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キプロスでの戦乱の場に居合わせて目ざめよ! 1975 | 2月8日
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自分が英国人であることを告げました。パスポートを取りに行く間,わたしはずっと銃を突きつけられていました。他の兵士はピストルを抜いて構えていました。兵士たちは,わたしたちがだれであるか,また兵隊を見かけたかどうかなどと質問しました。
ちょうどそこに,この家族を知っている二人のトルコ系キプロス人が通りかかりました。友人の妻は二人を呼び止めて,自分たちのことをトルコ兵に説明してほしいと頼みました。非常に緊張した時が過ぎました。兵士たちはやっと,わたしたちに家の中にいるようにと告げて,立ち去りました。
正午ごろ,近所の人が駆け寄って来て,なんとか力になってほしいと懇願しました。わたしは英国人だったからです。約650名の住民が国連と赤十字のもとに保護されているホテルまで,わたしは無事に行くことができるでしょうか。
わたしと友人はやってみることにしました。無事にそのホテルに着くことができました。ホテルの周辺は国連軍によって固められていましたが,わたしはその指令官のもとに案内されました。指令官は,自分にできることならなんでもしよう,と言ってくれました。しかし同時に,ギリシャ人であるわたしの友人がホテルの警備外に出るのは危険であるとも忠告してくれました。
ついに,赤十字の車と大型トラックで人々を連れて来ることになりました。目的地に着くと,そこに待っていた26人を大急ぎで車に乗せました。ぐずぐずしているひまはありません。いちもくさんでホテルに戻りました。無事に着くことができたのです。わたしたちは,なんと感謝したことでしょう。一人で家に帰ることは安全ではないように思えたので,わたしもホテルにとどまりました。
ホテルにいる間,わたしたちは,エホバの証人の年鑑から取った日々の聖句を一緒に討議して,互いに霊的に強め合いました。また多くの機会をとらえて,ホテルにいる人々に神の王国に関するわたしたちの希望についても語りました。(マタイ 6:9,10。ダニエル 2:44。啓示 21:3,4)そうした話に深い感銘を受けた人もいました。中には,キレニアのエホバの証人が,人生の中で最も困難な時期を経験している人々にどのように助けを差し伸べたかを語る人もいました。
戦争が引き起こした恐怖の数々
ホテルで数日過ごした後,わたしたちのうちの30人は,安全を保証するからニコシアに移ることはどうかと提案されました。厳重な警備のもとにわたしたちはホテルを出ました。観光客でにぎわっていたキレニアの喜びにあふれた街路には,今や一つの人影もありませんでした。あたり一面に,戦火で破壊された無残な姿がさらされており,食べ物の腐った不快なにおいが漂っていました。
ニコシアに通じる道路のわきには,戦闘の跡が生々しく残っていました。富裕階級の家は,破壊されているか,かろうじて建っていても,荒らされていました。山腹は黒く変色し,惨禍の跡をとどめていました。
バスに同乗した人々は,互いの経験を語り合っていました。幼い息子を連れた英国籍の一婦人がいましたが,彼女の夫は銃弾に倒れ,夫をその場に残して逃げなければならなかったそうです。その婦人は,幾日もの間山の中をさまよい歩きました。彼女は,夫が死んだものと思っていましたが,最近になって知らされたところでは,夫は国連軍のパトロール隊に保護されて英国に送り返され,そこで回復に向かっているとのことです。しかし他の多くの場合は,もっと悲惨な結果に終わりました。
ついに,ニコシアのトルコ人地区とギリシャ人地区の境界に着きました。わたしたちはバスを降り,ホテルまで最後の200㍍ほどを徒歩で進みました。わたしは,エホバの証人の支部事務所にいる友人たちを尋ね,すぐに彼らに迎え入れられました。
戦火がやんでいたのは,実際には二週間ほどでした。8月14日には,全面的な戦闘が再開されたのです。水曜日の午前4時45分,トルコ軍はニコシアに爆撃を開始しました。トルコ軍は二手に分かれて進撃し,一方はファマグスタに向け,他方はレフコに向けて進みました。金曜日までに,トルコ軍は所期の目的を達成し,一方的に停戦を宣言しました。今や,キプロス島北部の約三分の一はトルコ軍の手中にありました。
キプロス島民の三分の一以上が難民となったのです。住民の全くいなくなった村が幾つもありました。キプロスには,エホバの証人の会衆が14ありました。しかし,キレニア,ファマグスタ,モルフォウ,およびニコシアのトラコナ会衆のエホバの証人266人は,王国会館を含むすべてのものを失いました。支部事務所も放棄せざるをえませんでした。しかしながら,現在までに得た情報によると,エホバの証人の中には一人の死者もいませんでした。わたしたちはそのことに深く感謝しています。
ここキプロスの幾十万もの住民が身近な体験として学んだことですが,戦争は本当に恐ろしいものです。神の約束が成就して,人類が二度と戦争を学ばなくなる時が来るのは,なんという祝福でしょう。(イザヤ 2:4)― 寄稿。
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スエズ運河はどうなるか目ざめよ! 1975 | 2月8日
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スエズ運河はどうなるか
往時の一出版物は,スエズ運河を“世紀の驚異”と称揚しました。この運河は全長160㌔以上あり,スエズ地峡を貫いて地中海と紅海を結んでいます。
1869年に開通したスエズ運河は東西交通の新しいルートとなりました。それによって,ヨーロッパとインドを結ぶたいていの航海は6,000㌔以上も短縮されました。なぜですか。この水路を通る船はアフリカ南端の喜望峰を回らなくてすむようになったからです。こうして同運河は,各国の経済や世界貿易の発展に少なからぬ貢献をしてきました。
しかし1967年6月のアラブ・イスラエル六日戦争の際に,スエズ運河の通行は停止されました。数多くの船がそこで沈没し,水路をふさいだのです。それに,爆発性の機雷,爆弾,その他戦争の残がいが水面下に横たわるようになりました。その多くは1968年から70年にかけての“消耗戦”と,1973年10月のアラブ・イスラエル紛争の結果として蓄積されたものです。
やがて,スエズ運河再開の見通しについて多くの話し合いがなされました。再び使用するために,そこから多量の残がいを排除しなければならないことは明白です。1974年の初め,エジプト軍,英国海軍潜水部隊,それに米国陸海軍の500名ほどの兵士が,運河を掃海するための共同作業に着手しました。水路が再開されるまでに一年はかかるであろうと感じられました。その後,エジプトは運河地帯全域にわたる入念な計画を進める意図を示しました。
スエズ運河はこれからの世界情勢において何らかの役割を果たすことが考えられますから,次の点を取り上げてみるのがよいでしょう。この人工水路について歴史は何を明らかにしていますか。エジプトはこの運河について何を計画
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