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政治に関与する諸教会ものみの塔 1982 | 4月1日
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の仕方で政治に関与しています。1970年以来,同協議会は様々な政治的革命運動に300万㌦(約6億6,000万円)を寄付してきたとされています。
また,叙任された僧職者の中には選挙で政府部内の公職に就こうとする人もいます。しかし,最近の新聞の見出しは政治に関与する行動の最も極端な例と思われるものを示しています。そこには「教区を離れ,反乱に加わるフィリピンの司祭たち」と書かれていました。その記事は共産主義者のゲリラ運動に加わった4人のカトリック司祭に関する記事でした。このように急進的な運動に積極的に加わる傾向は広まっていますが,それには高価な代償が支払われています。中南米ではそのためここ10年間に,推定850人の司祭や尼僧や平信徒が殺害されたり誘かいされたり国外追放になったりしたのです。
宗教指導者のそうした政治活動をどうご覧になりますか。それに声援を送りますか。それとも疑念を抱きますか。宗教が目立たない仕方で政治問題に口をはさんでも異存はないが,司祭が革命に加わるのは快く思わないという意見かもしれません。
とはいえ,政治に宗教が幾らかでも関与することを認めると,どの程度まで介入を許すか線を引くのは難しくなります。もしも叙任された僧職者が自分たちの良いと思う計画を促進するために国の首都で目立たない仕方でロビー活動をしても構わないのなら,プロテスタントの根本主義者が自分たちにとって重要と思える計画を促進するために全国的な圧力団体を組織することがどうして間違っていると言えるのでしょうか。また,もし道徳的多数派が声を大にしてイスラエルを弁護できるのなら,世界教会協議会が自分たちの好む軍事的な大義のために献金をすることがどうしていけないと言えるでしょうか。そして,もしもそれが間違っていないなら,お金を出して他の人々に危険を冒させる代わりに,カトリック司祭が南米やアジアで自分たちの支持する大義のために戦って死ぬことがどうして好ましくないと言えるのでしょうか。
しかし……この論理のつながりにはどこかおかしいところがあると思われますか。そうするのがこの難しい時代に宗教が人類を助ける最善の方法であると本当に言えるのでしょうか。
宗教が政治に影響を及ぼそうとするのは今に始まったことではありません。下の表には,宗教が政治と結び付いた幾つかの顕著な出来事が列挙されています。
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どうすれば宗教は緊張緩和に貢献できますかものみの塔 1982 | 4月1日
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どうすれば宗教は緊張緩和に貢献できますか
圧制,飢え,道徳規準の低下,薬物の乱用,核戦争の脅威 ― これらは政治的行動主義に走る,叙任された僧職者の提起する問題の幾つかです。疑いもなく,すべてのクリスチャンはこのような問題を憂慮しています。しかし,政治に関与することが世界の緊張を緩和する道と言えますか。
宗教指導者が政治に関与するのは,「道徳的に正常な状態」を保ちたいとか,政府が「間違った道」を取る時に警告を発したいからであると言われます。しかし,自分たちが間違った道をたどる場合はどうでしょうか。例えば,最近,セルビアの民族自決の大義のために,セルビア人の一司祭が米国のユーゴスラビア領事の家を爆破しました。そのようなテロ行為は確かに間違っています。特に,それを行なったのが司祭であればなおさらのことです。動機が何であれ,その司祭は神を代表すると唱えています。しかし,神の言葉は神を信ずる人すべてに次のようにはっきりと忠告しています。「自分で復しゅうをしてはなりません。……こう書いてあるからです。『復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する,とエホバは言われる』」。(ローマ 12:19)この司祭の取ったような行動は,幾つかの宗教が差し伸べようとしている道徳面での指導力を弱めるものとなります。
その上,カトリック教会の内部にも,司祭や尼僧が革命に関与することに対し,深刻な疑問を抱く人が少なくありません。コロンビアの一イエズス会士は,「武力による反乱で最初にひどい目に遭うのは貧しい人々自身で,聖職者や司教ではない。そのような情勢をどうして支持できようか」と語っています。法王自身,司祭や尼僧の務めは羊の群れの霊的必要に仕えることで,羊の群れを組織して反乱を起こさせることではないと語り,ある種の政治的行動主義を抑えようとしています。
革命グループに対する世界教会協議会の献金も同様に論争を巻き起こしました。献金を受けたグループの幾つかに宣教師を迫害した記録があると見られた時には論争が特に激しくなり,この問題のために,救世軍は同協議会から脱退しました。
米国のプロテスタント系の圧力団体も,批判の的になっています。ある雑誌の編集者は,「クリスチャンの権利に関する活動の中に,イエスと関係のあるものが残っているとすればその名前だけである」と論評しました。そうした人々は政治に関与して,宗教人というよりは無節操な政治屋のように行動している,とこの編集者は考えたようです。これは,真のクリスチャンは自分を「世から汚点のない状態」に保つべきであるという聖書筆者ヤコブの訓戒を思い起こさせます。―ヤコブ 1:27。
このように,宗教的行動主義は考え深い人々の脳裏に難しい疑問を生じさせます。では,宗教指導者が政府の特定の政策に“目立たない”助言を与える程度に自らの活動をとどめておく場合はどうですか。そうした行動も問題を引き起こします。これらの指導者は相矛盾する助言を与えるからです。それは緊張緩和に少しも役立ちません。
例えば,米国である宗教家は軍備縮小を奨励します。ところが,宗教家の中には自国が「創造以来最強の軍隊」を持つのを見たいと考える人もいるのです。道徳的多数派<モラル・マジョリティー>は資本主義体制のままの姿での“アメリカの存続”を目指して活動しています。ところが,世界教会協議会の一役員はこう書きました。「資本主義体制の生み出した破壊・浪費・搾取・圧制から人類を解放するためには世界革命が必要である」。この役員はさらに,こうした「世界革命」のキューバ版を称賛しました。
性道徳の問題に関してさえ,宗教指導者たちは異なった意見を述べています。そうであれば,堅持すべき“道徳”規準はどれで,避けるべき「間違った道」はどれなのかを,外部の人はどうして見分けられるでしょうか。「正邪」の基準は人の生まれた国や属する政党,皮膚の色や経済的地位によって変わってくるのでしょうか。それとも,どこに住んでいようとすべての人に当てはまる規準を神はお定めになっているのでしょうか。
宗教が政治に関与することは,世界の出来事に「敬けんな」要素を導入するどころか,多くの点で混乱を生じさせる結果になりました。これは宗教
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