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ベトナム ― ほぼ30年に及ぶ戦火に耐えて目ざめよ! 1985 | 10月22日
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ベトナム ― ほぼ30年に及ぶ戦火に耐えて
グエン・チ・フオンの語った経験
それは1950年9月18日,ベトナムでのことです。フランス占領軍が100名ほどの戦闘員から成る私たちの抵抗軍に向かって攻撃を開始しました。私たちは戦闘から戻って来たばかりで,二,三日休養を取るためホア・ビンという小さな村にとどまっていたのです。
私は1923年1月に生まれ,ほぼ1世紀にわたって続いていたフランス統治下で成長しました。当時私たちには祖国の解放のためなら命を投げ出す覚悟がありました。フランスの支配から独立するための戦争は,第二次世界大戦が1945年に終結すると間もなく始まりました。その戦争には戦線も特定の戦場もなく,至る所で戦闘が繰り広げられました。戦闘員たちは村民の家に避難し,そこで食物を与えられ,愛され,世話を受けました。
さて,数機の戦闘機が私たちのいた村の上空を旋回し,機銃掃射を行ないました。住民は家からたんぼに逃げました。川に飛び込んだり,戦闘員が掘っておいた穴に飛び込んだりした人もいました。飛行機の爆音が近づき,弾丸の飛ぶ音がするたびに,あちらこちらで人々が死んでゆきました。
戦闘機が飛び去ると,川でフランスの小型砲艦が円を描きながら堤防を砲撃しました。それは,家々を徹底的に捜索し,至る所にある戦闘員の隠れ場所をあばくためにやって来る軍隊を掩護するためでした。四方八方から一斉に砲火を浴びて村民は殺され,畑や運河や庭で倒れ,その血は祖国の大地に染み込んで,水田の肥料になり,戦闘的な軍隊がそこを踏み荒らしました。
その晩,味方の戦闘員たちは幾つかの川の堤防沿いに穴を掘り,そこに身を潜めて待ちました。早朝,敵の船が数隻巡視に来て,堤防に砲火を浴びせましたが,伏勢のほうにどんどん近づいて来ました。すると突然,ありとあらゆる種類の銃器による一斉射撃が起こり,船上のフランス兵たちが殺されました。彼らの銃や弾薬を素早く取り上げると,戦闘員たちは庭や家々の間を通って急いで逃げました。やがて必ず起きる大砲の砲火を逃れるためです。私たち戦闘員は,敵の前に出ると必ず逃げましたが,敵を自分たちの国から追い出すためにすきあらば敵を殺せるような近い所にとどまりました。
神との約束
敵との隠れんぼのような遭遇戦が六日間続いたあと,私たちの抵抗軍は分散するように命じられました。主人と主人の二人の兄弟と私は自分たちの状況を話し合いました。私は妊娠5か月の身でしたから,戦闘員たちの長くて危険な逃避行に付いては行けませんでした。そこで私たちは,翌日になったら別々に姿をくらまし,生き残った者が子供たちの世話をすることにしました。
その晩は私の人生の中で恐らく一番長くて恐ろしい夜だったと言えるでしょう。ホア・ビンの住民は闇に紛れて家に戻り,所持品を集め,小舟<サンパン>にそれを積み込みました。家禽やブタの鳴き声と,子供たちの泣き声とが混じり合っていました。私は護衛付きの小舟<サンパン>の一団が長いヘビのように動いて行くのを眺めました。それは急流に乗ってたちまち見えなくなりました。無気味な静けさの中で,私ははるか遠くで祖父母と暮らしている3人の子供たちのことを考えました。そしておなかに手を当てると胎内の子供の生命を感じました。私は身震いせずにはいられませんでした。間もなく死ぬのは必至だと思うと心臓が突き刺されるような気がしました。
翌朝早く,主人は,帰って来るからと言い置いて出て行きました。しかし帰って来ませんでした。太陽はすでに高く上がり,弾丸が私たちのいた家のレンガの壁に当たりました。私たちは近くのたんぼに逃げましたが,義理の兄弟たちは捕まるのを恐れ,私を置いてどんどん先に行ってしまいました。周囲の至る所で弾丸がさく裂しました。私は残忍な兵士たちの手にかかったら自分はどうなるだろうかと不安に駆られました。
「神様,憐れみを示してください。私は身重で,主人は行方不明です。このような地獄から抜け出す道を示してください」と叫びました。祈っていると涙が流れ,唇に苦く感じました。目を上げると,はるか遠くに1軒の小屋が見えました。私は,「神様,私は疲れ切っています。どうか歩く力をお与えください」と祈りました。
やっとの思いで私はその小屋にたどり着きました。小屋の土間に座ると,私は胸のところで両手を組み,頭を深く垂れて,神にこう誓いました。「神様,もし主人と子供たちに再び会えるよう,この地獄から逃れるのを助けてくださるなら,私はあなたに仕えるためにこの命をおささげいたします」。
救出
午後になると,弾丸は一層規則正しく飛んで来るようになったので,ほかの人たちが小屋に走って来ました。全部で7人になりました。焼かれた家々から煙が立ち上るのが遠くに見えました。フランス軍は近くに来ていました。
午後遅く,大砲のとどろきが次第に近づき,機関銃の銃火も一層激しくなったので,小屋にいた人々はたんぼに逃げ,散り散りばらばらになりました。しかし,どうでしょう。人が一人小屋に向かって走って来るではありませんか。弾丸が飛んで来るのも構わず,私は立って,その人影がだれかを確かめようとしました。主人でした。「神様,何とお礼を申し上げたらよいのでしょう」。
そばに来た主人に,「どうして私を見捨てたの」と聞くと,主人は,重傷を負った人を見つけたので,その人を隠す場所を探して,手当てをしなければならなかったと答えました。弾丸は相変わらず辺り一面に飛んで来ましたが,夕闇が足早に近づいていたので,フランス軍の攻撃が間もなくやむことを私たちは知っていました。
月明かりの中,私たちはたんぼを横切り,ぬかるみを通って逃げました。午前2時ごろ,村にたどり着きましたが,家々は焼かれ,略奪されていました。その一連の攻撃から2か月後に読んだ報告によれば,『フランス軍の捕虜となり,その小型砲艦に拘留された100名を上回る女性と少女のうち,20名余りが妊娠した』ということです。
それから2年後に主人はフランス軍によって殺されました。娘は当時まだ1歳8か月でした。夫が亡くなった後,私は生まれ故郷のビン・プオク村を去り,近くのビンロン市に落ち着きました。そして,4人の子供を養うために仕事を探しました。その時には子供たち全員が再び私のもとにいて,一番上の子供は9歳になっていました。私は小学校の教師になりました。それから間もない1954年5月にフランスからの独立が得られました。
私は忘れなかった
私は自分が神に恩義のあることを絶えず思い出し,神を探し求めました。子供のころ私は家の近くにあった仏塔へよく行きました。妹と私はそこに安置されていた仏陀像の大きなおなかを見ては面白がっていました。その仏陀像は口を大きく開けて笑っていました。その口に指を突っ込み,妹が「仏様にかまれるわよ」と言うやいなや,指を引っ込めるといったことを何度もしました。
神に恩義のある悩める人間としてその仏塔に再び出かけました。より崇高で,神聖で,強大な何か,子供の時には恐らく見過ごしていた何かを見いだしたいと思っていました。そこでは信者たちが仏陀像の前で身をかがめ,僧侶や尼僧たちが意味の分からない祈りを一本調子で唱えています。私はすっかり失望しましたが,引き返して尼僧と話しました。その尼僧は仏教のことと仏塔での戒律の厳しい生活について話してくれました。私は元気づけられたとは思いませんでした。読むようにと尼僧がくれた数冊の本は,ヒンズー教の趣のあるもので,私には全く理解できませんでした。
1600年代にフランス人の宣教師たちによってベトナムに導入されたカトリック教もこの国の主要な宗教でした。しかし私はカトリックに全く魅力を感じませんでした。教会の代表者たちが胸の悪くなるような振る舞いをしたり,政治に介入したり,権力や富を追い求めたりするのを見て近づく気がしませんでした。
眠れない夜などは,あなたを知る道を示して助けてくださいと神に祈ったものです。両親が創造者について教えてくれたことを思い出しました。両親は創造者に対する敬意と恐れを表わすため前庭に祭壇をまつっていました。それは1本の柱で,その上には板がありました。その板は,ご飯の入れ物と塩の入れ物,それに毎日朝晩たく香を入れる鉢を載せられるほどの大きさでした。おいしい物がある時はいつでも,神にそれを供え,それを納めてくださるよう祈りました。
私たちはその創造者をトロイと呼んでいました。それは最も強大な方という意味です。子供たちが言うことをきかないと,人々は,「トロイ様に殺されるよ」と言ったものです。その創造者のことを記した物は何もありませんでしたが,私たちはそれを恐れ,良いことを行ない続けました。困った時には助けを祈り求め,助けられると感謝をささげました。自分が探している神とは創造者に違いない。しかしどうすれば見いだせるだろうか。どうしたらよいのだろう。どんな方法があるのだろう。このような質問が頭から離れませんでした。真の神を見いだせず,神に仕えて恩返しができないことをとても申し訳なく思っていたのです。
内戦
フランスから独立した後,私たちの国はまたもや分割されました。それは超大国が再び介入する機会となり,国が南北に分かれ,1975年4月までのほぼ20年に及ぶ戦争が始まりました。介入してきた超大国は高度な専門的戦闘能力を駆使したため,人間の理解をはるかに超える破壊がもたらされました。
たんぼで,職場で,市場で,学校で,寝室で,毎日のように何千人もの兵士や市民が死んでゆきました。母親の腕に抱かれた子供の中には隠れ家で餓死した子もいました。ベトナム人の戦闘員約200万人のほか,無数の民間人が殺されました。その死体を積み上げたなら,山々の頂に達したことでしょう。さらに幾百万もの人が負傷したり体に障害を抱えるようになったりしました。およそ1,000万人の南ベトナム人,つまり人口のほぼ半数が戦争のために難民となりました。
子供たちはすでに成人して,北の同胞と戦う兵役に就くことを余儀なくされていました。眠れない夜など,都市部でも大砲のとどろきが聞こえると,私は胸の痛む思いがして,祖国の平和と子供たちの無事を祈ったものです。
戦争が終わりに近づいていた1974年,息子の一人と,100人余りの兵士から成る息子の部隊は包囲され,3か月間地下で生活することを余儀なくされました。そのうち生き残ったのは息子を含め5人だけでした。5年間に及ぶ戦闘が終わり,3人の息子たちは無事に,元気な姿で帰ってきました。娘も戦いを生き残りました。戦争は,共産主義の北が南に完勝して終結しました。
共産党の支配下で
次いで生じたのは,南の政府のために働いた人々全員に対する共産主義者の報復でした。共産主義者に言わせれば,20年近い北と南の戦争の責任はそれらの人々にあるということでした。100万を数える人が投獄されました。刑務所は受刑者自らが森の中に建てたもので,受刑者たちはこの上なく厳しい仕打ちを受けました。食物や薬品の欠乏,そして特に過労で死んだ人が少なくありません。1週間にごくわずかの米しか与えられず,肉が添えられることはほとんどありませんでした。しかも割り当てられる作業は能力を超えるものでした。
作業が終わらないと,受刑者たちはそれが終わるまでその場にとどまらなければなりませんでした。作業場が収容所から8㌔ほど離れていることもありました。ですから帰りが非常に遅くなりました。数時間だけ寝て,そのあとすぐに次の日の作業をしなければなりませんでした。時がたつにつれて,受刑者たちは健康を害し,多くの人が死にました。自殺した人も少なくありません。息子たちもそれと同様の苦難に遭いました。
共産主義政府は100万人の受刑者の必要物を供給する力がなかったので,慈悲のある取り計らいのように見せかけて,家族が毎月訪問して食物を差し入れるのを許可しました。私たち,受刑者の親や妻子は,期待されている事柄を行ない,受刑者が生き長らえるよう彼らに食物を供給するのを許されたことに対して共産主義政府に感謝しました。100万人が投獄されていたので,約500万人の人が直接影響を被りました。
息子たちの世話をするため私はすでに仕事を辞めており,娘が私を助けてくれていました。息子たちは一つの収容所から別の収容所へと絶えず移され,次第に遠くへ行きました。ですから,徒歩,自動車,小舟<サンパン>など,ありとあらゆる交通手段を使って,およそ15㌔の干した食糧を毎月収容所に運びました。泥の中や滑りやすい道を歩いて運んだことも少なくありません。
収容所に着いても息子たちに会えるのはわずか2時間だけでした。私たちは多くを語りませんでした。そのような苦悩の中にあったので,言葉がほとんど出てこなかったのです。涙も抑えなければなりませんでした。息子たちの哀れな体つきは受けている苦難を物語っていました。私たちが努力しても,息子たちはいつもおなかをすかせていました。親族が死んだり,亡命したり,あるいは貧しくて何も買えないような人たちに食糧を分け与えていたからです。
2年半余りにわたって息子に食糧を届けました。しかし,同様のことを他の大勢の人が行なったのです。私たちはこじきの大群のようでした。汚い服を身にまとい,大きなかごを両手で抱え,やしの葉でできた,顔がほとんど隠れるほど大きな帽子をかぶっていました。炎天下でも雨の中でも,バス停や船着き場に立っていました。私は食糧を買うために,地所を含め持ち物をすべて売り尽くしました。極貧の中で,私は神に,そうした地獄から子供たちを救ってくださいと叫びました。3年近くたってやっと息子たちは解放されました。
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自由の代価目ざめよ! 1985 | 10月22日
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自由の代価
強制収容所から自由になっても,息子たちは依然として,村の境界内に閉じ込められた囚人でした。ベトナムでは私たちに将来の見込みはありませんでした。そこで,数か月後の1978年5月に,二人の息子,それに娘と私は脱出を計りました。私たちの家は海からかなり離れた所にあったので,小さな船で川を下り,その間ずっと共産主義者の巡視船に呼び止められ刑務所へ送られないかとびくびくしていました。
夜になって,大半が女子供から成る私たち53人の一行は,河川を航行するように造られた,小さくて超満員の船でとうとう海に乗り出しました。その船にはエンジンが1基付いていましたが,手で舵を操るようになっていました。私たちは640㌔離れた南のマレーシアに向かっていました。微風が海面にさざ波を立て,私たちの気分をそう快にし,満月はこうこうと行く手を照らしています。首尾よく脱出できたことに大喜びした私たちは歌を歌いました。
続く二日間は海が比較的穏やかで,船足もかなり進みました。三日目はこの上なくうららかな日で,海は穏やかで,まるで大きな鏡のようでした。私たちは錨を下ろし,海で体を洗う時間を取りました。ところが,体を洗っているとサメが多数集まって来ました。私たちの船はとても小さく,サメのために壊されることもあり得るので,錨を揚げて出発しました。
国際航路の外国船に会うことを願っていました。乗るようにと言ってくれるかもしれませんし,少なくとも食糧と水をくれるかもしれません。すると,午前10時ごろ男の人たちが1隻の大きな船を見つけました。助けてもらえるかもしれない,あるいは救ってもらえるだろうと思うと心臓の鼓動は速まりました。ところがその船が近づくにつれ,私たちが最も恐れていたことが現実になりました。それはタイの海賊船だったのです。海賊がベトナムから逃げる無力な難民をえじきにし,情け容赦なく婦女暴行を働くことについては聞いていました。
海賊に捕らわれる
海賊たちは手にナイフを持って甲板で待機していました。その顔には,いろいろな種類の無気味な動物を思わせる色が塗られていました。おびえた私たちは船の前部の個室に若い女性たちを押し込め,かろうじてバリケードを築きました。海賊たちはこちらの船に乗り移り,金の鎖,腕輪,イヤリングなど,何でも欲しい物を,突風のごとくはぎ取りました。カバンを取り上げ,金や銀がないかハンドバッグの中を調べました。衣類,子供たちのためのミルクや小麦粉など,いらない物はみな海に投げ捨てました。そして,あぜんとして見つめる私たちを尻目に,来た時と同じくはやてのように立ち去りました。
海賊の首領はがっしりした体つきをした背の高い,つるつる頭の男で,どくろの付いた鎖を首に掛けていました。ぶらさげたそのどくろはおなかのところまできていました。首領は略奪の結果に満足し,空を見上げて,からからと笑いました。それから手で合図をして私たちの船を自由にしてくれました。
私たちは航海を続けましたが,ほんの1時間ほどであらしになり,船よりも大きい巨大な波が起こり始めました。私たちは木の葉のように容赦なく揺すられました。間もなく,ほとんどの人が船酔いになり,船の中は吐いた物で至る所べとべとになりました。抱いていた幼いめいの呼吸が止まったのに気づき,私は金切り声を上げました。しかし口移しの人工呼吸法で生き返らせることができました。
それから船は比較的なめらかに進むようになりました。息子が,風と波にまかせて流れるよう船の向きを変えたのです。しかし,それでは,海賊船の方向に戻ることになります。案の定,やがて海賊船が見えてきました。海賊船は私たちを見ると錨を揚げてこちらへ向かって来ます。こちらの船の人々は恐怖に駆られ,私の息子を大声で非難しました。しかし息子が後で語ったところによれば,「船と乗っている人たちとを救うにはそうするしかなかった」のです。
有り難いことに,その時,海賊の首領の目には幾分同情の色が見えました。もっと近づくように合図を送り,私たちの船と自分の船とをつなぐための綱を投げてよこしました。しかし,あらしはあまりにも激しく,こちらの船に乗っている人々はそれほど長く持ちこたえられそうもありませんでした。その時,海賊の一人が私たちの小さな船に乗り移って,避難して来るよう勧めました。それで,53人全員が,一人ずつ,助けを借りてもっと大きな海賊船に乗り移りました。
午後の遅い時刻だったので,別の女性と私は海賊がくれた米と魚で食事を作りました。その後私は,容体の良くなっていた幼いめいを抱いて隅のほうに座りました。あらしは収まりましたが,冷たい風が吹いてきました。私は,セーターしか持っておらず,それでめいをくるんでいたので,寒さに震えました。
私が敬意を表して「漁師さん」と呼んでいた,海賊の一人が私に力を貸してくれるようになりました。その人は,私を見ていると母親を思い出すと言いました。その人の母親と私は同じ年ごろでした。その人は母親を敬愛しており,いつも母親から遠く離れているのを悲しんでいました。それからその人は私に,夜を過ごす場所があるかと尋ね,返事を待たずに,上のデッキで寝たらよいと言い,めいを腕に抱えました。私はその人に付いて行きましたが,下にいるほかの人たちから離れて自分一人になるのが心配でした。親切にしてくれるとはいえ,その人がまぎれもなく海賊だということを忘れてはいませんでした。
下方にある私たちの船を上から見ると,海賊船に比べてあまりにも小さく思えました。ため息が出ました。神の助けがないなら,あんな船で海洋を640㌔余りも渡ることがどうしてできるでしょうか。壮大で永遠の宇宙に比べ,自分たちが微々たる存在であることを感じました。「神様,あなたがあらしから私たちを救うためにこの船を備えてくださったのでしたら,どうか海賊の危害からも守ってください」と祈りました。
その海賊は私を大きな個室に連れて行き,めいを手渡してくれました。しかし私は一人でいるのが不安だったので,海賊が出て行くと,下へ戻って行って,個室を一緒に使うようほかの人を7人連れて来ました。夜中に私は下から聞こえる叫びとうめき声で目を覚ましました。恐怖におそわれ,一緒にいた人たちを起こしました。まだ午前2時ごろでしたが,私たちは下で何が起きているのか見に行くことにしました。
だれもが起きていました。女性の中には泣いている人もおり,むせび泣いて肩が震えていました。男の人たちは後方の,炊事場のそばに集まっていました。海賊が男の人の一人と闘って,その人の妻を犯したということが分かりました。私は許可を得て食べ物を用意し,全員が何かしら口にしました。夜が明けると,海賊の首領は私たちを自由にしてくれたので,マレーシアへの航海を続けました。
マレーシアで
私たちの代表者が上陸許可を得るために陸に上がりましたが,許可は得られませんでした。上陸したら全員刑務所行きだと役人は脅しました。一方,海辺の住民たちは寄って来て,もの珍しげにこちらを眺め回しました。そして,そのような小さな船が海洋を横断できたのを知って驚いていました。それまでにもベトナムから難民が来ていたので,私たちがだれであるかを住民たちは知っていました。増えてゆく見物人の目の前で,私たちは海に飛び込んで1週間のあかを落とし,笑ったり楽しんだりしました。
突然,背の高い金髪の外人が浜辺から,私たちに大きな声で呼びかけ,食糧と飲み水と薬を上げると言いました。そして,「マレーシア人が上陸を許可しない場合は,船を壊して岸まで泳いで来なさい」と叫びました。その外人は約束を守りました。というのは,その日の後刻,午後になって,小さな船が食糧と飲み水を運んで来たからです。またその船には看護婦が乗っていて,病人を病院へ連れて行き,その日の晩に送り返してくれました。何という喜びでしょう。確かに,餓死しないですむのです。
船が出発できないようにするため,私たちはひそかに船のエンジンを壊しました。翌日船を調べた当局は,修理できる所へ連れて行くと言いました。そして,川を上って大きな湖まで私たちを引いて行き,そこに置き去りにしました。三日が過ぎ,食糧が底をつきました。例の外人は私たちの居所が分からなかったのです。それで,船の持ち主は船を取って置いて売りたいと考えていましたが,私たちはそれを沈めて岸まで泳ぐことにしました。
地元の人たちは私たちを大変温かく迎え入れてくださいました。それまで私たちの船を見守っていて,私たちが全員無事に陸に上がると,パンやビスケットやご飯を持って駆け寄ってくれたのです。私たちは上陸した場所に1日とどまり,そのあと難民キャンプへ移されました。難民キャンプで,浜辺にいた親切な外人は東南アジア難民高等弁務官その人だということを知りました。
私は3人の子供たちと,あらゆる物に不自由しながら,6か月余りマレーシアの難民キャンプにとどまりました。しかしその後米国に移住することができ,現在に至っています。それにしても,私が神に約束したことはどうなったでしょうか。
[21ページの拡大文]
海賊が男の人の一人と闘って,その人の妻を犯しました
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私たちはこのような船で逃げました
[クレジット]
撮影: 米海軍
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神への約束を果たす目ざめよ! 1985 | 10月22日
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神への約束を果たす
かれこれ30年前に神に約束したこと,すなわち,助けてくださるなら神にお仕えするために命をささげますと約束したことを私は片時も忘れてはいませんでした。しかも,神に助けられたと感じることが何度もありました。それで神に恩返しができなくてとても申し訳なく思っていました。
アメリカでの生活はベトナムでの生活と大いに異なっていました。自由がある,好きな時に好きな所へ行けるというのは本当にすばらしいことです。しかし,科学的な見地に立った物質主義的な生き方にはすっかりまごついてしまいました。道徳的な価値規準というものがほとんどないように思えました。毎日のニュースは,子供が親を,あるいは親が子供を殺したとか,堕胎や離婚や街路での暴力行為などといった恐ろしい犯罪の報道で満ちていました。こうしたことに私は背筋の寒くなる思いがしました。『美しさと富に大変恵まれた国がなぜこんなに退廃しているのか』不思議に思いました。
それで,昔から抱いていた次のような疑問が,以前にも増して頭から離れなくなりました。人間を創造したのは本当に神なのだろうか。私たちは本当に神の子なのだろうか。そうであれば,神はこのような悪事に対してなぜこれほど無関心なのだろうか。これ以上悪い事が起きないようになぜいま人間を処罰されないのだろうか。それとも神は人間がその罪を悔い改めるのを待っておられるのだろうか。また,人間について言えば,人間が神により創造されたのなら,どうしてみ父に似ていないのだろうか。どうしてみ父に喜んでいただこうとしないのだろうか。
自分の経験から,私は神が存在しておられることを確信していました。神が非常に誤解されているのはなぜだろうかと思いました。神を理解し,神を愛し,義にかなった行ないによって神を喜ばせる子供を持っておられないのでしょうか。きっと持っておられるに違いありません。しかし,そのような人々をどこに,またどのようにして見いだせるでしょうか。どうすればそのような人々と知り合えるでしょうか。
そうした疑問に付きまとわれ,答えが得られずに,情けなく思っていました。その後,1981年6月のある日,テキサス州パサデナに住んでいた時に,お孫さんを連れた年配の男性の訪問を受けました。二人は,神が真の政府である王国を持たれ,それによって地上に祝福がもたらされることについて話しました。それからその年配の男性は私に,地上の楽園で永遠に生きたいと思いますかと尋ねました。
私は「いいえ」と答えました。私の強い願いは真の神を知ることだったので,楽園で永遠に生きることにはその当時関心がなかったのです。しかし二人の上品な物腰に,私は敬意と信頼感を持ったので,家の中に入ってもらいました。そして,神の保護と愛ある世話を受けたと自分が信じている経験を話し,「このような優れた特質を持っておられる神を私は探しているのです。あなた方の信じておられる神が正にその方であるなら,その神を知る方法を教えてください」と言いました。
およそ1時間にわたって,その年配の男性は偉大な神エホバに関する聖書の言葉を読んでくれました。そして,ご自分の民であるイスラエル人を扱うに際して愛と気遣いを示されたことなどを説明してくれました。翌週その人は「わたしの聖書物語の本」という出版物を持って再びやって来ました。その本を開いて,33話の「紅海をわたる」というところを見せてくれました。私は,内容を読まずに,さし絵を見ただけで,起きた出来事を言い当てました。神が奇跡を起こし,ご自分の民を圧制者の手から救出されたのです。
「この方こそ私の探していた神だ」と思いました。そして,次の週にエホバの証人との定期的な聖書研究を始めました。学ぶにつれ,自分の疑問に対する論理的な答えをすべて聖書から見いだすことができました。そうです,恩を返すために仕えるべき真の神をついに見いだしたのです。その方に永遠に仕えるため自分の命をささげたことを示すべく,私は水の浸礼を受けました。
現在私は,時間さえあれば,エホバについて,エホバがこれまで悪を許してこられた理由について,また神が地上の問題を間もなく取り除かれる方法について,他の人々が学ぶのを援助しています。愛のある兄弟姉妹から成る神の地上の組織と共にエホバに仕えながら,ついに,真の平和と安全を感じ取るようになったのです。
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