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    ものみの塔 1963 | 10月1日
    • 人の身になって考える

      不注意が原因で,建造中のアメリカの航空母艦に火災が起きました。政府のこうむった損害は5000万ドル以上に及び,大ぜいの死者が出ました。ラジオで火災のことを知って心配していた犠牲者の妻の一人は,夫が何時もの時間に帰宅しなかったので,もしや夫も死んだのではないかと不安にかられていました。そこへドアのベルが鳴って戸口に走り出た妻の前には,二人の警官が立っていました。二人の警官は何と言うべきかに戸惑っている様子でしたが,言わなくても妻にはわかりました。同情心のあふれたその表情だけで十分でした。夫は犠牲者の一人だったのです。

      二人の警官は妻の気持を十分に思いやることができました。自分の妻が同じ立場におかれたとき,どんな気持になるかを想像できたからです。このような場合,親切のこもった表情,身ぶり,暖かい同情心のある二,三の言葉だけで,相手を思いやり,相手の身になって考えていることが示されます。

      聖書はこの事の必要を次のように述べています,「喜ぶ者と共に喜び,泣く者と共に泣きなさい」。また聖書によれば,「心の痛める人の前で歌をうたうのは」全く場所をわきまえないことであり,また「泣くに時があり,笑うに時があり,悲しむに時があり,踊るに時があり」ます。他の人の身になって考えることができれば,泣くべき時,悲しむべき時,笑うべき時,踊るべき時をわきまえることができます。―ロマ 12:15。箴言 25:20。伝道之書 3:4,新口。

      他の人の身になって考えるという事は,人とのあらゆる関係について言えます。それは家庭内でとくに必要です。相手の身になって考えることをすれば,親と子供の関係もよほど改善されるに違いありません。これは親がその権威を手離すことではありません。大切なのは理解です。また理解の不足は,夫と妻の間にもいさかいを起します。他の人が眠りたい,あるいは勉強したい時にテレビを見る,ラジオを聞くといった些細な事柄にも,同じ原則があてはまります。時間通り食卓につくこと,約束した外出の時間に出かける用意をすることなども同様です。

      お金を借りたとき,約束の時期に返すことを怠っていますか。このような遅延を些細なことと考えていますか。しかし相手の人の身になって考えましたか。借りたまま忘れたのではないかと,心配しているかも知れません。約束の日に借りたものを返せなければ,知らぬ顔をする代りに少なくとも釈明するぐらいの事はできるはずです。借りたものをもらった物のように考えさえしなければ,貸した人は喜んで返済の時期を延ばしてくれるでしょう。借りるふりをして,人から物をとりあげるのは正しいことではありません。

      人の身になって考えることをしないために,争いや不必要な混乱,苦痛を招いている例は産業界にもあります。労働組合も経営者側も相手の身になって考えることをしないため,時にはストが何週間にも何ヵ月にもわたります。人種また宗教の差別問題などは,これらの点で異なる人の身になって考えさえすれば,決して起らない問題です。

      人にものを頼む場合でも,あるいは叱る場合でも,相手の身になって考えればはるかに効果的です。イエスはこの事をされました。それでペテロがイエスを3回否定したときにも,イエスはペテロを叱りませんでした。じっと見るだけで十分だったのです。「主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは」イエスをいなむであろうと言われた「主のお言葉を思い出した。そして外へ出て,激しく泣いた」。時には叱責の目つき,時には懇願の口調 ― エホバは何回となくご自分の民をこのようにさとされました ― 時にはあやまちを犯した者と静かに話し合うことのほうが,大きな声を出して沢山の事を言うよりも効果的です。―ルカ 22:60-62,新口。ガラテヤ 6:10。

      使徒パウロはこの点においても主イエスにならいました。他の人々の考え方,感じ方に無頓着ならば不必要に人を怒らせることを,パウロは知っていました。相手が間違っていると思う人は,往々にして相手の誠意また知性を疑っているかのような素振りをしやすいからです。パウロはできる限り多くの人を救うために,いわば「すべての人の奴隷」になりました。「ユダヤ人には,ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである……弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては,すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである」。このようにパウロは述べました。パウロは人の身になって考えることを知っていました。その事に間違いはありません。―コリント前 9:19-22,新口。

      人の身になって考えることのできる人は,不必要に人を怒らせないだけでなく,利己主義に過ぎる行いをしたり,罪を犯すことから自分の身を守ります。不品行や犯罪のおもな原因は貪欲つまり他の人のものをむさぼる心です。しかし人の身になって考えるならば,人の自動車,仕事,妻その他の所有物をむさぼることはしないでしょう。自分がそれらのものを持っているならば,それを奪われたいとは決して思わないからです。―申命 5:21。

      もちろん人の身になって考えると言っても,そのような取扱いを受けるに値しない人との交渉において,感情に左右されることではありません。またそうすることが自分の義務であり,また相手の最善の益になるならば,叱責をさしひかえるべきではありません。自分のために最善のことを望むのと同じく,他の人のためにもその人にとって最善のことを願うべきです。

      人の身になって考えることをすれば,他の人との関係はずっとよくなり,自分も正しい事をするようになります。イエスの次の言葉は,まさしくこの事を言われたものです,「だから,何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である」。―マタイ 7:12,新口。

  • 「いやしからぬ市」
    ものみの塔 1963 | 10月1日
    • 「いやしからぬ市」

      ◆ 兵士たちが使徒パウロを怒り狂ったエルサレムの暴徒の手から救い出した後,軍の指揮官は,当時世間を騒がせたエジプトの動乱煽動者とはこのパウロのことではないか,とたずねました。パウロはそれを否定し,さらに,「我はキリキヤなるタルソのユダヤ人,いやしからぬ市の市民なり」,と答えました。(使行 21:39)タルソの市民にとっても,あるいは外部の人々にとっても,この町は決していわれのない,いやしい町ではありませんでした。タルソは,商業界の重要な中心であったばかりでなく,有名な大学を持つ学問の中心でもありました。第1世紀のギリシャの地理学者ストラボは,自著「ジオグラフィー」(地理)の中で次のように書いています。「タルソの住民は,たんに哲学だけでなく,教育全般に対して実に熱心に専念し,アテネやアレクサンドリアなど,学校や哲学者の講義があったことで知られるどの町をもしのいだ」。また,タルソのことを,「偉大にして驚くべきキリキヤの中心」と呼んだ刻文も発掘されています。タルソで使用された硬貨の多くには,「タルソ市,第一にして,最も美わしく,最高の都」と刻まれていました。―「歴史と聖書」,380頁。「古代世界からの光」,255頁。「聖書は正しい」,24章。

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