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心の暖かい医師 ― 福音をしるすものみの塔 1962 | 3月15日
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という意味のたとえ,70人の福音伝道者たちの派遣,御国契約への言及,ユダヤとペレアでのイエスの後期の宣教,エルサレムが,とがった杭で囲まれるというイエスの預言,およびイエスが,復活した朝,エマオに行く途中のふたりの弟子に会われたことなどです。
圧迫されている者のためのなぐさめというテーマにふさわしく,ルカは,マタイやマルコほど病気のことを述べていません。反面,いやしのことについては,そのふたりよりもたびたびのべています。他の3人は,ペテロが耳を切り落としたことと,イエスの非難について述べているのに,ルカだけが,ペテロに打たれた大祭司のどれいの耳を,イエスがいやされたことについて述べているのも,その典型的な例です。同じくルカは,マタイやマルコよりも楽しみや喜びのことを多く述べています。
ルカの福音書には,ここであげるだけの価値あるもう一つの著しい特徴があります。それは祈りという主題に重点を置いていることです。ザカリヤが宮の中にいる間,多くの民衆が祈っていたこと,子どもを授けて下さいという祈りが聞かれて,洗礼者のヨハネが与えられたこと,昼夜祈っていた女預言者のアンナのことをルカは述べています。洗礼の時イエスが祈っておられたこと,12人の使徒を選ぶまえ,一晩中祈られたこと,イエスが変貌の間祈っておられたことも,ルカだけが私たちに告げています。また,ルカの記録の独特な点は,しいたげられたあるやもめが忍耐したように,祈りつつ忍耐しなさいというイエスの戒めが含まれていることです。祈り方を教えて下さいという弟子たちのイエスへの願い,ゲッセマネにいる間,イエスの祈りに答えて,神がひとりの天使をつかわされてイエスを力づけられたこと,イエスの傍にいた罪人の願い(それは祈りと同じ性質のものであった),「父よ,わたしの霊をみ手にゆだねます」というイエスの最後の祈りは,ルカだけが述べています。―ルカ 23:46,新口。
多くの人はたぶん,神がなぜ四つの福音書をつくられたか,不思議に思っているでしょう。しかし前述のことから私たちは,ルカの福音書がいかに個性的であるかを知ることができます。その結果私たちは,四つの福音書が,確かに別々のものでイエス・キリストの生涯の別個の記録であるという信仰を強くします。
指示に従うことと,他の人がしていることをするように要求されているために,自分の個性がなくなりつつあると時たま考える献身したクリスチャンが万一あるなら,ルカも,マタイやマルコやヨハネと同じ任命を受けながら,イエスの生涯に関する事実という範囲内で,いかに独特の記録を作ったかを考えて下さい。これを独特なものにするために彼は,イエスの生涯という範囲の外に出ることも,また別の事柄をつくり上げる必要もありませんでした。
ルカが選んだテーマと,また彼があわれみ,同情,思いやりに置いた強調とは,私たちが,これらの同じ美質を示すことにおいて,師にまねなければならぬことを明確に理解させてくれます。もし,完全で奇跡を行なう神の子イエスが,そうした愛のこもった関心を示されたなら,不完全で,あわれみと同情を必要とする私たちはなおさらそうする義務があります。まことに,『神の御言葉は,私たちの足のともしび,私たちの道の光です』。―詩 119:105。
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孤立した地域でものみの塔 1962 | 3月15日
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孤立した地域で
テキサス州のある男の人が,夕方仕事から帰ったところ,妻から,私は楽しくないと言われました。そこで理由をたずねたところ,妻は,私たちがふたりとも霊的に向上するようなことをなにもしていないからだと説明しました。主人の決定で,教会に出席しようということになりました。それから2ヵ月ばかりたって,ヒューストン市からきた証者のカー・グループが,この家族の住む孤立した地域を伝道しました。その婦人は「楽園」の本を求めました。のちほど主人が仕事から帰ってきてその本を取りあげ,読みはじめました。夕食がすんでからまた居間に戻って3時間読みつづけました。それから顔を上げて妻にたずねました,「この本に書いてあることを教える人たちと一緒に集まれる場所が近くにあるかい? いまの教会にはいったのは間違いだったな」。妻は,場所は知らないけれど調べておきますと答えました。こういうふうにしてその夫妻は御国会館にやってきたのです。集会がすんでから婦人は,エホバの証者のひとりに近づいて,「私どもの家まで来て聖書の勉強を手伝ってくさだるかたはないでしょうか」と尋ねました。ひとりの証者がその家で家庭聖書研究を司会することを取りきめました。この研究には平均15人の人が出席しました。そのうちの7人がテキサス州ヒューストンで開かれた「一致した崇拝者の大会」に出席しました。
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