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“ヨーロッパ合衆国”,正しい方向への前進?目ざめよ! 1979 | 5月22日
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対する関心を募らせ,自分が選挙民に対して責任を持っているという事実を議員たちに印象付けるだろう,と考えています。いずれにせよ,選挙が行なわれるなら,その時,“ヨーロッパ合衆国”を目指す前進力にはずみが付くことになるでしょう。
論議の的になっている別の段階は,共同市場を拡大して,スペイン,ポルトガル,そしてギリシャを含めることと関係しています。中には,そうすることが同盟を弱める結果になりかねない,と懸念を示す人もいます。スペインのファン・カルロス国王がその即位演説の中で,『スペイン人抜きのヨーロッパは,画竜点睛を欠く』と述べたものの,この考えを押し進める点では双方に幾らかのためらいがあります。共同市場内でもすでに失業率が不快なほど高くなっているので,現在の加盟国は自国よりもさらに大きな失業問題を抱える国々の加盟にためらいを覚えるのです。中には10年間の交渉期間を置くという前提で話す人もいますが,それはより早い進歩を望む人に受け入れられないことは容易に理解できます。
多くの人は,欧州共同体(EC)の拡大が欧州の統一を促進するよりも,むしろ妨げになると考えているようです。ザ・オブザーバー誌上の一記事の中で,ジョン・コールはその点を次のように言い表わしました。「拡大はまた,ヨーロッパ連邦への希望 ― あるいは恐れ ―,そして経済および通貨の統一を早期に実現するいかなる可能性をも,長年にわたって放棄することを意味しかねない」。
進展を阻む他の障壁
確かに,国家主義は真の一致を阻む最大の障壁となっています。政治上対等の国々が相互の通商上の恩典のために協力することと,自国の国家主権を,たとえその一部分であっても譲り渡すことは別問題です。事実,数多くの同盟は,国家主権を尊重し,いかなる場合にもそれを侵害しないという理解に基づいて ― 場合によってはそれを条件にして ― 結ばれてきました。歴史の示すところによれば,国家や支配者が自分たちの主権を進んで他者に譲り渡すようなことはめったに見られません。
共通のイデオロギーに基づく似たような形態の政府を有する国々でさえ,単一の政府の下に統合されることに特に関心を示すわけではありません。例えば,ソ連と中国は各々独自の型の共産主義を発展させることさえしました。英国と米国は,列強の間にこれまで存在した中で最も親密な関係を享受してきたと言えるでしょう。それでも,両国を政治的に統合し,その結果,“英国大統領”あるいは“米国女王”のいずれかが登場するような計画が異議もなく,即座に承認されるなどと期待できるでしょうか。
政治上の統一を達成できれば,それは世界の統一を促進する上で大いに役立つに違いありません。しかし,政治上の統一は国家主義を除き去ることを意味しますが,国家主義はそう簡単になくなるものではありません。
もう一つの点は,統一の基礎として,すべての人が認め,またすべての人が例外なく服する共通の法律がなければならないということです。しかし,共通の法律は,単一の行動規準と倫理上の信念があってはじめて存在するものです。人々や国家が自分たちの規準を作り続け,“自分勝手なことを行なって”ゆくかぎり,果たしてひとつの世界は実現するでしょうか。同じような信念や行動規準のこうした欠如は,すべての人の服する共通の法律の作成を極めて難しいものにします。すべての人が進んで服する,そのような規準を作るのに必要とされる権威と知恵をだれが持ち合わせているでしょうか。
1978年の2月にブリュッセルで演説した英国の外相,オーエン博士は,ある人々が依然として主張している「十分に発達した連邦制度」について次のように語りました。「[それは]気高い目標ではあるが,我々英国人の大半にとって非現実的であり,ある者にとっては神話同然である。政治,社会,そして文化の伝統の非常に異なる九か国が……現実的な範囲でどれほどの期間政治活動に集中したところで,どのように連邦として結合できるようになるのか,我々には現実的なこととして理解できない」。
ドイツの月刊誌ウンゼレ・アルバイト(私たちの仕事)は,「明日のヨーロッパ」と題する記事の中で次のように述べています。「自らの立法府,政府,中央銀行,および主権国家の象徴すべてを備えたヨーロッパ連邦への道は,険しく,障害物が実に多い。連邦化への出発点である共同市場でさえ,……苦情なしには機能しない」。
タイム誌は,誕生後20年を経た共同体を,「成熟した大人というよりは,発育不全の青年」と呼び,さらにこう付け加えています。「本当の意味での欧州統合への一層の進歩は,この偉大な実験の始まった当初よりも今日のほうが捕らえ所のないものになっている。加盟各国は,いまだに,国益があると思えば,ためらうことなく共同体の諸機関を無視する」。
ですから,進展は見られるものの,西欧諸国のこの計画の前途に横たわる問題は,依然として並大抵のものではないようです。それらの諸問題は,国際連合機構が世界的な規模で直面している諸問題と多くの点で似通っています。では,しばらくの間国際連合に注意を向け,それが世界をひとつにする点で果たして成功したかどうか調べてみましょう。
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国連は解決策を持つか目ざめよ! 1979 | 5月22日
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国連は解決策を持つか
国連は破れを防げるか
フランス
中国
ソビエト
イギリス
アメリカ
テロ
国家主義
利己心
憎悪
麻薬
犯罪
戦争
印刷業に誤植は禁物です。国際連合(United Nations)に関する,数年前の英字新聞記事の中で,“連合”に相当する“United”の“i”と“t”がたまたま入れ換わっていたことがあります。結果としてその記事は,United Nationsについて語る代わりに,Untied Nations(国際分裂)に言及することになってしまいました。
もちろん,ひょうきんな人は,この誤りを少しも誤っていないとしてうまく言い逃れるかもしれません。設立されてから30年余りたっても国連は依然として存在してはいますが,国々が相互の関心事や努力の点で結ばれている,つまり連合しているというよりも,各国が独自の道を歩み,自国の利益を求め,“分裂”していたような時もありました。
賞賛に値する目標
国際連合機構の目標は賞賛に値します。国連憲章によると「国際連合の目的」は,「国際的平和及び安全を維持すること」にあります。
国連憲章の第55条は次のように述べています。「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の平和的且つ友好的関係に必要な安定及び福祉の条件を創造するために,国際連合は,次のことを促進しなければならない。a)一層高い生活水準,完全雇用並びに経済的及び社会的進歩及び発展の条件。b)経済的,社会的及び保健的国際問題と関係国際問題の解決並びに文化的及び教育的国際協力。c)人種,性,言語又は宗教による差別のないすべての者のための人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守」。
立派な目標ではありますが,それはどの程度まで達成されているでしょうか。どの程度まで達成できるのでしょうか。フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙の一記事は,1965年にある事実に注意を引きましたが,それは14年後の今日にも依然として当てはまります。「20年にわたる国連の歴史の結果,および調停や仲裁の数々の示すところによると,国際連合は,“超大国”が直接に関係していない場合に,功を奏してきた」。
その記事は,国際連合の諸機関が他の分野で成し遂げた優れた事業に注意を向けています。その中には,世界保健機関(WHO),国連教育科学文化機関(UNESCO,ユネスコ),国連児童基金(UNICEF,ユニセフ)をはじめ数々の機関があります。
例えば,宇宙,原子力,そして海底などの平和利用の問題を扱う国連専門機関があります。環境,工業開発,そして経済開発などの諸問題も検討の対象となりました。国連麻薬乱用統制基金という機関もあります。災害の救援の点では多くのことがなされました。その最も著しい業績の一つは,パキスタンとの戦争の後に幾百万人に及ぶバングラデシュの難民救済に当たったことです。
犯罪防止統制委員会も優れた働きをしてきました。また1975年には,国連の主催により,大きな政府間会議としては初の婦人問題を専門に扱う会議がメキシコ・シティーで開かれました。
基本的な問題
しかし,こうした優れた成果があっても,それは概して,この機構自体に対する評価の基礎にはなりません。その記事はさらに,国連は,「政治という巻尺によって計測されるという考えに慣れなければならない」と述べています。
しかし,政治という巻尺を当てるのは難しいことです。国連は普通の国家政府ではありません。それとは異なったものです。国連は世界政府ではありませんし,そのような意図をもって作られたのでもありません。もっとも,現在の国連事務総長であるクルト・ワルトハイムは次のようなことを認めてはいます。「設立当初,国連が国の独立と主権を侵害するのではないか,という不安が広がっていた」。
しかし,どうしてそんなことがあり得るでしょうか。国連には法を執行する力はおろか立法能力すらありません。国連の決定は加盟国に対して拘束力を持ちません。その上,加盟国はいずれも主権国家で,対等とみなされているのです。加盟国すべてに尊重され,承認される真の権威のそうした欠如こそ国連国有の欠陥のひとつと思われます。
例えば,国際的な平和と安全にかかわる場合を除いて,国際連合が各国の国内問題に介入することを認める規定はありません。しかし,これはもちろん解釈の余地を残します。すなわち,国際問題とは何か,また純粋に国内問題とは何か,に関する解釈です。
カーター米大統領は人権を擁護する立場から強い調子で発言し,ある国々で国際連合憲章に反して人権がじゅうりんされていることに抗議しました。他の国々は,そのような発言は不当な内政干渉であるとして米国を非難しました。実際のところ,せんじつめれば,各国は自国が受け入れたいと考える事柄だけは受け入れますが,主権国家としての自国の権利が侵害されるとみなす事柄は受け付けないということになります。それは,“ヨーロッパ合衆国”の抱えていたと同じ問題です。ただ,その規模が大きくなったというだけのことです。
根強い国家主義
国連の国際司法裁判所に関して国連のパンフレットの述べる事柄は,この点を裏書きしています。「同裁判所の規程は国際連合憲章の一部となっており,加盟各国は自動的に同裁判所の当事国となる。同規程の当事国は,法的紛争に関する同裁判所の強制的管轄権を承認する旨いつでも宣言することができる。加盟国の大半は,まだこの強制的管轄権を受け入れていない」。[下線は編者による。]ですから,この裁判所は,実質的な権威を何ら持たない,“張り子の虎”にほかなりません。
クルト・ワルトハイムは,30年にわたる国連の活動を回想し,各国の主権を制限しないことには実質的な活動のできる国際体制は生まれない,と語りました。同事務総長によると,ある分野ではそのような制限を設けることに成功したものの,過去30年間には世界中で,「国家主義の強力な再主張」もありました。
「国家主義の強力な再主張」は,世界をひとつにすることを一層困難なものにします。ワルトハイム事務総長は,次のような言葉で国連の直面している問題を言い表わしました。「その主要な諸機関の決定に対する全般的な敬意を確保することにより,平和を維持する上での我々の機構の役割を強化することは,中でも最も困難な務めであろう」。
そうした「全般的な敬意」を勝ち得るのは,確かに容易なことではありません。N・J・バデルフォードとL・M・グッドリッチ共著の「岐路に立たされる国際連合 ― 功績と展望」という本は,国連に関して次のような意義深い所見を述べています。「国連は,人間の心の中に平和がないのに,平和を保つよう求められてきた。……諸国家が核戦争のことばかり考えているのであれば,同機構は核戦争が人類を席けんするのを防ぐことはできない。国連は超大国に有無を言わせずその命令を守らせることも,提案に従わせることもできない。……国連は,各国の代表にその意志があれば,共に筋道を立てて話し合うための討論の場を提供する。また,紛争の解決を助け,国際間の平和と安全を維持するため,予防外交,調停,および国連軍の平和維持などの手段を講じることができる。しかし,諸国家の側にはそうした手段を受け入れ,それを活用する用意がなければならない。さもなくばそうした努力は最初から無益である」。[下線は編者による。]
それこそ問題の核心です。統一を図るには,互いの益のために協力を惜しまない態度がすべての国に見られねばなりません。そのような惜しみない態度は,単に理性から出るのではなく,心から出た願いでなければなりません。簡単に言えば,世界をひとつにするためのかぎは愛です。
ところが,世界の統一の行く手にある最大の問題である国家主義は,愛の表現などではありません。むしろそれは,あらゆる国を包含する全体の福利を求めるのではなく,ひとつの国の私的,かつ利己的な利益を強調しています。
真の愛を表わすには,個人の関心や愛情を広げ,単に自分の国の者だけではなく,全世界の人々を含めることが求められます。それには,国際的な考え方が必要とされます。
しかし,愛は立法化できるものではありません。では,どうしたらそれを実践できますか。“ヨーロッパ合衆国”の構想をもてあそんでいる国々にしろ,国連に加盟している150か国にしろ,そうした国々がこのかぎを認識し,世界の一致に通じるとびらを開くためにそのかぎを用い,ひとつの世界をついに実現させうる証拠がありますか。
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