-
あなたは福音宣明の精神をいだいていますかものみの塔 1974 | 9月1日
-
-
宣明の精神を自分自身の中にも他の人の中にも培いたいと願っています。自分のうちにあるこの精神を強めたいと願うかたは,そうしたりっぱな態度を持つ人々と緊密に交わり,会衆内の長老たちの援助を得てください。彼らは喜んであなたを助けます。それが神の栄光となり,自分自身と自分の助ける人たちの救いに役だつことを知っているからです。―テモテ第一 4:16。
-
-
どんな結婚式をしますかものみの塔 1974 | 9月1日
-
-
どんな結婚式をしますか
各地から寄せられるニュースは,さまざまな形の結婚式が行なわれていることを示しています。たとえば,アクロバットを職業とするドイツ人の男女ふたりは街の広場の上空に掛けた空中ぶらんこの上で結婚式を挙げました。またある一組のスカイダイバーは,パラシュートで降下した場所で,あとから降りてきた司祭に結婚式を挙げてもらいました。
もちろんこうした例はごくまれで,世間の注目を集めようとして行なわれたもののようですが,それでも何か他の方法で自分たちの個性を反映させようと望んでいる新しいカップルはますます多くなっています。そうした,いわゆる“個人主義者”たちは,従来の結婚式が,慣習に束縛され,気が遠くなるほど細かい点にいたるまで定めた儀式とか作法など,友人や親族に印象づけることだけを考えたきわめて形式的で経費のかかる行事となっている点に気づいてきました。このように“見映えをよくする”ことだけに気をとられると,往々にして結婚式の真の意味や喜びが少なからずそこなわれてしまいます。
こうしたものに反抗して,ここ10年ほどの間に,“新しい結婚式”なるものが盛んになってきました。多くの場合,こうした結婚式を挙げる人は,保守的な考えを持つ年長の人々の意見や既成の習慣を無視します。中には,教会や判事室に出かけて行く代わりに,山腹や海岸やどうくつの中で結婚する人もいます。“新しい結婚式”を行なうカップルの中には,型どおりの結婚の誓いを繰り返すのではなく,代わりに(最近のある映画の中の結婚式をまねて)詩の一節を読む人もいます。アメリカ,カリフォルニア州ロサンゼルス近くで挙げられたそうした結婚式のひとつで,あるカップルは次のような一文を読み上げました。
「わたしはわたしのことをし,あなたはあなたのことをします。わたしはあなたの期待に添うためにこの世界にいるのではありません。またあなたはわたしの期待に添うためにこの世界にいるのではありません。あなたはあなた,わたしはわたしです。そして,もし偶然にお互いの気が合うなら,それはすばらしいことです」。
ところでだれもが,このように両極端に走ることは好ましくないと確かに考えることでしょう。そしてもちろん,あらゆる詳細な点にいたるまで規定した「作法規則集」のようなものの卑屈な奴隷になる必要のないことにも同意されるでしょう。しかし同時に,結婚式とは,他の人の感情を無視したり,その場にふさわしいふん囲気や気品を欠いたりするほど,“自分勝手に行なう”べきものではないとも考えておられることでしょう。
それでは,これら両極端の間にあって分別ある行ないとはどのようなものでしょうか。結婚式を挙げることを計画しているエホバのクリスチャン証人は,実際に必要なのは何か,また気品と中庸を保った結婚式とはどのようなものかなどについて事前によく考えます。王国会館で行なわれる結婚式に出席する人が,そこで目にする光景にしばしば深い感銘を受けるのはそのためです。
聖書が重要視される
エホバの証人の王国会館は,本来は聖書の勉強を行なうために会衆の集まる場所ですが,時としてそこで結婚式が行なわれます。a これは聖書にかなった適切なことです。というのは,聖書自体が,結婚という取決めは神によって創始されたものであることを示しているからです。―創世 2:24。
そこでは,王国会館で行なわれる式にふさわしく,結婚の意味と,夫と妻の特権や責任に関する聖書に基づく話が行なわれます。そして,こうした築き上げる話の終わりに,その土地の法律の要求に従って誓いを交わしたり,定められた誓いのことばに賛同の意を表わしたりすることもあります。
エルサルバドルを初めとする幾つかの国では,宗教的な建物の中で結婚することができません。市長事務所などの定められた場所で,文政長官の手によって行なわれなければならないことになっています。しかしそうした国でも,多くの場合エホバの証人は,民事結婚の手続きのとられた後に,王国会館で聖書に基づく話を行なうよう取り決めます。必ずしもそれが必要であると言うわけではありませんが,そうすることは良い取決めです。結婚式の行なわれる日は幸せなときであると同時に,結婚の創始者の賢明な助言を思いめぐらす適切な時でもあるからです。―詩 119:1。
結婚の誓い
すでに述べたように,ある国では,新郎新婦が他の人の前で公の宣言をする,つまり誓いを立てるよう法律によって求められていることがあり,エホバの証人はそうした場合に法律に従います。しかし,法律によって要求されていない国においてさえ,結婚の誓いを復唱したり,その誓いに賛同の意を表わしたりすることが習慣になっている場合が少なくありません。
この記事の初めのほうに挙げた“新しい結婚式”の例が示すように,今では結婚の誓いに関してさえ,“自分勝手に物事を行なう”傾向が表わされるようになっています。結婚する二人が自分たちで誓いを作成することもありますが,そうでない場合には僧職者がそれを作成します。たとえばある教会の牧師は,ふたりの女性同性愛者を“お互いの間に愛のある期間”だけにかぎって“結婚させ”ました。別の牧師は,“裸体主義が好みに合っているかぎり”という条件のもとで,裸のふたりの結婚式を取り行ないました。
結婚に対して神がお与えになった威厳を汚すこうした傾向とはあざやかな対照をなすものとして,ある国のエホバの証人は,1969年7月1日号の「ものみの塔」誌の中で勧められた,次の誓いのことばを用います。
花婿の誓いのことば: 「わたしはあなたを妻としてめとり,この地上でともに生活するかぎり,神の設けられた結婚の取決めに従い,クリスチャンの夫に対して聖書に述べられている神のおきてに従ってあなたを愛し,いつくしみます」。
花嫁の誓いのことば: 「わたしはあなたを夫として迎え,この地上でともに生活するかぎり,神の設けられ
-