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  • 忍耐をもって無関心と戦いなさい
    ものみの塔 1969 | 9月1日
    • 戦い続け,そのために気力をくじかれてやめることがないようにしなければなりません。―ガラテヤ 6:9。

      23 自らを神の奉仕者としてすすめる方法の一つにどんなものがありますか。

      23 昔のエホバ神のしもべたちが無関心に対する戦いに勝利を得たのであれば,わたしたちも勝利を得ることができます。しかしそのためには進んで努力し敢然と戦わねばなりません。また,人々の無関心な態度がわたしたちに与え得る悪影響や,そのために信仰が内部からむしばまれて崩壊し得ることを悟る必要があります。さらに,エホバの数々のお約束,神のことばの確かさ,その組織をわたしたちが必要としていること,また,そうした事柄によって自分の生活がより良く変化したことなどに対する認識を保たねばなりません。わたしたちはまた,神のことばと組織の助けで個人的な問題を解決し,重要な決定を下してきたことを思い起こす必要があります。聖書に見いだせるすぐれた忍耐の手本を思いめぐらし,そこから励みを得なければなりません。わたしたちは,預言者エレミヤが行なったように,忍耐をもって首尾よく無関心と戦い,かつ,クリスチャン宣教において忠実を保つことにより,自らを神の奉仕者として推薦します。

  • 拡大するエホバの証人の本部施設
    ものみの塔 1969 | 9月1日
    • 拡大するエホバの証人の本部施設

      全世界,200の土地におけるエホバの証人の御国伝道のわざは拡大をつづけています。1968年には,115万5826名の活発な証人がいました。これは20年前の証人の5倍を上回る数です。

      この拡大と歩調を合わせるために,この大規模な国際的伝道活動を指導する本部も急速に拡大しています。ニューヨーク市ブルックリンでは,本部の全施設に加えて,もうひとむねが増築され,1969年5月2日にその献堂式が行なわれました。この7階建の家は,本部で奉仕する,そして増加の一途をたどるエホバの証人の一部を収容する宿舎として使用されます。

      その種の最初のもの

      新しい建物は,アメリカの史跡地域として公に指定されている場所に初めて建てられた建物,という特色をもっています。ブルックリン・ハイツとして知られているこの地域は,1965年,ニューヨーク市の最初の「歴史的地域」と命名されました。そのために,史跡保存委員会は,古い建物の解体を阻止したり,新しい建物の型を規制する権利をもつようになりました。

      したがって,エホバの証人の12階建の家の建築計画は,史跡委員会の要求にあわせて変更されました。このことについて,1967年10月4日のニューヨーク・タイムズ紙は,社説でつぎのように述べました。「[ものみの塔]協会は,同地域の性質に準じて,もとの建築計画を大幅に変更した。地主のこの種の協力は,どんな地域の特色を保存するにも,法律と同様に重要なものである」。

      史跡委員会のひとつの要求は,3つの大変古い建物の正面を保存するということでした。それでコロンビア・ハイツ通りとパイナップル通りが交差する角にある家は,これら3つの建物の背後に隠された形になっています。これらの建物の後部は取りこわされ,保存される正面に新しい建物が建てつがれているわけです。また,新しい建物の隣り,つまりコロンビア・ハイツ,129番地にある大きなアパートも,エホバの証人が所有しています。ここにはすでに本部の家族が100人以上住んでいて,そのうちにこの建物も新しい建物と連結されます。

      見学

      特別の献堂式が終わってから,1042名の本部の家族と,卒業したばかりの60余名の宣教者とは,新しい建物を初めて正式に見学しました。彼らはどんなに喜んだことでしょう!

      見学者たちは建物と建物をつなぐ長い地下道を通り,新しい建物の地下室に出ました。そこは洗濯場になるところです。1階では車庫,ロビー,図書室,居室などになる場所を見ました。2階にはやはりいくつかの居室と,二つの教室,深さ1.2メートル,幅4.8メートル,長さ8.5メートルの浸礼用プールとがあります。残り4つの階はみな居室になっています。

      新しい建物には,全部で104名分のへやがあります。しかし隣りにあるアパートは,最後にはさらに250名の本部の家族にへやを提供することになるでしょう。

      ベテルホームの拡張

      献堂式に際し,ものみの塔協会のノア会長は,1909年のブルックリン移転以来のエホバの証人の本部の拡張について説明しました。1908年,コロンビア・ハイツ124番地にあった,ヘンリー・ワード・ビーチャーの,かっ色砂岩で建てられた古い4階建て牧師館と,それによく似た隣接の建物が購入されました。これらは改装され,協会本部で働く30名の奉仕者のホームになりました。

      しかし急速な拡大が見られて,1911年には,コロンビア・ハイツのホームのすぐ裏に,広い新しい宿舎が完成しました。ノア会長の説明によると,1927年には,本部はさらに拡大し,コロンビア・ハイツの建物を取りこわして,約120室を擁する9階建の建物を新築する必要が生じました。当時,本部の家族は180名ほどでした。

      1949年までにその数は284名に増加しました。また,ニューヨーク市が高速道路を計画したので,ファーマン街の建物が15メートルほど削除されることになりました。そこで1949年,12階建のホームがコロンビア・ハイツに建てられ,1927年に建てられた建物と連結されました。これによって450人分の居室ができました。

      しかし10年ばかりのあいだに,本部の家族の数はほとんど2倍になりました。そこで,コロンビア・ハイツ通りを隔てた真向いに,もうひとつの建物の建築が始まりました。1万2658トンのコンクリートと,472トンの鋼鉄,23万個のれんがとを含むこの巨大なビルディングは1960年に完成しました。この建物には,大講堂,講議室,4つの教室,広い事務所などがあります。この建物ができてからホームの居室は950人分に増加し,倍以上になりました。

      そういうわけで,1969年に建てられた新しい7階建の建物は,エホバの証人の本部施設の最近の拡張にすぎません。何年かにわたって建てられたこれらの建物は,地下道でつながれています。

      印刷工場の拡張

      本部のこの拡張を必要にするのは,聖書と聖書文書の需要です。1919年にはエホバの証人はマートル通り35番地の近くに印刷工場建設用地を得,1920年に「ものみの塔」その他の聖書文書の印刷を始めました。

      しかし,まもなくこの工場ではまに合わなくなり,1922年,そこからほんの二,三区画離れたコンコード通り18番地にある6階建の建物に移転しました。ほとんど1夜にしてまた拡張が必要になりました。それで1927年,コロンビア・ハイツから徒歩で10分ほどのところにあるアダムス街117番地に,8階建の工場が新築されました。

      ついで1949年,アダムス街の工場と連結した9階建ての工場が新築されたとき,印刷工場の広さはほぼ2倍になりました。この工場は現在の市街の1区画をふさいでしまいました。それでも聖書文書の需要は停滞せず,7年後の1956年にはもう1区画をおおうほどの大きな13階建の工場が完成しました。ついで1958年には隣接するブロックにあった9階の工場が買い取られ,ほとんど印刷用紙の倉庫として用いられています。

      印刷工場の総床面積は4万500平方メートルでした。しかし1957年から1964年にかけて,御国伝道者の聖書文書配布数は,65万部から100万部以上になり,工場はまた手狭になってきました。そこで1966年,隣接のブロックに,エホバの証人の最大で最新の工場の建設が始まったわけです。これは2万1000平方メートルの床面積をもつ11階の建物です。使用されはじめてまだ2年になりませんが,この工場も急速に能力の限界に達しつつあります。

      1967年の秋以来,合計71台の聖書や書籍用の新しい大型印刷機と製本

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