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世界展望目ざめよ! 1974 | 2月22日
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人たちの多くにとっては存在しなくなっている。それゆえ,彼らはわざわざ教会に行くことなどしない。『教会に行かせる隣人からの社会的圧力がなくなった』ことは,この調査を受けたテキサス州サンアントニオ近郊の住民の半数近くが,教会に行くことをやめた理由である。サンアントニオ・イクスプレス・アンド・ニューズ紙によると,「教会を放れる原因として最もしばしば指摘されている点は,キリスト教に対する真の信仰の欠如である」。
国連加盟国
◆ 国連は,‘国際’機構たるべきその目標にどれほど近づいているだろうか。昨年の9月末には,加盟国は135か国であった。どんな国がまだ未加盟だろうか。アンドラ,リヒテンシュタイン,ナウル,サンマリノ,中華民国,トンガ,バチカン市国,西サモア,および南北両ベトナムがまだ加盟していない。バングラデシュはまもなく加盟するものと思われる。スイスは,自国の中立性ゆえに加盟することはできないと主張している。韓国および北朝鮮は加盟国ではないが,「オブザーバー」として招かれている。
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聖書の第四十一番めの本 ― マルコによる書目ざめよ! 1974 | 2月22日
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『聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です』
聖書の第四十一番めの本 ― マルコによる書
筆者: マルコ
書かれた場所: ローマ
書き終えられた時期: 西暦60-65年ごろ
含まれている時代: 西暦29-33年
1 マルコとその家族に関してどんなことが知られていますか。
イエスがゲッセマネで捕縛され,使徒たちが逃げて行った時,「裸の体にりっぱな亜麻布の衣を着けたある若者」がイエスのあとについて行きました。群衆がその若者をも捕えようとした時,「彼は亜麻布の衣をあとに残して,裸のまま逃げて行」きました。この若者とはマルコのことであると一般に信じられています。彼は,「使徒たちの活働」の中では,「またの名をマルコというヨハネ」として描かれており,エルサレム内の恵まれた家庭の人であったと考えられます。その家族は自分の家としもべたちとを有していたからです。彼の母マリアもクリスチャンであり,初期の会衆は彼女の家を集会場所として用いました。み使いによって獄から救出された時,ペテロはこの家に行き,そこに集まっていた兄弟たちに会いました。―マルコ 14:51,52。使徒 12:12,13。
2,3 (イ)マルコが宣教者奉仕に入るうえでどんなことが彼の鼓舞となったに違いありませんか。(ロ)彼は他の宣教者,特にペテロやパウロとどのような交わりを持ちましたか。
2 キプロス出のレビ人であり,宣教者であったバルナバはマルコのいとこでした。(使徒 4:36。コロサイ 4:10)飢きんの救援のためにバルナバがパウロとともにエルサレムに来たおり,マルコもパウロと知り合うようになりました。こうした会衆での交わりや,そこを訪ねた熱心な奉仕者たちとの交わりが,マルコの心に,宣教者奉仕に入りたいとの願いを吹き込んだに違いありません。こうしてわたしたちは,パウロとバルナバの第一回めの宣教旅行のさいにマルコが彼らの仲間また従者となっているのを見ます。しかし,なんらかの理由で,マルコはパンフリアのペルガで彼らを離れてエルサレムに帰りました。(使徒 11:29,30; 12:25; 13:5,13)このことのために,パウロは二回めの宣教旅行のさいにマルコを連れて行くことを拒み,それがパウロとバルナバの離別の理由となりました。パウロはシラスを伴い,一方バルナバは自分のいとこマルコを連れ,彼とともに船でキプロスに向かいました。―使徒 15:36-41。
3 マルコは宣教奉仕において自分の働きを示し,バルナバだけでなく,のちにはペテロやパウロに対しても有用な助け手となりました。マルコは,西暦60年ごろ,パウロのローマにおける最初の投獄のあいだ彼とともにいました。(フィレモン 1,24)その後,西暦62年から64年ごろに,マルコはバビロンでペテロとともにいます。(ペテロ第一 5:13)パウロは,おそらく65年ごろに再びローマにおいて囚人となり,テモテにあてた手紙の中で,マルコを連れて来るように,「彼は奉仕のためにわたしの助けになるから」と述べています。(テモテ第二 1:8; 4:11)聖書の記録の中で,マルコに対する言及はこれが最後です。
4-6 (イ)マルコは自分の福音書に記述した詳細な事項をどこから得ましたか。(ロ)彼がペテロと親密な交わりを有していたことはどんな点に示されていますか。(ハ)この福音書にはペテロの性格が反映されていますが,その例を幾つか挙げなさい。
4 いちばん短い福音書の作成はこのマルコに帰せられています。彼はイエスの使徒たちの同労者であり,良いたよりに関する奉仕のために自分の命をささげた人でした。マルコは十二使徒のひとりではなく,また,イエスの直接の仲間でもありませんでした。イエスの宣教活働に関する彼の記述は終始生彩に富んでいますが,彼は詳細な事項を何から知ったのでしょうか。パピアス,イレナエウス,オリゲネス,テルツリアヌスなど,ごく初期の人々からの伝承によると,マルコの資料の源は,彼が密接な交わりを持ったペテロでした。ペテロは彼のことを「わたしの子」と呼んでいないでしょう
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