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あなたはつまずく傾向がありますかものみの塔 1972 | 11月15日
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者は,みな斯のごとき思を懐き居らば,神これをも示し給はん。ただ我らはその至れる所に随ひて歩むべし」― ピリピ 3:13-16。
もし難問題や試練があるなら,あるいはもし自分の知っている真理のわく内ではなかなか理解できないと思う事があるなら,神に祈ってください。ヤコブはこう述べました。「汝らの中もし知恵の欠くる者あらば,咎むることなく,また惜むことなく,凡ての人に与ふる神に求むべし,然らば与えられん。但し疑ふことなく,信仰をもて求むべし」。(ヤコブ 1:5,6)きびしい試練や裁きのときには,自由に神に近づいてください。使徒ヨハネはこう語っています。「斯く我らの愛,完全を得て審判の日に懼なからしむ」。(ヨハネ第一 4:17)もしわたしたちが,必要なときに「恵の御座」に近づくなら,いつでも助けが与えられることを確信できます。そうすれば,神はわたしたちに正しい態度を教えてくださるでしょう。―ヘブル 4:16。
それから,自分の祈りに従って行動してください。次のように考えてみてください。エホバへの奉仕において,わたしたちはどの程度進歩しただろうか。どの面で進歩しただろうか。その進歩は,神のことばの研究や神の民との交わり,日常生活に聖書の原則を適用したり,集会で注解を述べたり,そのほかの割当てを果たしたりすることによって,得られたのではなかっただろうか。それはまた,宣べ伝えるわざに参加することによって得られたのではなかっただろうか。自分の信仰をはばかりなく言い表わすようになったのも,また他の人たちに良いたよりを伝える能力を培ったのも,こうした方法によるものではなかっただろうか。それから,「その至れる所に随ひて歩むべし」とパウロは助言しています。
もしあなたが危くつまずきそうになるとき,これらのことを行なうなら,神は,ご自分に仕えるあなたの幸福と喜びを回復させてくださるでしょう。そしてあなたは,次のように書いた使徒パウロの確信を言い表わすことができるでしょう。「われ確く信ず,死も生命も,御使も,権威ある者も,今ある者も後あらん者も,力ある者も,高きも深きも,此の他の造られたるものも,我らの主キリスト・イエスにある神の愛より,我らを離れしむるを得ざることを」― ロマ 8:38,39。
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神は「死んで」はいないものみの塔 1972 | 11月15日
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神は「死んで」はいない
1 「神は死んだ」という発言は何を意味していると進学者は述べていますか。
教会の僧職者の中には,「神は死んだ」と唱える人がいますが,それについてあなたはどう思いますか。そのように評するキリスト教世界の有力な一部の神学者は,それは神が存存しなかったという意味ではないと釈明しています。むしろ彼らは,神は『現代の歴史に関係してはいない』と言おうとしているのです。神は人間の事がらを意に介してはおらず,また干渉したり助けたりせずに人間を勝手に歩むままにさせている,とそれらの神学者は考えています。
2 この理論は,それを信ずる人たちの行動にどう影響しますか。
2 したがって,そうした理論を信ずる人は,自分たちが何をしようが,神がその責任を問うことはないと感じています。そして,自分たちのすることを神は見てはいない,もしくはたとえ見ていようと,何らかの処置を取るほど気にかけてはいないと考えています。
3,4 「神が死んだ」と言う僧職者には言い訳をする余地が少しもないのはなぜですか。
3 「キリスト教」を奉じていると公式に唱える諸国民の宗教指導者ともあろう者がそのような態度を取るとは信じがたいことです。彼らは聖書を持っており,歴史的記録を調べることもできれば,自然界の創造物を観察することもできます。創造物をそれほど顧み,真理と高潔な原則のしるされた聖書のような本を備えさせた神は,まさしくご自分の創造物に関心を持つ神であることを,それら宗教指導者は確かに識別しうるはずです。そのうえ聖書には,神が人間と交渉した幾百もの事例および,今日生きている人びとに対する最大の配慮と気づかいを反映する数多くの約束や預言がしるされているのです。
4 それでエホバは,それらの僧職者と同様の考え方をした昔の民族に関する記述をご自分の預言者エゼキエルを通して与えておられます。それは神を信ずる人たちが,それら宗教指導者の愚かな態度をいだかないようにするためです。エホバは,そのような考え方が招く悪い結果 ― それがもたらす卑しい事がらを示しています。
エホバに関するエゼキエルの第二の幻
5,6 (イ)エゼキエルはいつ,どこでエホバに関する第二の幻を得ましたか。(ロ)ユダの年長者たちが待っていたとき,エゼキエルは幻の中で何を見ましたか。
5 エゼキエルはバビロンにいました。時は西暦前612年,エホバの天の戦車がエルサレムに向かって進むのをエゼキエルが最初の幻で見てから1年余の後のことでした。テルアビブのわが家にいたエゼキエルの前には,自分たちに対するどんな音信を彼が得たかを知ろうとしてユダの年長者たちが座していました。彼らが待っていると,エゼキエルは次のような幻を得ました。
6 「我すなはち視しに火のごとくに見ゆる形象あり 腰より下は火のごとく見ゆ 腰より上は光輝て見え焼たる金属の色のごとし 彼手のごとき者を伸て吾が頭髪を執りしかば霊われを地と天の間に曳あげ 神の異象の中に我をエルサレムに携へゆき 北にむかへる内の門の口にいたらしむ 其処に妬嫉をおこすところの嫉妬の像たてり 彼処にイスラエルの神の栄光あらはる 吾が平原にて見たる異象のごとし」― エゼキエル 8:2-4。
7 エゼキエルは実際にエルサレムに移されたのですか。それとも幻の中でそうされたのですか。
7 エゼキエルにとって,エホバがその幻の中で示した姿を描写するのは困難でした。それは人間の姿などではなくて,畏怖の念をいだかせる栄光に輝くものだったからです。髪の毛をつかんで引き上げられ,霊感を与える霊によって携えられたエゼキエルは,その幻の中で,西方何百㌔のかなたのエルサレムでなされていたことを見ました。
8 (イ)幻の中でエゼキエルはどこに連れてゆかれましたか。(ロ)「嫉妬の像」とは何でしたか。
8 エゼキエルは神殿の奥の中庭の門,つまり北の門のそばに座しました。(神殿そのものは東に面していた。)その門をはいると,犠牲をささげる祭壇の前に出ます。ここで彼はぞっとするようなものを見ました。それは命の通っていない動かない「嫉妬の像」でした。それはある種の偶像です。「アシラ」つまりカナン人の神バアルの妻であった偽りの神 ― 卑わいな性の女神 ― を表わす聖柱だったかもしれません。
「嫉妬の像」
9,10 次いでエホバはどこからエゼキエルに語りかけましたか。何と述べましたか。
9 次いでエホバは,エルサレムに対して裁きを執行すべくその都をさして今や無気味に進行してきたご自分の戦車の上から話しはじめます。エゼキエルはこう告げています。
10 「彼われに言たまう 人の子よ目をあげて北の方を望めと 我すなはち目をあげて北の方を望むに視よ壇の門の北にあたりてその入口に此嫉妬の像あり 彼また我にいひたまふ 人の子よ汝かれらが為ところ即ちイスラエルの家が比にてなすところの大なる憎むべき事を見るや 我これがために吾が聖所をはなれて遠くさるべし 汝身を転らせ 復大なる憎むべき事等を見ん」― エゼキエル 8:5,6。
11 エルサレムの宗教指導者たちの行為はなぜ「憎むべき事」でしたか。それゆえに神は何をせざるをえませんでしたか。
11 エルサレムの宗教指導者たちは,十戒の最初の二つの戒めを破っており,「憎むべき事」を犯していました。その神殿は神が,ご自分の崇拝に専念した一国民としてのイスラエルとともに代表的な仕方で住んだ所でした。しかしユダヤ人は,エホバに嫉妬をいだかせたその「嫉妬の像」の嫌悪すべき崇拝によって神殿を汚した以上,その神殿はエホバが住むのに適した所でしたか。まさにそうではありませんでした。エホバにはそこにとどまる義務はありませんでした。それどころか,エホバはそのことばどおり,「吾が聖所をはなれて遠くさる」ため,霊的な意味でのご自身の臨在を中止せざるをえませんでした。
12-14 キリスト教世界では神の聖所と称されている所で「憎むべき事」が行なわれていますが,その一例をあげなさい。
12 「神は死んだ」という人たちのいるキリスト教世界は同様のことをしてきましたか。1971年12月にニューヨーク市の聖クレメント監督教会で起きたことを考えてください。1972年1月3日号,タイム誌はこう報じました。
13 「階上の聖所では興行が行なわれていた。一方の端では,3人の若者たちが,子供の水遊用のプラスチック製のプールの中で楽しげに水しぶきをはねかし,他方の端では俳優ケビン・オコンナー(トム・ペイン)が,サム・シェパードの劇「シカゴ」の中の浴漕のシーン,絶望と新生のシーンを演じた。流しのそばでは二人の主婦が,どの洗剤が最も純粋かについて話し合っていた」。
14 何とばかげたことでしょう。キリストの清い廉潔な教えからの何という堕落でしょう。これは神のみことば聖書を軽べつした結果であり,彼らが仕えていると称する神への専心の献身の道から教会員を引き離す像や象徴物そして教理を用いた結果なのです。
何が行なわれているかをエホバは十分に知っておられる
15-17 (イ)エゼキエルに対して述べられた,「復大なる憎むべき事等を見ん」というエホバのことばはまた,今日キリスト教世界にどのように当てはまりますか。(ロ)それらユダヤ人の指導者たちは,自分たちのしたことを神が知っているかどうかについて何と言いましたか。(ハ)彼らはどんな根拠に基づいて,自分たちのことをエホバは見てはいないという言い訳を述べましたか。
15 エゼキエルが幻の中で視察旅行に案内された時,エホバは彼に,「復大なる憎むべき事等を見ん」と語りました。
16 同様にキリスト教世界では,前節で一見したような事がらは,ほかならぬ同世界の諸教会で続けられてきた憎むべき事がらのほんの一部にすぎません。昔のエゼキエルの幻の中では,民の中の任命されたかしらたちがそうした事がらを行ないました。言行のいずれかで,「神は死んだ」と語る今日の僧職者のように,当時のそれら指導者たちは,「エホバは我らを見ず エホバこの地を棄てたり」と考えました。―エゼキエル 8:12。
17 おそらくそれらユダヤ人の指導者たちは,当時エルサレムとユダ王国がバビロンの手で大いに苦しめられたため,エホバはその「地を棄てた」のではなかろうかと感じました。実際のところ彼らは,僧職者が今日述べているのと同じ事を述べていたのです。
18 神は彼らが行なっていたことを知っていましたか。神は彼らに関して何を気づかっていましたか。
18 ユダのそれらの人たちは自分たちの問題に関して神が処置を講ずるのを見なかったからといって,神は事情を知らなかったと言えますか。そうは言えません。神は,彼らが行なっていたことをよく知っていました。なされて然るべきだと彼らが考えた事がら,すなわちエルサレムを救うわざを単に神が行なわなかったからといって,神は事態を気づかってはいなかった,とは言えません。むしろ神は,憎むべき行ないゆえに彼らを滅ぼすというご自身の裁きを気づかっておられたのです。
19 その後のできごとは,エホバが物事を見,気づかっておられることをどのように明らかにしていますか。
19 当時もエホバは忍耐を働かせましたが,5年後にはエルサレム攻略のため,バビロンの王ネブカデネザルを差し向けました。(エゼキエル 21:18-23)聖書のエレミヤ哀歌の特に2章と4章を読むと,エルサレムに臨んだ災厄は,その都でなされていた憎むべき事がらゆえのエホバの裁きによるものであることがわかります。その時,攻囲を生き残ったユダヤ人も,バビロンにいたユダヤ人も,「エホバは我らを見ず エホバこの地を棄てたり」とは確かに言いませんでした。
20 神は現在,特に何を気づかっておられますか。
20 わたしたちは,重大な危機がキリスト教世界に迫っていることを,この歴史的な記録から理解できます。神は生きており,ご自分の名と真の崇拝を大いに気づかっておられます。また,『神の在すことと神の己を求むる者に報い給ふこととを信ず』る人すべてに関心をいだいています。―ヘブル 11:6。
21 キリスト教世界で起きている事がらから衝撃を受けている人たちは何をすべきですか。
21 あなたは,多くの教会員が従っている僧職者の行なってきた嫌悪すべき事がらから衝撃を受けていますか。では,そのような人たちとの交わりをいっさい捨てて,神に専心の献身をしてください。あなたは,神が物事を見ており,また生ける神としてご自分に頼る者にまさしく報いを与えるかたであることを確信できるでしょう。
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読者からの質問ものみの塔 1972 | 11月15日
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読者からの質問
● エホバの証人は死刑をどのようにみますか。―アメリカの一読者より。
エホバのクリスチャン証人は,死刑に関する神の見解として聖書が述べていることを支持します。エホバの証人は次のことを認めています。すなわち人間の創造者であられるエホバ神は,人が命を享受し続けるために従わねばならない律法を定める絶対的な権利をお持ちであるということです。従って,ある人びととが常習的に罪を犯してそれをやめないために死の刑罰を受けるに値する,と神が決定なさるとき,神は人々の命を正当に取ることがおできになります。神によって執行された死の刑罰の二つの著しい例として洪水による不従順な人類の滅びそして,また後日のソドムとゴモラの滅びがあります。―ペテロ後 2:5,6。
立法者,審判者,また最高主権者であられるエホバ神は,律法違反者に死刑を執行する権能を,ほかの者たちに委任することもおできになります。例えば,ノアの日の洪水ののち,エホバは故意に人を殺した者に死刑を執行する権能を人間にお与えになりました。こう述べられています。「凡そ人の血を流す者は人其血を流さん其は神の像のごとくに人を造りたまひたればなり」。(創世 9:6)殺人者を処罰することにより,人間の権威は「神の役者」,「悪をなす者に怒をもて報ゆる」者として行動することになります。―ロマ 13:4。
もとよりある人は,神のみことばの中で死罪として示されていない行為をしたかどで,人を正当に処刑できるかどうかに疑問を持つかもしれません。それは政府が神のみ前に負わなければならない責任です。しかし,殺人者のために死の刑罰を定めている政府は罪を犯していると言える聖書的根拠はありません。神の見解は,だれかほかの人の命を故意に取る者は,彼自身の命が取られるということです。しかし今日,死刑に関する神の見解を捨てている政府は少なくなく,このことが,増加する犯罪と暴力行為の一因となっていることは疑いありません。
● 名親に立ったり,自分の子どものために名親を定めたりすることは聖書的ですか。―アメリカの一読者より。
厳粛なバプテスマ,そして後日行なわれる堅信礼の際に,幼児または子どものために,親以外の人をひとりあるいは数人名親に立てるという習慣は,カトリック教会の儀式です。この習慣は,洗礼や堅信礼を受ける成人にもあてはまります。
幼児洗礼の際に,名親(たいてい洗礼を受けている親族か友人)は,「子供の名において,神の教会からの信仰」を願い求めるのです。(カトリック百科事典)名親はまた,子どもの名において,信仰の告白と宣言を行ない,洗礼を願い求めます。親が怠慢,つまりカトリック信仰のうちに子どもを育てなかった場合,信仰と道徳に関して,子どもに教える義務が名親に課されます。
堅信礼(洗礼のように,秘跡とみなされる)の儀式の際に,子どもの洗礼のときに指名された名親とは違う別の人ひとりあるいは数人が,名親に立ちます。男女を問わず,その人はカトリックの信仰に精通した人でなければなりません。
この習慣に対する聖書的な立場はどんなものですか。何よりもまず,幼児洗礼は非聖書的なものです。「私のことばに耳をかたむけて……知(る)」ことと,「くいあらためる」こととは,水のバプテスマに先行するものであり,またその水のバプテスマは,本人に厳粛な決定をくだすことを要求するものであるため,当人は自らこれらのことを行ないうる年齢に達していなければならないことは明らかです。(使行 2:14,38,41,バルバロ訳)使徒パウロがこう書いたのもそのためです。「人は心で信じて義とせられ,ことばで宣言して救いをうける」。(ロマ 10:10,バルバロ訳)幼児や小さな子供はそうすることはできません。従って,幼児洗礼は聖書の教えではありません。
そのうえ,だれもほかの人のために,実際に心で信じたり,口で宣言することはできません。従順な未成年の子どもが,忠実な親のゆえに,「清い」と使徒パウロが指摘しているのは確かです。その理由は,神が,子どもに対する責任を,外部の人にではなく,親にゆだねておられるからです。(コリント前 7:14)このように神は,ご自分のしもべたちのために,親切な備えを設けておられます。しかし,そうした子どもが,責任を負える年齢に達したときには,もはやこの取り決めによって保護されることはありません。各自は自分自身の信仰に従って,立つか,あるいは倒れることになります。―ロマ 14:4。エゼキエル 18:20。
使徒パウロがコリントの会衆にこう語ったのは事実です。「あなたたちに,キリストにおける守役が一万人あっても,多くの父を持っているはずはない。実に,福音によって,あなたたちをキリスト・イエズスにおいて生んだのは,私である」。(コリント前 4:15,バルバロ訳)しかしパウロは,この会衆に対していかなる「名親」でもありませんでした。かえって,彼は最初福音を彼らに伝え,それによって彼らは信者になったということです。―コリント後 11:3,13。
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