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あなたは神と共に歩むことができますものみの塔 1985 | 9月1日
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それだからと言って,神の僕はどんな場合でも身体的に保護されるということがここで示唆されているわけではありませんが,神は今日ご自分と共に歩む人々のとこしえの益を必ず守ってくださいます。―サムエル第一 25:29。詩編 116:15と比較してください。
とはいえ,クリスチャンはあたかもある種の魔力に守られた生活をしているかのように,人類に共通のさまざまな問題に遭わずに済むというわけではありません。ソロモンは,『時と予見しえない出来事とが[全人類]に臨む』ことを見て取りました。(伝道 9:11)使徒パウロも,「肉体に一つのとげ」を受けて苦しんでいました。これは何らかの身体的な疾患のことだと思われます。(コリント第二 12:7。ガラテア 4:13-15)パウロの仲間だったテモテもやはり,「度々かかる病気」に悩まされていました。(テモテ第一 5:23)同様に今日のクリスチャンも,病気になったり,場合によっては失意を味わったり,憂うつになったりすることがあります。
さらに,エホバ神はわたしたちを精錬するために,しばらくのあいだ試みが臨むのをお許しになることがあります。ヨセフが投獄されるのをお許しになったときがそうでした。(詩編 105:17-19)ステファノのように,暴力行為に訴える迫害者の手にかかり,若くして死ぬ人もいるでしょう。(使徒 7:57-60)しかし,神の友は決して見捨てられたような気持ちになるべきではありません。(コリント第二 4:8,9と比較してください。)『神は不義な方ではないので,あなた方の働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされないからです』。(ヘブライ 6:10)幾年も不当に投獄されていた間,くじけないよう力づけられたクリスチャンの一婦人は次のように語っています。「エホバへの奉仕にあって熱心な態度で耐え忍ぶ人はだれ一人として失望を味わうことはないとの強い確信を私は抱いています。私は,エホバと,『わたしは決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない』というエホバの保証の言葉に心からの信頼を寄せています」。―ヘブライ 13:5。
わたしたちの戦いを続けてゆくための助け
そうした忠実な歩みを続けてゆくのは容易なことではありません。サタンとその配下の邪悪な霊の勢力はわたしたちを陥れることに余念がありません。(エフェソス 6:12)その上,誘惑となるさまざまな魅力を備えた現在の邪悪な事物の体制があります。デマスという名の1世紀の一クリスチャンは,「今の事物の体制を愛し」たためにわき道にそれて行ってしまいました。(テモテ第二 4:10)最後に,悪に向かう傾向のある,わたしたちの罪深い肉があります。(ローマ 7:21-23)神と共に歩み続けるには,そうした影響力と絶えず戦わなければなりません。
しかし,神はわたしたちのために三つの強力な助けを備えてくださいました。(1)神の言葉,聖書。これは必要とされる導きを与えてくれます。(詩編 119:105)(2)神の見える組織であるクリスチャン会衆。この組織は霊的に人を養うための神の計画を遂行しています。(マタイ 24:45-47。エフェソス 4:11-16)この雑誌の発行者である,ものみの塔協会はその組織と密接な結び付きを持っています。(3)神の聖霊。これは,祈り,聖書研究,神の民との交わりを通して得られます。これらの備えのいずれかをないがしろにするのは重大な誤りになるでしょう。預言者ミカは,「慎みをもってあなたの神と共に歩む」よう,わたしたちに説き勧めています。(ミカ 6:8)これは,自分たちの限界をわきまえ,神に全く依り頼むことを意味しています。
実際,わたしたちが神と共に歩むことは,幼い女の子が激しい嵐の中を父親と共に歩いているのになぞらえられるでしょう。その子が父親の手を離したり,自分の思い通りの道を行こうとしたりすれば,ほどなくして道に迷ってしまうでしょう。しかし,しっかりつかまっていれば,父親と共に,安全にしかも確信を抱いて歩くことができます。わたしたちも,神の言葉や組織を通して与えられる神の指導に服するよう心がけなければなりません。独立の道を行くなら,先の見通しが全くつかないまま道に迷ってしまうにすぎません。しかし,慎みをもって神と共に歩むなら,来たるべきハルマゲドンの嵐のさなかにも安全な導きを得,生き残って,約束されている新秩序に入れます。そこでは,死や痛みは過去のものになります。(啓示 16:16; 21:3,4。ペテロ第二 3:13)それでは,あなたは神と共に歩むようにという神の慈しみ深い招きにこたえ応じますか。
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宗教 ― 一致をもたらす力となりますかものみの塔 1985 | 9月1日
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宗教 ― 一致をもたらす力となりますか
宗教は全体として,この世界にあって,一致をもたらす力になってきたでしょうか。それとも,むしろ死と破壊をもたらす力になってきましたか。それに対する答えとして,世界は紛争の世紀を目撃してきたが,その紛争に火を付けるのは国家主義で,宗教はそれに油を注いできたと言わなければなりません。1909年以来,世界の大きな紛争のうち,宗教に根ざすものが少なくとも14はありました。米国の首都ワシントンの倫理・公序センターの会長アーネスト・ルフィーバーは,「古代から現代に至るまで,宗教が全くかかわり合いを持たなかった戦争はごくわずかしかない」と述べています。
しかし,理論的には,宗教によって世界を平和な状態に保てるはずです。通信社を通して記事を供給しているコラムニストのマイク・ロイコは,「兵士たちが,単に同じ宗教を信奉しているという理由で人を殺すことを拒むとしたら,戦争を遂行してゆくのは[非常に]困難になるだろう」と書いています。次いで,キリスト教ではない同一の信仰を持つ人が「幾万人という単位で,躍起になって互いに殺し合って」きたことに触れてから,こう述べています。「クリスチャンも,他のクリスチャンと戦火を交えることを潔しとしないということはなかった。もしそうだったなら,ヨーロッパでの特に激しい戦争の大半は決して生じなかったであろう」。
そうであれば,宗教と名の付くものとは何の関係も持ちたくないという人が多いことに何の不思議があるでしょうか。神の言葉,聖書をないがしろにしたか,その意味するところを自分の都合のよいようにねじ曲げてきた,戦い合う宗教家たちは,歴史のページを血で染めてきました。
しかし,聖書に略述されている生き方に正しく従えば,紛争にではなく,平和と一致にのみ導かれます。(箴言 3:1-6)イエスはご自分の追随者たちに,『あなた方の敵を愛し,あなた方を憎む者に善を行ない続けなさい』と説き勧めておられました。(ルカ 6:27)イエスはまた,「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」と述べて,ご自分の真の追随者を見分けるしるしを指摘されました。―ヨハネ 13:35。
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