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  • 信仰によって歩みなさい!
    ものみの塔 1985 | 6月1日
    • よって歩んでいるのであり,見えるところによって歩んでいるのではありません」と正直に言うことができるでしょうか。

      11 自分を大事にしすぎると,どんな影響が及ぶかもしれませんか。しかし,わたしたちにはどんなことをする必要がありますか。

      11 自分を大事にしすぎるという危険もあります。ちょっとした頭痛や似たような何らかの問題が実際よりひどいと考えるよう自分に言い聞かせるのは容易なことです。わたしたちは肉の不完全さゆえに,そのことを口実にして神権宣教学校での話をするというような責任を果たさないことがあるかもしれません。ところが,そのときと同じほど体調が悪くても何らかの形のレクリエーションへの参加を取りやめることなど決して考えないという可能性がありますか。もちろん,健全な思いを働かせるべきであって,由々しい症状を軽く扱うことがあってはなりません。それでも,わたしたちには精力的に励む必要が確かにあります。(ルカ 13:24)そして,何の助けも受けない自分の計り事に従って,『見えるところによってのみ歩く』ことがないよう,信仰は確かにわたしたちの決定の中でひときわ目立った位置を占めていなければなりません。―ローマ 12:1-3。

      12 わたしたちはどんな種類の闘いをしていますか。それはわたしたちの側にどんな態度を求めるものとなりますか。

      12 わたしたちが邪悪な霊の勢力と闘っていることを決して忘れてはなりません。(エフェソス 6:11-18)わたしたちの主要な敵である悪魔サタンは,エホバに対する信仰を打ち壊すために編み出した武器を振るって,わたしたちに途方もなく大きな圧力をかけてくることがあります。サタンは人間の持つあらゆる利己的な傾向に訴え,しかもわたしたちの考えを動揺させ得る説得法のどんなものをも見過ごしません。神の「女」,つまり天的組織の「胤」の「残っている者たち」と交わっているのであれば,わたしたちは戦いのただ中にあります。エホバはサタンの攻撃に耐えられるようわたしたちを強めてくださいますが,エホバが悪魔の組織全体に終わりをもたらされるまでは,その戦いから抜け出して休暇を取るようなことはできません。(啓示 12:16,17。ペテロ第一 5:6-11)それでは,今,勇気を持ち,緊急感を抱いているべきではありませんか。確かにそうしているべきです。―詩編 31:24。

      『信仰によって歩む』ことの意味する事柄

      13 『信仰によって歩む』とはどんなことを意味していますか。

      13 『信仰によって歩む』とは,難しい状況の中にあっても,神と,わたしたちの歩みを導く神の能力と,わたしたちを安全に守ろうとしてくださる神の態度とに信仰を抱いて進んで行くことを意味します。(詩編 22:3-5。ヘブライ 11:6)それは,物事の単なるうわべの有様や,何の助けも受けない,人間の推論によって導かれることを拒むという意味です。信仰に動かされると,わたしたちは道がどんなに険しくとも,エホバの指し示してくださる方向へ歩むよう促されます。『信仰によって歩む』なら,わたしたちはダビデのようになります。ダビデは神についてこう述べています。「あなたは命の道筋をわたしに知らせてくださいます。満ち足りた歓びがあなたのみ顔と共にあります。あなたの右には快さが永久にあるのです」。(詩編 16:11)その上,エホバにわたしたちの歩みを導いていただくなら,エホバは平安な思いを与えてくださり,たとえどんなに勝ち目がなくても,わたしたちが勝利を得るよう助けてくださいます。(ヨハネ 16:33。フィリピ 4:6,7)さらに,『信仰によって歩む』のであれば,わたしたちは一致して聖書研究を行ない,祈りをささげるために,霊的な兄弟姉妹と定期的に交わるようになります。―ヘブライ 10:24,25。

      14,15 (イ)富,名声そして政治への介入に対するイエスの態度はどのようなものでしたか。(ロ)聖書の中で明らかにされているように,イエスは神の導きをどのように見ていましたか。

      14 また,『信仰によって歩む』なら,事実上,過去のエホバの忠実な僕たちの仲間になります。それらの僕たちの中でも主要な方は,「信仰の主要な代理者また完成者」であられるイエス・キリストです。「その歩みにしっかり付いて」行くよう努める際に,わたしたちはどんなことに気づくでしょうか。―ヘブライ 12:1-3。ペテロ第一 2:21。

      15 イエスは世の政治に介入することを避け,多くの人々の追い求めていた富や名声を決して求めませんでした。むしろイエスはご自分の王国が『この世のものではない』ことを指摘し,物質主義とは全く無縁で,『頭を横たえる所もありません』でした。(ヨハネ 6:14,15; 18:36。ルカ 9:57,58)イエスは完全な知力を持っていたにもかかわらず,独立の精神を抱いて行動するのではなく,天のみ父に導きを仰ぎました。―ヨハネ 8:28,29。

      16 イエスの模範に照らしてみるとき,エホバの証人の態度についてどんなことが言えますか。

      16 イエスの模範に照らしてみると,今日のエホバの証人についてどんなことが言えるでしょうか。神の天の王国の支持者であるわたしたちは,政治上の「上位の権威」に敬意を示しますが,政治的な問題においては中立を保ちます。(ローマ 13:1-7。マタイ 6:9,10。ヨハネ 17:16)この世で富や名声を求めるよりも,エホバが生活の必要物を備えてくださるとの確信を抱いて,『王国を第一に求め』ます。(マタイ 6:24-34。詩編 37:25)そしてイエスと同じくわたしたちも,『自分の理解に頼らず』,感謝の念を抱いて,愛ある神の導きを受け入れます。(箴言 3:5,6)確かに,このすべてはわたしたちが『信仰によって歩む』のに役立ちます。

      試みと祝福

      17 エホバの民は『信仰によって歩む』に当たって,どんなことに耐えなければなりませんか。この点を実例を挙げて説明してください。

      17 多くの国において,わたしたちの仲間のエホバの証人は,『信仰によって歩む』に当たって,まれに見るような不都合や患難,さらには荒々しい迫害にさえ耐えなければなりません。言うまでもなく,信仰の試みはさまざまな形で姿を現わします。例えば,エクアドルのある年配の兄弟の辛苦と忠実な奉仕について考えてみてください。この兄弟は80歳の時に真理に接し,それから読み書きを学んで,2年後にバプテスマを受けました。ジャングルの中に住んでいたので,王国会館へ行くのに3時間歩かなければなりませんでした。反対していた妻は,クリスチャンの集会に出席する気持ちをくじこうとして,兄弟の衣服やお金を隠していました。しかし,この忠実な兄弟はそうした問題に屈することはありませんでした。10年にわたって一時開拓者,つまり補助開拓者として毎月奉仕し,数多くの村で宣べ伝え,村人からはしばしば虐待されていました。しかし,後日開拓者や宣教者たちがそれらの地域で証言をした時には,大勢の人々が近づいて来て,聖書研究をしたいと言いました。ですから,この熱心な兄弟の勤勉な働きから良い結果が生まれました。この兄弟は92歳の時にガンで亡くなりましたが,亡くなったその月に,40時間を宣教に費やしました。

      18 (イ)神の恵みを享受するには,わたしたちは何をしなければなりませんか。(ロ)『信仰によって歩み,見えるところによって歩まない』ようにしつづけるなら,どんな報いが与えられますか。

      18 わたしたちも問題や辛苦に屈することなく,耐え忍ばなければなりません。(マタイ 24:13)神の恵みを享受するには,神の諭しを当てはめ,神に頼り,世とその態度や習わしから離れた状態を保つことが肝要です。(詩編 37:5。コリント第一 2:12。ヤコブ 1:27)ですから,わたしたちの模範となられる方,イエス・キリストに見倣うよう努めましょう。エホバの栄光ある奉仕に励むために,自己犠牲の精神と進んで事を行なう態度を示すようにしましょう。そうするとき,わたしたちはご自分の忠節な崇拝者たちに対する天のみ父の壮大な約束の成就を,確信を抱いて待ち望むことができます。そして,その成就は神の約束された新秩序における実にすばらしい祝福へと導くものになります。何よりも,『信仰によって歩み,見えるところによって歩まない』なら,わたしたちにはエホバの宇宙主権の立証にあずかるという報いが与えられるでしょう。

      思い起こしますか

      □ 『見えるところによって歩む』ことにはどんな危険がありますか

      □ イスラエル人の経験は今日のエホバの民にどんな警告を与えるものとなっていますか

      □ 自分を大事にしすぎる代わりに,わたしたちにはどうする必要がありますか

      □ 『信仰によって歩む』とは何を行なうことを意味していますか

  • エホバの指導に確信を抱いて歩む
    ものみの塔 1985 | 6月1日
    • エホバの指導に確信を抱いて歩む

      「勇気を出し,強くありなさい。彼らの前で恐れたり,うろたえたりしてはいけない。あなたの神エホバが共に進んで行かれるからである。あなたを見捨てたり,全く見放したりはされない」― 申命記 31:6。

      1 エホバはご自分がイスラエル人の比類のない指導者であることをどのように示されましたか。

      エホバはイスラエル人をエジプトにおける奴隷状態から連れ出された時,ご自分が比類のない指導者であることを示されました。荒野を通り抜けるよう導きをお与えになっただけでなく,食べ物と飲み物を備え,完璧な指示をお与えになりました。ですから,ネヘミヤの時代のレビ人は次のように言うことができました。「あなたは,実にあなた[エホバ神]は,豊かな憐れみによって彼らを荒野に捨てられませんでした。昼は雲の柱が彼らの上から離れないで,道中,彼らを導き,夜は火の柱が離れないで彼らのためにその行くべき道を照らし出しました。そしてあなたの良い霊を,あなたは賜わって彼らを慎重な者とならせ,あなたのマナを彼らの口から差し控えず,水を彼らの渇きのために彼らにお与えになりました。そして四十年間,あなたは荒野で彼らに食物を供給されました。彼らは何も不足しませんでした。彼らの衣さえもすり切れず,彼らの足もはれませんでした」― ネヘミヤ 9:19-21。

      2 モーセはなぜ,『勇気を出し,強くある』ようイスラエル人に勧めることができましたか。

      2 父親のような優しさをもって与えられる懲らしめをもって,“神聖な教え手”は,公正であり義であるとは何を意味しているかをイスラエル人に教えました。その方のなさった事柄はいずれも,イスラエル人に最大の益をもたらすものでした。

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