聖句をより明確に訳出しています。たとえば,マタイ伝 5章3節を取り上げてみましょう。欽定訳は次のとおりです。「霊の貧しき者は幸いなり。天国はその人のものなればなり」。新しい翻訳は次のように,もっとわかりやすく訳出しています。「自分が神を必要としていることを知っている人々は,なんと幸いであろう。天の御国は彼らのものである」(新英)。しかし,こうした明確な訳出は,これが初めてではありません。20年前に出版された新世界訳(新)は,この句をこう訳出しています。「自分たちの霊的な必要を自覚している人々は幸福である。
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