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自分と自分の教えに気をつけなさいものみの塔 1969 | 4月1日
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5章11節(新)でこう勧めています。「したがって,あなたがたが実際に行なっているとおり,互いに慰め,互いの徳を高めることを続けなさい」。
意志を伝達する能力を向上させる
11 意志伝達の能力を向上させる面で聖書はどんな助けを差し伸べていますか。
11 自分の意志を伝える能力をどうしたら増し加えることができますか。伝達の道具である自分の用語をどうしたらふやすことができますか。信頼できる確かな助けをどこに求めることができますか。まず初めに,この点でわたしたちの最善の導きとなるのは聖書です。聖書は理解しやすいことばを用いているだけでなく,その論点は明瞭であり,そこに含まれる考えは信頼できるからです。聖書の著者であられるエホバ神は霊感によってそこにしるされる情報の正確さを図られ,同時に適切なことばと表現が用いられるようにされました。したがって,聖書を日ごとに読むことによって,わたしたちは聖書と同じように力強く,描写力に富んだ伝達手段を身に着けることができるでしょう。しかしこれには単にことばの能力もしくはことばの選択範囲を大きくする以上のことが関係しています。つまり,人の徳を高め,生活の導きとなる情報を人に伝えるためには,神のみことばに含まれる真理に対する愛をもたねばなりません。すぐれたことばの知識を持ちながら,他の人を傷つけることばを無制御に語る人が少なくありません。箴言 12章18節はこの点を巧みに対照させています。「みだりに言をいだし剣をもて刺すがごとくする者あり,されど智慧ある者の舌は人をいやす」。それで神のみことばから創造物に対する神のご要求に関して真理を学ぶことが必要です。
12 言語能力を向上させるために,エホバのご要求を理解することはなぜ大切ですか。
12 他の人に情報を伝えるためには,口を開く前に考えねばなりません。人が物事を十分に考えるためには,思考を形成することばが必要です。同時に,十分な考えがないなら,有益で啓発的な事柄を語ることはできません。箴言 5章1,2節で,神からの知恵と考えること,および語ることが結びつけられている点に注意してください。「わたしの子よ,わたしの知恵に心を用い,わたしのさとしに耳を傾けなさい。これは考える力を守り,あなた自身の舌が知識を守るためである」。(新)この良い教えを無視するなら,箴言 29章20節があてはまるような結果になるでしょう。「なんぢ言をつゝしまざる人を見しや,彼よりはかえって愚なる者に望あり」。したがって目ざすべき目標は単に自分が活用できる用語をふやすことではなく,エホバのお目的についてできるかぎりを知ることです。そして真理の宝を探求し続けるにつれ,わたしたちはさまざまな情況の下で他の人に真理を伝える際に必要なことばや表現を自分の用語範囲に加えることができるのです。パウロが「自分と自分の教えとに絶えず注意を払いなさい」と述べて指摘しているのはこの点です。(テモテ前 4:16)モーセはパロの家族の一員として高い教育を受けた人でした。(ヘブル 11:23-28)それでもこのモーセは物事を明確に伝達できるかどうかを心配し,エホバにこう語りました。「エホバよお許しください。わたしはことばの巧みな者ではありません。これはきのうからでも,その前からでも,またあなたがしもべに語られた時からでもありません。わたしは口が重く,舌の重い者です」。(出エジプト 4:10,新)しかしエホバはモーセに対し,建設的な言語能力の根源者,「人の口を造る者」について思い出させました。―出エジプト 4:11。
13 (イ)聖書の述べるどんな機関は大切な事柄を伝達するという面で手本を示していますか。(ロ)どのように?
13 「忠実なさとい奴隷」は家の者に食物を与える目的でキリスト・イエスによって立てられ,今日に至るまで真理を教える面で率先してきました。この忠実な奴隷たちの集合体は神の国の良いたよりを伝えるため,多くの土地の多くの言語を有効に用いるという面で手本を示しています。この「奴隷」の監督下に書かれた出版物に使われることばは明瞭で,理解しやすいものであり,そこに提出される考えは人の心を終始神のみことばに向けさせるものです。全地で開かれる会衆の集会のプログラムはこの「さとい奴隷」によって組まれ,神についての知識を増し加えることによって信仰を建てることを目的としています。(ロマ 10:14)エホバのみことばの原則にかたく従うこの忠実な「奴隷」の態度には,人に力と確信を持たせるものがあります。人間の知識より神の知恵を重視するこの忠実な「奴隷」は家の者に霊的な食物を与える面で無類の存在であり,エホバの豊かな祝福を引き続き受けています。―マラキ 3:10。
伝達の手段を改善する
14 箴言 13章20節に従うことは,教える能力を向上させる面でどのように役だちますか。
14 自分の教えに気をつけ,自分の伝達の手段を改善するための別の方法として,箴言 13章20節の次のことばがあります。「賢い人と歩いている者は賢くな(る)」。(新)パウロがエペソ書 5章15節で述べるとおり,このためには単なる勉強以上のものが必要です。「それで,あなたがたは十分に注意して,賢くない者ではなく,賢い者のように歩き(なさい)」。(新)しかし,「自分の歩みを定めることさえ,歩く人に属していない」ことをも認めねばなりません。(エレミヤ 10:23,新)聖書はこう記録しています。「会衆はユダヤ,ガリラヤ,サマリヤの全域を通じて平安期にはいり,確立されつゝあった。そして,エホバを恐れ,また聖霊の慰めを得て歩むにつれ,会衆は拡大し続けた」。(使行 9:31,新)ノアは神とともに歩みました。(創世 6:9)イエスは歩み方という面で模範を残されました。(ヨハネ第一 2:6)それである人とともに歩むということは,その人と一致し,同じ考え方に基づいてその人と一緒に行動することを意味しています。パウロはエペソ書 2章1-3節でその点を示し,その中で特に次のことを述べています。「汝ら前には……この世の習慣に……したがひて歩めり……我らもみな前には……肉の慾に従ひて日をおくり肉と心との欲するまゝをな(せり)」。神の民についても同じです。彼らは互いを助け,神のみことば,神の霊そして円熟した神の民の導きに従って自分を強め,聖書の原則にかなった同じ考えに達します。詩篇 119篇63節は賢明な神のしもべの態度をこう言い表わしています。「われは汝をおそるゝ者またなんぢのさとしをまもる者の侶なり」。
15 パウロはクリスチャンの進歩をどのように説明していますか。
15 こゝで聖書にかなった結論を得ることができます。つまり,人はこのすべての進歩を自分自身の力でするのではありません。パウロがコリント後書 3章5,6節(新)で述べるとおり,こうして人を形造る力は神から来ます。「わたしたち自らに十分な資格があり,すべてのことがわたしたち自身によるというのではない。わたしたちが十分な資格を得たのは神によるのである。神はほんとうに,わたしたちを新しい契約の奉仕者として十分に資格のある者としてくださった」。
他の人との交わり
16 聖書の原則を尊重する人々とともに歩むことの益をさらにあげなさい。
16 聖書の原則に従う人々と交わるのは有益なことです。そのような人々とともにいる時,人はほんとうに安心した気持ちになります。確かにこのような人々もまちがいをし,あやまちをすることがあります。しかしそのような場合でも,聖書の教えに基づいて直接に話すことができ,また聞いてもらえるでしょう。高慢な人々の多い今の時代に,聖書からの矯正を受け入れ,「すみません,許してください」とすなおに言う人々と交わるのは大きな祝福です。ほんとうに賢明なのはこのような人々です。
17 (イ)自分の考えを表現する能力は急速に向上しますか。(ロ)この進歩を確かにするため,特にどんな点に気をつけるべきですか。例をあげなさい。
17 わたしたちはどんな事柄においても少しずつ進歩します。これは知識を増し加え,それを活用することにもあてはまります。気をつけるべきなのはこの点です。小さな事柄,わずかな機会に気をつけなさい。これが漸進的な進歩を確かにし,長年のあいだに心づよいほどの進歩となります。会衆の演壇で話をする特権がある時,あなたは自分の考えが聴衆にはっきり伝わるように配慮しますか。あまり使ったことのないことばを調べ,その正しい使い方と発音とを覚えますか。「ものみの塔」研究で節を読むとき,どのことばもつかえずに読めるようにあらかじめ調べますか。家から家に行くとき,自分は家の人以上に聖書について知っていると考えすぎて,必要な準備を粗略にし,あるいは省略しますか。親である皆さんは自分の子供とともに毎日少しずつ進歩することを求めますか。それとも,子供と語り合うことを避けて,子供をテレビがする訓練にゆだねますか。これは新しい言語を学ぶようなものです。毎日少しずつ努力して自分の知る単語を一つか二つずつふやし,それを実際に活用してゆくなら,やがて数百の単語を覚え,その国語を話せるようになるでしょう。ことばや表現法をふやしてゆくにつれ,あなたの話し方は表現力と色彩に富み,意味を十分に伝えるとともに,他の人にきわめて有用なものとなるでしょう。忍耐づよくあり,どんなにわずかな進歩でもそれを喜びなさい。ことばを知らなかった赤子が,時の経過とたゆまぬ訓練とによって,やがてりっぱに話をするおとなとなることを忘れてはなりません。
18 (イ)わたしたちは自分の真の姿をどこに見ることができますか。(ロ)どんなことに注意すべきですか。
18 自分を吟味するためのものとしてエホバが備えた鏡,つまり「自由に属する完全な律法」をよく見ることによって,自分自身に気をつけなさい。(ヤコブ 1:25,新)自分を公正に扱い,気持ちをいらだたせ,いつも疲れを感ずるほどに自分を追いまわしてはなりません。聖書の勧めは神のみことばを鏡とすることであり,ある人がするように,他の人を物事をする際の標準としてはなりません。わたしたちが見ならうべきなのはキリスト・イエスひとりだけであり,イエスはご自分の荷は軽いと言われました。(マタイ 11:30)自分の最善をつくしているなら,他の人が言ったり行なったりすることのゆえに心を煩わしてはなりません。一方,知識を増し加え,能力を向上させることについて,多くの人がするように思わせぶりな態度をとってはなりません。多くの人にとって,進歩のためには努力が必要です。今日の世界において,努力は必ずしも人の関心を集めるものではありません。この点において平衡のとれた見方をするためには,問題をさらに掘り下げることが必要であり,それは次の記事の中で扱います。
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初期クリスチャンをしるしづけた熱意ものみの塔 1969 | 4月1日
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初期クリスチャンをしるしづけた熱意
★ 「二十世紀を経たキリスト教」と題する本の中で,著者は初期クリスチャンと彼らに対するローマ政府の態度とについて次のように述べている。「ローマ政府がユダヤ人の場合に喜んで例外を設けようとしていたのであれば,同様にクリスチャンに対して聖なる皇帝のための祭壇で香をたくのを喜んで免除しようとしなかったのはなぜか。クリスチャンは,ユダヤ人の場合よりも一層苦々しい寛容の問題を引き起こした。ユダヤ人の社会は一種の閉鎖した集団であり,積極的な改宗を行なわなかった。他方クリスチャンは絶えず人々の改宗を勧め,全住民をキリスト教に帰依させようと公然と努めていた」。今日のエホバのクリスチャン証人も,すべての誠実な人が真のキリスト教の原則を学んで実践するのを助けるため熱心に働いている。
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