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公けに述べる私たちの希望をしつかりと保つものみの塔 1955 | 4月1日
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のを怠らないときに,あなたはこれをすることができます。
14 ヱホバの真の崇拝者たちのあいだでは,この『裁きの日』にどんな責任がめいめい果されていますか? そして,どのように?
14 別の点『あなた方は信仰にいるのかどうか,いつたいどういう者であるのかどうかを調べて吟味し続けなさい。イエス・キリストがあなた方と共にいることを認めないのか? 認めないならば,あなた方は御旨にかなわない者である。私たちは御旨にかなう者であるとあなた方に知つてもらいたく,私は切に願うものである。』(コリント後 13:5,6,新世)このパウロの健全な助言をうけて,私たち各人が自分自身を反省することは全く必要です。ただ「私はヱホバの証者です」と言うこととか,あるいは集会に来て静かに坐つている事柄ではありません。実際にそれは,自分から進んでする時でも,指された時でも,公けに答を述べることにより,自分自身を吟味し,験し,あるいは証明する事柄です。ヱホバの真の崇拝者たちの集会に出席せず,それに参加しないならば,どうしてヱホバの証者であると言えますか?(ヨハネ 4:23)真理を兄弟たちに全く述ベずに,神の御言葉の真理を信ずるなどと,自分自身に向つてさえ,どうして言えますか? カトリック教の家に生まれ,ほんの数日たつてその宗派の洗礼をうけ,それでその人は,一生涯をカトリック信者と呼ばれるかもしれません。新教徒の両親,あるいは回教徒の両親,あるいはユダヤ教の両親から生まれ,その人が自分自身で決定せず進歩しないならば,その両親の宗教の名前がその人の一生の宗教となりましよう。しかし,ヱホバの証者について言うならば,各人はおのおの自分自身で決定しなければなりません。子供がイエス・キリストを通してヱホバ神に献身するかどうかは,両親の定めるべきものではありません。ヱホバの民の会衆の前で,ヱホバの新しい世についての信仰と希望を公けに述べ,各人はめいめい,ヱホバの証者であることを証明すべきです。他の人をより大きな活動に励ますのは,あなたの活潑な信仰です。それで,すべての人の益のために,あなたの得た知識を会衆の前で,声を出して述べねばなりません。―ヨハネ第一書 4:17,新世。
15 あなた自身のどんな個人の行により,会衆の集会に出席する他人に益が結果として生じますか?
15 信仰について,私たち自身を調べ,いつたいどうであるかを吟味し続けることは必要です。私たちは間違いをします。ヱホバの真理と正義の原則から外ずれ,さまよい,悪い事を考えます。それに,神の御言葉を十分に読まず,研究しないために,生命について自分自身の哲学をつくり上げます。神はどのような者でなければならず,神は何をすべきであるなどと人は考え,その考えを言う程に行き過ぎるかもしれません。しかし,語ることをせず,書いたものをも読まず,又さもなければ,考えを伝え合うことなしに,別の人を良く知ることは不可能です。書かれた御言葉を通して神の言葉を聞かないならば,誰も神を知ることができません。自分一人で研究するとき,神について多くの知識を得ます。それで,会衆の集会に出席するとき,進歩した研究は,あなたに力を与え,それによりあなたは信仰と希望を述べ,他人を益することができます。ヱホバのクリスチャン証者が,他の献身したクリスチャンと定期的に集まるのを怠るのは,全く益を考えないものです。自分自身だけでなく,また他の人になす害を考えてみなさい。共働者の註解を聞かず,それに自分が欠席していて援助の註解を述べないために,愛と正しい業に励んではおりません。
『自由に語る』
16 どのように愛と正しい業に他人をはげまし,また自分自身もはげましをうけますか?
16 ヱホバの見える制度は,全世界のすべての会衆で行われる毎週の『ものみの塔』研究を取り極めています。それに出席することは益のあるものです。また,神権宣教学校や奉仕会のような他の集会も,豊かな祝福をうけ,教えに従うのを助けます。集会に出席する時は何時でも,後ろの座席に坐り,そして他人が考えを述べる方がずつと良いなどと感じてはなりません。簡單で,気持良い仕方で,それに多分ためらい勝ちにあなたが話すならば,それでも他人を愛と正しい業に励ますことができます。正しく述べることにより,他人を励ますことができます。『ものみの塔』の研究で,一緒に幾ヵ月ものあいだ働いてきた兄弟または姉妹が,はじめて註解を述べたという場合がありましたか? その註解を聞いて,少しワクワク感じませんでしたか? 集会の後に,賞讃の言葉を当然に述べたでしよう。その人の話すのを聞いて,あなたはよろこびと真実のたのしみを感じました。パウロの言つた通り,より大きな業をする励ましをあなたはうけました。それで,あなたの希望を公けに述べることにより,愛と正しい業を励まし,またあなた自身励ましをうけます。『ものみの塔』研究のときに,他人もあなたの註解を定規的に聞くようにし,その人々にもあなたの持つ同じよろこび,同じたのしみをなぜ与えないのですか? その註解をみなさんが感謝してうけることは疑いありません。あなたが真理に長くいるならば,みなさんはあなたの註解を聞いて幸福に感じます。真理に新しいならば,あなたの理解の進歩を見て,心からよろこびを感じます。
17 他の聖書研究者の聞くところで,『自由に語り』間違つた考えが言われるとき,全部の人はみなどのように益を受けますか?
17 自分の考えを述べることは,実際的でもあり,また必要なことです。語り始める,あるいは書き始める,つまり考えを伝えて始めてやつとその信ずることを真実に知るからです。自分の考えを述べないならば,その考えは形に表われることがなく,他人やまた自分自身にも益を与えません。ある人は言い訳をして,話しをしても正しくない誤つた答えをするからと言います。間違いをするという理由で,あなたは黙つていますか? 間違いをすることさえも,あなたの益になるものです。どのように? そのときに,他の人が正しい答えをなし,それに加えて司会者は自分の考えを述べて,正しい答を指摘し,それから最後にその節が読まれ,質問の答が完結されます。すこしのあいだ,恥ずかしく思うかもしれませんが,あなたは信ずることを会衆に述べました。間違つてはいましたが,会衆の他の成員と一緒に研究し,また自分の考えを述べることにより,その間違いを見出しました。黙つていたならば,その間違いを知らなかつたでしよう。いまこそ,あなたの考え方を変えるときです。頭に正しい考えを持とうと願い,あなたはいま悪い考えを変えて,正しい考えをその代りに入れました。ヱホバの崇拝者がヱホバの御目的を語る家から家の伝道をするとき,家の人に悪いことを語りたいと思う人は一人もいません。あなたの公けに述べるのを聞いて,兄弟たちはあなたのした間違いを訂正をし,力添えをいたしました。間違いを述べはしまいかなどと考えて,話すのをさし控えてはなりません。その間違いで,他の人の心に正しい答は強く浮き出るかもしれません。自己流の考えだけで,他の人に計りもせず,また自分の考えを他の人に述べないならば,決して自分を験すことはできません。それは,『自由に語る』価値を強調するものです。その理由で,『あなた方は信仰にいるのかどうか,いつたいどういう者であるのかどうかを調べ吟味し続けなさい。』という諭しをうけているのです。
18 かんたんなどんなことをして,正確な知識およびそれをヱホバの御目的のために巧みに用いる力に成長しますか?
18 ヱホバの制度にいて,私たちは進歩し増加し,成長しなければなりません。停止していることはできません。『ものみの塔』雑誌および同類のすべての出版物だけではなく,また会衆の僕,巡回の僕,そして地域の僕を通して,『ものみの塔』協会は,研究の必要性をつねに強調しています。真剣な研究は,やさしい仕事ではありません。しかし,それは幸福な結果を必らずもたらします。聖書を調べるには努力を要します。しかし,得たところの知識は生命を保証するとあなたは知つています。ヱホバ神とその御子を知ることは,永遠の生命を意味するとイエスは言われました。(ヨハネ 17:3)生命を欲する者は,生命の与え主ヱホバの言葉を聞かねばなりません。聖書に次の通り書かれているからです。『ほんとうにあなた方に言う。私の言葉を聞き,私を遣わされた方を信ずる者は永遠の生命を持ち,裁かれることがなく,死より生命に移つている。』(ヨハネ 5:24,新世)それで,永遠の生命は,御言葉を聞くことと,それからキリスト・イエスを遣わされた方は神である故に,ヱホバ神を信ずることによります。この信仰を持つことにより,私たちは死から生命に移ることができます。私たちの希望を公けに述べるために互いに集まることにより,私たちは学びつづけ円熟に成長し,進み続けます。
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「ヱホバに依り頼み,互に思いやりを持て」ものみの塔 1955 | 4月1日
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「ヱホバに依り頼み,互に思いやりを持て」
1 ヱホバの円熟した証者には,どんな特質があり識別されますか?
パウロはヘブル人に宛てて手紙を書き,キリスト・イエスについてより多くを知るようにと望みました。次のように書きました。『キリストについては,言いたいことがたくさんあるが,あなた方の耳が鈍くなつたため,説明するのが難しい。時間というものを考えてみると,あなた方は教師となつているべきなのに,神の聖言の初歩の原理を最初から教える人を必要としている始末である。あなた方は固い食物ではなく,乳を必要としている。乳を飲む者は幼児であるために,義の言葉を良く弁えない。しかし,かたい食物は成人,つまり善悪を見分ける感覚の力を働かして訓練された人に属するものである。』(ヘブル 5:11-14,新世)自分自身強壮なクリスチャンであつたパウロは,ヘブル人も進歩しその感覚力を用いるように望みました。真理に入つている時を考えてみると,彼らは教師になつているべきでしたが,自分の考えを述べて,他人を富まそうとは望まなかつたのです。安易な生活をし御言葉の乳だけを飲み,ヱホバの制度に始め
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