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    目ざめよ! 1975 | 5月22日
    • てもいません。a しかし西暦325年ごろ,ローマ皇帝コンスタンティヌスは,ペテロの墓とされるものの上に大聖堂を建て始めました。

      1506年に教皇ユリウス二世は聖堂の再建を決めました。最初の建築者はドネイト・ブラマンテであり,その後の多くの建築者の中にはミケランジェロがいます。ついに1626年,ウルバヌス八世によって献堂された時の聖堂はラテン十字の形式をとりました。聖堂は奥行はおよそ184メートル,面積は1万5,160平方メートルあり,8万人を収容できると言われています。それはまさに巨大な,世界一大きな教会堂です。

      (十字形式の構造の長い腕と短い腕とが交差する位置にある)聖堂の床から132メートルの高さのところにはモザイクと金の大ドームがあります。その直径は42メートルです。ドームに取りつけられた16を数える別個のパネルはイエス・キリスト,その母マリア,使徒たちと「聖人たち」を描いたものです。

      聖堂の巨大なドームの下には正祭壇があり,ここでミサを行なうことができるのは教皇だけ(あるいは教皇が代行として指名した枢機卿)とされています。祭壇の上方には,ウルバヌス八世が,保存のよいローマの万神殿つまり異教の神殿から取り去った青銅を用いてベルニーニの設計した天蓋があります。

      サン・ピエトロ聖堂のような,ぜいをつくした巨大な建造物は,なんのためにあるのですか。アンドレ・ビエレールの書いたことばは,それに幾らか答えています。「マデルナは[初めに]計画されたギリシャ十字の形式をラテン十字に変え,最後にベルニーニは華美な装飾を加えたうえに二つの巨大な柱廊を加えてプランを拡大する結果になった。宗教改革に直面して,キリスト教の強大かつ壮麗な総本山たるローマの威光を今ひとたび世界に示そうというのが,彼らの考えであった。サン・ピエトロ聖堂は『カトリック教会の威厳と力と権力,ひとことで言えば威光』を表わさねばならなかった。この聖堂の作りそのものの中に,カトリック教会の見えと異教の華美な様式との密接なつながりが認められる」―「崇拝における建築」。

      注目に値する美術品

      この聖堂の内部には数多くの美術品があります。たとえばミケランジェロの有名なピエタすなわち死んで母マリアのひざに抱かれたイエスの彫像の前に足がとまります。はじめそれはフランス人の一枢機卿の墓を飾るはずでした。たまたまこれがある巡礼たちによってクリストフォロ・ソラリの作品とされたことを聞いたミケランジェロは,自分の名を刻んだリボンを夜の間につけ加えました。このたすきはマリアの左肩から腰の右に届いており,製作者がだれであるかを間違いなく認めさせるものとなっています。

      ベルニーニ作の,こった青銅のケースの中には,何世紀ものあいだ特別な儀式の際に教皇が用いた聖遺物があります。それは“聖”ペテロの椅子として長い間崇敬されてきました。その前面にはめ込まれた18枚の象牙のパネルには,神話に出てくるヘラクレスの十二の難事さらには十二宮のものと思われる六つの怪物が表わされています。実際の話,ペテロがこの椅子にすわったことはありません。炭素14によるテストでは,それはペテロの死後およそ700年を経た西暦九世紀のものとされています。象牙の細片のひとつには,西フランク人の王でローマ皇帝のチャールズ禿頭王の胸像が示されています。かしの木のこの玉座は,西暦875年の12月,教皇ヨハネス八世によるチャールズ王の戴冠の際におそらくローマにもたらされました。しかし(1969年11月に)教皇庁がその来歴を認めた数年後でさえ,中世から伝わるこの椅子はサン・ピエトロ聖堂で名誉ある地位を占めていました。

      次に興味をひくのは,玉座にすわって右足を伸ばし,頭上に円光をいただいた“聖”ペテロの青銅の像です。1857年,ピオ九世は,生命のないこの足の親指に接ぷんした者にはだれでも五十日の赦免を与えました。おおぜいの巡礼がそれに接ぷんしては十字を切ります。接ぷんされない左足の指ははっきりした形をとどめていますが,右足の指は明らかに無数の信者が接ぷんしたり,なでたりしたためにすりへっています。ペテロの祝日になると,この像は宝石をちりばめた教皇の冠と服とを着けます。それを見ると,「触れることのない手,動くことのない足」を持ち,語ることも見ることも聞くこともない偶像について述べた霊感の聖書の句を思いおこします。―詩 113:13-16,ノックス訳。

      伝承によると,この像は西暦四ないし五世紀に鋳造されました。もっとも十三世紀という説もあります。しかし,異なった見方をしている人々もいます。たとえば,R・C・ワインダムの「ローマの主要史蹟実用案内」には次のように出ています。「これは初めジュピターの神殿にあったジュピターの像であったが,教皇によっていっそう神聖な目的のために転用された」。

      この像のふたしかな起源よりも重要なのは,それが受けている崇敬です。ペテロはこのような崇敬を許すでしょうか。イタリア人の百卒長コルネリオがこの謙そんな使徒の足もとにひざまずいた時,ペテロは接ぷんや愛撫をするようにと左右いずれにせよ足を出したりはしませんでした。そのような事は決してありません。聖書にはこうしるされています。「ペテロは(彼を)引きおこし,『立ってください,私もただの人間です』と(いった)」― 使徒 10:25,26,バルバロ訳。

      システィナ礼拝堂

      次に行くところはシスティナ礼拝堂です。教皇シクストゥス四世にちなんで名づけられたこの礼拝堂は,同教皇の命令によって1475年から1481年にわたって建てられました。これは長さ,幅,高さがそれぞれおよそ40メートル,14メートル,21メートルの建造物です。実際にはこれは教皇個人の礼拝堂であって,さまざまな儀式,教皇を選ぶ会議がここで開かれてきました。

      1508年,ユリウス二世がミケランジェロに天井画を描かせた時までには,システィナ礼拝堂にはすでに他の芸術家たちの作品がありました。完成した時の天井のフレスコ画には343人の人物が描かれました。おもな題材は創造,人間の堕落,大洪水です。しかしキリストの先祖たち,加えて聖書の預言者と異教の女預言者,つまりみこたちが描かれています。

      みこたち? そうです。その中には,みこデルフィックがいます。オリゲンによれば,「アポロの預言の霊が彼女の陰部にはいり」,その後,彼女は狂気の状態で託宣をしたと言われています。彼女は悪霊の影響を受けていました。(使徒 16:16-18とくらべてください。)「バチカン案内」(1973年)に次のようにしるされています。「ミケランジェロは,メシアを待ち望む昔のヘブライおよび異教の世界を描くつもりであった」。しかし実を言えば,神が異教の女預言者に音信を送ったことはありません。しかも聖書の預言者とならんで異教の女預言者を描くのはおかしなことではありませんか。ミリアム,デボラ,ホルダ,アンナなど,メシアを待ち望んでいた敬虔な女預言者がいるからです。―出エジプト 15:20,21。士師 4:4-7。列王下 22:14-20。ルカ 2:36-38。

      何年ものち(1534年-1541年)ミケランジェロは,システィナ礼拝堂の祭壇のうしろの壁に「最後の審判」を描きました。このフレスコ画には,怒ったイエス・キリストによって死者が裁きに呼び出され,キリストはその多くに地獄の責め苦を宣告しているさまが描かれています。しかしこの芸術作品は聖書とは全く合いません。聖書によれば,地獄とは人類共通の墓であり,墓にあって死者は無意識であるゆえに責め苦を感じないのです! しかもイエスが残酷で,怒りにみちた審判者であるという考えは聖書に由来するものではありません。(伝道之書 9:5,10。イザヤ 11:1-5)そうであるのに,教皇パウロ三世は「最後の審判」を見たとき,たちまちひざまずいて,「主よ,審判の日に来たり給うとき,わが罪を我に負わせ給うな」と懇願したと伝えられています。この教皇は僧職につく前に二人の妾によって四人の私生児をもうけていました。

      ポルノがはんらんして人々にかんばしくない影響を与えている今日,システィナ礼拝堂の天井に描かれている多くの裸体の人物を全く無視できるわけではありません。「最後の審判」にもともと描かれている裸体は,かつて大変な物議をかもしたので,ある人物の裸体は教皇の命令により布でおおわれたこともありました。

      庭園,博物館,そして有名な図書館

      バチカンにはまた,美しい庭園,さまざまの博物館,そして注目に値する美術館があります。ピオ-クレメンティン博物館には,勝利の女神を浅浮彫りにした祭壇がありますが,その女神の盾には次の句が刻まれています。「ローマの元老院および人民は,神格化されたカエサルの子であり,最高僧院長であるアウグストゥス皇帝にこの祭壇をささげる」。(字義どおりには「最も偉大な橋の建設者」を意味する)この称号は,かつては異教ローマの祭司の長そして後にはローマ皇帝のものでしたが,グラティアヌス皇帝はクリスチャンにふさわしくないとしてそれを退けました。しかし四世紀の教皇ダマスス一世はこれ幸いとそれを自分のものにしました。今日に至るまでそれは教皇の称号となっています。

      写本と図書の宝庫 ― それがバチカン図書館です。約100万冊の印刷本のほかに,9万以上の写本が保管されており,その中には西暦四世紀の貴重なギリシャ語聖書の冊子本であるバチカン写本1209番もあります。

      「銀や金はわたしにない」

      バチカンをおとずれるとき,豪しゃな建造物,宝石をちりばめた,宗教関係の物品,有名な美術品およびそのたぐいのものが印象に残るのはしごく当然です。教皇は,はっきりとした寄贈品を多く受けていますが,しかしそれがすべてではありません。ばく大な費用をかけたサン・ピエトロ聖堂について,次のことが言われています。「ドネイト・ブラマンテの魅力的なデザインは激しい反対をひきおこした ― その建築の費用を支払うためにユリウス(二世)や,のちの教皇が課した税金もそれと同様であった」。(ジョン・R・ヘイル,タイム-ライフ・ブックス編集局共著「人間の偉大な時代,ルネサンス」)。聖堂の建築資金を集めるためにドミニコ会の修道士ヨハン・テツェルがドイツで行なった免罪符の販売は,ルーテルのひきいる宗教改革の一因となりました。

      ローマ・カトリック教会は,身分の低い漁師でイエス・キリストの使徒となったペテロの上に築かれたと主張していますが,このようにばく大な富と,ペテロの次のことばとは多くの人にとって調和しません。施しを求めた,足なえの人にむかってペテロは言いました,「私は金銀をもっていない,だが,私のもっているものを,あなたにあげよう。ナザレ人のイエズス・キリストのみ名によって歩きなさい!」。すると,その人は歩きました。たしかにペテロは人間的なもの,そして霊的な価値に重きをおいています。しかしバチカンを見物してわかるのは,物質的なものが重きをなしているということです。―使徒 3:1-26,バルバロ訳。

  • 木材以上のもの
    目ざめよ! 1975 | 5月22日
    • 木材以上のもの

      都市に住む人々はしだいに増え,しかも多くの場合,人々はレンガやセメントで囲まれた場所で生活しているため,人間と木材とのつながりは薄れていくように思えるかもしれません。ですから,わたしたちが使用している製品の多くに関して木材が果たしている役割を知ると,驚かされるでしょう。化学的原料という観点から木材のことを考えてみると,ニス,石けん,薬品,テレビン油,糊,プラスチック,レーヨン,インク,セロハンその他の品物の成分が木材から抽出されていることを知って,人は驚かされるでしょう。それで,「木材は実験室で合成するわけにはゆかない」という説明を読むにつけても,人間が樹木を伐採して枯渇させてきたために引き起こした幾つかの問題の重大さを痛感せざるを得ません。というのは,もしこのような事態が大規模に生ずるとすれば,木陰や美しい風景が姿を消す以上のことが起きるからです。森林の木材から得られる多くの製品も同様に姿を消してしまうのです。

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