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キプロスでの戦乱の場に居合わせて目ざめよ! 1975 | 2月8日
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キプロス島民の三分の一以上が難民となったのです。住民の全くいなくなった村が幾つもありました。キプロスには,エホバの証人の会衆が14ありました。しかし,キレニア,ファマグスタ,モルフォウ,およびニコシアのトラコナ会衆のエホバの証人266人は,王国会館を含むすべてのものを失いました。支部事務所も放棄せざるをえませんでした。しかしながら,現在までに得た情報によると,エホバの証人の中には一人の死者もいませんでした。わたしたちはそのことに深く感謝しています。
ここキプロスの幾十万もの住民が身近な体験として学んだことですが,戦争は本当に恐ろしいものです。神の約束が成就して,人類が二度と戦争を学ばなくなる時が来るのは,なんという祝福でしょう。(イザヤ 2:4)― 寄稿。
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スエズ運河はどうなるか目ざめよ! 1975 | 2月8日
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スエズ運河はどうなるか
往時の一出版物は,スエズ運河を“世紀の驚異”と称揚しました。この運河は全長160㌔以上あり,スエズ地峡を貫いて地中海と紅海を結んでいます。
1869年に開通したスエズ運河は東西交通の新しいルートとなりました。それによって,ヨーロッパとインドを結ぶたいていの航海は6,000㌔以上も短縮されました。なぜですか。この水路を通る船はアフリカ南端の喜望峰を回らなくてすむようになったからです。こうして同運河は,各国の経済や世界貿易の発展に少なからぬ貢献をしてきました。
しかし1967年6月のアラブ・イスラエル六日戦争の際に,スエズ運河の通行は停止されました。数多くの船がそこで沈没し,水路をふさいだのです。それに,爆発性の機雷,爆弾,その他戦争の残がいが水面下に横たわるようになりました。その多くは1968年から70年にかけての“消耗戦”と,1973年10月のアラブ・イスラエル紛争の結果として蓄積されたものです。
やがて,スエズ運河再開の見通しについて多くの話し合いがなされました。再び使用するために,そこから多量の残がいを排除しなければならないことは明白です。1974年の初め,エジプト軍,英国海軍潜水部隊,それに米国陸海軍の500名ほどの兵士が,運河を掃海するための共同作業に着手しました。水路が再開されるまでに一年はかかるであろうと感じられました。その後,エジプトは運河地帯全域にわたる入念な計画を進める意図を示しました。
スエズ運河はこれからの世界情勢において何らかの役割を果たすことが考えられますから,次の点を取り上げてみるのがよいでしょう。この人工水路について歴史は何を明らかにしていますか。エジプトはこの運河について何を計画
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