ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 『神は戦いをやめさせておられる』
    ものみの塔 1984 | 2月15日
    • 『神は戦いをやめさせておられる』

      「それは1942年8月8日のことでした。日本軍は米国の西海岸を攻撃する目的で米領アリューシャン列島の幾つかの島を占領しました。私は米国海軍航空大隊に配属されていましたが,この部隊はそれらの島へ行って日本軍の艦船に魚雷攻撃を仕かけなければなりませんでした。

      「攻撃のさなかに私たちは対空砲火を受け,レーダーが使い物にならなくなりました。私たちは濃霧の中を,果てしなく続くかに思えるようなアリューシャン列島に沿って,基本的な航行機器であるレーダー・システムなしに基地へ戻らなければなりません。私たちは方角を見失ってしまいました。左側に島々とその山々があることは分かっていました。しかし,どれほど離れているのでしょうか。視界は事実上皆無でした。突然,機長が『衝突するぞ!』と叫びました。

      「それから意識を回復するまでの出来事は何一つ覚えていません。搭乗機は山に激突し,私はどういうわけか機体の残がいから遠く離れた所に投げ出されていたのです。搭乗機が依然として燃えているのが見えました。機体の後部はちぎれて離れた所にありました。生存者がいるとすれば,その中にいるはずです」。

      これは生き延びたハーレー・ミラーの言葉です。その飛行機の残がいを写した写真が13ページに出ています。ほかの8人の搭乗員はどうなったのでしょうか。ハーレーはその点について次の記事の中で語っています。その記事を戦記物としてではなく,ついに平和を見いだした人の物語としてお読みになるようにお勧めします。

      ハーレーは海軍にいた間に大勢の人が死ぬのを見ました。それは第二次世界大戦の戦死者の総合計のほんの一部分にすぎませんが,戦争は全く無意味なものであることを認め,なぜ戦争などするのだろうか,という疑問をハーレーに抱かせるのには十分でした。

      人間は幾らかでも賢くなったか

      第二次世界大戦中,軍人と民間人を合わせて約5,500万人の死者が出ました。大きな苦悩と惨状が世界を覆いました。幾百幾千万ものやもめや孤児が自活を余儀なくされました。ですから,戦争の終結した1945年に,戦争のなくなることがあるのだろうか,という疑問が生じたのも当然でした。

      1945年以降に出た答えは,人間は賢くなっていないという悲しむべきものでした。国々はあいも変わらず戦争や紛争のための備えをし,また実際に戦争を行なっています。米国国防省によると,地球の行く末について話し合う目的でこのほど開かれた,ある会議の席上で,ジーン・ラロック退役提督は,第二次世界大戦終結後270の戦争が行なわれてきたことを示唆しました。そして,米ソ両国だけで2万発の核兵器を所有していると付け加え,「このまま進めば,核戦争は必至である」と警告しました。

      まさに野獣のように,諸政府は依然として流血によって国家間の紛争を解決していますが,流される血は大抵の場合に政治支配者たちの血ではありません。そして,実際に戦闘が行なわれていない時には,相互に対する脅威 ― 相互確実破壊(MAD)の説 ― に基づく薄っぺらな平和にしがみついています。しかし,なぜなのでしょうか。人類の歴史に戦争は避けられないもののように見えるのはなぜですか。解決策がありますか。

      戦争があるのはなぜか

      心理学者と人類学者はこの現象を説明するためにさまざまな学説を持ち出してきました。言うまでもなく,そうした人々の考えは進化論と,人間は単に高等な動物にすぎないという概念に根づいています。ですから,「攻撃は人類の生存にとって欠くことができない」と言う人もいます。そうなると,進化論の副産物は戦争の正当化ということになります。

      しかし,心理学者の中には,戦争が攻撃本能の所産にすぎないという考えを受け入れない人もいます。それらの学者は,戦争は後天的な特質で,子供時代の欲求不満の結果であると考えています。その結果彼らは,子供時代にもっと自由にさせることと,より多くを許容する社会とを提唱するのです。しかし,西側世界が何でも許容する社会になった今,戦争の脅威は減少しているでしょうか。

      ロバート・レッキーは自著「戦争」の中で次のように結論しています。「戦争……は生物学的な用語では説明がつかない。それはむしろ社会的,政治的,そして法的な問題のようである。……社会そのものが戦争の根本原因になっているようである。そして大きな社会 ― 主権を持つ民族国家 ― が大きな,そして抑制されない権力を持ち続ける限り,戦争は避けられないこととして残るであろう」。―下線は本誌。

      今から2,000年ほど昔に,イエスの異父兄弟ヤコブは初期クリスチャン会衆について述べた文脈の中で,こう問いかけています。「あなた方の間で闘いや言い争い[直訳,ギリシャ語では,「争いと闘い」の意,王国行間逐語訳]を引き起こすのは何ですか。それはあなた方の肉体の欲望の攻撃的な性質から生じるのではありませんか。あなた方は持つことができないものを欲しがります。……そねみますが,自分の野心を遂げることができません」― ヤコブ 4:1,2,新英訳聖書。

      この言葉は戦争の基本的な原因を知るかぎを与えています。それはそねみ,野心,貪欲さです。この状況は約6,000年間存在してきました。(創世記 4:2-10)領土や所有権や資源をめぐって何と多くの戦争が行なわれたのでしょう! 誇り,国家主義,忠誠心,そして外国人恐怖症,つまり見知らぬ人や外人に対する恐れなどが,軍隊を動員するのに利用されました。しかし,こうした表面的な原因よりももっと深い,根本的な原因が存在します。

      無視された根本的な原因

      言うまでもなく,こうして多くの考察が行なわれているものの,ほとんどすべての専門家たちが無視している要素が一つあります。それは人間を分裂させ,戦わせることを好む,目に見えない力です。その力は,宗教や政治を通してであろうと,快楽の追求を通してであろうと,果てしないほどさまざまな仕方で人類の注意を故意にそらさせています。聖書の中ではその力の正体は明らかにされています。例えばこう書かれています。「わたしたちが神から出ており,全世界が邪悪な者の配下にあることを知っています」。(ヨハネ第一 5:19)その「邪悪な者」とはだれのことでしょうか。イエスご自身,イエスを殺害しようと必死になっていたパリサイ人に対して次のように答えた時に,その者の正体を明らかにされました。「あなた方は,あなた方の父,悪魔からの者であって,自分たちの父の欲望を遂げようと願っているのです。その者は,その始まりにおいて人殺しであり,真理の内に堅く立ちませんでした。真実さが彼の内にないからです。彼が偽りを語るときには,自分の性向のままに語ります。彼は偽り者であって,偽りの父だからです」― ヨハネ 8:44。

      背後にあって人間を好戦的にしている影響力は邪悪な霊の支配者,サタン悪魔なのです。悪魔とその悪霊の追随者は持ち前のサディスティックな傾向を発揮して,人類を戦争や軍備増強に没頭させています。確かに幾百万もの人々が核兵器に抗議して立ち上がり,核凍結を要求してはいますが,そうした人々は唯一の真の解決策,すなわちキリストによる神の王国の支配に対して何の忠誠も示しません。こうしてサタンはうまうまと「人の住む全地を惑わしている」のです。(啓示 12:9)サタンは人類に,雲をつかむような方法で平和を追求させています。つまり,狭量な国家主義的関心事という,戦争に導く要素そのものにしがみつきながら,平和を求めるように仕向けているのです。

      平和はどのようにして確立されるか

      先にロバート・レッキーの言葉を引用しましたが,レッキーはさらにこう述べています。「社会規範を説く科学者たちは,戦争は時代遅れの業で……戦争をたきつけている争い好きの本能は教育,律法そして倫理によって制御することが可能であると述べている」。(下線は本誌。)科学者たちのこの見解は期せずして戦争に対する聖書の解決策と一致します。その解決策は「教育,律法そして倫理」に基づいています。預言者イザヤは2,700年ほど前に,平和へのその道を指摘して次のように述べています。「そして多くの民は必ず行って,こう言う。『来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。神はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう』。律法はシオンから,エホバの言葉はエルサレムから出るのである。そして,神は諸国民の中で必ず裁きを行ない,多くの民に関して事を正される。そして,彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない」― イザヤ 2:3,4。

      この預言は何を示唆しているのでしょうか。それは,多くの国の民がエホバの律法と支配権と主権を認めなければならなくなるということです。人々はその新しい教育を平和裏に受け入れなければなりません。謙虚な態度で,「神はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう」と言わなければならないでしょう。人々は真のクリスチャンの平和の道,すなわち「倫理」を学び,み子キリスト・イエスの完全な模範によって明示されたエホバの道筋を歩むのです。実を言えば,エホバの証人は,一つの世界的な運動として,幾十年もの間この預言を成就してきました。それは人類に臨んだ二つの世界大戦や他の多くの紛争の間も中断されることはありませんでした。

      しかし,全人類のための永続する平和は人間の努力だけでは決してもたらされないという現実をも直視しなければなりません。それよりはるかに偉大なものが必要とされています。多くの人の提唱する国際的な政府だけではなく,狭量な政治や国家主義などすべてを超越した,超国家的な政府が必要とされているのです。キリストを通してもたらされる神の天の政府はまさにそのようなものです。それは平和を実現する唯一の有効な手段です。―マタイ 6:9,10。

      その平和はどのようにして確立されるのでしょうか。諸国家は自発的に自らの国家主権を手放さないので,間もなくその主権を手放すことを余儀なくされるでしょう。預言者ダニエルはこう予告しました。「そして,それらの王たちの日に,天の神は決して滅びることのないひとつの王国を立てられます。そして,その王国はほかのどんな民にも渡されることはありません。それはこれらのすべての王国を打ち砕いて終わらせ,それ自体は定めのない時に至るまで続きます」。(ダニエル 2:44)さらに,啓示 20章1節から3節に示されているように,主要な戦争扇動者であるサタン悪魔は『底知れぬ深みに投げ込まれ』,「千年のあいだ」無活動の状態にされるので,「もはや諸国民を惑わすことができないように」なります。

      人間の利己的な政治王国,つまり諸政府の終わりは,詩編 46編8節から10節にある,希望を与える言葉の完全な成就への道を開きます。そこにはこう書かれています。「あなた方は来て,エホバの働きを見よ。神が驚くべき出来事を地に置かれたのを。神は地の果てに至るまで戦いをやめさせておられる。神は弓を折り,槍を断ち切り,もろもろの車を火で焼かれる。『あなた方は断念せよ。わたしが神であることを知れ。わたしは諸国民の中で高められ,地で高められる』」。エホバの主権は確かに全地で高められるでしょう。その日は近づいています。―マタイ 24章。マルコ 13章。ルカ 21章。

      あなたもすべての戦争が終わるのを目撃したいと思われますか。そうであれば,ダビデが詩編 37編10節と11節で次のように語った栄光ある時の門口にまで来ていることを確信してください。「ほんのもう少しすれば,邪悪な者はいなくなる。……しかし柔和な者たちは地を所有し,豊かな平和にまさに無上の喜びを見いだすであろう」。

  • 私は二度と戦争を学ばない
    ものみの塔 1984 | 2月15日
    • 私は二度と戦争を学ばない

      米国の中西部にあるサウス・ダコタ州は農業をおもな産業とする州です。牛がその美しい平原で草をはんでいます。畑には,春小麦,大麦,カラス麦,トウモロコシそしてライ麦などが豊かに実ります。ここアバディーンの町で,私は1921年7月10日に生を受け,戦争と平和,憎しみと愛の両極端を経験することになる人生を歩み始めたのです。

      両親は勤勉なドイツ人で,宗教と教育を大切なものと考えていました。ですから私はルーテル派の信仰に従ってバプテスマを施され,育てられました。1939年の春には学校を卒業していました。そのころには両親は離婚しており,父は故人になっていました。さて,どんな人生を選んだらよいのでしょうか。

      私は聖書と神に対して深い感謝の念を抱いていたので,牧師になろうと思い,ルーテル派神学校へ入学願書を提出しました。その間にヨーロッパで第二次世界大戦がぼっ発し,神学校からは何の通知も来ていなかったので,1940年7月に私は米国海軍に入りました。こうしてさいは投げられ,平和のためではなく戦争のために働く方向に進むことになりました。

      予備訓練の後に,私は海軍航空隊で服務することを選びました。私の最初の海外勤務地はフィリピン諸島の,マニラからそれほど遠くないオロンガポ航空基地でした。米国はまだ参戦していなかったので,私たちの任務はおもに太平洋上の日本の艦隊の偵察でした。

      日本軍の攻撃

      1941年12月7日に私は週末の当番を割り当てられていました。当番の仕事はひとりで行なう単純な無線の監視で,普通ならくつろぎの時です。すると突然,無線がモールス符号で,「真珠湾が日本軍に攻撃されている」という驚くべきメッセージをとぎれとぎれに伝え始めたのです。私はいすから飛び上がり,警報を鳴らしに走りました。日本軍のフィリピン攻撃も時間の問題であることは分かっていました。

      案の定,明け方には日本軍の爆撃を受けていました。味方の飛行機の中には地上で破壊されたものが少なくありませんでした。かろうじて離陸できた飛行機は日本の軍艦に爆撃や雷撃を加えました。それらの飛行機が戻って来るが早いか,すぐに新しい乗組員が交替してそれに乗り込みました。私もこの果てしなく続くかに思われた危険な任務飛行に交替で加わりました。

      戦いは負け戦で,日本軍の戦闘機はひな鳥に襲いかかる鷹のようにやすやすと私たちの上に舞い下りて来ました。数日を経ずして味方の飛行機はすべて破壊され,基地にいた500人の人員のうち生き残ったのはわずか50人ほどでした。フィリピン諸島から脱出しなければなりません。そこで小さなフランスの客船を徴発し,日本軍の封鎖を突破して3,000㌔ほど離れたオランダ領東インド諸島に逃れました。

      私たちはスラバヤに上陸しました。今のインドネシアです。しかし,日本軍はすぐに押し寄せて来て,私たちはオーストラリアのポート・ダーウィンにまで退却を余儀なくされました。そこなら少しのあいだ射程外にいられるであろうと思っていました。ところが息つく間もなく,日本軍の艦載機が不意にどこからともなく現われ,港を燃える焦熱地獄に変えてしまったのです。20隻ほどの船が沈没しました。私たちは駆逐艦を改装した飛行機輸送船ウィリー・B・プレストン号に乗り組んでいましたが,これも爆撃や機銃掃射を受け,ついに炎上しました。私たちはどうにか火を消し止め,夜陰に乗じて港内からかろうじて抜け出し,オーストラリアの西海岸を下ってフリーマントルへ向かいました。

      その晩私たちは,私の親しい友人多数を含む死者を帆布に包み,重しを付け,それからほとんど何の慰めにもならない言葉を二,三述べた後に,それらの遺体を灰色の海にすべり込ませました。戦争は既に敵を憎むことを私に教え込んでいました。この恐ろしい虐殺で,より一層苦々しい気持ちを抱くようになりました。

      新たな戦闘地帯

      30日の賜暇の後に私たちが次に与えられた任地は,アラスカから南西へ弓状に伸びるアリューシャン列島でした。私たちは日本の艦船を捜索して破壊する飛行任務を絶えず受けました。

      1942年8月8日に,アッツ島の戦いで私たちは対空砲火を受け,レーダーが使い物にならなくなりました。基地へ戻る途中,濃霧に遭い,方角を見失ってしまいました。機長が「衝突するぞ!」と叫んだ後のことは全く覚えていません。

      意識を取り戻すと,搭乗機が依然として燃えているのが見えました。私たちは山に激突し,私は機体の残がいから遠く離れた所に投げ出されていました。その衝撃で機体の後部はちぎれて離れた所にありました。生存者がいるとすれば,その中にいるはずです。体中が痛みましたが,どうやらその後部の所まではって行き,そこに自分の最も親しい友人がいて,まだ生きているのを見つけました。ひどいけがをしていて危篤状態でした。私は燃える残がいの中からようやくその人を引きずり出し,それから再び意識を失いました。

      翌朝意識を取り戻したのは,飛行機の残がいに向かって急降下する捜索機のエンジンの大きな音のためだったに違いありません。捜索機が私たちの上空を通過した時に,力を振り絞ってフライト・ジャケットを振り回し,それから再び意識を失ってゆきました。

      次に気がついた時には海軍病院に横たわっており,私の友人も隣のベッドに横たわっていました。彼はほんの数日しか生きていませんでした。その結果,乗組員9人のうち生存者は私だけということになりました。私はこれまで大勢の人が死ぬのを見てきましたが,今では一番親しい仲間たちもすべて死んでしまったのです。私は,『でも,どうしてこの私が?どうして私が生き残らなければならなかったのか』という疑問を抱き続けました。この時点で私は聖書を読むのをやめ,霊的に最低の状態に落ち込みました。

      私の人生を変えた「立琴」

      私はアリューシャン列島のダッチ・ハーバーから海軍の病院船でワシントン州にあるブレマートン海軍病院に運ばれました。あごの骨が数か所で折れ,それがきちんと接がれていなかったので,もう一度折って接ぎ直す必要があったのです。幾箇所も負傷していたのでそれが治るまでに約6か月かかりました。

      退院後,カリフォルニア州に住む姉を訪ねました。ある日のこと,姉の家の隣に住む人が新品のような本を捨てているのを目にしました。そのうちの1冊は「預言」という題の本でした。それは聖書を解説した本ですか,と尋ねると,その人は,「そうです。ほかにもありますよ。よかったら全部差し上げます」と言いました。こうして私はものみの塔協会発行の「神の立琴」という本と他の幾冊かの本を手に入れたのです。

      霊的な関心が再び燃え上がったようでした。私は聖書をもっとよく理解したいと思いました。「預言」という本を手に取って最初から最後まで読みましたが,理解できませんでした。そこで,「神の立琴」以外の本は捨てましたが,この本だけはフライト・バッグに詰めました。

      それから数か月間は,米国の西海岸にある海軍基地を視察する海軍の一高官のお伴をして飛行機であちこちを回りました。それでいわゆるこの世の快楽のための自由時間がたくさんできましたが,最後にはむなしさと不安感だけが残りました。私は戦闘任務に戻ることを自発的に申し出ました。新たに配属された高速中爆撃機の飛行大隊は,太平洋のサイパンおよびティニアン島に派遣されました。私の任務は,その飛行大隊の一番機のレーダー爆撃を操作することでした。乗組員は各々,1日おきに戦闘任務を帯びて飛行したので,基地では余暇が十分ありました。

      ある日のこと,トランプを出そうと思って自分のフライト・バッグの中をかき回していて,「神の立琴」の本を引っ張り出しました。そしてその本を読み始めました。驚いたことに私は,「地獄」とは墓のことであること,人間は魂であって不滅ではないこと,そして三位一体の教理には聖書の裏付けがないことなどを理解し始めました。この基本的な理解を得た私は本当に驚きました。

      私はすぐに自分の聖書を取り出して,参照されている聖句をすべて調べてみました。そして,我が目を疑いました。すべてが明快で簡単なことだったのです。私は自分の学んでいる事柄に胸を躍らせました。しかし,よく考え直してみてから,プロテスタントとカトリックの従軍牧師のところへ行って,地獄は墓でないということを聖書から証明してもらうことにしました。

      従軍牧師の助言

      言うまでもなく,従軍牧師たちにはそれができませんでした。今でも思い出しますが,一人の従軍牧師は私にこのように忠告しました。「ミラー君,君には海軍ですばらしい記録がある上に非常に尊敬されている。海軍にいれば将来は安泰だ。君はこれまでに任命された中で一番若い一等兵曹の一人だ。国旗に敬礼することも,国のために戦うこともしないエホバの証人になるというような大きな間違いを犯してはならない」。これらの従軍牧師たちは,私がもっていた聖書についての質問には一切答えようとはせず,返ってくる答えといえば,既に故人になっていた著名なエホバの証人に対する個人攻撃ばかりでした。

      牧師たちの言葉によって私はエホバの証人に対し偏見を抱くようになりました。しかし,どちらの牧師も聖書を開いて私が新たに見いだした信仰を論ばくしようとはしませんでした。私は,『これは真理に違いない。自分にできることをして,ほかの人々がこれを理解するのを助けなければならない』と思いました。翌日,自分の学んだ事柄を他の人々に告げ始めました。話を聞いた人たちは皆,それが私のかつての考え方と大分違うことに気づきました。

      私が伝道しているといううわさが中佐の耳に入り,私は中佐の執務室に呼ばれてこう言われました。「ミラー君,我々はこれまで運命を共にしてきたが,数日のうちに最も手ごわい任務の一つに就くようになる。硫黄島だ! 君が何を説こうがおれの知ったことではない。しかし,この任務が終わるまではやめてくれないか」。これは道理にかなった要求だと思えたので,私は同意しました。

      硫黄島をめぐる戦い

      飛行任務に就く時には必ず概況説明が行なわれました。硫黄島を取るためにどれほどの人が死ぬかについての推定がなされました。その数を聞いて身震いがしました。死傷者数はもはや1枚の紙の上の単なる数字ではなく,人命として映ったのです。

      日本軍はこの重要な島を死守しようとしていました。日本軍は海岸のさんご礁の岩の中に地下ごうを掘って立てこもり,兵士たちをそこから引きずり出すのは不可能に近い状態にありました。確実に撃滅する唯一の方法は低空飛行で入って行き,致命的なナパーム弾で断がいを完全破壊することでした。ナパーム弾が当たると,その可燃性の液体は岩の裂け目や割れ目に入り,そこを焦熱地獄に変えてしまいます。

      幾日かして私たちは硫黄島を占領し,とうとうその飛行場に着陸できるようになりました。爆撃機から降りると,辺り一面に死体が見られました。さんご礁の浜辺に沿って歩いて,攻撃の結果を見ました。その情景はとても言葉では言い表わせないすさまじいものでした。至る所に炭化した死体がころがっていました。辺りは荒廃していました。私は胸が悪くなるのを感じました。

      硫黄島での戦闘の最終的な結果は,米軍の戦死者8,000人,負傷者2万6,000人と伝えられました。日本軍の戦死者は2万2,000人でした。これだけの命が20平方㌔の一つの島のために失われたのです。

      1945年の8月に原子爆弾が日本に投下されました。それから1週間を経ずして日本は降伏し,戦争は終わりました。

      エホバの証人との最初の出会い

      米国に戻った私は,家族に会うためにオレゴン州のポートランドへ行きました。家族の者たちは私の新しい信仰に対して激しく反対しました。しかし,彼らはエホバの証人の一人であったハワード・メイヤーを知っていました。それですぐにその人と連絡を取り,エホバの証人について従軍牧師の言っていた事柄をハワードにぶつけてみました。ハワードはすぐにそうしたそしりをすべて晴らしてくれました。そこで,私は王国会館で行なわれていた集会に出席し,宣べ伝える業にあずかるようになりました。

      戦争と平和に関する聖書の諸原則を研究するにつれて,軍事活動に加わることも,軍人としての職業を真にキリスト教的な生活と調和させることももはやできないことに気づきました。(イザヤ 2:4。マタイ 22:37-40)自分の身の振り方を決めなければなりませんでした。間もなく任務に就くことになっていたからです。

      この時ハワード・メイヤーがりっぱな助言を与えてくれました。その助言にはこれからも感謝し続けることでしょう。メイヤーはこう言いました。「あなたはまだ霊的には赤ちゃんです。今すぐにどうするのがふさわしいかを決めるよりは,基地に戻って,近くにあるエホバの証人の王国会館での集会に出席し,知識と理解が深まってから導きと指示をエホバに請願してはどうですか」。

      私はワシントン州ホイッドベイ・アイランドにある航空基地に出頭しました。私はすぐにエホバの証人のアナコーテス会衆と交わるようになりました。ほどなくして家から家に宣べ伝え,街頭で公開講演を宣伝するようになっていました。短期間のうちに,私は航空基地の中で8件から10件の聖書研究を司会するようになっていました。

      一等兵曹が聖書の講演を宣伝して町を歩いているという苦情の電話が海軍基地に舞い込むようになりました。私は従軍牧師に呼びつけられ,はっきりした言葉で『このばかげたことをやめるように!』と言われました。もちろん私はそれを拒みました。

      逮捕と軍法会議

      私は街頭で伝道している際に海軍の憲兵に逮捕されました。容疑は海軍の軍服を辱めたというものでした。この措置の結果,軍法会議が開かれることになりました。軍事刑務所行きか,懲戒除隊になる可能性がありました。私は海軍弁護士を断わりました。自分の立場と聖書に基づく新たな信仰とを一番よく説明できるのは自分自身だと思ったからです。

      私は海軍の軍法会議の判事たちの前に連れ出され,訴状が読み上げられました。かなりの討論と私の信仰に関する尋問との後に,最後に言いたいことがあるかどうか尋ねられました。

      「はい,ございます」と私は言いました。そして,米国の国旗を指さして,「あの国旗は無駄な骨折りの象徴でしょうか」と尋ねました。

      「なんたる……一体何を言おうとしているのだ,ミラー」と,中佐の一人がいすから立ち上がってどなりました。

      「はい,皆さんのお手元には海軍での私の記録がそろっているはずです。私が志願して,その国旗が表わしているもののために戦い,義務として課されている事柄をはるかに超える働きをしたことを皆さんはご存じのはずです。私はその国旗が崇拝,言論,そして信教の自由を表わすものと信じています。私は友人たちが目の前で吹き飛ばされるのを見ました。彼らもそうした自由のために戦っていたのです。フィリピン,オーストラリア,ニューギニア,サイパン,ティニアン,アリューシャン列島,そして硫黄島で,幾千幾万もの死がいが横たわっているのを見ました。私は100回を超える戦闘任務を果たし,数多くの哨戒飛行を行ないました。私はこの基地にいる幾千人もの兵士のだれよりも,事実上多くの勲章や表彰を受けています。私が戦い取ろうとしてきたまさにそのもの,その国旗が表わしているもの,つまり崇拝の自由と言論の自由とを私から奪うおつもりですか」。

      私が着席すると,法廷はしんと静まりかえりました。判事たちはいったん退席しましたがすぐに戻ってきて,この件については決定を下せないので,首都ワシントンに送られると述べました。後日,首都ワシントンから最終的な決定についての知らせが来ました。私は3か月の規定兵役期間を勤め上げることになり,自分の良心に反しない仕事を与えられることになりました。そして1946年7月14日に名誉除隊になりました。さて,私の人生の次の段階はどんなものになるでしょうか。

      戦争から平和へ

      私には,復員軍人計画により,大学に入って自分の望む職業に就くための勉強をする機会がありました。しかし私はそれを断わりました。真理についての知識を持ち,聖書が与える地上の永遠の平和の希望を持つようになった今は,他の人が命を得るのを助けたいと思ったのです。戦争と殺人の悪夢を,命を与えるための業に変えたいと思いました。―詩編 46:8,9。イザヤ 9:6,7。

      私は1946年8月に,オハイオ州クリーブランド市で開かれた「諸国民の喜び」大会でバプテスマを受けました。それからアナコーテスに戻り,全時間宣教を始めました。1947年に,ニューヨーク市ブルックリンにあるものみの塔協会の世界本部で奉仕することを申し込みました。申し込みは受け入れられ,私は1948年3月29日にベテルに来ました。さまざまな部門で働いてから,奉仕部門に割り当てられました。この部門でT・J(バッド)・サリバン兄弟の秘書として働く特権にあずかりました。同兄弟は後に統治体の成員として奉仕しました。

      サリバン兄弟は賢明な助言と経験の泉のような人で,他の人々を親切に扱う点での模範でした。バッドが難しい件を扱っていた際に,「間違いを犯すとしたら,憐れみの側で間違いを犯すようにしましょう。エホバは憐れみの神ですからね」と,言っていたのを思い出します。『すばらしい考え方だ』と私は思いました。―詩編 116:5。

      1953年に,ものみの塔協会の当時の会長,N・H・ノアは,思いがけなく私を奉仕部門の新しい監督に任命しました。これは米国の宣教活動すべてを監督することを意味します。エホバの助けを得て,私は22年間その責任を果たしました。1975年以後は,一つの委員会がその仕事を扱っています。

      1952年3月に魅力的な若い姉妹がベテルにやって来ました。その姉妹は1947年以来全時間奉仕に携わっていて,名前をブルック・ソートンといいました。私たちは愛し合うようになり,1957年5月に結婚しました。ブルックは私の人生を豊かにしてくれ,私たちはベテルで一緒に働いて非常に幸福な日々を送ってきました。

      平和は変化をもたらす

      1969年には,強く心を打たれる経験をしました。東京で開かれたエホバの証人の「地に平和」国際大会に妻と共に出席する特権にあずかったのです。日本を訪問することについては複雑な気持ちがあったことを認めないわけにはゆきません。戦争の記憶を消し去るのは非常に難しいことです。聖書の教えを受け入れてはいたものの,日本で自分がどんな反応を示すか心配でした。

      その国での数日間は私にとって意外な経験でした。私と同様に今では戦争を憎むようになった,親切で,謙遜な,平和を好む人々に出会ったのです。1945年以来幾年もの歳月を経て,彼らも変わっていました。私は深い感銘を受けました。

      健康を損なう

      1979年に卒中にかかって半ば失明し,心臓障害が残りました。そして1981年には椎間板ヘルニヤのために体が不自由になりました。こうした妨げはつらいものではありましたが,私はこれにより,他の人々の問題や状況を理解することの大切さを一層深く教えられました。

      もはや以前にしていたようなことはできません。仕事の時間は短くなっていますが,今でも奉仕部門委員会の成員として奉仕する特権にあずかっています。私は米国の活発な伝道者の数が1946年の約6万6,000人から1983年の64万人にまで増加するのを見てきました。これらの人たちはすべて,私と同様,神の王国のもとでの平和のために働いているのです。大変うれしかったのは,1975年にバプテスマを受けた人々の中に私の母がいたことです。86歳になりますが,母は今でも宣べ伝える業を行なっています。

      私は今,エホバ神がご自分の義の新秩序をもたらされる日を待ち望んでいます。間近に迫ったその新秩序では,戦争や死や痛みはもはやなくなります。聖書はこう述べています。「神の約束[神ご自身の確かな言葉]によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」。(ペテロ第二 3:13)その「新しい地」の一員になり,自分が参加した戦争の恐ろしさを永遠に忘れることが,私の心からの願いです。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする