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  • 自由は長続きしたか
    目ざめよ! 1976 | 9月22日
    • 自由は長続きしたか

      独立宣言が1776年に発せられて以来,人間の政府に関して,類例をみない大規模な実験が行なわれてきました。それは近代的な民主主義の実験です。当時,他の国々の大半は,王制あるいはその他の形の独裁政体の下に置かれていました。

      しかし米国では,宿願の自由を守れるのは『人民の同意を得た政府』だけである,と考えられていました。そうした自由の中には,言論,信教,出版,および集会の自由などが含まれます。

      そのような自由は,「譲ることのできない権利」であると宣言されました。そして,1787年,そうした権利は,米国の基礎ともなる公式文書,すなわち合衆国憲法の中に組み込まれました。

      記録は何を示しているか

      言明された理想の真価は,それがどれほど実行されるかによって明らかになります。崇高な言葉を文書に著わすことはそれほど難しくはありません。しかし,それを守るとなると,別問題です。

      この点に関する歴史の記録には矛盾するものがあります。多くの場合,言明された自由は,かなりよく守られてきました。しかし一方,基本的な自由の乱用や軽視が悲惨な結果を招いた場合もありました。

      良い面を取り上げれば,言論,信教,出版,および集会の自由にかかわる基本的な理念は,おおかた守られてきました。しかし時としてそれを守ることは,憲法の定める自由を確保するための,法廷での難しい闘争を意味しました。

      闘争

      信教の自由を行使しようとする際,少数者の信仰が圧迫を受けたことがありました。例えば,1930年代の後半から1940年代の前半にかけて,米国ではエホバの証人が迫害されました。暴徒たちだけでなく,偏見を持った特定の役人も,彼らの憲法上の権利を認めようとしませんでした。

      その結果,エホバの証人は,米国の最高裁判所に数多くの訴訟を持ち込まねばなりませんでした。喜ぶべきことに,同最高裁判所の判決は,圧制的な勢力を次々に敗退させました。信教の自由は擁護されたのです。

      エホバの証人の世界本部は米国に置かれているため,そうした自由は,エホバの証人の世界的な宣べ伝える業に確かに益を及ぼしてきました。そして,憲法の保証する,信教,集会,言論,および出版の基本的な自由は,米国内のすべての宗教団体にとって重要なものであったことに疑問の余地はありません。

      こうした状況は他の国々と著しい対照をなしています。この点は,ヒトラー支配下のドイツで,そうした宣べ伝える業がどのように抑圧されたかを考えるだけでも分かります。また,今日,神を自由に崇拝することが禁じられている他の多くの独裁主義国と同様,共産主義の国々でもそのような業を公に行なうことはできません。

      このように,人々の求める基本的な自由を守るため,幾多の熾烈な闘争が繰り返されてきました。そして,現在でも米国では,そのような闘争が依然として行なわれているのです。

      自由がないよりはまし

      自由が乱用されてもそれを耐えるほうが,自由の全然ないよりはましです。アメリカ建国200年祭の祝いがその良い例です。建国200年にちなんで,品位ある仕方で集まった団体も少なくはありませんが,この機会を利己的な目的のために利用した団体もあります。

      USニューズ・アンド・ワールド・リポート誌はこう述べています。「もし一人一人がよく注意しないなら,今年はアメリカの押売り200周年記念として記憶に残るだろう。建国200年祭で一もうけしようとする大騒ぎの中には,あきれるほど大掛かりなものもある」。

      同ニュース誌は,買おうと思えば,建国200年を記念した,「Tシャツ,氷入れ,ジョン・ハンコックの椅子の複製,元々のインディペンデンス・ホールの建材の切れ端,ジョージ・ワシントンのピストルの複製,建国200年記念ボールペン,赤,白,青の便座,および自由の鐘の描かれているごみ袋など」の品物が手に入ることを伝えています。

      ウォール・ストリート・ジャーナル紙もこう論評しています。「悲しいことではあるが,建国200年祭は,関係のないものまで引き寄せてしまった……それは愛国色で飾られた俗悪な商業主義である」。

      建国200年祭は,観光客を由緒ある土地に引き寄せました。しかし,観光客がその土地の住民の権利を尊重しないようなこともありました。例えばフィラデルフィア市の近辺では,観光客が群れをなして歴史的な街路をかっ歩し,個人の家の窓をのぞき込んだり,歩道や街路にごみを散らしたりしました。

      がまんできなくなった一人の婦人は,物見高い観光客を寄せ付けない方法をついに見いだしたと語りました。その婦人は,昔の出来事を再現し,植民地時代の先祖のある者たちがしたような方法でごみを処分するようになったと述べています。つまり二階の窓からごみを放り出すようにしたのです。彼女は,「これでも観光客を追い払えないなら,ほかに打つ手はないわ」と言いました。

      中には,建国200年祭を祝うために,特定の色の服を着たり,特定な身繕いをするよう使用人に要求するところもありました。しかし,そうしたことを人々に無理やりさせようとすることは,建国200年祭が記念しているはずの自由そのものに反する行為となります。

      もちろん,自由の乱用が許し難いほどのものになれば,国の法廷に訴えるという道があります。そうした法廷には,憲法上の自由を守る責務があります。しかしここでも,自由が全くないよりは,自由が乱用されるほうがましである,と言えます。

      同国の多くの人々は,基本的な自由を享受してきました。それは事実です。しかし,ある人々にとって,独立宣言や憲法にうたわれている崇高な自由の理想は,極めてうつろな響きしか持っていませんでした。だれにとって,そしてどのようにですか。

  • 過去に存在した痛ましい問題
    目ざめよ! 1976 | 9月22日
    • 過去に存在した痛ましい問題

      独立宣言や憲法にうたわれている約束された自由を守ることには,深刻な問題が伴いました。そうした問題の中には,極めて痛ましいもの,そしてある歴史家の目から見れば米国史に悲劇的な汚点を残したものもあります。

      ある人の意見によれば,アメリカ人の大半は,建国200年祭の間,自国の歴史に関する体裁をよくした改訂版を与えられてきました。その人はこう述べています。「要するに,それ以外にも語られねばならない真実の他の面があるということです」。200年におよぶ歴史を正直に評価するには,そのような真実をも含めて考えねばなりません。

      その一つは,1776年7月4日に宣せられた自由と関係があります。独立宣言はこう述べていました。「すべての人は生まれながらにして平等であり,譲ることのできない一定の権利を創造者から与えられているが,その中には生命,自由,および幸福の追求が含まれている」。合衆国憲法は,言論,集会,出版,および信教などの基本的な自由を保証していました。憲法修正第4条もこう述べています。「不当な捜査および差し押さえを受けずに,身体,家屋,文書,および財産の安全を図る,人民の権利は,これを犯してはならない」。

      これらは崇高な原則です。そして,こうした原則は大勢の人々のために,かなりの程度まで守られてきました。しかし,歴史家の示すところによれば,そのことはすべての人について言えるわけではありません。

      暴力的であった過去

      例えば,ヨーロッパの植民者が後に米国となった土地に入植した際,これらの優れた原則のほとんどすべてが踏みにじられました。ヨーロッパ人の植民者は,自分たちのためにそうした理想を求めましたが,自分たちよりもずっと前からその地に住んでいた人々にはそうした権利を認めませんでした。

      『身体および家屋の安全を図り,捜査および差し押さえを受けない,という人民の権利』は,植民者よりも幾世紀も前からその地に住んでいたインディアンには適用されませんでした。インディアンの住民の大半がひどく圧迫されたというのは歴史上の事実です。彼らの土地や家は没収され,多くの人が殺されて人口の少なくなった部族は特別保留地に追いやられました。その上,すべての州でインディアンに選挙権が与えられるようになったのは,何と1948年になってからのことです。

      確かにインディアンは,“野蛮人”とみなされてきました。実際に彼らは,互いに戦い合い,一部族が他の部族を征服するようなことをしてきました。また,白人に激しく抵抗しました。しかし,もし1861年から1865年までの南北戦争の期間中,外国の勢力が北部と南部の間の“部族間戦争”を“野蛮である”とし,国を教化するために米国に侵入したとすれば,アメリカ人は武力をもって,インディアンと同じほど野蛮な仕方でそれに抵抗したのではないだろうか,という疑問が起きるかもしれません。

      今日,インディアンの代表者の中には,依然として非常に苦々しい気持ちを抱いている人もいます。アメリカ・インディアン運動の一指導者バーノン・ベレコートはこう論じています。『アメリカ人は,自分たちの政府の200年の歴史を,偽りと恥辱の200年とみなすべきである』。彼は,アメリカのインディアンは建国200年祭を祝うべきではないと言明しています。それは,『白人の入植者がアメリカ原住民の主権と土地を奪い始めて以来……我々には何ら祝うべきことはない』からです。

      暴力的であった,アメリカの過去は,現在にまで影響を及ぼしていると考える権威者もいます。デンバー・ポスト紙はこう述べています。「最も重大な点と思われるのは,アメリカ社会の本質に関する疑問である。それは開拓者の時代以来,多大の暴力を伴ってきた。幾世紀にも及ぶ,アメリカのインディアンに対する“戦争”そのものは,恐るべき仕方でそうした状態への条件を作っていった。ヨーロッパ人は侵略者としてやって来て,往々にして戦いによって他人の土地を取り上げ,その人々の社会を破壊していった。こうした暴力的要素は後を絶たなかった」。

      アメリカの過去には,苦痛をもたらし,汚点を残した,もう一つの出来事があります。それは奴隷制度と関係があります。

      奴隷が必要とされた理由

      初期の入植者たちがインディアンの土地を取り上げたとき,彼らは自分たちが豊かな可能性を秘めた広大な土地を所有していることに気付きました。南部植民地の気候と土壌は,たばこ,米,砂糖きび,そして綿花などを栽培するのに適していました。

      しかし,そうした広大な土地で,一体だれがすべての仕事を行なうのでしょうか。比較的少数であったヨーロッパ人だけでは,十分ではありませんでした。また仕事も,その性質上余り望ましいものではありませんでした。どんな解決策がありますか。アフリカからさらわれて来た黒人奴隷です。

      「すべての人は生まれながらにして平等であり」,すべての人が「生命,自由,および幸福の追求」という『譲ることのできない権利』そして「不当な捜査および差し押さえ」からの自由を有するとの原則に基づく国が,どうして奴隷制を黙認できたのか不思議に思う人は少なくありません。独立宣言の中に記された苦情の一つは,英国が,『王のための徴用と称して,強制的に市民を捕らえた』ことでした。ところが,そうした崇高な言葉を書き記した人々自身,黒人を捕らえて無理やりに奴隷とすることを黙認していたのです。

      この問題は,すべての人間の中に利己的な欲望がどれほど根強いかを示しています。そして,他の人々を犠牲にしてまで,多額の金銭を手に入れようとするのも,そうした欲望の一つの表われです。昔アメリカでは,大抵そうした欲望のほうが崇高な原則よりも力のあることが示されてきました。それは今日でも全く同じです。

      もちろん,奴隷制は1776年に始まったわけではありません。最初の黒人奴隷がアメリカの土を踏んだのは,それよりも約150年前ジェームズタウンでのことでした。しかし,1776年に独立宣言が出されたころまでに,260万人の人口のうち,黒人は約50万人を数え,しかも黒人の九割有余は,南部に住んでいました。

      独立宣言を起草したトマス・ジェファーソンは,年若い弁護士であったころ,奴隷制に反対していました。しかし,彼自身は奴隷を所有していました。この点に関して,エボニー誌はこう述べています。「奴隷制の恩恵に浴しながら,なおかつそのようなことができたのは,当時の若くて利発な革命家たちの特徴であった」。史料によると,ジェファーソンは,バージニアにある幾千エーカーもの所有地,モンテセロで,200人余りの奴隷を使っていました。

      パトリック・ヘンリーは,奴隷制に反感を抱いていると言いながらも,こう述べています。「わたしは,自分で買った奴隷を所有している」。奴隷を持つ理由は,彼が続いて述べた言葉から分かるかもしれません。「この土地で奴隷のいない生活は,概して不便である」。

      二年後,パトリック・ヘンリーは,英国のなわめから解放されることに関して,有名な演説をし,こう言明しました。「我に自由を与えよ,しからずんば死を」。大勢の黒人の奴隷たちも,同様の感情を抱いていたに違いありません。

      遂に廃止される

      奴隷制に関する論争は高まり,自由の闘士を自認する国において,奴隷制が根本的に不当なものであることに気付いた人は少なくありませんでした。

      イエス・キリストの追随者であると唱える,アメリカ人の多くは,仲間の人間を一生涯奴隷にすることと,イエスの有名な「黄金律」とを調和させるのは困難であると感じました。「黄金律」はこう述べています。「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」― マタイ 7:12。

      1861年に南北戦争が起きたころ,米国には34の州があり,そのうちの15州は奴隷州でした。その中の11州は連邦から脱退し,南部盟邦を形成しました。奴隷州の中でも4州は北側に付きました。

      1863年,大統領であったアブラハム・リンカーンは奴隷解放宣言を行ないました。それは,南部盟邦諸州にいる奴隷は自由であるとみなされることを宣言したものです。しかし,すべての州で奴隷制が法的に完全に廃止されたのは,憲法修正第13条が批准された1865年になってからのことです。

      1870年の修正15条は,黒人に選挙権を賦与しました。しかし,そうした権利は多くの黒人にとってほとんど無意味でした。例えば,州によっては,人頭税を要求するところがあり,その税金を支払わなければ選挙はできませんでした。もちろん,貧しい黒人,さらには貧しい白人も,大抵そうした税金を支払うことはできませんでした。1964年に修正24条が採択されて初めて,国政レベルの選挙に人頭税の支払いによる制限を設けることが禁じられました。そして,1966年に,最高裁判所は,すべての選挙に関してそのような税金による制限を設けることを違法としました。

      また,読み書きの能力検査に合格した人だけに,選挙権を与えていた州も少なくありませんでした。多くの黒人,そして白人も,そのような検査に合格しませんでした。投票資格としてそうした検査を課すことを政府が禁じたのは,1970年になってからのことです。

      奴隷制が認められていた350年余りにわたってなされた不当な仕打ちは,アメリカの歴史に深いきず跡を残しました。今日に至るまで,同国は,その影響すべてから抜け切ってはいません。

      ある婦人たちの異論

      数多くの婦人たちは,国の誕生当初宣言された自由が,自分たちに長い間与えられなかった分野があると唱えています。そうした婦人たちは,ほとんど一世紀半もの間,婦人に選挙権が与えられなかった事実を指摘します。

      そうした婦人たちは,もしリンカーンの述べたとおり,同国が「人民の,人民による,人民のための政府」を有しているとすれば,そのような形態の民主政治は婦人の選挙権を認めて然るべきである,と論じました。それを認めないなら,建国の父たちの意味していた権利を,全住民,すなわち「人民」の半分から奪うことになるのです。やがて政府もその主張を認め,1920年に婦人に選挙権を与えました。

      それに加えて,自分たちが雇用者から男性と同等の配慮と待遇を受けておらず,自分独りで家族を養っている場合でも,同じ仕事に対して同じ額の手当てを与えられないと言う婦人もいます。一人の婦人は,婦人の雇用状態について「最後に採用され,最初に首を切られる」場合が多いと述べています。

      もちろん,米国内のすべての婦人がそのような考え方に同調しているわけではありません。しかし大抵の女性は,労働上の酷使や不公平から婦人を守る法律のお陰で実現した,労働条件の向上を歓迎しています。

      ですから,過去200年間の自由の歩みは,一貫したものではありませんでした。その歩みは,ある人々にとって高度の自由を意味し,それは感謝され,大切にされてきました。しかし,他の人々にとって,程度の差こそあれ,圧制があったことは否定できません。そして,これまでに過去の不当な仕打ちの多くが正されてきたとはいえ,それらの不当な仕打ちの悪い実は,依然としてこの国に影響を及ぼしているのです。

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