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    ものみの塔 1961 | 9月15日
    • た。

      残った私たちは,起きたこのすべてのことにすっかり驚いてしまいました。石炭がなくなってベテルさえも閉鎖されてしまったのです。事務所はピッツバーグにもどり,私たちは個人の家に分散して収容されました。書籍や小冊子の注文にいくらか応じましたが,実際のところわざは全く停止してしまった状態でした。忠実な兄弟たちが死んだ状態にはいり,投獄されたということで,私は非常に悲しく感じました。

      それから,9ヵ月の不当な罰を受けて後,兄弟たちはアメリカ最高裁判所の指示により,釈放されました。最高裁判所は上訴と共に保釈を願うようにとすすめたのです。1919年4月,連邦巡回区裁判所は,誤りの多い判決をくつがえし,完全にその罪状を取り消しました。私は喜びました。あたかもよみがえされたように,証言のわざは復活しました。再び私はベテルにもどりました。そこの発送部門では,する仕事が山ほどありました。文書をつめて,小包をつくったり,発送のためのボール箱をそろえたりする仕事です。

      忘れがたい出来事

      ベテルの生活には心を湧かすような事がたくさんあります。ひとつは新しい雑誌,「黄金時代」の誕生でした。それは1919年10月1日のことでした。事実を語り,希望を与えるこの雑誌は,歓迎されました。「目ざめよ!」という現在の名のもとに,その発行部数は1961年現在23の国語で320万部にのぼっています。本部の他のメンバーと共に,この雑誌ならびにその姉妹誌「ものみの塔」をまき,郵送に備えるというのは,特権ある仕事でした。「ものみの塔」の現在の行発数は,毎号58ヵ国語で380万部にのぼっています。これら聖書の雑誌をまき,郵送するということは,その偉大な価値を知っているベテルの家族にとって,常に重要なことでした。

      どのような任命であろうと,そこにとどまるためには,決意が必要です。この決意は,自分の奉仕の宝を正しく認識することによって得られます。協会の大会に出席することにより,常に力づけられ,認識は深められました。1922年オハイオ州シーダーポイントの大会のことを思い出します。ルサフォード兄弟の感動的な話が終わった時,いつもとちがった拍手が湧きおこりました。私は演壇の後の方にすわっていたので,約11メートルの長さの旗が見えなかったのです。それをかかげた時に,そのような拍手がわきおこったのです。キリストの絵と,「王と御国を宣伝せよ」というスローガンが三色でかかれていました。

      私たちの制度は,このスローガンをそのまま行ない始めました。家から家の書籍配布の運動は,日曜日にも行なわれるようになりました。まもなくベテルをもっと拡大することが必要になってきました。1927年アダムス街117番地に新しい印刷工場ができたのを見るのは喜びでした。もちろん,それに附随して人手がもっと必要になってきましたし,住居をひろげることも必要でした。献身した兄弟たちが,自発的にベテルの奉仕を申出るということを固く信じて協会は1927年に新しいベテルの家を完成しました。新しいメンバーが家族に加わり,共にわざを行なっていきました。

      ベテルや工場の拡大と歩調をそろえて,エホバの御言葉や目的にますます理解の光がさしていきました。「エホバの証者」という名前を採用したことは,1931年の最も顕著なできごとでした。それから4年後,黙示録 7章9節の「大いなる群衆」というのは,神の新しい世で地上に永遠に生きる男女からなる地的なクラスだということが,はじめて分かりました。飢えかわいている人々に音信を伝えるために,協会は1937年のはじめから,携帯用蓄音機を使用しはじめました。それはここの工場で作られました。今でも人々はこの蓄音機のことを話しています。

      第二次世界大戦は,証言のわざをとめませんでした。しかし多くの国では,火のような試練のもとでなされました。まだ戦争が続いていた時,協会はニューヨーク州の北部に,ギリアデ学校を開きました。学校に行ったり来たりする関係上,ベテルには新しい面がいろいろと加わりました。1950年には,もうひとつの新しい工場とベテルの家がつけ加えられました。その年には,何千という代表者たちが私たちのところを見にきました。ちょうどはじめてのヤンキー野球場の大会が,開かれていたからです。

      大きな大会が近づくと,本部ではもちろん非常に忙しくなり,期待で胸をふくらませます。大会の時に新しい出版物をだす準備をするのは,ベテルでの数ある特権のひとつです。しかしそれに関係している部門では,それぞれ秘密を守っているので,何が出版されるかは直接関係している者しか分かりません。それで大会での新しい出版物が発表される時,ベテルの家族の者でも,全く初耳だということは,よくあることです。だれもが「しづかにし,己の業をなし」という戒めによく従っています。

      1956年,「ものみの塔」と「目ざめよ!」を印刷するため,13階建ての新しい建物が喜びのうちに完成されました。コロンビア・ハイツにある日当りの良い私の部屋から,ごく最近まではその新しい建物を見ることができました。今では,コロンビア・ハイツ,124番地の建物の向う側には,協会の美しい12階立ての建物が立っています。それには緑の中庭がついており,建物の中には寮,学校そして事務所があります。中庭のところで,ベテルの家族のメンバーや,ギリアデの生徒が,仕事や勉強のために,いききしているのが見えます。ギレアデが今度ブルックリンに移り,家族の者が生徒を案内してまちをまわることになったので,ここ本部の私たちに喜びと特権が更にふえまし

  • 第7日は休息の安息日
    ものみの塔 1961 | 9月15日
    • 第7日は休息の安息日

      それは誰に与えられましたか。またどのように守られましたか。なぜそれは大切でしたか。

      イスラエルの国民にとって,週の第7日は常と異なる日でした。他の日とは違って,ラッパが6回,音高く吹き鳴らされ,この日の近づいたことを知らせました。そして太陽が地平線の下に没すると共に,人々は通常の仕事と労働を休む期間にはいったのです。第6日の日没から第7日の日没に至るまでは,どんな仕事をすることも許されず,薪を集めたり,火をたくことさえもできませんでした。

      彼らがこの日を定めて休息の時とすることは,神の律法によって命ぜられていました。その律法は,シナイ山でモーセに与えられた有名な十戒の第四番目にあります。人々は代々この律法を守るようにと命ぜられていました。「安息日をおぼえてこれをきよくすべし六日の間はたらきて汝のすべての業をなすべし,七日は汝の神ヱホバの安息なれば何のわざをも為すべからず汝も汝の子息むすめも汝の僕しもめも汝の家畜も汝の門の中にをる他国の人も然り,そはヱホバ六日の中に天と地と海とそれらの中の一切の物を作りて第七日にやすみたればなり是をもてヱホバ安息日を祝ひて聖日としたまふ」― 出エジプト 20:8-11。

      第7日にすべての仕事を休むといっても,全く何もしないでその日を過ごすという意味ではありません。宗教の行事はその日にも行なうことができましたから,祭司たちは他の日と同じく犠牲を捧げることをしました。ただ他の日には1匹を捧げたのにくらべて安息日には2匹の小羊を捧げたのです。また宮の至聖所におかれた12のそなえのパンを新しいものと取りかえ,8日目が安息日にあたるならば,安息日にも幼児に割礼を施しました。この日はまた祭司の1週間の奉仕の順番を宮において交代するときでした。従ってこの日は人々が仕事を休む日でしたが,祭司たちにとっては活動の時でした。肉体の労働を要する宗教的な奉仕をすることでさえ,安息日のとりきめと調和するものでした。

      人々は全く何もしなかったのではありません。公の崇拝を行ない,教えを受けるために集まって聖会すなわち大会を開くことが要求されていました。全くのところ,個人と公の崇拝のためにこの日を用いるのでなければ,安息日を正しく守ったことにはなりませんでした。会堂

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