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何よりもまず,互いに熱烈に愛し合いなさいものみの塔 1973 | 9月15日
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を待ち受けています。また,そうすることによってわたしたちは,今ほんとうに重要な事がらに自分の注意を集中することになるので,神の新秩序のすばらしい時代の恩恵に十分に,そして喜びをいだいて,また首尾よくあずかれるよう用意を整えられるでしょう。
24 「すべてのことにおいて,イエス・キリストを通して神に栄光が帰せられる」ためには,わたしたちは今も,またきたるべき新秩序においても何を行なわねばなりませんか。
24 何ごとを行なうにしても,またなすことすべてにおいて ― 日常の業務また日々の事がら,そして家庭生活において,あるいは人類の世の人びとに命のことばを伝えて仕えるさいにも,またクリスチャン会衆内で互いに仕え合うときにも ―「すべての事を神の栄光のために」行ない,わたしたちが神の愛するみ子イエス・キリストの真の弟子であることを実証できますように。(コリント前 10:31,新)そうすれば,わたしたちは皆いっしょに全地で,エホバのみ名に賛美をもたらす,宝石にも比すべき貴重な民として,つまり神の新秩序で生活する備えのできた民として仕えることができるでしょう。なぜなら,「栄光と偉力はかぎりなく永久に神のもの(だから)です。アーメン」― ペテロ前 4:11,新。
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人類のために開かれた命の道ものみの塔 1973 | 9月15日
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人類のために開かれた命の道
1-3 黙示録 22章17節のことばは,どんな希望を与えていますか。
「霊と花嫁は,『来なさい!』と言いつづける。そして,だれでも聞く者は,『来なさい!』と言いなさい。そして,だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい」― 黙示 22:17。
2 聖書の終わりの箇所のこのことばは,楽観的希望を与えるものです。それは,今日のわたしたちの,悩みの多い短い寿命よりももっと優れた命を約束しています。その種の命を今しっかり捉えはじめる機会があるのでしょうか。
3 それがあるのです。イエス・キリストは,人びとに命を豊かに得させるために来たと言われました。では,その命の水とは何ですか。また,どうすればそれは得られますか。―ヨハネ 10:10,新。
4 イエスは,「命の水」とご自身の犠牲との間にどんな関係があることを指摘されましたか。
4 人類のための永遠の命への道を開いたのは,ささげられたイエスご自身の命の犠牲です。ゆえにイエスは,サマリヤ人の女に次のように話して,命を与える水がご自身の犠牲と関係していることを示されました。「だれでもわたしが与える水を飲む人は,決して渇くことがなく,わたしが与える水は,その人の中で,永遠の命を与えるために沸き上がる水の泉となるのです」― ヨハネ 4:14,新。
5 黙示録 22章17節の「命の水」は地上での命のための備えをさしていますが,聖書はどのようにそのことを示していますか。
5 イエスが与えるこの永遠の命は,永遠に生きる人はすべて天に行かねばならないという意味での命をさしているのでしょうか。決してそうではありません。というのは,黙示録の預言は,命の川の水晶のように透き通った水についてこう述べているからです。「霊と花嫁は,『来なさい!』と言いつづける」。さて,その花嫁は,夫であるキリストをかしらとするクリスチャン会衆です。(コロサイ 1:18。エペソ 5:23。コリント後 11:2)イエス・キリストとともに天的な命にあずかるのは14万4,000人の人たちです。(黙示 14:1,3)霊と花嫁は,さらに他の人びとに「命の水」を提供するのです。ですからそれは,地的な命,つまり完全な人間にふさわしい楽園に一変した地上で享受する人間の永遠の完全な命のための神の備えを象徴しています。
6 その「命の水」は何を表わしていますか。今そのすべてを利用することができますか。
6 「命の水」は,イエス・キリストを通して設けられている命のための備えすべてを表わしています。そのすべてを今利用できますか。いいえ,それはできません。なぜなら,神はまず最初に,現在の邪悪な事物の体制とその見えない支配者であるゴグを除き去らねばならないからです。そのゴグとは,天から放逐されて以来の悪魔サタンのことです。(このことは当誌のこの号の前の2号の記事で論じられています。)しかしわたしたちは,王国の良いたよりを聞き,それに服し,また自分の生活をそれに合わせることによって,その「水」に関して今利用できる事がらを取り入れることができます。―ヨハネ 3:16。ロマ 12:2。
命の水の流れ出る神殿
7 エゼキエルの幻の中の神殿は何を表わしていますか。
7 神の預言者エゼキエルは,黙示録に記されている使徒ヨハネの幻を補足する一つの幻を与えられました。その幻の中でエゼキエルは一つの神殿を見ました。それはソロモンあるいはゼルバベルの建立した神殿のような,人間の建てた神殿ではありませんでした。というのは,当時エルサレムには神殿は跡かたもなかったからです。それより約14年前,その神殿はバビロンのネブカデネザルによって滅ぼされ,エルサレムそのものは荒廃していました。エゼキエルの見た神殿の作りは,ソロモンのそれとは異なっていました。幻の中で,それはすでに建てられ,また視察され,測量される用意が整ったものとして描かれています。しかしそれは,実際には後代に建てられるあるものを預言的に表わしていました。それは,「人間ではなくエホバの立てた真の天幕」を表わしていました。―ヘブル 8:2,新。
8 その「真の天幕」もしくは神殿はいつ存在するようになりましたか。
8 ヘブル人にあてて手紙を書いたクリスチャンの筆者は,その天幕もしくは神殿について詳しく論じ,それが以前の神殿に取って替わったことを示しています。それら以前の神殿の最後のものはゼルバベルの神殿で,それは後にヘロデ王によって再建されました。その「真の天幕」は,イエスがご自分に対する神の意志という「祭壇」の上に,「世の罪を取り去る,神の子羊」として自らをささげられるようにした西暦29年に存在するようになりました。復活後,イエスは,地上でエホバの霊的な祭壇の上に,つまり神の「意志」に基づいてすでにささげた完全な人間としての犠牲の価値を神にささげるため,その神殿の至聖所と呼ばれる仕切り室つまり天そのものにはいられました。―ヘブル 9:23,24; ヨハネ 1:29,新。
9,10 (イ)エゼキエルの見た神殿が『はなはだ高き山の上に』あったという事実から,わたしたちは何を学びますか。(ロ)霊的にいって,エホバの民の中には今どんな状態が見られますか。
9 エゼキエルはその幻の中で,『はなはだ高き山の上に』ある神殿を見ました。このことから,エゼキエルの幻が成就する時代を,時の流れの中ではるか後代に位置ずけられるでしょう。その時代とはイザヤが預言したように,『エホバの家の山(が)もろもろの山のいただきに堅く立ちもろもろの嶺よりもたかくあがる』時代です。エゼキエルは,その幻の中で人の形で表わされたみ使いに案内され,神殿を視察しました。『その面容は銅のごとくにして手に麻の繩とはかり竿をとりて門に立てり』― エゼキエル 40:2,3。イザヤ 2:2。
10 現代においてエホバは,地上のご自分の民のために『霊的な楽園』を回復されました。その民は神の目的に関する理解を享受しており,また神のそうした目的を世界中でふれ告げるわざの点で繁栄しています。今日,エホバの崇拝は『堅く立て』られ,『たかくあげ』られています。何十万もの人びとは「命の水」をただで飲みはじめています。次いで彼らは他の人びとに向かって,「来なさい!」と言うので,エホバの証人の諸会衆は平和と正しい秩序を保って繁栄し,数の面で常に増加しています。
ハルマゲドン生存者たちのための命
11 しかし,エゼキエルが見た事がらは,現代の神の民の霊的な楽園をどのようにしのぐものとなりますか。
11 しかしエゼキエルは,そうした事がらをしのぐ,ある光景を見ました。エゼキエルはすでに,サタンの地上の軍勢の敗北するさまや,「マゴグの地」つまりサタンが今とどまっていて,そこからこの地を悩ましている見えない領域の一掃される様子を見せられていました。(エゼキエル 39:6)次いでエゼキエルは,義をもって治めるイエス・キリストの千年統治期間中,地上で起きる事がらをはっきりと描写した光景を見せてもらいました。その時には,物事に干渉する「ゴグ」つまり悪魔サタンも,その配下の悪霊たちもいっさい存在しなくなります。幻の中でエゼキエルを導いたみ使いは,彼を連れて神殿を視察しました。次いで,エゼキエルはこう述べます。
12,13 (イ)黙示録 22章17節のことばと調和するものとしてエゼキエルが見た事がらについて説明しなさい。(ロ)水について言えば,その源およびその水の流れる方角は何を示していますか。
12 『かくてかれ我を室の門に携えかえりしが室のしきみの下より水の東のかたに流れいずるあり 室のおもては東にむかいおり その水下より出で室の右のかたよりして壇の南より流れ下る』― エゼキエル 47:1。
13 水は,エホバの住んでおられる聖所から流れ出て,中庭にある祭壇のそばを通って東の方角に流れました。それは命の与え主であるエホバ神が,ご自分のみ子で大祭司であるイエス・キリストの贖いの犠牲を認めておられることを示しています。その水は中庭の外に流れ出て,命を必要とする所に向かって流れてゆきました。―ヨハネ第一書 1章7節; 5章11,12節と比べてください。
14,15 (イ)み使いが一千キュビトずつ距離を計ったことには,どんな特別の意味がありますか。(ロ)『くるぶしの深さ』の水は,だれの益のためのものですか。
14 さて,エホバのみ使いは,亜麻でできたはかり繩を使いました。エゼキエルはこう述べます。『その人東に進み手にはかり繩を持ちて一千キュビトをはかり我に水をわたらしむるに水くるぶしにまでおよぶ』― エゼキエル 47:3。
15 み使いが東の方向に一千キュビトずつ距離を計り,その水の流れにより成し遂げられるものとして描かれている事がらすべてがキリストの千年統治期間中に起きることをわたしたちに繰り返し思い起こさせているのは,注目すべき重要なことです。最初に測量されたところの水はごく浅くて,わずかくるぶしに達する深さしかありませんでした。ゴグの地上の軍勢が敗北を喫するハルマゲドンの戦いの直後は,命を与える水は『くるぶしの深さ』の水で十分でしょう。なぜですか。なぜなら,その戦いで最高潮に達する「大患難」の生ずる前に神の王国をしっかり支持する人たちだけが生き残るからです。それらの人びとは「大群衆」と呼ばれてはいますが,地上の現在の人口と比べれば,その数はわずかですし,これまで地上で生活した何十億もの人びとと比較すれば,それは確かにごくわずかです。(黙示 7:9,新)それらの人たちは,全地球的な洪水を生き残ったノアとその家族のようでしょう。その「大群衆」は,正義の人類社会の営みを開始させる人びととなります。彼らは「新しい地」の,すなわち天のメシヤの王国のもとに組織される人類社会の基礎
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