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核爆弾の脅威目ざめよ! 1984 | 6月22日
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核爆弾の脅威
「廃虚と化した浦上地区の上空に,爆心地から,信じられないほどの速さで巨大な煙の柱が大きくなりながら立ち上って行った。長年拘束されていた幽鬼が解き放たれたかのように,その煙の柱はくねくねと曲がりながら成層圏へと向かった。……死をもたらすこの妖怪は上空を旋回する飛行機に向かって沸き立つように上って行った。その顔つきは変わってゆき,その色は紫からサーモンピンクへ,それから黄金色へ,そして薄い白へと変わっていった」― ウィリアム・クレーグ著,「日本の没落」。
これは,1945年8月9日の朝,長崎市に原子爆弾が投下されたほんの数分後の同市の情景を描写したものです。その爆発はぞっとするほど美しいものでしたが,火球の下には何ひとつ美しいものはありませんでした。「幾百人もの人々が道端に,田畑に,廃虚の中に倒れ,水を求めて叫び声を上げていた。皮膚が大きくはがれて垂れ下がり,胴体が真っ黒になり,かろうじて人間と分かるような人々が,ぼうっとして歩き回っていた」。その朝4万人が死亡し,その三日前には広島でほぼ10万人が死亡していました。
広島と長崎に投下された原子爆弾は,今日の水準から言えば旧式ですが,これまでに男女子供の上に投下された核爆弾はほかにありません。それでも,赤々と燃えるそれら死のきのこ雲は,人類全体の意識の中でいつまでも消え去ることのない悪夢となっています。それらの核爆発は,人類が全面核戦争を行なうようなことにでもなれば,世界全体がどうなるかを恐るべき生々しさで小規模に示したものでした。
そうであれば,世界の核兵器の備蓄の絶え間ない増加に反対して,継続的な ― しかしまったくそのかいのない ― 抗議の声が数多く上がっているのも少しも驚くべきことではありません。しかし最近になって,抗議の声を上げるこれらの人々に,新たな,思いもよらないような味方ができました。キリスト教世界の著名な人物や組織です。
それらの宗教団体の多くにとって,これは自らの取ってきた立場の驚くべき逆転となりました。1950年に,ニューヨーク・タイムズ紙はこう伝えました。「バチカンは,その機関紙,オッセルバトーレ・ロマーノを通じて,本日,米国政府および国民に,トルーマン大統領が水素爆弾の製作を承認した理由をバチカンが十分理解していると伝えた」。1958年のデンマークからの特電によると,プロテスタントの世界教会協議会の特別委員会は,「クリスチャンは,限定的な戦争において原子力兵器が用いられることに良心的に同意できる」との結論を下しました。
個々の指導者の中には,それ以上に核爆弾を擁護する人々もいました。1958年にカンタベリー大主教は,「私の知るかぎり,人類がこのような仕方で[核爆弾によって]自滅するのは,神の摂理のうちにあることである」とまで言いました。そして1961年に,英国のデーリー・エクスプレス紙は,「英国は水素爆弾を保持すべきだ,とウェールズの大主教は……昨日語った。それは人々をキリストに導くものとなるかもしれない」と伝えました。
ですから,数多くのプロテスタントやカトリックの組織が,今では核兵器に反対の声を上げているのは実に驚くべきことです。それらの組織はどうして見解を変えたのでしょうか。今ではどんなことを言っていますか。そして,それは長期的に見て本当に相違をもたらすでしょうか。
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司教たちが今になって反対する理由目ざめよ! 1984 | 6月22日
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司教たちが今になって反対する理由
「人類が今ほど全面的な自滅に近づいたことはかつてない」。カナダのバンクーバーで昨年の夏に開かれた,世界教会協議会の第6回総会は,このような言葉をもって核爆弾に対する警鐘を鳴らしました。同総会は核軍縮を訴え,「核抑止は道徳的に受け入れ難い。それは核兵器を使う意図の確実性に依存しているからである」と,宣言しました。
これより数か月前の1983年5月に,米国のローマ・カトリックの司教たちは,「平和の挑戦: 神の約束と我々の反応」と題する長い教書の最終草案を出しました。その中で,司教たちは「新たな核兵器システムの実験,製造および配備」の停止だけでなく,既存の核備蓄を減らすことも強く促しています。そして,「核兵器のいかなる使用についても,それが道徳的に受け入れられるかどうかに関して我々が強い疑念を抱いていることに,誤解の余地がないようにしなければならない」と,主張しました。
この二つは,核兵器に反対する宗教指導者たちの最近の声明の中でも特に際立っていました。中には,反核運動に司教たちが関係するようになったことを喜ぶ人もいました。米国の司教たちの出した教書について長老派の一牧師が述べた言葉をニューヨーク・タイムズ紙は一部次のように引用しています。「その中には道徳的な良心の声が聞こえる。その声はカトリック教徒だけでなく,アメリカ人としての,また品位のある人間としてのわたしたちにも語りかけている。……神がカトリックの司教たちを祝福されますように」。
もっと批判的な人々もいます。哲学者のシドニー・フックは,「司教たちは無知で,非現実的で,道徳的に無責任な立場を取っている」と語りました。また,保守派の活動家,フィリス・シュラフライの語った,この司教教書はカトリック教徒を「平和主義……と軍縮とソ連人愛好」の道へ導くので危険である,という言葉も引き合いに出されています。
とはいえ,僧職者たちが戦争に関与してきた長い歴史と,第二次世界大戦以後の年月に宗教指導者たちが出した核爆弾支持の声明とを考えると,これら最近の反核声明は驚くべき方向転換を示すものです。どうしてこのような変化が生じたのでしょうか。
40年遅れている
米国の司教教書はその説明らしきものとして,こう述べています。「今日,核兵器保有国の潜在的な破壊力は,人間の体,我々が徐々に築いてきた文明,そしてさらには創造された秩序そのものをさえ脅かしている」。しかしこれは,40年ほど前にあの原子爆弾が広島と長崎の上空で爆発した時以来,分かりきっていることです。どうしてその時に非難の声が上がらなかったのでしょうか。
世界教会協議会は,「大量殺傷兵器を使用しようとすることは,どんな場合であれ,我々のうちに宿っているはずのキリストの思いと霊に対するまったく非人道的な冒とくであると我々は信ずる」と述べています。しかし,第二次世界大戦中に民間人が幾十万という単位で殺りくされていった時にも,やはり同じことが言えたのではありませんか。ところが,その当時,抗議の声を上げる教会の指導者たちはほとんどいなかったのです。
核物理学者のハロルド・M・アグニューは,自分の意見を次のように率直に述べています。「彼らは,通常兵器による戦争は構わないが,核戦争はいけないという考えを受け入れているように思える点で,偽善者だと思う。核兵器の持つ力ゆえに,歴史上初めてのこととして,参戦の決定を下す人々が,それら年長者たちの決定を実行に移すために伝統的に送り出されてきた若い人々と同じほどの危険にさらされることになった。それで,教会をはじめほかのすべての意思決定者のブドウ酒貯蔵室や物質の富やその他の持ち物は,核戦争が起きた時にはもはや攻撃をまぬがれることはない。我々は皆運命を共にするのである」。
コラムニストのジェームズ・レストンの見解はこの点で意味深いものかもしれません。レストンはこう述べています。「教会は平和運動を支えており,平和運動は俗界における発言力を得るための苦闘において教会に新たな力と目的を与えている」。(下線は本誌。)司教たちは人気の高まっている反核運動の指導者になることによって,失われた影響力や威信を回復しようとしているのでしょうか。
ここで,もう一つの問いかけをしてみなければなりません。
それはどんな相違を来たすか
「教育用の文書である[米国の]司教教書は,戦争と平和の問題について道徳的な影響力を及ぼすことを目的としたものである」。これは,「原子科学者会報」という雑誌に載せられた,神学者のリチャード・B・ミラーの言葉です。では,宗教指導者たちにはいったいどれほどの「道徳的な影響力」があるのでしょうか。
ソ連の指導者たちは司教たちの警告に耳を傾けるでしょうか。あるいは,米国が突然その進路を変える可能性があるでしょうか。カトリックの司教たちがこの教書を準備している段階においてさえ,行政当局は教書をもっと政府の政策に沿ったものにするよう司教たちの説得に努めたと伝えられています。
核兵器で生計を立てているような人々についてはどうでしょうか。米国の司教たちは,核兵器の生産にあたっている人々が望むのであれば,その人たちが仕事を続けるかどうかは当人にまかされるとしました。また,軍隊にいる人々に核兵器の使用の訓練を受けることを拒否するよう促すこともしていません。ですから,核兵器の生産や使用にかかわっている人々の大半は,これまで通りのことを行なってゆく理由を見いだすに違いありません。
忘れられている事柄
真実を言えば,司教たちは誤った質問に対して誤った答えを出していると言わねばなりません。核軍備競争は症状にすぎないのです。人類をむしばんでいる真の病気はそれよりもはるかに根深いものなのです。たとえ司教たちが何らかの方法で政治家たちを説得して核の脅威を除くことができたとしても,根本的な問題が扱われない限り,ほかの危険がその代わりに生じます。
使徒ヨハネの言葉は,大抵の人が考えるよりも問題はずっと複雑なものであることを示しています。『全世界は邪悪な者の配下にある』と,ヨハネは述べているのです。(ヨハネ第一 5:19)ですから,聖書の中で「この事物の体制の神」と呼ばれている悪魔サタンを含む,目に見えない者が関係しているのです。―コリント第二 4:4。
確かに,今日,サタンの存在を信じない人は少なくありません。しかし,司教たちは信じているはずです。そして,サタンがチェス盤の上の駒を操るチェスの名手のように,人類の反抗心を自らの目的を遂げるために利用しているということをも,聖書から知っているはずです。人間が政治的な手段によって世界に恒久的な平和をもたらそうとするのは,チェスのゲームの中でポーン(一番価値の低い駒)が自分たちの上にのしかかるチェスの指し手の影を無視して,互いの間で平和を築こうとするようなものです。サタンは今日地球上で起きている数多くの事柄の背後におり,そのサタンの存在を考慮に入れない解決策はいかなるものであれ必ず失敗に終わります。―啓示 12:12。
では,『核兵器保有国の潜在的な破壊力は,創造された秩序そのものを脅かしている』という意見のほうはどうでしょうか。人間にはこの地球に
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