-
祈りはあなた自身を表すものみの塔 1959 | 9月1日
-
-
不断な者である。』私たちはヱホバが準備して下さることを信じなければなりません。ヱホバは,私たちに必要なものを与えて下さいます。それは必ずしも私たちが欲しているものではありません。ダビデは清い心と,生気にあふれた堅実な精神を与えられるように祈りました。そして彼の祈りは聞き入れられました。ある人は,『神よ私を清くして下さい ― でも今ではありません』と祈ります。また他の人は,『神よ私を富まし,親切に善良にして下さい』と言います。しかし,一週間もする中に彼らは自分の行いによつてその祈りが単なる言葉の暗誦にすぎないことを示します。―ヤコブ 1:7,8,新世。
キリスト教がこの世の名声や宮を得る手段でない以上,真の祈りはそのようなものを含みません。反対にクリチャンは,物質主義の犠牲にならないように祈ります。クリスチャンの望みは,肉を満足させたり目を喜ばせることではなく,自分自身と自分の持つているものを与えることです。もし人々がいつも求めるばかりしないで,捧げることもするならば,彼らの祈りはもつとよく聞き入れられることは疑いありません。あなたの心からの捧げ物はあなたをほめるでしよう。
祈りは努力の代用品ではない
祈りだけが神への崇拝ではありません。人々は神に,物を下さい,天国に行かせて下さいと祈るのに長い時間をついやしますが,秩序正しい生活をするように調節しようとしません。そのような人々には,人がいかに生活するかは,毎日の祈りをくりかえすのと同じくらい重要であることを学ばねばなりません。兄弟に対して一つの慎しみある正しい行いをすることは,神を義の根源としてほめたたえる祈りを1000回ささげるよりも価値があるのです。正しい祈りをささげるならば,正しい生活をしなければなりません。
私たちはまた次の事実を知る必要があります。すなわち,真の祈りは理知的な努力の代用品ではないということです。ある人々は,物を得るのに他の方法がことごとく失敗した時,それを得る一つの手段として専ら祈りに頼ります。また他の人は困つた時だけ祈ります。そうした祈りはすこぶる利己的で,正しい祈りを聞かれるヱホバのいみきらわれるものです。私たちは,祈る度に,神が私たちの利益のために,奇跡が行われることを期待しまか。不幸にしてある人々はそれを期待します。ヱホバの導きは,私たち自身の考えや働きを補うものであつて,その代りになるものではありません。肉親の父親は,自分の息子が自発的に,頭を使つて物事を考え,また独力で賢明な決断を下すことを望むものです。そして最も困難な問題のある時だけ導きを与えますが,私たちの天の父も,それと同じことを私たちに望まれています。ヱホバは,私たちに,ご自身の言葉である聖書を与えて下さいました。そして私たちがそれを賢明に用いて神をほめたたえ,またそれを理解し使用することにおいて導きを求め,感謝を表わすために神に来ることを望んでおられます。もしそのようにするならば,私たちの祈りは神に喜ばれるものとなるでしよう。私たちが祈りにおいて誠実ならば,その祈りが成就するのを忍耐して待つでしよう。先ず私たちは祈ります。それからその祈りの成就に向かつて信仰をもつて努力します。もし私たちの祈りが神の御心と一致しているならば,神は私たちの汗と血と涙の努力を見られて,その祈りに答えて下さるでしよう。
ですから,あなたが祈る時,あなたは自分自身のありのままの姿を神の御前にさらけ出していることを忘れてはなりません。尊敬のある態度を示し,誠実と確信をもつて祈りましよう。正直でありなさい。真の祈りが聞き入れられないことは決してないということを確信しましよう。特に,けんそんになり,祈りという特権に感謝の気特を持ちましよう。あなたの祈りは決してうそを言わないで,あなたに関する真実を神に伝えるでしよう。
-
-
『私たちは戦争を謳歌した』ものみの塔 1959 | 9月1日
-
-
『私たちは戦争を謳歌した』
牧師ハリー・エマーソン・フォスディツクは,キリスト教団の世俗的な宗教とその聖書の使用について,「現代における聖書の使用」にこう書いています。『われわれの西洋史は,戦争につぐ戦争である。われわれは戦争のために子どもを養育し,戦争のために彼らを訓練し,戦争を謳歌してきた。そして戦士をわれらの英雄とほめたたえ,教会の中にさえ戦闘旗をかかげた……口の一方のすみでは平和の君を賛美し,他方では戦争を謳歌した。そしてキリストと戦争,福音と組織的殺戮の混合に申し分なく成助したので,最近のこと,東洋のある国にいる一宣教者が,クリスチャンの善意について講演したところ,その土地のある人が,講演の終つた後その宣教者を片すみに連れて来て,「あなたは,この国の教育ある人々が,キリスト教を好戦的で流血的な宗教と見ているのを知つておく必要があります」と告げたほどである』。
偽りの宗教はその実によつて知られると,聖書は示しています。『彼らは神を知つている,と口では言うが,行いではそれを否定している。』― テトス 1:16,新口。
-