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    ものみの塔 1958 | 3月1日
    • 12 それでは,なぜ『ヱホバ御自身,知恵によつて地の基を立てられた』と言うことができますか。知恵のよろこんだ事柄は,どのように人間の子らと共にあるようになりましたか。

      12 全く真実の意味で,『ヱホバ御自身,知恵によつて地の基を立てられた。』と言うことができます。彼は賢明な御子を『主要な働き手』として,側に置き,そうしたからです。このことは,後日のクリスチャン使徒ヨハネが,全創造はどのように存在するようになつたかについて述べていることと全く一致するものです。(ヨハネ 1:1-3)創造されたこの神の御子は,『われらの像のごとくにわれら人をつくり』とヱホバが彼に言われてからずつと後になつて,彼自身が人間になるということを,そのとき知りませんでした。彼が人間になられたのは,最初の人間が賢明でない行いをなし,ヱホバ神の簡明ないましめに罪を犯したために生じた恐ろしい結果から人類を買い戻すためです。それで,神の御子は,極めて特別な意味で次のことを示しました,すなわち,彼の言葉によると,『私のよろこんだものは,人間の子らと共にあつた。』地上にいた彼は,ソロモン王よりもはるかに賢明でした。そして忠実な使徒たちに向つて,地上の政治的な支配者の前で証言をしなければならぬとき『あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを,私が授ける』と言われました。(ルカ 21:15,新口)パウロと言われる使徒の一人は,この世の知恵やギリシヤ哲学の知恵と,神の知恵との間の相違を表わし示しています。彼はこう言つています。

      13 パウロは,コリント前書 1章20-30節で,この世の知恵と神の知恵の間の相違を,どのように述べていますか。

      13 『神は世の知恵を愚かにされたではないか。実に,神の知恵にあつて,この世はその知恵により,神を認めるに至らなかつた。神は伝道の愚かさによつて,信ずる者たちを救うのを良しとされた。ユダヤ人はしるしを求め,ギリシヤ人は知恵を求める。しかし,私たちは杭につけられたキリストを宣べ伝える。ユダヤ人にはつまづきとなり,諸国民には愚かなことであるが,召された者にとつては,ユダヤ人にもギリシヤ人にも,キリストは神の力,神の知恵なのである……これは,すべての人間が神の前にあつて誇ることのないためである。あなた方がキリスト・イエスにあるのは,神によるのである。キリストは,私たちにとつては神からの知恵となつた。』― コリント前 1:20-30,新世。

      14 私たちがいまキリストに従つて,倣うことはなぜ賢明な道ですか。彼を王として受けいれることは,なぜこの世の政治よりも賢明ですか。

      14 それですから,現代において私たちがキリストの弟子になり,キリストに倣うことは賢明な道です。『知恵と知識のすべての宝は,彼の中に注意深く隠されている。』それで,使徒パウロは次のように言葉をつづけて私たちを戒しめているのです,『哲学や,空しい欺きであなた方をとりこにしようとする人のいることに注意しなさい。それらは人の言伝えや,この世の初歩の事柄に従うのであつて,キリストに従うものではない。満ち満ちた神のごとき性質は,彼の中にみな宿つている。』(コロサイ 2:3,8,9,新世,欄外)あるいは,エッチ・ジェー・スコンフィールド著の『真正な新約聖書』(1955年)を引用すると,その聖句はこうです,『神のごとき知恵は,彼の中に非常に多く宿つている。』彼は神の知恵を体現された御方です。アダムの知恵のない行いから生じた死から私たちを救うために,神は彼を準備しました。私たちが彼を受け入れることは,生命にみちびきます。知恵の体現した知恵として,彼はこう述べています,『私を見出す者は,生命を必ず見出し,ヱホバからの善意を得る。しかし,私を見失う者は,彼の魂に悪を行つている。私を強く憎む者は,みな死を愛する者たちである。』(シンゲン 8:35,36,新世)栄光を受けたイエス・キリストをヱホバの新しい世の油注がれた王として受け入れることは,この世の政治よりも遙かに賢明なものです。彼はソロモン王よりも遙かに賢明だからです。天の御使たちも,彼に向つてこう言います,『ほふられた小羊こそは,力と,富と,知恵と,勢いと,ほまれと,栄光と,さんびとを受けるにふさわしい。』(黙示 5:11,12,新口)彼は新しい世の王の必要とするすべてのものを持つています。

      知識,知恵そして理解

      15 アダムは,知識を得るために禁ぜられた木の実を食べることはなぜ必要でありませんでしたか。彼は,不順従の故に何から脱落しましたか。

      15 ソロモン王は,シンゲンの中で知識と知恵と理解,すなわち分別について多く述べています。彼はそれらを次々に結びつけています。そのわけを見てみましよう。最初に知識です。それはヱホバ神から来ます。人類の最初の家であるエデンの園で,神は他の木々の中に『善悪を知るの木』を植えました。神は最初の人間アダムに,もし死を避けたいなら,この木の実を食べてはいけないと命じました。(創世 2:9,15-17)シンゲンの本や,聖書の他の本は,次のことを明白に示しています,すなわち全能の神ヱホバは,神御自身の時に善と悪の知識をアダムに与えることができ,アダムは神にそむいて善悪を知るの禁ぜられた木の実を食べる必要がなかつたのです。神に背いたアダムは,創造者の恐れから離れ去り,知識から脱落しました。シンゲン 1章7節(新世)もこう述べています,『ヱホバを恐れることは,知識の初まりである。』

      16 神はなぜ人間が無知に陥るのを欲しませんか。そのわけで,なぜソロモンは,彼の語る言葉に耳を傾けるよう私たちを強くすすめているのですか。

      16 神は人間を無知につくらず,又人間が無知に陥るのを欲しません。それは善い結果にならないからです。『また,知識のない魂は良くない。急ぎ足で行く者は,罪を犯す。』(シンゲン 19:2,新世)知識は,私たちが無知にも特定な道に急ぎ行き,そして神に対して罪を犯せしめることから私たちをひきとめます。『賢明な者は,知識をもつて行う。しかし,愚鈍な者は愚かさをひろめるであろう。』(シンゲン 13:16,新世)霊感の下にシンゲンを書いた人は,神の知識の益を知つています,そして知識を求めるすべての人々に,聖書の中で述べた彼の言葉に耳を傾けるようすすめています,『賢い者たちの言葉に耳を傾けて聞きなさい。それは,私の知識にあなたの心を適用し得る為である。』― シンゲン 22:17,新世。

      17 神は最初に何時知恵を行使しましたか。知恵とは何ですか。それで知恵は何を必要として用いますか。

      17 ヱホバ神は,御自分の賢明な御子を創造する以前の永遠の存在中,知識を持たれていました。彼は創造し始めたときに,その知識を働かせられました。そのときに彼は知恵を用いて,知恵を表わし示されたのです。知恵は働くものです。それは,知識を正しく用いる能力です。それは,知識を正しく行使して,良い結果を得ること,そして目的を達成することです。それは啓発をともなう行為を意味します。知恵は知識を必要とします。『賢明な者は,知識を貯える者である。しかし,愚か者の口は,滅びに近い。』知恵は知識を用います。『賢い者の舌は,知識をもつて善をなす。しかし,愚か者の口は愚かさを吐き出す。賢い者の唇は,知識をまき散らす,しかし愚鈍な者の心は,そのようではない。』― シンゲン 10:14; 15:2,7,新世。

      18 神が知恵を用いて最初の男と女の創造を終えたとき,彼は何を見ましたか。私たちが神の知恵をもつて行うためには,先ず何が必要ですか。

      18 ヱホバ神は,他のすべてのものを創造した際に,御自分の最初の子に体現化された知恵を用いました,そして主要な働き手としてそれを用いたのです。神は知恵を用いて最初の男と女の創造を終えたとき,『神そのつくりたるすべてのものを見たまいけるに,はなはだ善かりき。』(創世 1:31)知恵は人の活動に巧みな指示を与えます。ヱホバ神のすべての活動は,その知恵と能力の故に,ことごとく完全です。それで,知恵は単なる知識以上のもの,すなわち心の中に見聞を持つこと以上のものです。それは,知識の大いなる泉,ヱホバ神に誉と讚美をもたらし,その被造物に益をもたらす仕方で,その見聞を働かせることです。私たちが神の知恵をもつて行うためには,神からの知識をもつて行わねばなりません。そのわけで,私たちは神の言葉である聖書に行き,聖書を学んで知識を得ることは避けることのできないものです。聖書から知識を得ることは,生命を得る為に必要です。体現化された知恵は,父にこう語りました,『永遠の生命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,またあなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。』(ヨハネ 17:3,新口)そのとき,人は賢明になり,その人の唇と手は,生命を与える知識を他の人々にひろめることができます。

      19 (イ)知識と知恵以外に,何が欠くことのできない程必要ですか。(ロ)理解するために知識はなぜ必要ですか。しかし,理解そのものは何ですか。

      19 知識と知恵に加えて,理解は絶対に欠くことのできないものです。すなわち,神の理解は私たちに必要なものということです。私たちは,事柄や,出来事や,取り極めについての私たちの理解を押し通して,神の理解に反することはできません。『あなたのすべての心をこめてヱホバに依り頼みなさい。自分自身の理解に頼つてはならない。あなたのすべての道において彼を認めなさい。彼はあなたの道を正しくするであろう。自分自身の目に賢明であつてはならない。ヱホバを恐れて,悪から離れ去れ。』(シンゲン 3:5-7; 21:30,新世)私たちのすべての道において彼を認めるためには,私たちは彼の言われたこと,および為されたことについての知識を持つことにより,彼を知らねばなりません。私たちはこれを聖書の中に見出します。彼についての知識がないなら,私たちは真実の理解の益を楽しむことができません。『ヱホバを恐れることは,知恵の始まりであり,最高の聖者についての知識を持つことは,理解となる。』『悪しき者たちは,裁きを理解することができない。ヱホバを求めている者たちはすべてのことを理解し得る。』(シンゲン 9:10; 28:5,新世)それですから,理解とは結合した部分の中に或るものを見ること,1つのものの各部分を分けて,それぞれがなぜ互に属して行うかという理由を知ること,そしてこのすべてのことを,神との結びつきの中に見ることです。それは,神のことを常に心にとめる分別を意味します。それで,それは知恵以上のものです。知恵とは,知識を用いて目的を最善に果し得る能力と気質です。

      20 ヱホバは天を創造するに当つて,どのように理解を示しましたか。このことにおいて,なぜ彼は下等動物とは異る人間をつくりましたか。

      20 ヱホバ神は,私たちの目に見えるすばらしい天を創造するに当つて,理解を用いると共に,理解を示しました。ヱホバ神は,その最初から天のすべての部分,およびそれらの部分の互いの関係,そしてそれらが互いに働いてお互いに生ずる結果というものを知つておられ,また識別いたしました。それらが地上の被造物にどんな影響をもたらすか,ということも重要であり,ヱホバ神はそのことを識別して予じめに知つて居られました。彼は『知恵をもてもろもろの天をつくり給えるもの……地を水の上に布き給える者……大いなる光をつくり給える者……昼をつかさどらするために日をつくり給える者……夜をつかさどらするために月ともろもろの星とをつくり給える者』です。(詩 136:5-9)『ヱホバはその力をもて地をつくり,その知恵をもて世界を建て,そのさとりをもて天を伸べ給えり。』(エレミヤ 10:12)彼は,地上の下等動物とは異なる人間を創造しました。つまり,理解する能力と理解したいという欲望を人間に与えたのです。人間は生きつづけるためには,自分の創造主との関係を理解しなけばれなりませんでした。

      21 理解を持つ人は,なぜ神の言葉に行きますか。なぜ彼は知恵と密接な接触を保つのですか。

      21 理解する為には,私たちは明白なまぼろしを持つ心によつて,何を求めているかを知らねばなりません。『理解の心は,知識を求めるものである。しかし,愚か者の口は愚かさを強く切望する。』理解が知識を求めることは報われます,『理解を持つ者の心は,知識を得る。賢明な者の耳は,知識を探し求める。』理解を持つ心は,真の知識の源を見て,神と人間との関係および人間は万事において神に依存していることを認めます。それで,そのような心は肝要な知識を得る為に神の御言葉に頼ります。そして,神はそのような心に洞察を与えて,御自分の御言葉の意味を知らせます,『賢明な者に洞察を与えるならば,彼は知識を得る。』(シンゲン 15:14; 18:15; 21:11,新世)理解を持つ人は,神の言葉と業,およびこれらの背後にある目的に関連するすべての事の知識を切望します。しかし,それだけでなく知恵と密接な接触を保ちます。神と一致するその知識を用いる為の能力と叡知を得るためです。彼は知恵を自分の前に密接に保ちます。『理解ある者の前には,知恵がある。しかし,愚か者の目は,地の果にある。』(シンゲン 17:24,新世)愚か者がどんな分別を持つていようと,また示そうと,彼の目は地の果にあるものと同じようなものです。

      22 愚か者は,理解を持つ人とどのように違いますか。ソロモン王は,知恵を持つていたにもかかわらず,どのように愚か者に転じましたか。

      22 愚か者は,神を心に考えもせずまた念頭に置きません。しかし,理解を持つ人は神を念頭に置きます。彼は賢明にもヱホバを恐れるだけでなく,理解を有しています。彼はその敬虔な恐れと一致した行いをしています。神御自身も次のように言われました,『見よ! エホバを恐れることは知恵であり,悪から離れることは理解である。』(ヨブ 28:28,新世)理解を持つ人は,こらしめを拒絶して,それから嘲けるというようなことをしません,『あなたは嘲ける者を打たねばならない。未経験な者が物分りに早くなるためである。理解を持つ者を叱らねばならない。彼が知識を見分け得る為である。』(シンゲン 19:25,新世)理解を持つ人には,単なる叱責だけで十分です。強く打つことは必要でありません。彼は知恵を持つていますが,それにも拘らず無思慮な悪い行いをします。その理由の故に,時折りこらしめを与えて理解にひき戻すこがと必要です。老年になつてからこりかたまつたソロモン王は,こらしめに注意を払いませんでした。彼は神から知恵を頂いたにもかかわらず,愚か者に転じました。なぜ? なぜなら,彼は理解を棄てたからです。どのように? 彼はヱホバ神との間の関係についてのまぼろしと鋭い感覚を鈍くさせました,彼は獣のようになつたのです。『尊貴なかにありて悟らざる人は,ほろび失する獣のごとし。』― 詩 49:20。

      23 それで,ソロモンは何をした時に理解を失いましたか。私たちは彼が離れた大きな知恵をどのように認識することができますか。

      23 ソロモンは,ヱホバとの関係を棄てて他の神々,すなわち彼が結婚していた多数の異教の妻の神々と結びつくようになつたとき,理解を失いました。『ソロモンの心転りてイスラエルの神ヱホバを離れしによりてヱホバ彼を怒り給う。ヱホバかつて再び彼に現われ,このことについて彼に他の神に従うべからずと命じ給いけるに彼ヱホバの命じ給いし事を守らざりしなり。』(列王紀略上 11:9,10)ソロモンは大きな知恵を持つていましたが,その知恵から離れて神の不興の中に死んでしまいました。しかし,彼がヱホバの証者の一人として霊感の下に書いたソロモンの書を開くとき,私たちはその大きな知恵を認識することができます。

      24 なぜ私たちは,神の事柄をけつして嘲つてはなりませんか。知識や,知恵や,理解を,なぜ私たちの一部にしようと努めますか。

      24 神の事柄を嘲けるようなことは,決してあつてはなりません。真の神についての生命を与える知識は,そのようにしては決して得られないでしよう。神との創造的な結びつき,および神に全く依存していることを理解する人は,神を容易に知ります。『嘲ける者が知恵を見出そうと努めても,知恵は一つもない。しかし,理解のある人にとつては,知識は容易なものである。』(シンゲン 14:6,新世)知識や,知恵や,理解は互に保たれねばなりません,そしてそれら3つのものは生命と正しい行に必要なものです。そのことを悟る私たちは,それらのものを私たちから切り離すことのできないものにしようと努めます。私たちはそれらのものを私たちの親族,私たちの霊的な家族の一員にします,『知恵にむかつて,「あなたは私の姉妹」と言いなさい,そして,理解をば「近親」と呼びなさい。』― シングン 7:4,新世。

  • 知恵によつて心を守る
    ものみの塔 1958 | 3月1日
    • 知恵によつて心を守る

      1 この現代において,肉体的と霊的の両方で何を守ることが大切ですか。

      現代の医学の研究や進歩にもかかわらず,心臓の病気は一番大ぜいの人を殺しています。正しい状態下にある心臓は,永久に鼓動しつづけて生命を支える血液を体内に送り出すことができます。肉体的な面だけでなく,むしろ霊的な面において心を守ることは遙かに重要です。そして,心の働きをなさせるために心を良い状態に保つことは重要です。

      2 (イ)どのような面でソロモンは自分の心を守らず,神なるヱホバにその心を全く向けませんでしたか。(ロ)私たちは何をつくして神を愛するように忠告されますか。従つてこれに対して何をすることが要求されていますか。

      2 ソロモンは,霊的な面と肉体的な面の両方における心について,シンゲンの中で多くのことを語つていました。実際のところ,31の章の中で心という言葉は94回も述べられているのです。ソロモン王は霊的に言つて,自分の心を守りませんでした。彼は自分自身の助言をないがしろにしたのです,『私の子よ,私の言葉に注意を払いなさい。私の語ることに耳を傾けなさい。それらをあなたの目から離してはならない。それらをあなたの心の中に保ちなさい。それらを見出す者には生命であり,その全身を健康にするのである。守るべきすべてのものにまさつて,あなたの心を守れ。生命の源はそこから流れ出るからである。』(シンゲン 4:20-23,新世)ソロモン王は,崇拝を受けるにふさわしい唯一つの神ヱホバに愛を保ちつづけなかつたのです。創造主は専心の献身を求める神であるという事実を彼は見失つたのです。それで,ソロモンは神なるヱホバに心を全く保ちつづけませんでした。心は愛情の中心です。それで私たちの愛情の対象は,極めて大切なものです。私たちは,すべての心を傾けて神なるヱホバを愛するように命ぜられています。彼は永遠から永遠までの唯一つの神であり,彼に対する被造物の愛で,いかなる敵対をも許さないからです。(出エジプト 20:4,5)私たちは,自分自身のごとく隣人を愛することができ,また愛さねばなりません。しかし,隣人の中からでも,または他のどんな者からでも,神をつくり出すようなことがあつては決してなりません。敵対の神または神性に愛を注ぐことは,魂なる私たちがヱホバの御手から死を受けることを意味します。ヱホバは生命の泉です。それですから,守るべき他のいかなるものにまして私たちの心を守ることは全く重要なものです!

      3 (イ)私たちの魂を愛するとは,どういう意味ですか。(ロ)『心を得る』という表現は,何を意味しますか。それで,善を見出すために私たちは何を見定めねばなりませんか。

      3 シンゲン 19章8節(新世)は,生命を魂として語つて,こう述べています,『心を得る者は,自分自身の魂を愛している。分別を守る人は,善を見出す。』自分自身の魂を愛するとは,幸福の中に永久に生きたいと欲することを意味します。現在の私たちの生命,そして特に神の新しい世における私たちの生命に対して,私たちの愛を示すという意味です。しかし,現在私たちの魂を生きつづけさせるために,私たちはすでに心を持つています。それでは,『心を得る』という表現は何を意味しますか。ここのところの『心』は,ヘブル語聖書新世訳(英文)の下欄にもあるごとく,『良い動機』という意味を持つています。心は愛情だけの中心ではなく,動機の中心だからです。愛情は人をして行為をなさしめます。『愚かなること子の心に結ばる』という格言もあります。それで,私たちは次のことを知ります,すなわち人間の心は若い時から悪に走る傾向があり,愛情を悪く置くことによつて悪い衝動を持つ傾向があるのです。それで,私たちの動機を清く

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