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  • 二つの世界大戦が私の家族に残したつめあと
    目ざめよ! 1979 | 3月22日
    • 職人として,地域社会に食糧を供給するために必要な人間とみなされたからです。しかし,その間ずっと,ルーディはドイツにいる自分の弟たちのことを心配し,その安否を気遣いました。

      米国が参戦したとき,私の祖母の弟は17歳で,間もなく高校を卒業しようとしていました。そして,卒業の翌日,陸軍に召集され,軍事訓練に送られました。この人も,知ってはいても,まだ会ったことのない親族と戦うことになるのでしょうか。

      その時までに,私の祖父ルーディの,ドイツにいる弟たちの身の上にはどんな事が起きていたでしょうか。一人は捕虜になってソ連におり,もう一人はフランスにある,米国の捕虜収容所にいました。ある収容所では捕虜に当てがわれる食糧が非常に少なかったため,ある日,鉄条網をめぐらしたへいのところをネコが通りかかったとき,私の大おじはそれを殺して皮をはぎ,その肉を生で食べてしまったのです。戦争も終わり近くなって,三番目の弟は軍用列車で輸送されていました。それはまさに終戦の宣言された日でしたが,その列車は爆撃を受け,祖父の弟は戦死してしまいました。

      四人兄弟の育った,エインブルグの小さな村では,別の重大な出来事が生じていました。その幾年か前に再婚していた,私の曾祖父のマックスは,さらに二人の子供をもうけていました。ドイツの敗戦の色は濃くなっており,占領軍はいなかの至る所で見受けられました。一家の主人は大抵出征していましたから,家には家族を守る者がいない有様でした。

      家々は押し入られ,略奪され,時には婦女子が強姦されることもありました。村人たちは,兵士が来るとの警告を与えられると,娘たちを連れ出し,畑の中の干し草の山の中に隠し,娘たちの安全を図ったものです。

      戦争は終わったものの,その影響は平和条約の締結をもって無くなったわけではありません。祖父の弟たちは,列車で戦死した一人を除いて皆,ドイツのエインブルグにある家へ帰りました。しかし,その生活は二度と昔の様には戻りませんでした。一人は若死にしましたがそれまで入院と退院を繰り返していました。祖父のもう一人の弟,ベルンハルトゥは,ドイツからはるばるカリフォルニアにいる私たちを訪ねて来ました。その息子はすでに軍事訓練を終えており,ここ米国にいる私のおじたちもやはり軍事訓練を終えています。このすべては道理にかなった事でしょうか。そのすべてはどんな結末を見るでしょうか。

  • 平和を望む声は強い,しかし諸国は軍備を撤廃するか
    目ざめよ! 1979 | 3月22日
    • 平和を望む声は強い,しかし諸国は軍備を撤廃するか

      戦争の恐ろしさを思い起こすと,平和を強く望まずにはいられません。ベトナム戦争による死傷者数は幾百万にも達しましたが,それがすべてではありません。米兵の38%は,復員後六か月以内に別居または離婚をしています。ヘロインの常用者は約17万5,000人もいました。また,伝えられるところによると,何と約50万人が除隊後自殺を図っています。―1975年5月27日付,ニューヨーク・タイムズ紙。

      広島に原爆を投下したB-29爆撃機のパイロット,クロード・イーザーリーの事例は,戦争の恐るべき後遺症を生々しく物語っています。クロードは,精神鑑定の結果,「重度の神経症と罪悪コンプレックス」にかかっていると診断され,1947

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