-
「互にねたまないようにしましょう」ものみの塔 1957 | 2月1日
-
-
『互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか。』― ヘブル 10:25,新口。
しつとに対して警戒しなさい
しつとは,極めて下劣な恥ずかしい感情です。それですから,しつとの気持を抱く人々でも,自分のしつとを認めようとはしないのです。その人々の良心は,しつとを軽蔑し,憎悪します。それでは,なぜしつとの心を抱くようになるのですか。多くの場合に,しつとに対して警戒をしないからです。ねたみは陰険な悪しきものです。ねたみは,知らぬ間に人の心にはいり込みます。行動でもつてねたみを示す前に『どうやら私はあの人のことをしつとしているようだ。』と,自分自身に言つて聞かせる必要はありません。御存知のように,しつとの表われは,冷やかさ,素気ないこと,他の人を低く見くびること,のようなものです。自分自身の中にこれらの表われがある,と知るなら,注意して考えなさい。深く考えて,知らぬ間に心の中に入りこんだしつとの根を引抜いてしまいなさい。イエスはこう言われました,『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。』― ルカ 12:15,新口。
しつとに対して警戒する方法は,『以前の生活に属する古い人格を脱ぎ棄て』『まことの義と愛のうちにつくられた新しい人格を着る』ことです。(エペソ 4:22-24,新世)そうするなら,あなたは正しい心,親切な心で武装することになります。ロマ書 12章16節(新口)は,『互に思うことをひとつにし』なさい,と述べています。あなたは自分自身に対して能力や成功を吝みません。それなら,あなた自身で楽しみ,よろこんでいるものを他の人々にも吝んではならないのです。まつたく,『互に思うことをひとつにしなさい。』
使徒の言うごとく,『何事も党派心や虚栄からするのでなく,ヘりくだつた心をもつて互に人を自分よりすぐれた者と』することにより,しつとに対して更に警戒しなさい。(ピリピ 2:3,新口)といつて,クリスチャンは,自分自身の能力を見下げて語り,いつも自分自身を悪評する,という意味ではありません。その種類の謙譲には,誠実が欠けており,たいていの場合に,虚栄をつくろうものです。しかし,使徒の意味することはこうです,すなわちクリスチャンたちは『へりくだつた心をもつて,互に人を自分よりすぐれた者』となし,自分のことは全く度外視しても,大きな善を図れということです。真実の謙遜は,愛と同じく,ねたみに対して警戒します。
ねたみは,何人にも益をもたらしません。悪魔はヱホバをねたみました。悪魔はすべてのものを失うでしよう。ねたみは亡びをもたらします。それで,互にねたみ合うべきではないでしよう。いま現在でも,ねたみ心を抱く人々は,悲しい状態下にいます。それらの人々は,古い世のもたらす問題に苦しめられているだけでなく,他の人々に生じているすべての善によつても苦しめられているのです。なんと不幸な存在なのでしよう! それで,互にねたまないようにしましよう。真実の円熟を示しなさい。喜ぶ者と共によろこびなさい。他の人々を励ましてヱホバの奉仕に大きな成功を得るようにしなさい。それこそ,真のクリスチャン愛の道です。
-
-
僅か18カ月だけ!ものみの塔 1957 | 2月1日
-
-
僅か18カ月だけ!
本当に,今から1年半ちよつと後には,ヱホバの証者は,国際大会を開きます。何処? ニューヨークの市で。何時? 1958年7月27日から8月3日まで。今から貯金を始めなさい。その大会に出席するよう計画しなさい。
-
-
クリスチャン崇拝と美徳の保存ものみの塔 1957 | 2月1日
-
-
クリスチャン崇拝と美徳の保存
『最後に,兄弟たちよ。すべて真実なこと,すべて尊ぶべきこと,すべて正しいこと,すべて純真なこと,すべて愛すべきこと,すべてほまれあること,また徳といわれるもの,称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい。』― ピリピ 4:8,新口。
1 正義を愛する人々は,いま何について保証を得ていますか。
どの面であつても,人間は見過すことのできないヱホバ神の証跡に直面しています。人々はヱホバ神を否定し,疑い,軽んじていますが,ヱホバ神の最高至上性と正義は,ゆるぐことなく立つており,ヱホバ神を崇拝する者たちに全き保証を与えます。(詩 14:1; 53:1-4)時代が全く危険で一般の人が神を愛さない今日でも,そのことは真実なのでしようか。そうです,このことは特に今において真実なのです。なぜなら,すべての人の行つている極端な不義は,ヱホバの正義を愛する者たちに救が与えられるということの大きなしるしになつているからです。それだけに止まらず,さらに素晴らしい対照によつて,ヱホバの正義が卓出して示されるのです。―ルカ 21:28-33。詩 36篇。
2 誰が美徳を正しく認識して評価していますか。これらの人々は,何をしなければなりませんか。
2 人々は,この危険な時代に対処することは難しい,と気づいています。しかし,それは人々が美徳な事柄に思をとめているからではありません。むしろ,『徳といわれるもの,称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい。』といういましめに従わないからです。(ピリピ 4:8,新口)今日では,全く少数の者だけが美徳を正しく認識して評価している,というのが事実です。あなたは如何ですか。あなたは,美徳を持たぬ人々から離れたいと欲しますか。良く知られている次の予言の言葉は,全く意味深いものです,『しかし,このことは知つておかねばならない。終の時には,苦難の時代が来る。その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者,大言壮語する者,高慢な者,神をそしる者,親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情な者,融和しない者,そしる者,無節制な者,粗暴な者,善を好まない者,裏切り者,乱暴者,高言をする者,神よりも快楽を愛する者,信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。』(テモテ後 3:1-5,新口)この聖句は,美徳のない人々について記述しており,クリスチャンはこれらの者たちから離れねばなりません。それは,美徳のものと,美徳でないものとのあいだの対照と論争を示します。
3 何が美徳の特質の存在していることを証明しますか。
3 美徳を構成する要素というものがないなら,この聖句には力がないものです。しかし,美徳はたしかに存在しているのです。正義と不義とのあいだに肝要な論争や論議がある,という事実そのものも,そのような良い美徳の特質の存在していることを証明しています。美徳を関係せしめているこの論争,すなわち論議も,テトス書 1章16節(新口)に示されています。その聖句は,こうです,『彼らは神を知つていると,口では言うが,行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者,また不従順な者であつて,いつさいの良いわざに関しては,失格者である。』神の言葉は,ヱホバ神とその正義および,著しく異る悪行を絶えず示しています。それで,古い世の言葉によると,古い世は,敬虔であると主張されています。しかし,その言葉は,古い世がヱホバ神と一致していないことを証明しているのです。
4 美徳と美徳に関係する論争の存在していることは,正義の神ヱホバの存在を,どのように証明していますか。
4 美徳の原則は存在しています。聖書を憎む物質主義的な人々は,それを否定することができません。それらの人々は物質主義を提唱し,かつヱホバの創造主なることと神なることを排斥しようと努めています。そして美徳をも排斥しよう,と努めます。神を否定するためには,彼らは高い道徳の価値を否定しなければなりません。又は,高い道徳の価値を否定するためには,ヱホバの存在を否定しなければなりません。そのような否定は,不可能です。美徳や高い道徳の価値は,無生物から始まらず,また神の像と状でない下等動物からも始まつていません。人間だけが,ヱホバの像と状にしたがつて創造されたのです。(創世 1:26,27)人間がそのように創造されないで,下等動物や無生物のようであるなら,人間が美徳に関する論議に加わる,などということはないでしよう。人間がそのような論議に加わつているという事実そのものは,美徳を持つ神の存在を証明します。もしそうでないなら,美徳とか,美徳に関する論議は決して存在しないでしよう。
5 人間と下等動物のあいだの区別を示しなさい。このことから,あなたに可能となる結果を指摘しなさい。
5 人間が魚,鳥,家畜,葡うものと同じであるなら,人間にはなぜ美徳,道徳,忠実,信仰,希望,忠節,正直,そして他の崇拝の特質,というような思想を述べる言葉があるのですか。下等動物は,そのような特質を口にも言わなければ,行もしません。これらの特質は,地上の人間だけにあるのであつて,それらが存在している,ということは,ヱホバ神の存在していること,そしてヱホバ神の正義なることを証明すると共に,物質主義的な思を持つ人間の間ちがいなることを証明しています。もしあなたが神の是認を頂きたいと欲し,また生命を頂きたい,と欲するなら,神に逆つて歩んだり,ヱホバの御名を汚したり,美徳を否定する人々や制度から離れなさい!
6 ヱホバはどんな種類の神ですか。ヱホバは何を保存しましたか。
6 ヱホバは,愛,公正,智恵,そして力の神です。ヱホバは忠実の神であられ,信頼し得る方,忠節な方,正直な方,美徳の御方です。実際のところ,人間の高尚な考えを言表わすために用いる言葉,そして,これらの良い高尚な特質についての理解と認識では,ヱホバの正義を十分に述べるには不適当です。これらの高尚な特質が存在しているだけでなく,また人間はこれらの特質を持ち得るという事実は,正義を愛する者たちに対する素晴らしい保証であります。全能者は,御自分の崇拝が地上に保存されるように,いつも気をつけておられました。ヱホバの崇拝が保存されるということは,人間の生命がこの地上に保存されることを意味しました。また,美徳がこの地上に保存されることをも意味したのです。それで,今日の私たちは「それらのものを心にとめる」ことができるのです。
7 神権制度とその特質の一つを説明しなさい。
7 ヱホバは,御自分に仕えて崇拝を捧げる者たちの神であられ,王であられます。それで,ヱホバは大いなる神権者,神なる支配者です。この正義なる神権者の下に人間は生きるように創造されました。神権者なるヱホバ神を頭となし,正義の被造物がその下に仕えて,崇拝を捧げる,という大きな取極は神権制度を構成しています。この神権制度のひとつの特質はこうです,すなわち,美徳を保とうとせず,また神権制度の特色なる正義の原則を守ろう,としない者どもや,制度を排除することです。
8 排除と保存の例を述べなさい。
8 この原則の施行された例は,人間をエデンから追出したことです。(創世 3:23,24)しばらく後になつて,地を水によつて清めることにより,大きな排除が行われ,その時の不敬虔な世は亡ぼされました。この清めの行われた時でも,大きな保存が行われ,人間と動物の生命は地上に存続し,かつヱホバの崇拝も残りました。ヱホバの崇拝は絶滅せず,美徳は保存せられたのです。この大洪水のときに,忠実と崇拝の特質が関係し合つていたことは疑いありません。―創世 6:5-22。
9 個人的に言つて,人は美徳を含むどんな行をしなければなりませんか。なぜですか。
9 一時的な生命という祝福にせよ,または永遠の生命という希望にもせよ,人間はまつたくヱホバに依存しなければなりません。それで,人間は無力な者です。ヱホバは御自分の御名立証の為に救をほどこす,という目的を告げられました。しかし,各人の関する限り,人はそれぞれ美徳の特質を持つことを示す明確な行をしなければなりません。もしそうしないなら,この論争においてヱホバの側に立つていない,つまりヱホバの至上権を擁護して,ヱホバの正義を立証する側に立つていないことになります。不義の行は,正義を否定することであり,ひいては正義の神を否定することです。そのような行を固執するなら,その者は正義に関心を持つていない,すなわち正義の宿る約束された新しい世に関心を持つていない,と証明します。(ペテロ後 3:11-13)大洪水によつて大きな排除が行われ,清めがなされました。それは歴史的な事実ですが,その生残者や子孫たちは,ヱホバ神の是認したそれらのものを擁護する,という素晴らしい機会を有していました。その行は,次のような事柄をすることです,すなわち,ヱホバの崇拝,また基礎的な愛の特質を含み,かつ忠実を守ることを含む美徳の行使,ヱホバの言葉への信仰,ヱホバの約束に対するたしかな希望,ヱホバとその義への忠節,ヱホバと人間の前における正直,そして個人的なものや公共のものに対する道徳,ということです。
模型的な保存
10 イスラエルにどんな特権が与えられましたか。
10 ヱホバは御自分の目的を進捗せしめられると共に,自らヱホバとその崇拝に一致していることを示す人々を用いました。そして,イスラエルの模型的な神権の国民を組織されたのです。ヱホバは悪鬼崇拝していたエジプトの世界勢力という束縛から,彼らを救い出しました。それは,実際のことであると共に,予影的なものでもあつたのです。かくして,異教の世を全部排除して取除かれると共に,御自分の民なるイスラエルを異教の世から取分けられました。模型的な神権の国民イスラエルは,唯一の真の神の崇拝を清く保ち,自分の国の中に清い崇拝の高い特質,すなわち正義の美徳を保存しなければなりまん。
11 模型的なイスラエル内の裁きの目的と発展を説明しなさい。
11 神の律法は,仲立なるモーセを通してイスラエルに与えられました。それは,変ることのない正義の原則にもとづいています。ヱホバはイスラエルの神,律法の与え主,王にして裁き主でした。(イザヤ 33:22)イスラエルの各人のする不手際な裁きや,利己的な行によつて正義の原則が破られることのないようにするため,個人的な問題や国家的な問題はモーセの許に提出されて裁定をうけました。モーセの心は,神の霊の指示を受けたもので,神の律法の原則通りに行使されました。この思い遣りのある援助は,ひとりの人間にとつて大き過ぎる仕事でした。それで,モーセはヱホバの是認の下に宗教的な行政権限を分け,他の者たちを神権制度内の責任の地位に任命しました。かくして,神の律法を適用させることと,神の律法を大小のいろいろな事柄に一致させることについての援助を受けたのです。モーセや,モーセの任命した人々の有した地位は,空虚なもので名誉職というものでは決してありません。それは,重要なもので,かつ実際的なものであり,宗教的な裁きという特定な目的の為でした。これらの神権的な任命について,聖書にはこう書かれています,『モーセすなわちイスラエルの中よりあまねく賢き人を選みて,これを民の長となし,千人の司となし,百人の司となし,五十人の司となし,十人の司となせり。彼らつねに民を裁き,難事はこれをモーセに述べ,小事はすべて自らこれを裁けり。』― 出エジプト 18:25,26。
12 神の律法に関連して,イスラエルの人人にはどんな責任が課せられましたか。
12 イスラエルの制度を制御する行政の規則は,ヱホバの律法でした。制度内の責任を持つ人々は,律法を人々に教えたのです。人々の責任は,神の律法を良く知つて理解することでした。人々は,崇拝の原則が何であるかを知つており,またそれらの原則の詳細な適用をも知らねばならなかつたのです。その適用は,律法の取扱ういろいろの事柄,すなわち国家的な事柄,家族の事柄,そして個人の事柄に関するものです。堕落したイスラエル人の罪や弱点をあがなう準備ももうけられました。律法のいろいろな特色は,国民をして神と一致せしめて,神を崇拝させ,つねに神を認めさせ,そして更に,神と隣人の愛の特質と美徳の諸要素をあらゆる事柄に保存し,活力あるものにするために,設けられていたのです。ヱホバは御自分の崇拝とその良い特質が地上より排除されるのを許しません。むしろ,模型的なイスラエルの内に保存せられました。
13,14 どんな峻烈な手段が用意されましたか。それはどんな目的の為ですか。
13 これらの良い特質を保存するため,時折に峻烈な手段を取ることが必要でした。神権的な標準を下げて,正義を愛するよりも不義を愛する人々をよろこばす,ということは決してなかつたのです。悪行をする者共が,あがないの御準備でかばうことのできる罪以上の罪を固執するなら,それらの者たちは殺されました。イスラエル人の会衆は,その死については直接の責任を有していたのです。宗教なる崇拝は,国家の政府的な事柄や,経済的な事柄と切り離されていませんでした。なぜなら,生活のあらゆる面でいつもヱホバを認めることが必要だつたからです。それで,律法は次のように規定しました,『なんじの中に,予言者あるいは夢見る者起りて,……なんじに告て,我らは今より汝と我とがこれまで知ざりし他の神々に従いてこれに事えんと言うことあらんに……汝その予言者または夢見る者の言葉に聴きしたがうなかれ。そは汝らの神ヱホバ汝らが心をつくし,精神をつくして汝らの神ヱホバを愛するや否やを知んとてかくなんじらを試みたもうなればなり。……その予言者または夢みる者をば殺すべし。…なんじかくして汝の中より悪を除き去べし。』― 申命 13:1-5。
14 死の刑罰は,偽りの予言者や夢見る者だけに限定されたわけではありません。なぜなら,『なんじの母の生る汝の兄弟,または汝の男子女子または汝の懐の妻または汝と身命を共にする汝の友ひそかに汝を誘いて言あらん,汝も汝の先祖たちも知らざりし他の神々に我ら往きて事えん。……汝これに従うなかれ,これに聴くなかれ,これを惜しみ視るなかれ。これを憐れむなかれ。これをおおいかくすなかれ。汝かならずこれを殺すべし。これを殺すには,汝まずこれに手を下し,しかる後に民みな手を下すべし。彼はエジプトの国,奴隷の家より汝を導き出し給いし汝の神ヱホバより汝を誘い離さんと求めたれば,なんじ石をもてこれを撃殺すべし。しかせば,イスラエルみな聞きて恐れ,重ねてかかる悪しき事を汝らの中に行わざらん。』(申命 13:6-11)一つの群全部が悪を行つて,正義の神ヱホバの崇拝に反するようになつたなら,どういうことになりますか。その時には,その群全部が絶滅されました。―申命 13:12-18。
15 美徳を定義しなさい。その行に宗教がどのように関係しているか,を示しなさい。
15 前述の事柄は,ヱホバの崇拝を汚れなく保存するためであり,また正義のいましめを保つためでした。かくして,一般的な美徳を保存したのです。美徳とは,善の標準,そして行為の卓越と忠実,行動の実直,および廉直,道徳に則る道徳的な行すなわち行為を言及しております。それは,有害なことを慎しむということだけでなく,身体上にもせよ道徳上のものにせよ,力,勇気,そして胆力の活動的な特質,すなわち力なのです。それは,価値,値打,価,貞節,廉潔など,あらゆる種類において,卓越していることを指します。正義の神ヱホバは,これらの美徳の要素をみな創造したのですから,ヱホバ神の崇拝がそのすべてに含まれています。ヱホバ神の崇拝から離れるなら,すべての美徳からも離れます。それですから,イスラエルから悪鬼崇拝者たちを取り除いて,偽りの宗教的な行をする者たちを殺すことによつて,真の崇拝と美徳を保存することができたのです。
16 僭越に関する律法は,清い崇拝について,どんな強調を置いていますか。
16 申命記の17章は,いろいろの手続きを述べています。それによると,イスラエル人は勇気をもつて,ヱホバの目の前に憎むべき事柄を行う者に対し真実の証しを立て,かつ悪を為す者共に手をかけて殺さねばならなかつたのです。そして,国民はみな『悪事を汝らの中より除く』ために,この行に加わりました。(申命 17:7)祭司たちの義しい裁きに不服を申し立てる者たちも,殺されました。『訟え争う事おこるに当り,その事柄もし……汝に裁きかぬるものなれば汝起あがりて汝の神ヱホバの選びたもうところに上り往き,祭司なるレビ人とその時の裁き人とにいたりて問うべし。彼ら裁きの言葉を汝に示さん。……彼らが汝に示す命令の言葉のごとくに汝行い……彼らが汝に教うる律法の命令に従い,彼らが汝に告ぐる裁きによりて行うべし。彼らが汝に示す言葉に違うて右にも左にも偏るべからず。人もし自らほしいままにし,その汝の神ヱホバの前に立ちて事うる祭司またはその裁き人に聴き従わざる有らば,その人を殺し,イスラエルの中より悪を除くべし。然せば,民みな聞きて畏れ,重ねてほしいままに事をなさざらん。』― 申命 17:8-13。
17 模型的なイスラエルに与えられた律法内の厳格な取極により,どんな良い結果が更に得られましたか。
17 これは流血に飢え渇いた,というものではありません。それは,約束の胤の系統を守る為のヱホバ神の御行為であつて,その胤は,遂にはキリスト・イエスになつて来ました。このあがないの御準備と,ヱホバのこの忠実な僕の有する祭司のごとき職務によつて,人間は正義の新しい世における永遠の生命という見込を得ることができたのです。約束の胤の系統を疵と汚れをつけずに保存するため神は積極的な処置を取られました。そして,神聖な正義に専心されている故に,御自分の崇拝をこの地上に保存せられたのです。私たちは,これらのことにつき神に感謝します。
18 実際の非行が禁ぜられましたか。或は象徴的な非行が禁ぜられましたか。それとも,その両方が禁ぜられましたか。
18 イスラエルに与えられた律法の中で神の禁ぜられた個人的な罪,つまり非行の中には次のようなものがありました。それはまた,清い状態で真理の中にヱホバを崇拝する人々の避けるべきことがらだつたのです。すなわち,三つだけを挙げるとすれば,盗み,姦淫,そして泥酔でした。このように美徳を破ることは,それ自体でも悪いことでしたが,また聖書的には霊的な罪の象徴にもなりました。霊的な罪とは,ヱホバ神と個人との関係に影響をおよぼす物質に関する罪ではなく,ヱホバ神と個人との関係に影響をおよぼす見えざる事柄についての罪です。実際にそのようなことをなすことは,たとえ霊的な非行を表象するようになつた後でも,イスラエルの中で許されなかつたのです。このことは,実体の神権的クリスチャン制度において強調されています。このクリスチャン制度は,イスラエルを組織したモーセの律法契約の終結と共に生じたものです。
クリスチャン実体
19 ヱホバは,キリスト・イエスを通してどんな大きな変化を生ぜしめましたか。
19 ヱホバは,御自分の目的を進捗せしめられると共に,御名の全き立証を見こしておられます。そして,時が来るとヱホバは愛する子キリスト・イエスの中にイスラエルの律法を終結させ,かつ予言的な成就をなさしめたのです。イエスは,新しいものを発展し始めましたが,それは模型的なイスラエルの神権国家とは違うもの,すなわち実際の神権的なクリスチャン制度です。イスラエルとの律法契約は,キリスト・イエスと共に終結してしまい,イエスが杭にかけられて,昇天して後は,実施されませんでした。しかし,律法の正義の原則は,全部存続したのです。実際のところ,それらの原則は,クリスチャン制度の者たちに対して,以前よりも大きな力と効果をもたらしています。ヱホバは,イエス・キリストの,贖の犠牲を基礎にして,新しい契約の下にクリスチャン会衆を発展せしめました。
20 クリスチャンの美徳に関して,どんなことをはつきり言うことができますか。
20 『神は私たちに力を与えて,新しい契約に仕える者とされたのである。それは,文字に仕える者ではなく,霊に仕える者である。文字は人を殺し,霊は人を生かす。』(コリント後 3:2-6,新口)注意すべきは,律法の文字と律法の霊があり,そしてこの二つは対照をなして著しい相違をなすものである故,私たちは神の律法の文字を破ることができる,しかしその霊を守らねばならない,などとパウロは言つていません。そうではありません。パウロがここで指摘していることは,モーセを通してイスラエル人に与えられた律法の書かれた文字と,神の霊には著しい相違がある,ということなのです。クリスチャンたちに注がれる神の霊は,クリスチャンたちに正義の実を生ぜしめ,かつクリスチャン達に,処罰されたこの不敬虔な世から分離することを可能ならしめています。書かれた文字は,イスラエル人を死に定めました。しかし,キリスト・イエスのあがないに基づく新しい契約の働きを通して注がれる神の霊は,人々を永遠の生命にみちびます。これは,著しい相違です。私たちは,一瞬間でも次のように推定することができますか,すなわち,律法契約下にいたイスラエルの国民の一人一人は,当時の一般人類が行つていた堕落した行を禁ぜられていた,しかしクリスチャンたちがそのような行をつつしむ必要性はイスラエル人の時ほど大きくない,などと推定できますか。もちろん,そのように推定することはできません。それとは逆に,正義をすすめる積極的なクリスチャンのいましめは,モーセの律法の消極的ないましめよりもはるかに強烈です。そして,現在新しい世の社会の活動をしつつクリスチャン崇拝を行つて神に仕える人々には,神の霊が注がれるのです。この霊によつて,彼らは忠実を保つことができ,かつ栄光に輝く将来において完全になると共に正義に達する,という確かな希望を持つことができるのです。
-
-
向を変えよ ― 新世社会にものみの塔 1957 | 2月1日
-
-
向を変えよ ― 新世社会に
1 クリスチャン会衆は,どんな種類の制度ですか。
神権的なクリスチャン会衆の中には,ヱホバの目的遂行に永遠に専身している一つの制度があります。それは,この地上に神の美徳を保存している唯一つの制度です。『あなたがたは,地の塩である』と言われたイエスは,クリスチャンたちが人間の生命,ヱホバの崇拝,そして美徳を保存するもの,と言及したのです。(マタイ 5:13,新口)いま新しい世の社会の中にあるこの『塩』は,避けることのできない責任,すなわち,最後までヱホバの正義を擁護する責任を持つています。その特権と義務は,クリスチャン崇拝に従事するすべての人々に課せられているのです。
2 初期クリスチャン会衆内では,どんな必要を充たさねばなりませんでしたか。
2 キリスト・イエスは,クリスチャン会衆を開始しました。杭にかけられて殺され,復活して天に揚げられて後,キリストは天の御父の霊と力を弟子たちに送りました。それは,初期クリスチャン会衆として彼らが真の崇拝の拡大に励むためだつたのです。キリスト教の良いたよりを伝道し,そして人々が霊的に強くなつて,当時支配していたローマ帝国の腐敗にも対抗し得るために,会衆が組織され,かつ会衆内の各人がクリスチャン宣教の教えと訓練を受けることが必要でした。新しいクリスチャンたちも,経験を積んだクリスチャンも,みなクリスチャンの領域内におり,神権的な原則の行使をうけねばなりません。もし,そうしないなら,腐敗は神の命じた仕事を為すクリスチャン会衆の勝利に妨害を加えるでしよう。
3 クリスチャン会衆の必要と要求を充すために設けられた御準備を示しなさい。
3 その故に,クリスチャン会衆の中では義務の委託がなされていました。義務の委託すなわち特別の特権と責任に任命されることは,霊的な円熟を示し,かつ自分の義務と任務を忠実に行う献身した人々になされたのです。そのような任命は,エルサレムに本部を持つ初期クリスチャン会衆の統治体によつてなされました。統治体は,使徒や他の円熟したクリスチャン,そして彼らの代理をなす代表者によつて構成されていたのです。任命を受けた者たちも,すべてのクリスチャンたちに共通な宣教に参加しました。彼らは,自分たちの住むところにあつた会衆,そして共々に奉仕をなした会衆内で,制度的な義務を成し遂げました。それぞれの会衆を管理して監督するためには,監督のクリスチャンたちが必要でした。彼らは,会衆自体と会衆内の各人が,美徳の道に歩むように監督したのです。
4 誰が特別な奉仕に正しく任命されることができますか。
4 テモテ前書の第3章の中には,クリスチャン会衆の監督に任命せられるべき者の資格が述べられています。監督は,非難のない人でなければなりません。また,ひとりの妻の夫であり,自らを制し,慎み深く,礼儀正しく,仲間の者を憎まず,大酒を飲まず,人と争わず,金に淡白で,年少者犯罪を育成するような者であつてはなりません。また,信者になつて間もない人であつてもならず,仕事を不正に行う者であつてはなりません。監督たちについては,聖書にこう書かれています,『彼らはまず調べられて,非の打ちどころがないなら,奉仕者の任につかせるべきだ。』(テモテ前 3:10,新世)『そして,あなたが多くの証人の前で私から聞いたことを,さらに他の者たちにも教えることのできるような忠実な人々に,ゆだねなさい。』― テモテ後 2:2,新口。
5,6 この任命の手続は,どのくらい一般的なものでしたか。任命を受けた者は,キリスト教国の牧師のようですか。
5 これは,クリスチャン会衆内のいたるところで行われた一定した取極であり,会衆の群を世話するために責任のある人々を任命する方法だつたのです。そのことは,はるか遠いアンテオケでも行われていたのです。聖書にこう書かれています,『アンテオケにある会衆には,予言者や教師たちがいた。』(使行 13:1,新世)ピリピ人に宛書したパウロは,こう語つています,『ピリピにいる,キリスト・イエスにある聖徒たち,そして監督たちと宣教上の僕たちへ』(ピリピ 1:1,新世)神権的なクリスチャン制度内にいるこれらの宣教上の僕たち,監督,そして補佐たちは,キリスト教国の牧師級の者と全然似ていません。神権的な僕たちは,自分の群を政治,社会改革,精神療法,賭博,または異教の宗教的な教理と行に導くなどと主張もしなければ,企てもしません。そのような僕たちは,次の事柄の故に認められているのです,すなわち彼らは神の言葉とキリストの律法を学んで教え,ヱホバの御国とキリストの贖,復活,新しい世,を伝道しました。そして,先ず,クリスチャン制度を構成する各人は,美徳を保たねばならず,もしそうでないなら排斥される,と主張したのです。
6 それで,このような方針に沿つて,初期の教会は組織され,運営されました。使徒の死後に生じた状態に対しては,初期の教会も,また初期の教会が伝道した神の言葉も責任を持たないのです。後になつて,クリスチャン制度は異教の世に束縛されるようになり,混成のもの,すなわち異教と偽りのキリスト教の融合した宗教が生じてきました。キリスト教と『キリスト教国』は同じものでありません。両者は,清い崇拝と美徳に関する論争で正反対の側に立つているのです。
7 (イ)使徒行伝 20章にあるパウロの予言の環境と内容を論じなさい。(ロ)その予言は成就されて,真理と美徳はすつかり無くなつてしまいましたか。
7 神の霊を持つていた使徒パウロは,サタンの反対とクリスチャン制度を取巻く環境を良く知つていました。それで,霊感を受けて語つた使徒パウロは将来のことを見こして,ミレトからエペソの会衆の円熟した人々に,手紙を書送り,こう告げました,『私はいま信じている,あなたがたの間を歩きまわつて御国を宣べ伝えたこの私の顔を,みんなが今後二度と見ることはあるまい。だから,今日,この日にあなた方に断言しておく。私はすべての人の血について,なんら責任がない。神の御旨をみなあますところなく,あなた方に伝えておいたからである。どうか,あなたがた自身に気をつけ,またすべての群に気をくばつていただきたい。聖霊は,神が(御子の)血であがない取れた神の会衆を牧させるために,あなた方をその群の監督に任命したのである。私が去つた後,狂暴な狼が,あなた方の中に入りこんできて,容赦なく群を荒すようになることを,私は知つている。また,あなた方自身の中からも,いろいろ曲つたことを言つて,弟子たちを自分の方に,ひつぱり込もうとする者らが起るであろう。……あなたがたもこのように働いて,弱い者を助けなければならない,また「受けるよりは与える方が,さいわいである」と言われた主イエスの言葉を記憶していなければならない。』(使行 20:18-35,新世)パウロの予告した通り,神の群は内と外からの狼によつて荒らされました。そして,歴史の記録によると,その後の時代に真理の光はまつたく細々と照つていたのです。クリスチャン会衆は囚れの状態に入りましたが,しかしキリスト教の原則は存続し,かつ神の言葉は神の力によつて幾世紀ものあいだ保存されたのです。それで,神の言葉は,今日でも清いものであり,信頼を置くことができます。
これに向を変えることができる
8 今日どんなご準備が実際にありますか。
8 しかし,今日では,神の言葉以外のものも存在しています。それも,神の言葉の場合と同じく,ヱホバの霊によつて可能にされているのです。それは全地に拡大している新しい世の社会です。それは,すべての国の人々により構成されているもので,各人はヱホバ神に献身し,かつ清い崇拝の拡大の業に参加するとき,ヱホバの是認と霊を持つ,という証を立てています。いままでにない程に堕落し切つたこの世にあつて,正義の宿る新しい世に献身している社会がある,などということは,どうして可能ですか。(ペテロ後 3:13)成員や,交る者たちは,美徳を行わねばならぬと強く主張するひとつの社会,すなわちクリスチャンたちの一つの群は,実際にこの地上に存在しており,あなたはそれに依存することができますか。たしかに,あるのです!
9,10 どんな発展を通して,神権的な支配は再び確立されましたか。
9 エペソの会衆の円熟した人々への最後の話の中で指摘したように,使徒パウロは御国の音信を伝道しました。ヱホバの約束に信仰を持つた人々は,ヱホバの予定の時に立てられる天の御国の設立に信仰を持ち,かつその設立を期待していたのです。この正義の政府の誕生する時が近づくにつれて,ヱホバはひとつの業をこの地上になさせました。そして,御自分の真理の言葉を理解させることにより,クリスチャンたちをクリスチャン教理,制度,そして実践に進歩せしめたのです。19世紀の後半になつて,神の御国を宣明する準備の業がこの地上で始まりました。それは小さなものでしたが,決して軽視せられるべきものでなかつたのです。クリスチャンたちは,一つの非宗派的な社会,そして会衆を形成し,統一的な聖書研究と宣教を行つたのです。彼らは牧師支配の弊害を見たために,先ず民主主義的な方針にしたがつて組織し,各会衆は民主主義的な投票により自分たちの事柄を処理して行きました。後になつて,進歩が行われ神権的な支配がなされるようになりました。1931年が来たとき,業の統一的な運営のために形成された彼らの正式な協会は,一歩前進した段階を取り,地上にいるクリスチャンたちの中に神権的な支配の復旧を図つたのです。
10 翌年の1932年,全世界にいたヱホバの証者の会衆は,神権的な取極に服し,ヱホバの明白な祝福を頂きました。今日にいたるまで,全地に拡大している新しい世の社会は,初期クリスチャン会衆と同じく,非営利的に,また非政治的に運営されています。そして,その中にいる各人は,自発的に行うのです。それで,今ではクリスチャン会衆に対して正しい神権的な支配が為されているのです。その支配は,パウロの警告した束縛の時から後に存在していませんでした。
11 誰がクリスチャンの新世社会を指示しますか。
11 誰がその制度を制御しますか? 誰がその制度を指示しますか。誰がその頭ですか。ひとりの人? 人々の群? 牧師級? 法王? 教職者制度? 会議? そうではありません。その一つでもないのです。それでは,どうしてそれが可能ですか。どの制度であつても,その制度を制御して導く,指示の頭すなわち綱領を設ける部分が必要ではありませんか。たしかに必要です。生ける神ヱホバは神権的なクリスチャン制度の指示者ですか。たしかに,そうです!
12 どんな重大な事実は,前述の答えを証明しますか。
12 次のような重大な事実があります,すなわち神権的な新世社会の運営を支配する法律はヱホバ神の言葉であり,また天に即位されたキリスト・イエスは地上におけるヱホバの業を行うヱホバの代理者であるということ,そしてキリスト・イエスによる神の霊は,神の言葉を通して献身した僕たちの心と思に注がれている,ということです。その理由で新世社会は,『神の支配するもの』という意味において神権的なものです。
13 (イ)宣教上の僕たちの任命は,どのようになされますか。(ロ)そのような任命が神権的であることを証明しなさい。(ハ)神権的な制御は誰になされますか。
13 キリスト・イエスが,この地上に来て,各宣教上の僕たち,監督,補佐,そして地上の会衆内にいる他の奉仕者たちを任命するのですか。そうではありません。それでは,そのような任命は,どうしてなされるのですか。そのような任命は,合法の機関である協会と結合している見える統治体によつてなされます。1884年,ヱホバの証者はその目的の為に協会を法人化しましたが,それは今ペンシルバニアの『ものみの塔聖書冊子協会』と言われます。それは神権的なものです。なぜなら,それは大いなる神権者の書かれた御言葉に一致して行い,またキリスト・イエスの始めた初期クリスチャン教会なる会衆の模範的な制度に一致して行うからです。『こじつけだ。』と言う人がいますか。それでは,ヱホバの証者は神権的な制度でない,と主張する人々に,いつたいどの点でヱホバの証者が神権的でないかを指摘させてごらんなさい。言葉においても行においても,教理においても,制度においても,また実践においても,新しい世の社会はヱホバ神の言葉に従おうと熱心に努め,またヱホバ神の言葉の原則に拠ろうと努めています。それですから,それは聖書的であり,キリスト教のものであり,神権的なもの,神の指示せられている制度です。ヱホバは,御自分の御言葉を通して,御意を人々に告げています。聖書の型,すなわち聖書の模範に従つている他の制度は,ひとつとしてキリスト教国の中にありません。ヱホバの証者の新しい世の社会だけが,その成員たちに,個人的な事柄や会衆の事柄において聖書の型に従わねばならぬ,と強くすすめているのです。この神権的な制御と指示は,すべての人々に為されているわけではないのです。それと接するすべての人々,またヱホバの証者の会衆と交る人々や,集会に出席するすべての人々に,神権的な制御と指示がなされるわけでありません。各人は,ヱホバ神に個人的な献身をなすことにより,自ら進んでその恩恵をもたらす支配の下に服さねばなりません。そのわけで,神権的な制御と指示は,献身した者たちだけになされるのです。
14 どんな目的のために神権的な任命がなされますか。
14 現在,会衆の僕たちや神権制度の他の特別な代表者たちに義務が委託されていますが,それは特定の目的の為です。これらの人々は,神の群を養い,忠実に愛をもつて牧さねばなりません。それらの人々は,どの場所にいようともヱホバの民を援助して,聖書を研究させ,また円熟に進ませて,御国の良いたよりを他の人々に伝道する野外宣教の訓練を施さねばならないのです。また新しい世の社会制度に属する会衆内で美徳を保存しなければなりません。あらゆる種類の腐敗,悪行が入りこんで汚れるのを防ぐために,このことは必要なのです。
15 排斥するという神権的な原則は新しい世の社会に,どのように存在していますか。
15 前に学んだごとく,模型的なイスラエルの国民の場合,清い崇拝を腐敗させた悪しき者たちは,殺されました。クリスチャン会衆の場合,会衆の成員は,悪を行つた者を殺しません。しかし,キリスト教的な排除,つまり排斥がなされます。これは人間の生命を殺すことではありませんが,しかしヱホバ神に仕える献身した僕たちの会衆の交りから排斥する,つまり新しい世の社会から取り除くことです。そのような事柄に対処するクリスチャン規則の他の御準備をすつかり用いつくした後では,このことが必要です。そして,その処置は,円熟した判断によつて為され,クリスチャン会衆内の任命された僕たちは良く考慮を払つてその処置をいたします。これは,彼らの責任です。忠実な僕たちは,情に動かされずに,その責任を果さねばなりません。それは,当事者すべての為であるだけでなく,ヱホバの誉のためでもあり,また制度を清く保つためでもあります。
排斥にたいする態度
16 清めを必要とする非行を列挙しなさい。
16 排斥を必要にした非行は,初期のクリスチャン会衆の時に刑罰を受けたものを含んでいます。そのような非行とは,嘘を言続けること,盗むこと,不正直な仕事をすること,性の非行,偽の教理を教えること,キリスト・イエスを通して設けられるヱホバの御準備を否認すること,神権制度に反逆すること,分裂を惹起すこと,そしること,陰口を言うこと,そして他の悪行を含んでいます。これらのものは,有徳のものでない,と私たちは知つていますし,ヱホバ神や御子キリスト・イエスがそれらのものを行うなどとは信ずることができません。
17 どのような面で,排斥は愛の行ですか。
17 これらの事柄におけるクリスチャンの律法は,人間の弱点を無視しておらず,またキリスト・イエスのあがないの御準備やヱホバのゆるし,と憐れみを見過しません。排斥の処置は,これらのものをみな考慮に入れるのであつて,清めと美徳を保ち,かつ回復を図るための他の準備がみな旨く行かない場合に,いよいよ最後になつて,取られる手段なのです。この故に,排斥は実際には愛の行なのです。まず,ヱホバ神とキリスト・イエスの愛,神権制度そのものの愛,そしてその行を直接に正しくなす会衆内の僕たちの愛なのです。排斥は,悪意を抱くとか,親切心のない気持で為されるのでありません。それはヱホバの正義の律法に従つて為される故に,愛の行であります。それは,忠実を表わす行です。制度を清く保つことに失敗することは,不忠実です。排斥には,三つの目的があるのです,(1)新世社会のクリスチャン会衆を清く保つこと,(2)この峻烈な手段を取ることにより,できるなら非行者を援助すること。それには,その者が自分の過ちを銘記し,そしてヱホバ神の前に正しく悔改めることを条件とする,(3)その処置を見る者たちのため。これを見ることによつて,それらの人々は神権制度の正しいことを確信すると共に,正しい行から外れることの重大さについての警めともなります。
18 性の非行とクリスチャン律法の他の非行とを比較しなさい。
18 いろいろな非行があります。そのいくらかは前に述べましたが,それらは,もし行い続けて行くならば,個人や会衆を弱めてしまいます。その大部分は,他の人々に対する非行である,と認めることができます。それらは,他の人々より特定の権利を奪い取つてしまう故,愛の不足を示します。しかし,或る人々にとつては,性の非行がなぜクリスチャン制度内では不都合なのか,またなぜ神は御言葉である聖書の中でそれを強くいましめて,禁じておられるのか,理解し難いように思えます。人間の生命を伝える御準備をつくられた方は,大いなる創造主御父なのです。これは極めてすばらしいものであり,また神聖なものです。私たちはみなその恩恵を受けました。おかげで私たちは生きております。もしこの恩恵をうけ入れるなら,私たちはもちろん神の方法を受けいれます。そして,その恩恵と方法を受けいれるなら,事柄全体についての神の規定を受けいれるのは私たちの義務であります。或る人々は,こんな風に論ずるかもしれません,性の非行は何の害をもなさない,その行に進んで同意して為す者にも害がない。それだから,その行が非常に悪い,ということはない。嘘を言うことは,もちろん悪いし,盗むことも,もちろん悪い。そのようなものは,他の人々から,その人々に属する正しい分を取つてしまう。しかし,姦淫とか淫行のような行は,それらのものとは違うのではなかろうか。古い世では,その行は広く一般に行われているではないか。新しい世の社会の成員が,そうすることは,なぜそんなにも悪いのか,というのです。
19 パウロは,宗教の含まれていることをどのように示していますか。
19 多分,使徒パウロは,そのような考え方もしくは類似した考え方に面したのかもしれません。とにかく,コリント前書 6章の中でパウロは宗教が含まれている,と示しています。その一部は次のようです,『不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は,からだの外にある。しかし,不品行をする者は,自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは,神から受けて自分の内に宿つている聖霊の宮であつて,あなた方は,もはや自分自身のものではないのである。あなた方は,代価を払つて買いとられたのだ。それだから,自分のからだをもつて,神の栄光をあらわしなさい。』― コリント前 6:9-20,新口。
20 主の『他の羊』は,なぜ性の非行をしてはなりませんか。
20 ここで,パウロはキリストの体の成員たちに向つて述べています。すると,汚れた性行為を禁ずるこのいましめは,新世社会の大多数を構成している主の他の羊には適用しない,ということですか。そのように結論することはできません。道徳的な清めを保て,と命ずるこのいましめは,ヱホバ神に献身しているすべての僕たちにひとしく適用するのです。なぜ? なぜなら,神の霊は,群なる体としても,または個人としても,献身した御自分の民の上に注がれているからです。罰に処せられる他の罪,すなわち嘘を言うこと,盗むこと,悪い教理を教えること,そして反逆することは,主の『他の羊』に属する各成員の体の外でなす罰です。しかし,姦淫や淫行の罪は,神を崇めるために用いねばならぬ自分自身の体に対して犯す罪です。
21 神を崇(あが)めるために,私たちは何をしなければなりませんか。
21 神の定めた規定に従うのを拒絶するなら,私たちはこのことや,他の事において神を崇めることはできません。ヱホバの他の羊の者たちもヱホバの霊を持つていますか。持つています。その故に,彼らは自分自身の体に対して罪を犯そうとはしないのです。私たちの生活している時代は,危険な時であり,苦しい時です。それで,美徳を保存することは必要になつています。それは,『キリストの体』の残れる者の成員だけでなく,主の『他の羊』の成員にも要求されているのです。両方の者は皆新しい世の社会を構成しているか,あるいは構成することを望んでいます。ずつと昔のパウロの時代でも,淫行はひろまつている,とパウロは述べていました。今でも,淫行は昔と同じくひろまつているのです。
22 美徳を保存する,というこの事柄において,全会衆の特権と責任についてはどうですか。
22 美徳を保存するというこの事において,全会衆の特権と責任についてはどうですか。模型的なイスラエルの場合,ヱホバ神の律法に照らして死刑を受けるに価する悪行者に対しては,死刑を執行したのは会衆,すなわち国民であつた,ということを想い起します。クリスチャン会衆内では,すべての人はヱホバの美徳を人々の中に保存しようと,誠実な気持から願わねばなりません。彼らは,排斥というような事柄に関する僕たちの決定を尊重しなければなりません。このことは,テトス書 1章5-16節の聖句によつて裏づけられています,『彼が健全な教によつて人をさとし,また反対者の誤りを指摘することができるためである。……法に服さない者……彼らの口を封ずべきである。……彼らをきびしく責め……彼らは神を知つていると,口では言うが,行ではそれを否定している。彼らは忌まわしい者である。』このことから,法に服さぬことは,許されないということが分ります。法に服さぬことは,2番目の違反です。神の律法を破る最初の違反をするなら,排斥の処置が取られます。2番目の違反をしても,その最初の違反に何らの助けにもならなければ,また救うこともできないのです。排斥の処置に関する決定に疑問を持つ人は,神とその言葉に信仰を持つという自分自身の言葉,そして神の言葉が神の民のなかで実施されるのを見たいという自分自身の言葉と矛盾しています。それは,清い崇拝の拡大というすばらしい業をなしている新世社会に加わわることと矛盾します。それは,信頼の欠如を示します。一方,会衆内のすべての者が協力して,全員のために為された排斥につき,指示通りに従うことは,交りを持つ人々が信頼を示していることになります。そのわけで,会衆内のすべの人が,会衆の方針を受入れることは必要です。パウロはテサロニケ人に宛てて,次のように書きました,『兄弟たちよ,私たちはお願いする。どうか,あなた方の間で労し,主にあつてあなた方を指導し,かつ訓戒している人々を重んじ,彼らの働きを思つて,特に愛し敬いなさい。』― テサロニケ前 5:12-27,新口。
23 誤を犯した人は,自分の罪のゆえに,どの程度まで悲しまねばなりませんか。
23 排斥された者が怒りを持つなら,その者は悔改めていません。悔改めている人が,怒りの気持を抱く,ということはあり得ないからです。そのわけで,はきちがえた憐れみ,はきちがえた同情があつてはなりません。排斥されたときに,心は悲しみを感じなければなりませんか。そうです。排斥されると,心は悲しみます。小さなものにせよ,重大なものにせよ,神の律法を破つて罪を犯す人は,心から悔改めねばなりません。そして,心は悲しまねばならないのです。排斥された人の場合,その排斥が当人の為にもなり,また,会衆への復帰が許されるためには断腸の思をしなければなりません。また,美徳を持とうという誠実な真の欲求がなければならないのです。この欲求は,悔改めに導くでしよう。
24 どんな行によつて,私たちはヱホバに依存していることと,ヱホバの美徳を愛するということを示しますか。
24 真正な崇拝と神の美徳の保存ということに関し,全会衆は試験を受けているのです。従順な行をするなら,ヱホバの祝福を頂きます。それで,会衆内のすべての者は,あらゆること,― 真理そのものに対し,また私たちの忠実を保たせ,私たちの宣教を行わせるヱホバの霊に対し,そして生命という共通の祝福に対しても,キリスト・イエスを通してヱホバに依存している,ということをいつも示します。助言や導きや,また厳しいこらしめが適用されて与えられるなら,「徳といわれるもの,称讃に値するものがあれば」それはキリスト・イエスを通してヱホバ神から与えられるものです。年々歳々,神権的な新しい世の社会は,クリスチャンである私たちの心からの支持と協力を受けるに値するものです。私たちクリスチャンたちは,美徳のある勝利の御国にいられるヱホバ神に崇拝を捧げ,美徳を保存します。新しい世の社会に向を変えなさい!
-
-
子供たちはこらしめに応ずるものみの塔 1957 | 2月1日
-
-
子供たちはこらしめに応ずる
ひとりの母親は,4人の子供たちを訓練した努力について,次のような手紙を送つてきました,『良く言うように,子供たちの行儀を直すため,私はできるだけの手をつくしてきた,と思いましたが,毎日いろいろな事柄で子供たちは言うことを聞かず,親に手向うのでした。私は5年間ヱホバの証者でしたが,夫はひどく反対しており,子供たちに「ものみの塔」の出版物を読んではいけないと言っていました。子供たちに聖書を毎日教えるのは両親の責任である,と強調されたとき,私は毎日聖書を読む為の時間を設けようと決めました。丁度その時間は子供たちが一番楽しむ時にカチ合つたため,7歳,5歳,3歳の男の子は,猛然と反対しました。創造の記録が終つた後は,子供たちは興味を失つてしまい,私が毎晩テレビジョンを切つて,さあ聖書を読む時間ですよ,と言うと,大声でわめき散らして反対しました。片手に聖書を持ち,片手に鞭を持つて座つたことは,しばしばでした。しかし,日が経つにつれ,子供たちは反対しなくなり,3年後の今では,子供たちはよろこんで聞くどころか,子供たちの方から聖書を読みたいと言つてきて,代わるがわるに読んでおり,読んだところについて質問してもらいたい,と私に願う程です。この習慣の結果は,本当に大きいものでした。聖書についての子供たちの知識が深まるだけでなく,家の中も大へん良くなり,こらしめる必要がずつと少くなりました。そして,子供たちは学校の級で首席になつています。それも,難しい言葉を声を出してはつきり読んできたお陰です。』
-
-
対照ものみの塔 1957 | 2月1日
-
-
対照
聖ペテロ大会堂でなされた15分間の話の中で,ローマ・カトリック教会は政治を排斥することができない,と法王は最近に語りました。1956年7月23日のニューヨーク・タイムス紙によると,『法王ピオ12世は,ローマ・カトリック信徒が政治に積極的な参加をするよう,今日強くすすめた。』しかし,キリスト・イエスは,御国の福音伝道に積極的な参加をするよう弟子たちに強くすすめたのです。政治については,キリストの一人の弟子は,霊感を受けて次のように書きました,『世を友とするのは,神への敵対であることを,知らないか。おおよそ,世の友となろうと思う者は,自らを神の敵とするのである。』― ヤコブ 4:4,新口。
-