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私たちはエホバの制度を必要とするものみの塔 1963 | 3月15日
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はよく走り続けてきたのに,だれが邪魔をして,真理にそむかせたのか。そのような勧誘は,あなたがたを召されたかたから出たものではない」。(ガラテヤ 5:7,8,新口)今日でも同じく羊が迷うことはありうることです。
エホバの制度と密接に交わってきながら,制度を見失って,制度なしでもやっていけると考えはじめる人々があります。ある人々は,制度の監督と親しくしてきました。その人々は,監督を個人的に知っており,また制度の伝道活動を導く際に彼らが行なう仕事を知っているので,制度というと,全体としての制度を見ないで監督たちだけを見ます。そして制度を成長させ繁栄させているのが,その中で奉仕する人間ではなくて神であることを忘れて,人間につまずいてしまいます。イエスのお育ちになったナザレの町の人々は,それと同じ間違いをしました。
ナザレの町の人々は,神のみわざを行なう,神の御手のうちにある一つの道具としてイエスを見ませんでした。ヨセフの子,ただの大工としか見なかったのです。「『この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい,兄弟たちは,ヤコブ,ヨセフ,シモン,ユダではないか。また姉妹たちもみな,わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを,いったい,どこで習ってきたのか』。こうして人々はイエスにつまずいた」。(マタイ 13:55-57,新口)今日人は,エホバとその制度に奉仕している人間に目をとめるよりも,むしろ,エホバの関心事を促進するために,エホバの制度が行なっていることに目を向けなければなりません。
神の制度の世話は今日,神の霊感を受けている人々の手にあるわけではありません。ですから彼らもほかの不完全な人と同じく間違うことがあります。使徒ペテロ ― 神の霊をもっていたことに疑問の余地はない ― ですら,いく度か間違いをしました。一度はイエス・キリストを知らないと言いました。別の時には,「福音の真理に従ってまっすぐに歩いていない」という理由でパウロに非難されました。(ガラテヤ 2:14,新口)神の霊は,聖書を書かせるためにペテロに霊感を与えましたが,彼が霊感の下にいないときに,よく間違いを犯す自由道徳行為者であることを妨げたわけではありません。ペテロが,彼と非ユダヤ人との関係において,キリスト教の教義適用の問題で間違いをしたからといって,それは彼が神の霊をぜんぜん持っていなかったことを意味するものではありません。今日でもそれは同じことです。
主の「羊」のために,霊的知識を準備するエホバの制度内の人々は,神がご自身の民に対する教えおよび導きとして何を述べておられるかを学ぶために,勤勉に聖書を研究します。彼らは,自分たちが霊感を受けているとは主張しません。ただ,聖書の研究生であると言うだけです。霊感を受けていない以上,彼らの聖書の注解も時に間違うことがあります。ではそれによって彼らを偽の預言者と言うことができますか。断じてそうではありません。偽の預言者は,自分の間違いを訂正しません。間違っていると知っているときでさえ,その間違った見解を主張してやめないものです。しかしこれらの研究生たちは,誤解を発見したならばそれを訂正します。彼らの関心は自己を正当化することにあるのではなく,真理にあるからです。彼らは間違いをしますが,それは,神の御霊が彼らの上に働いていないことを意味するものではありません。ペテロが間違いをしたにもかかわらず,彼の上に神の御霊が働いたと同じく,御霊は彼らの上にも働いています。
油そそがれた残れる者は,何年もの間,神の御言葉の絶え間ない研究から学んだ多くの事柄を,ものみの塔聖書冊子協会を通して発表してきました。そのうちのいくつかは,エホバの証者を,間違った見解を正そうとしなかったキリスト教国の諸宗教組織とはすっかり異なったものにしました。しかもそれらは,聖書の基本的な教理でした。またあるものは,さらに進んだ研究によって,間違いであることがわかりました。それは,いくつかの聖句の解釈がはっきりしていなかったためでした。そうした聖句が明確に理解されるにつれて,間違いは訂正されていきました。そういう訂正は,彼らが正直で真理を愛していることを物語っています。
聖書に書かれている事柄の正確な解釈を知りたいというこの誠実な願いと,聖書的証拠の蓄積が訂正の必要を示す場合に進んでそれを訂正する態度とを見るとき,人は当然制度に対する信頼をいっそう深めるべきです。それは,制度が間違いと知りつつ「羊」にその間違ったことを教えることなど決してないことを保証するものです。
神の霊は今日,献身したしもべたちの上に働いています。それは彼らに霊感を与えるためではなく,彼らが徐々に理解を増すように導くためです。神の御言葉の理解を増す過程において,神の霊は,彼らが間違いをするのを許しますが,そのうちに彼らがその間違いに気づくように助け,彼らも喜んでその間違いを正します。こういうふうにして献身したしもべたちは,「いよいよ輝きを増して真昼となる」聖書の理解の光と共に,正しき者の道を前進してきました。(箴言 4:18,新口)この聖書の知識の増進は,雲でおおいかくされた空にたとえることができます。くもの切目が大きくなるにつれて,ますます多くの光が来ます。時に一つの真理が見えても,ちょうど流れ雲が一時的に太陽の光をさえぎるように,それは誤解によっておおいかくさます。そしてやがて,誤解が取り去られてこの真理は以前よりもっと明確になります。この制度が,聖書の真理の道を前進していることから見て,神の霊がその上にあることは明らかです。
エホバの制度に対する不平の種を,有害な根をおろすまでに育てる人は,自分自身を非常な危険にさらすことになります。(ヘブル 12:15)もし群れを離れるなら,それからどこに行きますか。悪魔の世界とその宗教組織が,命の言葉をもっていないことをその人は知っています。また,制度を離れて,現在制度に反対している人々に加わることの愚も彼は知っています。その人がもし群れを離れるなら,その人は自らを,ヨハネが述べたような人にしてしまうのです。「彼らはわたしたちから出て行った。しかし,彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら,わたしたちと一緒にとどまっていたであろう」。―ヨハネ第一 2:19,新口。
エホバの制度に忠実を保つ人々は,多くのイエスの弟子たちがイエスに従うのをやめた時に,使徒たちが示した態度と同じ態度をとります。ペテロは彼らの考えをこのように語りました。「主よ,わたしたちは,だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」。(ヨハネ 6:68,新口)命への道は,エホバの忠実な制度と共にいることであることを,誠実な「羊」たちは悟ります。
いつも一つの群れになって,一つのおりの中で避難所と保護を与えられている群居性の羊のように,エホバの崇拝者たちは今日,エホバの証者の制度の中に,避難所と保護と,豊かな霊的栄養物とを見出しています。その制度の指導の下に彼らは,神のみこころにかなった事を行ない,神の霊は彼らに繁栄を与えています。そういう人々に対して使徒パウロは言いました。「わたしたちは,善を行うことに,うみ疲れてはならない。たゆまないでいると,時が来れば刈り取るようになる」。―ガラテヤ 6:9,新口。
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潔白が確証されるものみの塔 1963 | 3月15日
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潔白が確証される
ブラジルで,井戸を掘る仕事のために二人の男が雇われ,そのうちの一人はエホバの証者でした。仕事はすゝみ,井戸はかなり深くなりました。ところがふとした事が原因で事故が起きました。一緒に働いていた男が足をすべらせ,井戸穴に落ちて死んだのです。警察は取り調べを理由に同僚として働いていたこの証者を留置し,殺人のけん疑をかけました。このような状況の下に殺人がよく行なわれるからです。彼の潔白を弁護する証人が一人もおらず,事態はかなり不利に見えました。警察は彼の身元証明書を求めましたが,そんなものを手元に持ってはいませんでした。何か彼の身分を証明するものとして身につけていたものはたゞ一つ,会衆の僕が署名してエホバの証者の一人である事を認めた奉仕者証明カードでした。彼はそれをポケットから出して見せました。警察では彼がエホバの証者である事を確かめると,すっかり態度を変えました。「エホバの証者なら人殺しなどするわけがない。君は潔白だ」と警官は言い,証者は直ちに釈放されました。
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